2020年3月20日金曜日

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅶ) 〔397〕

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅶ)


さて、いよいよ舒明天皇紀の、古事記で言う、説話の部分に入る。どんな興味深いお話になるのやら、登場人物も多彩である。原文引用は青字で示す。

秋八月癸巳朔丁酉、以大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日、遣於大唐。庚子、饗高麗百濟客於朝。九月癸亥朔丙寅、高麗・百濟客歸于國。是月、田部連等、至自掖玖。冬十月壬辰朔癸卯、天皇遷於飛鳥岡傍、是謂岡本宮。是歲、改修理難波大郡及三韓館。

即位二年(西暦630年)の旧暦八月五日(丁酉)に大仁の「犬上君三田耜」と「藥師惠日」を唐に派遣し、また八日(庚子)に高麗百濟から来客があったと記されている。唐が中国全土を統一して十年余りが過ぎた時である。その”圧迫”が朝鮮半島、更には日本列島にも及び出す時代となる。

『旧唐書東夷伝』に「貞觀五年(631年)、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歲貢、又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還」と記述されたところに該当する。書紀との齟齬がなく素直に受け取れるのであるが、実は推古天皇紀の西暦614に「犬上君御田鍬」の名前で遣唐(隋?)使として登場している。隋の煬帝が高句麗を幾度も攻めたが、落とし切れず西暦618年に亡くなったと伝えられている。いずれにしても戦は、民そして国の消耗を強いるのである。

古事記に「犬上」は、倭建命が近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女・布多遲比賣を娶って誕生した稻依別王が祖となった犬上君に含まれている。近淡海之安國は、蘇賀石河宿禰が祖となった蘇賀の東隣であって、その「蘇賀」の地形を「犬」で象った表記と解釈した。
 
<犬上君三田耜>
ここまでの記述では山の中腹に大きく開いた地の詳細は不明で「犬上君三田耜」の登場で漸くその地の詳細が伺えて来るのではなかろうか。


さて「三田耜」の文字列を如何に紐解くか、順次述べてみよう。「三田」の「三」が示す地形を探すと、地図に記載された標高線が三本平行に並んでいるところが見出せる。

即ち横一列に並んだ棚田があるところを示していると推定される。「耜」=「耒+㠯」と分解される。「㠯」=「鋤の刃先」を象った文字と解説される。

ここでは段々に積重なっている土地を表すと読み解ける。三田耜=横一列に積重なった田があるところと紐解ける。現地名は京都郡苅田町山口の北谷である。

苅田町の観光案内によると1992年に農林水産省から農村景観百選(美しい日本のむら景観百選)に選ばれたとのこと、標高~300mに広がる風景は、正に”マチュピチュ”であろう(天空カフェがある)。修験道に由来を求めた記述がなされているが、この地は孝元天皇の御子、建内宿禰そしてその子の蘇賀石河宿禰に繋がり、「日本國」と名乗りを上げるその礎となったところである。

山間の谷間を切り開き、石河(現白川)の中流域から下流域にまで水田を拡げた人々が住まったところなのである。莫大な財力を背景に蘇我一族が台頭し、そして歴史の表舞台から消えて行った。日本国内更には対外的にも大きな転換を残した、その原動力を生み出した地、それを詳らかにすることなく過ごす歴史学を心底悲惨に感じるところである。

別名御田鍬=炎のように延びる(鍬)田を束ねた(御)ところと読める。棚田を正面からではなく横から眺めた様を象った表記と思われるが、些か曖昧であろう。太宗から労いの詞を貰っている。彼の人柄もそう言わしめたのかもしれない。「大仁」は冠位十二階で三番目、出世なさっていたとのことである。

この年の九月には掖玖に派遣していた田部連某が帰って来たとのことである。即位元年(西暦629年)の四月だから、約一年半ばかりの滞在だった。少々余談になるが・・・「掖玖」を屋久島に比定することに違和感を感じている方々がおられるようである。その根拠は圧倒的に人口が多かったと思われる「多禰」(種子島)との交流が少なく、現在も住居面積の小さい「掖玖」を琉球諸島に求めてみたり様々である。これは交流の意味を全く理解できていないことから来る論議であろう。

既に述べたように有明海沿岸の豊かな土地に住む「倭奴族」と福智山・貫山山塊の麓を拠点とする「天神族」の状況に極めて類似する。それぞれの名称が地形(の特徴)を示すように、同じような地形の掖玖(詳細地形)との交流が自然であろう。谷間に開拓する棚田の技術、それが互いの切磋琢磨を喚起するのである。多禰人は豊かな島の恩恵にどっぷり浸かっていたのである。無いものを求めて交流(易)が始まる。「掖玖人」と「多禰人」は隣人であるが故の没交流だったのかもしれない。
 
難波大郡・三韓館

増える「高麗百濟客」をもてなすためであろう、「難波大郡及三韓館」を修理したと記載されている。「郡」とくれば律令制下の「郡(コオリ)」と思いたくなるようだが、当時は「評」の文字を使っていたと言われる。そんな背景もあってか、「大郡」についての解釈、更にはその場所などの推論が見当たらない。

と言う訳で、遠慮なく地形象形表現として紐解くことにする。「郡」=「君+阝(邑)」に分解する。更に「君」=「尹(整える)+囗(大地)」を意味すると解釈される。すると郡=整えられて小高くなった地(君)が寄り集まった(邑)ところと読み解ける。
 
<難波大/小郡・三韓館>
図に示した神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が訪れた豐國宇沙、その近隣の地を出迎えた宇沙都比古・宇沙都比賣が作った足一騰宮の場所と推定した(現在の小烏神社辺り)。

「大郡」は、「三韓館」と同じく、その地にある迎賓の施設を意味していると思われるが、おそらく図に示した、最も南側の小高いところにあったのではなかろうか。

後に同じ目的で作られた「小郡」が登場するが、「大」、「小」の対になった表記と思われる。図に示したように「大郡」の南側にあったと思われる。

間違いなく”迎賓”の地であったことが解る。通説は大分県宇佐市の宇佐神宮関連の場所とされているが定かではない。”迎賓”のキーワードが消滅、勿体ないことである。

「三韓館」の「韓」=「取り囲まれて凹(窪)んだところ」と解釈する。古事記、魏志倭人伝に多く出現する文字である。「館」=「食+官」と分解する。更に「食」=「∧+良」=「山麓がなだらかな様」、「官」=「宀+㠯」=「山麓に段差がある様」と読む。

「三」は上記の「三田耜」でも使われた字で「横線三本」のイメージとして解釈した。元々は「多くのものが入り混じる(参:旧字体は參)」が語源として考えられている。地形象形的には「寄り集まった様」を表すと読み解ける。

纏めると三韓=三つの凹(窪)んだ地が寄り集まった山麓のなだらかな段差があるところと読み解ける。図に示した場所と推定される。勿論「三韓の客を迎える宿舎」の意味も重ねて表している。その為には「参」より「三」が都合が良かったのであろう。命名を行った人物は会心の笑みを浮かべていたかもしれない。

「飛鳥岡傍、是謂岡本宮」については、「田中宮」に遷都したと伝えられることから、後に述べてみようかと思う。

三年春二月辛卯朔庚子、掖玖人歸化。三月庚申朔、百濟王義慈、入王子豐章爲質。秋九月丁巳朔乙亥、幸于津國有間温湯。冬十二月丙戌朔戊戌、天皇至自温湯。

西暦631年の出来事である。「掖玖人」が帰化したと言う。上記で述べたようにこの島では多くの人々が住まう場所は望めない。それを受け入れたのであろう。帰化の形態は様々と推測されるが、その地との繋がりは深まって行ったことは間違いないであろうし、それによって南方の島々の情報が得られたと思われる。

一方で百済の王子を受け入れている。唐は相変わらず高句麗を攻めあぐんで、新羅を結託して南方からの攻略に転換しつつあった時期であろう。そのためには百濟を手中にする必要があり、百済への”圧迫”が増大させる。それの回避を百濟王義慈が目論み、日本側「天神族」は名実共に倭国の主となる思惑が一致したものと思われる。有明海沿岸部での小競り合いに明け暮れた「倭奴族」は航海技術も進展させることなく、大同団結した大国への道を自ら閉ざしてしまったのであろう。
 
有間温湯

天皇は九~十二月にかけて「有間温湯」に滞在したと伝えている。「湯」は古事記の伊余湯で登場した。木梨之輕王(太子)が島流しの刑を受けて向かったところである。罪人を温泉に送り込んでどうする?…と読んで、「湯」=「水+昜」と分解して、「昜」=「高く四方に広がる様」と解説されることより、湯=水が跳ね散る様と読み解いた。

熱して、あるいは急流で岩に当たって跳ね散る様を表す文字である。何となく「温かい湯」のように読んでしまうが、全く矛盾する解釈となる。即ち「熱湯」は矛盾のない表記なのである。「白湯(何も混ぜない湯)」も同様であろう。
 
<津國有間温湯>
「温(溫)」=「水+𥁕」と分解される。更に「𥁕」=「囚+皿」と分解される。「囚」=「枠の中に入れる様」を象った文字である。

温暖・温存などの意味へと展開されて用いられる。つまり、温泉とは無関係に温湯=跳ね散る水を貯めるところと読み解ける。

ここまでは古事記の紐解きに導かれてすんなりと読めるのであるが、「津國」は古事記に登場しない。

「有間」を紐解く前に先ずは「津國」を求めることにする。古事記に関連する記述は、伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に大中津日子命が登場した。

「天神族」が治める地域の北限から南限までに祖となったと記された命である。彼の出自は旦波國に多くの津があるところ、現地名は行橋市稲童と推定した。さて、そこに「有間温湯」が存在するかを探索する。

「有」=「又(右手)+月」と分解される。頻出の「月」=「山稜の端の三角州」である。「又(右手)」=「腕を曲げて囲う様」を表す。「間」=「隙間」とすると、有間=緩やかに曲がる尾根から延びた山稜の端にある三角州の隙間と紐解ける。有間温湯=延びた山稜の間にある急流が堰き止められたところ(池・沼)を示していることが解る。

図に示した行橋市にある覗山の南麓の急斜面にある池・沼の近隣に天皇は行幸したと伝えているのである。そして覗山の北麓は舒明天皇(息長足日廣額天皇)の出自の地であった。蘇我蝦夷大臣が全てを取り仕切る宮中を…四面楚歌の空気を…さりげなく(?)避けた様子を物語っているのかもしれない。

おそらく事実であったかと思われるが、後の大事件の伏線と推測される。「伊余湯」でも述べたが、いい湯だな!…なんて暢気な天皇一家ではなかった筈であろう。通説は「有馬温泉」と比定されているようである。伊予の道後温泉、共に現在も栄える温泉場である。ところで六甲山の北麓にある有馬は、見事に地形象形した表記と思われるが・・・「間(マ)」と「馬(マ)」とは同じではなく・・・。