2020年3月15日日曜日

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅵ) 〔396〕

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅵ)


すったもんだの挙句に蝦夷大臣の思惑通りに田村皇子が即位したと伝えている。原文引用は青字で示す。

元年春正月癸卯朔丙午、大臣及群卿、共以天皇之璽印、獻於田村皇子。則辭之曰「宗廟重事矣。寡人不賢、何敢當乎。」群臣伏固請曰「大王、先朝鍾愛、幽顯屬心。宜纂皇綜、光臨億兆。」卽日、卽天皇位。夏四月辛未朔、遣田部連闕名於掖玖。是年也、太歲己丑。

舒明天皇の在位期間は、62922日~6411117日である。生年593年(?)らしく享年48歳だったのかもしれない。「億兆」=「万民」、「兆民」とも記される。「万」よりスケールが大きい表記と解釈しておこう。
 
<筑紫南海・南嶋>
掖玖・多禰・阿麻彌
 
田部連何某を「掖玖」に派遣したと記述している。これだけでは何とも解釈のしようがないが、初登場は推古天皇紀に掖玖人」が帰化したと伝えている。

更に次期の天武天皇紀に「多禰人・掖玖人・阿麻彌人」と三つ揃えで表記される。これらの表音から現在の「種子島・屋久島・奄美大島」を表す地名である、と比定されて揺るぎがないところであろう。

拡大解釈指向の書紀と分りつつも、九州島の南に列島を形成する島々との交流、その地人物の帰化とは、些か話が大き過ぎるように思われる。少し先読みしてこれらの地が登場する記述を調べると、天武天皇紀に「多禰」は「筑紫南海」にあったと記載されている。また續紀の文武天皇紀には「多褹(禰)・夜久(掖玖)・菴美(阿麻彌)・度感」を「南嶋」と表記している。

書紀は「筑紫日向」と記述する。古事記の竺紫日向に相当する場所である。では書紀が記載する「筑紫日向」が間違いか?…実はこれも地形象形的には的確な表記である、と述べた(こちら参照)。即ち、書紀は現在の孔大寺山塊を含む地を「筑紫」としているのである。勿論、九州島全体を匂わす表現をしていることも事実であろう。編者等の涙ぐましい努力の結果なのであるが、その努力に報いた解読の結果である。
 
<掖玖>
すると、「掖玖・多禰・阿麻彌」は、図に示した現在の博多湾岸の地あったと読み解ける。当時の海面は、地図の青っぽいところ、彦山川流域の結果に基づくと、現在の標高約10~15m辺りまで海辺であったと推測される。以下に詳細を述べるが、推定される三つの地は、島状の地形であったと思われる。

掖玖の「掖」は古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が坐した葛城掖上宮に含まれていた。「掖」=「腋、脇」として人体の胴体と腕が作る形を象った文字と解釈されている。「掖」=「手(腕)+夜」と分解し、更に「夜」=「亦+月(肉)」から人体を象った文字であることが解る。

地形象形表現としては「夜」=「山稜の端の三角州(月)がある多くの川が流れる谷間(亦)」であり、「掖」=「腕のように延びる山稜の傍らにある谷間」と解釈される。「玖」=「王+久」と分解される。古事記に頻出の文字であって、「玖」=「[く]字形が連なっている様」と解釈される。

纏めると、掖玖=腕のように延びる山稜の傍らにある谷間が[く]字形に曲がり連なっているところと読み解ける。図に示した現在の四王寺山の地形を表していることが解る。現地名は太宰府市である。
 
<多禰(褹)>
「掖玖嶋」は、海辺と言うよりも、山麓を流れる川に区切られて島状に見える地形でもある。「玖」の谷間も含めて多くの谷間が周辺に延びている地であり、その狭隘な谷間に人々が住まっていたのであろう。

実を言えば、「筑紫南海・南嶋」と、この「掖玖」の地形を見出せたことによって、漸く書紀及び續紀が記述する、これらの嶋が博多湾岸の島々である、と解読することが可能となった。貴重な地である。

多禰は、最も海に近い場所と推定した。頻出の「多」=「山稜の端の三角州」と解釈した。同じく頻出の「禰」=「示+爾」=「高台が広がっている様」と解釈する。多禰=山稜の端の三角州の高台が広がっているところと読み解ける。

図に示したように現在の福岡市中央区・南区辺りと推定された。がしかし、この地形象形表記では、他にも該当する地形の場所が多く存在することも分る。續紀では「多褹」と表記されている。「褹」=「衣+埶」と分解される。「衣」=「山稜の端」であり、「埶」=「丸く盛り上がっている様」と解釈した。頻出の「勢」に含まれる文字要素である。

即ち、単に「禰」ではなく、褹=山稜の端が丸く盛り上がって広がっている様を示していることが解る。これで、上記の場所として特定することが可能となったのである。續紀では、「多褹國」と記し、郡があり、多くの人が住まっていたことを人物名を挙げて伝えている。全て地形象形表記として読み解くことができる。
 
<阿麻彌>
阿麻彌阿麻=擦り潰されたような台地、天=阿麻の表記そのものであろう。頻出の「彌」=「弓+爾」と分解され、彌=弓なりに延び広がった様と解釈した。「禰」とは、それなりの差異がある文字なのである。

すると、「掖玖」の北西側に長く延びた山稜が「阿麻彌」の地形を示していることが解る。現在は広大な団地となっているが、山稜の端の僅かな起伏が連なった地形であったと推測される。

現地名は福岡市博多区・糟屋郡志免町の境である。續紀では「菴美」と記載されている。「菴」=「艸+奄」と分解される。更に「奄」=「大+申」から成る文字である。「菴」=「艸+大+申」=「平らな頂の山稜が長く延びている様」と解釈される。

頻出の「美」=「羊+大」=「谷間が広がっている様」とすると、菴美=谷間が広がった地に平らな頂の山稜が長く延びているところと読み解ける。正に別名表記である。これら三つの嶋の他にも「度感・信覺・球美」が登場する。全て九州島の南に連なる島として解釈されている。音読みしては、どうも納得できず、諸説紛々となるが、現在に至っても曖昧なままである。

と言う訳で、日本の史書に”博多湾岸”の地が記載されていた、となる。邪馬壹國九州説の主たる比定地である。本ブログの比定地は佐賀県佐久市、そして連合国家の中にも博多湾岸は登場しない。それらは有明海沿岸だったのである。肉薄すれども、まだ史書は邪馬壹國関連の地域との交流は記載しないようである。

二年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女爲皇后。后生二男一女、一曰葛城皇子近江大津宮御宇天皇、二曰間人皇女、三曰大海皇子淨御原宮御宇天皇。夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛、生古人皇子更名大兄皇子。又娶吉備國蚊屋采女、生蚊屋皇子。三月丙寅朔、高麗大使宴子拔・小使若德・百濟大使恩率素子・小使德率武德、共朝貢。

古事記風に言えば、一気に娶りと生子の話となる。「寶皇女」を皇后としたと記されている。何処の出自の皇女とも解らず、少々補足して読み解いてみよう。後の皇極天皇であり、斉明天皇となる。前記したように蘇我一族が台頭した内政動乱の時期に天皇を務めた女性であったと知られる。

1. 皇后寶皇女

故に和風諡号として「天豐財重日足姬天皇」と呼ばれており、その名に重要な情報を有している。系譜を簡略に述べると、欽明天皇(母:宗賀稲目の娘、岐多斯比賣)の御子、桜井皇子(古事記では櫻井之玄王)を父親として生まれたのが吉備姫王(母親未詳、後に「吉備島皇祖母命」と記載される)、その子が寶皇女と伝えられている。父親は茅渟王(古事記では忍坂日子人太子の子、智奴王)である。弟に後の孝徳天皇となる輕王がいた。

吉備に出自を持つ人物の登場は、古事記では仁徳天皇紀で終わる。天皇家の草創期より多くの人材を提供して来た地であったが音沙汰なくなって久しかったのである。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)、仲哀天皇(神功皇后)など内輪もめ以外の対外的な交渉が必要な時期に浮上する地、「鉄」に関わる地だったのであろうか・・・。
 
<吉備姫王・寶皇女・輕王>
それはともかくとして登場人物の出自の地を求めることにする。

「吉備姫王」は「吉備嶋皇祖母命」と尊称されたとのことである。

「吉備島」とは?…吉備兒嶋ではなく、当時の海岸線から推測すると吉備の入江に浮かぶ島、現在の下関市吉見古宿の串本岬がある小高いところと推定される。

「寶皇女」の和風諡号に含まれる「天豐財重日足」の「足」=「帶」に戻して読み解く。

その他の文字の多くは頻出の文字であることから、天(テン)=頭(上)部豐=多くの段差がある高台財=貝の文字の地形(と置換えた文字)、日=炎の地形帶=山稜の端が延びた形と読み解ける。「天」=「阿麻」ではないことに留意する。

残った「重」=「東+人+土」と分解され、「人が土をトントンと突く様」を表すと解説される。地形象形的には重=谷間(貝の中央)を突き通る様を表していると解釈される。

<重日=伊柯之比>
するとこれらの地形を満たすところが吉備島の直ぐ東隣に見出せる。竜王山西麓の段差のある高台の裾に延びる山稜が作る地形である。


大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が針間之伊那毘能大郎女を娶って生まれた櫛角別王・神櫛王の出自の地であり、兄弟の小碓命(後の倭建命)なども含めて各地に散らばり、また祖となる連中である。

皇極天皇紀に「重日=伊柯之比(イカシヒ)」と訓すると記載されている。表音の記述ではあるが、これも地形象形表記と思われる。

「柯」=「木(山稜)+可」と分解される。古事記で頻出する「訶」=「言+可」=「谷間の耕地」と紐解いた。

例示すると品陀和氣命(応神天皇)紀の説話に登場する訶和羅などがある。「柯」=「山稜がある谷間」と読み解ける。「之」=「蛇行する川」頻出である。すると伊柯之比=谷間で区切られた山稜の傍らで蛇行する川が並んでいるところと紐解ける。図<重日=伊柯之比>に示した通り、「重日」の地形の別表現であることが解る。

上図<吉備姫王・寶皇女・輕王>に「輕王」(孝徳天皇)の出自の場所も併せて示した。輕=突き進む様を表していると解説される。三角州の頭の部分として読み解いた(允恭天皇の御子、木梨之輕王輕大郎女・亦名衣通郎女など)。古事記の景行天皇紀に倭建命に随行した吉備臣等之祖・名御鉏友耳建日子の出自で求めたの地形をと表記したと思われる。

欽明天皇及び蘇我氏の血統の比賣が敏達天皇と息長一族の比賣の子の血を引く王子との間で誕生したのが寶皇女となる。正に血統書付きの皇女だったわけである。舒明天皇は忍坂日子人太子が田村王・亦名糠代比賣命(敏達天皇の孫)を娶って生まれている。一方、寶皇女は忍坂日子人太子の子、茅渟王(古事記では智奴王)が漢王之妹・大俣王を娶って生まれている。天皇は忍坂日子太子を巡って従兄弟の子を皇后にしたという関係である。
 
1-1. 葛城皇子(中大兄皇子)・間人皇女

二人の天皇と一人の皇女が誕生したと伝えている。後者の「大海皇子淨御原宮御宇天皇(天武天皇)」については既に紐解き、古事記序文に飛鳥淸原大宮御大八洲天皇と記載されていた天皇である。類似の文字を並べているが、微妙に地形象形表現から外しているように思われる。書紀らしい”姑息さ”が伺えるが、今年で成立後1,300年が経っても、彼らの目的は十二分に達成されているのだから息を呑む”姑息さ”かも、である。
 
<葛城皇子(中大兄皇子)・間人皇女>
「葛城皇子近江大津宮御宇天皇」の最初に記された「葛城皇子」は、別名中大兄皇子と言われる。

葛城の地で「中大兄」の地形を持つところが出自の地と思われる。さて、古事記で登場しなかった場所が該当するのか、葛城の地を散策である。

既出の解釈を適用すれば、大兄=平らな頂の山稜にある谷間の奥が広がっているところと読み解ける。

「中」は三男坊の次男では、決してあり得ない。この場合でも長男である。中臣連彌氣で読み解いたように中=真ん中を突き抜ける様と解釈する。

すると「兄」の谷間を突き抜けるように小ぶりな山稜が延びているところが見出せる。現地名田川郡福智町長浦にある谷間と推定される。石上穴穂宮・石上廣高宮(田川市夏吉)の北側に当たる。葛城の東端、石上・斑鳩に接するところである。皇子の坐していた場所は、多分、谷の出口にある小高いところ、現地名では丸山の麓辺りかと推定される。

「間人皇女」が誕生しているが、「上宮之厩戸豐聰耳命」の母親、間人穴太部王(書紀では穴穗部間人皇女)が坐していた谷間を「間人」と読み解いた。「間」の原字(旧字体)は「閒」とある。「間」=「門+月」と分解され、間=山稜に挟まれた「月(三日月)」の形を示す山稜があるところと読んだ。「人」=「谷間」を表し、「門」が作る谷間の出口を示している。勿論同一場所であろう。

1-2. 大海皇子(淨御原宮御宇天皇)

「大海皇子淨御原宮御宇天皇」の「淨御原宮」(古事記では飛鳥淸原大宮)の場所を再掲する。通常「清浄」と使われ、同じ意味を示すように受け取られているが、この二文字は全く異なる意味を示す。古事記に頻出する「清(淸)」=「水辺で〇〇〇に成りかけのところ」と読み解いた。「靑」=「生+井」=「生まれたばかりの穢れがなく清らかな様」に基づく解釈である。
 
<飛鳥淸原大宮(淨御原宮)>
一方「浄()」は「争(爭)」=「爪(下向きの手)+ノ+又(上向きの手)」と分解される。

上下に引っ張り合う様を象った文字と解説される。争う様を表し、同時に両方から引っ張り取られて澄んで清らかになった様を意味する。

淨=手のような山稜が延びて広がったところと読み解ける。御=束ねる様であり、原=野原と解釈すると、淨御原=手のような山稜が延び広がって野原を束ねているところと解読される。

山稜の端が二つに岐れた先が更に延びて広がった地形を表している。特定するには些か一般的な表記であるが、古事記の「淸原」の場所として矛盾は無いようである。

「石上」の磯辺にあった宮、それをあからさまにすることを抑えた表現のように感じられる。正に確信犯であって、書紀の編者も同じく漢字による地形象形を十分理解していたと思われる。

古事記序文で記載された文字列、本文と同様に地形象形していると解った。また万葉集に収録された歌の解釈も宮の在処を述べていると読み取れた。「御宇」は下記を参照。

こうして見ると古事記、書紀、万葉集どの一つも真っ当に読めていないのが現状なのである。

1-3. 近江大津宮御宇天皇(天命開別天皇)

さて本題の「近江大津宮」の在処を探ってみよう。と言っても含まれる「近江」は古事記では登場しない。既に述べたように両書の対応関係を調べると古事記の「淡海」及び「近淡海」を書紀ではこの二つの区別なく「近江」と置換えていることが解った。逆に言えば書紀で「近江」と記されたなら、それは「(近)淡海」を表すと見做すことができる。

古事記の「淡海」に面した地は、現在の遠賀川下流域から関門海峡に至る広域の海を示し、そこに宮が造られた例は見出せない。他方「近淡海」は豐御食炊屋比賣命(推古天皇)の小治田宮など幾つかの天皇が坐した場所が見出せている。先ずは「近淡海」に注目して「近江大津宮」の在処を求めることにする。

それにしても「大津」の文字からは場所の特定は不可であって、大雀命(仁徳天皇)の御子、大江之伊邪本和氣命(後の履中天皇)の出自の場所に関連するように思われる(大津↔大江)。がしかし、これでも全く不十分であり、宮の在処は見えて来ない。後の記述(天智天皇紀)に天皇名として天命開別天皇と記載されている(舒明天皇紀最後の段で東宮開別皇子として登場する)。
 
<近江大津宮・天命開別天皇>
「命」も地形象形文字として読み解くことになる。既出の天=頭(上部)、別=区分けされた地として、「命」=「令+囗」と分解される。

更に「令」=「亼(寄り集る)+卩(跪く様)」と分解されると解説される。「寄り集まって跪く人びとに言葉を発する」様を表す文字である。

これを地形象形とするには、「囗」と「卩」の地形が寄り集まってところと解釈される。

「開」=「閂(かんぬき)+廾(両手)」と分解される。「両手でかんぬきを外す様」を示している。この文字も「門」のような地形に両手を差し伸べた形を示す場所を表していると思われる。

纏めると天命開別=上部(天)が囗と卩の地形(命)が集まっていて門の地形に両手を差し伸べた地形(開)が区分けされた(別)ところと読み解ける。何とも山稜が描く地形を並べ挙げたような名称であることが解る。

現地名は行橋市天生田(アモウダ)という難読地名の場所である。そして大津=平らな頂の麓にある入江を示すところである(推定した当時の海岸線はこちらを参照)。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が訪れた豐國宇沙・足一騰宮があった近隣であり、大江之伊邪本和氣命の東隣である。

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御宇

ところで「御宇」とは如何なる意味であろうか?…調べると「宇内(うだい)を御(ぎょ)する」もしくは「御代(みよ)」と解説されている。「宇内」=「天下」である。なるほどと頷けるのであるが、全ての天皇に付加されるかと言うとそうではなく(別称も含めて)、多くはないようである。

古くは垂仁天皇(纏向玉城宮御宇天皇)、欽明天皇(磯城嶋宮御宇天皇)、後の孝徳天皇(明神御宇日本倭根子天皇)、天智天皇(近江大津宮御宇天皇)、天武天皇(淨御原宮御宇天皇)など、単に別称を記載する機会がなかったとも思われるが、「御宇」も地形象形表記しているのではなかろうか。詳細は後日に譲るが、御宇=山稜に囲まれた麓(宇)を寄せ集めた(御)ところと読める。上記の天皇が坐した地形を外してはいないようである。

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御所ヶ岳・馬ヶ岳山系をもう少し西に移ると大雀命(仁徳天皇)の難波之高津宮があったところである。仁徳天皇も天智天皇もそれぞれの思いがあって海辺近くに宮を建てたのであろうが、やはり短命な宮となってしまったようである、それにしても高津宮より更に海辺に向かった(天智六年:667年)のには理由があったであろう。後の天智天皇紀で述べることにする。

上記したように古事記の「淡海」→「近江」へ強引な置換えを行った書紀の記述に基づく解釈は無意味である。現在も滋賀県大津市の琵琶湖西岸部に所在を求めて彷徨っている有様である。対外的な理由から交通の要所であったと推測されているが、対外圧力を回避するなら交通の要所には都を作るわけにはいかないであろう。

2. 蘇我嶋大臣女法提郎媛

次いで蘇我一族からも娶ったと記載されている。「蘇我嶋大臣」=「蘇我馬子大臣」の娘「法提郎媛」であり、しっかりと外戚の立場を保っているのである。さて「郎媛」=「郎女」として「法提」という何とも厳めしそうな名前を読み解いてみよう。勿論しっかりと地形象形している筈であろう。

「法提」を通常使われる意味で読んでもなんら情報はえられないようである。一文字一文字を地形を表す要素に分解しながら紐解く方法を採用する。「法」=「水+去」と分解される。「水がなくなる」で何を示そうとしたのか、不思議な文字である。更に「去」=「大(人)+𠙴(キョ)」と分解される。「𠙴」=「凹(窪)んだ形」を表す。「人が窪んだところに入る(去る)」である。
 
<法提郎媛・古人(大兄)皇子>
これでもまだ「法」には届かない。実は「法」の旧字は「灋」=「水+去+廌(カイチ)」から成る文字であった。

廌(カイチ、カイタイ)は空想の獣で正義・公正を象徴するとされる。狛犬の起源とも言われる。

すると「法」=「水が溜まった窪んだところの人が出て来るのを見定める」ことを意味する文字と解釈される。

地形象形的にはより直截的に解釈される。法=水際で区切られたところとなろう。

「提」=「手+是(匙)」と分解される。提=腕を真っすぐ伸ばした「匙」のようなところと読み解ける。

文字が意味する形のみを用いる解釈であって、通常に用いられる意味の方がより複雑である。現地名は田川郡苅田町稲光である。父親の蘇我馬子宿禰の「馬の首」辺りを示している。

漢字を地形象形的に用いるとは、如何に要素に還元するかであろう。古事記にしろ書紀にしろ編者達の漢字そのものへの造詣の深さが伺え、少々長ったらしく述べた。

2-1. 古人皇子(大兄皇子)

御子に「古人皇子更名大兄皇子」が誕生する。ここにも「大兄」が含まれている。通説で如何に理解されているかを見てみよう。Wikipediaによると・・・、

大兄(おおえ、おいね)は、6世紀前期から7世紀中期までの倭国(日本)において、一部の王族が持った呼称・称号である。大兄の称号を持つ皇子は、有力な大王位継承資格者と考えられている。

「大兄」は大王家のみならず、一般豪族にもみられる呼称である。「大兄」の意味について直接説明した同時代的史料はない。ただし、6・7世紀の大王家に集中して「大兄」の呼称がみられるため、現代の歴史学者は「大兄」の名を持つ皇子を比較して帰納的にその意味を探っている。細かな点で異なる諸説があるが、多数の皇子の中で王位を継承する可能性が高い者が持つ称号とみなされている

当時、治天下大王の地位継承は、大王の一世王にあたる皇子(王子)に優先権が認められており、その中で長兄→次兄→・・・→末弟というように兄弟間で行われ(兄弟継承)、末弟が没した後は、長兄の長男に皇位承継されることが慣例となっていた。当時は一夫多妻であり、大王家に複数の同母兄弟グループが存在していたが、この同母兄弟間の長男が「大兄」という称号を保有していた。従って、大兄が同時期に複数存在したこともあり、「大兄」を称する皇子同士でしばしば皇位継承の紛争が起こった。

しかし、「大兄」は同時期に一人に限られていたとする説もある。これによると、「大兄」は皇太子の先駆ともいえる制度的称号であり、「大兄」の称号を保有する皇子が皇位に即くか、即位以前に死亡するかで「大兄」の地位が移動したという。

・・・と記されている。帰納的にして諸説あり、結局収束しない帰納なのである。大兄=平らな頂の山稜が作る谷間の奥が広がったところとして演繹しては如何か?・・・。「大兄」の地位が移動した?…これは論文に記載されているのか、素直に、わからん!、と述べるべきであろう。

「古人皇子」の古人=狭く長い谷間(人)にある丸く小高いところ(古)と紐解ける。別名を併記することで御子の所在は確定するのである。図に示したところ蝦夷大臣の近傍である。現地名は田川郡苅田町下片島である。

3. 吉備國蚊屋采女

三番目の后が「吉備國蚊屋采女」と記載されている。上記の寶皇女と同じく「吉備」の出身である。「蚊屋」は古事記に登場した文字列で安康天皇紀の淡海之久多綿之蚊屋野などがあり、蚊屋=長く延びた山稜の端が交差する地形を表していると読み解いた。

<吉備國蚊屋采女・蚊屋皇子>
その地形を探すと容易に見出せる。頻出の「吉備」は現地名下関市吉見として、その地にある鬼ヶ城の西麓、山塊から延びる山稜が交差したように見える場所と思われる。

地図では吉見大字吉見上、小字は奥畑と記載されている。御子「蚊屋皇子」も同じ場所であろう。ずっと後(天智天皇紀)に蚊屋皇子の子、山部王が登場する。左図に示した場所が出自と思われる。

「吉備」の北部は考安天皇紀の姪忍鹿比賣命及び御子の大吉備諸進命、孝霊天皇紀の大吉備津日子命、開化天皇紀の息長日子王が祖となった吉備品遲君・針間阿宗君など多くの人材が関係する地であった。

仁徳天皇紀の黑比賣の説話で「鉄(器)」の生産が順調に行わるようになったことが述べられ、以後「吉備」の登場が消える。そして、舒明天皇紀に復活する。その地に人材・資源が必要な時にその地の比賣を娶って繁殖する。天皇家の戦略に揺るぎはないようである。更なる「鉄(器)」を必要とする時代が到来しつつあったことも暗示しているのだろう。最後に高麗及び百濟との交流が記されている。「朝貢」は書紀らしい記述であろう。