2020年3月10日火曜日

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅴ) 〔395〕

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅴ)


引続き蘇賀蝦夷大臣と山背大兄王との確執を伝える記述である。原文引用は青字で示す。

既而泊瀬仲王、別喚中臣連・河邊臣謂之曰「我等父子並自蘇我出之、天下所知。是以、如高山恃之。願嗣位勿輙言。」則令三國王・櫻井臣副群卿而遣之曰「欲聞還言。」時、大臣、遣紀臣・大伴連、謂三國王・櫻井臣曰「先日言訖、更無異矣。然、臣敢之輕誰王也重誰王也。」

前記のようなやり取りがあった中で、既に泊瀬仲王は中臣連・河邊臣に「我等は蘇我一族だぞ!」と懐柔なのか威圧なのかの態度を示しいたとのことである。伝令二人に問い合わせさせたら、蝦夷大臣は、にべもなく同じことを何度言わせるのか!と返答したようである。
 
<泊瀬仲王>
泊瀬仲王は山背大兄王の異母弟、即ち上宮之厩戸豊聡耳命の子であって、斑鳩の地に住まっていた(下段参照)。その名前から出自の場所を求めてみよう。


泊瀬(ハツセ)と読まれて、別名に「長谷王」とも言われたとのことである。大長谷若建命(雄略天皇)の「初瀬」に類似するのであるが、このあたりも後代の解釈が混乱させているように感じられる。

「泊瀬」の文字を紐解くと、「泊」=「氵(水)+白」と分解される。「淡く薄い、くっ付く」などから「動きが少なく、止まった様」を表す意味が派生して来ると言われる。

通常「宿泊」などで用いられる。「瀬」=「早い川の流れ」を表す文字である。すると泊瀬=早い川の流れを止めるようなところと読み解ける。

図に示した川が山稜の端の小高いところにぶつかり大きく蛇行するところと推定される。現地名は田川市夏吉である。古事記では出現しなかった地である。尚、「仲」=「次男」を表す。

於是、數日之後、山背大兄、亦遣櫻井臣告大臣曰「先日之事、陳聞耳。寧違叔父哉。」是日、大臣病動、以不能面言於櫻井臣。明日、大臣喚櫻井臣、卽遣阿倍臣・中臣連・河邊臣・小墾田臣・大伴連、啓山背大兄言「自磯城嶋宮御宇天皇之世及近世者、群卿皆賢哲也。唯今、臣不賢、而遇當乏人之時誤居群臣上耳。是以、不得定基。然、是事重也、不能傳噵。故、老臣雖勞、面啓之。其唯不誤遺勅者也、非臣私意。」

まだまだ腹の虫が収まらない山背大兄王は、叔父さんが聞き間違えたのでは?…とまで言い出した。そうまで言われたら、もう振り上げた手の落としどころがないような雰囲気であって、群臣を派遣して、全く私意がないことを申し伝えたとのことである

群臣の顔ぶれに「小墾田臣」が加わっている。古事記の小治田臣であろう。勿論蘇我一族、推古天皇が坐した小治田宮があった地と思われる。「墾田」=「耕した田」と読めるが、古事記の読み解きを再掲すると、「治」の解釈はもう少し複雑である。「治」=「氵(水)+台」と分解されることは容易に解る。これに含まれる「台」は「臺」の略字ではない。

「台」=「ム+囗」と分解される。「ム」=「㠯(耜)」(耜=鉏、鋤)を簡略に表し、「鉏」の先端部を象形した文字と知られる。これで大地を耕すことを表すのであるが、それに「水」が付いた「治」=「水を引いて田を耕す:治水する」と読み解いた。文字が伝える情報を削減しては勿体ない限りであろう。
 
<磯城嶋金刺宮>
「磯城嶋宮御宇天皇」が登場する。古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が坐した「師木嶋大宮」を示している。

この場所については情報が少なく、書紀の表現を少し遡ると「磯城嶋金刺宮」と記されている。

「磯城」は「師木」を置換えたとして、「金刺宮」を紐解いてみよう。

「金」は幾度か登場した文字で、金=八+高台と解釈した。ハの字の地形にある高台を示す。

例示すると大長谷若建命(雄略天皇)紀に登場した金鉏岡があり、またすぐ東隣に坐した廣國押建金日命(安閑天皇)の勾之金箸宮などがある。

上図を拡大して表示すると、平坦な台地の東側が「ハ」の字形をしていることが解る。上記の「大宮」は強いて解釈すれば「大」=「平らな頂の地」であろう。この台地に「刺(棘)」があると述べている。西側がギザギザしてところ、その内最も大きな「棘」があるところに宮があったと伝えている。

「師木嶋」の表記からでもおおよその見当が付くが、「金刺宮」と表現されてより確度の高い場所を推定することができたようである。尚、「御宇」=「天下を御する」である。

既而大臣、傳阿倍臣・中臣連、更問境部臣曰「誰王爲天皇。」對曰「先是大臣親問之日、僕啓既訖之。今何更亦傳以告耶。」乃大忿而起行之。適是時、蘇我氏諸族等悉集、爲嶋大臣造墓而次于墓所。爰、摩理勢臣壞墓所之廬、退蘇我田家而不仕。時、大臣慍之、遣身狹君勝牛・錦織首赤猪而誨曰「吾知汝言之非、以干支之義、不得害。唯他非汝是我必忤他從汝、若他是汝非我當乖汝從他。是以、汝遂有不從者、我與汝有瑕。則國亦亂、然乃後生言之吾二人破國也。是後葉之惡名焉、汝愼以勿起逆心。」然、猶不從而遂赴于斑鳩住於泊瀬王宮。

いよいよ決裂の時を迎えることになる。再度境部摩理勢臣に次期天皇は誰かを問い合わせたら、同じことを言わすな、という返答であった。嶋大臣(蘇我馬子)の墓を作るために蘇我一族が集まった廬(仮住まいの建屋)を壊してしまうという暴挙に出てしまったのである。再度諭すための使者を送っても、従うことはなく、斑鳩の泊瀬王の宮に向かってしまった。万事窮すの有様であったと記している。

於是、大臣益怒、乃遣群卿、請于山背大兄曰「頃者、摩理勢違臣、匿於泊瀬王宮。願得摩理勢欲推其所由。」爰大兄王答曰「摩理勢、素聖皇所好、而暫來耳。豈違叔父之情耶、願勿瑕。」則謂摩理勢曰「汝、不忘先王之恩而來甚愛矣。然、其因汝一人而天下應亂。亦先王臨沒謂諸子等曰、諸惡莫作諸善奉行。余承斯言以爲永戒。是以、雖有私情忍以無怨。復我不能違叔父。願、自今以後、勿憚改意、從群而無退。」
是時、大夫等、且誨摩理勢臣之曰、不可違大兄王之命。於是、摩理勢臣、進無所歸、乃泣哭更還之居於家十餘日、泊瀬王忽發病薨。爰摩理勢臣曰、我生之誰恃矣。

山背大兄王が摩理勢臣を宥めることになるのだが、流れを変えることは難しかった様子、暫くすると迫瀬仲王が病死してしまったのである。上宮之厩戸豊聡耳命の一族の中で気骨のありそうで、摩理勢臣が頼りにする人物だったようである。意気消沈の状況が語られている。

大臣、將殺境部臣而興兵遣之。境部臣聞軍至、率仲子阿椰、出于門坐胡床而待。時軍至、乃令來目物部伊區比以絞之、父子共死、乃埋同處。唯、兄子毛津、逃匿于尼寺瓦舍、卽姧一二尼。於是、一尼嫉妬令顯。圍寺將捕、乃出之入畝傍山。因以探山、毛津走無所入、刺頸而死山中。時人歌曰、
于泥備椰摩 虛多智于須家苔 多能彌介茂 氣菟能和區吳能 虛茂羅勢利祁牟

そして遂にその時が訪れた。蝦夷大臣は來目物部伊區比に命じて摩理勢臣及び二人の子、兄子毛津と仲子阿椰を共に死に至らしめたと記述されている。新しく登場した人物名を紐解いておこう。
 
<兄子毛津・仲子阿椰>
二人の子は、おそらく境部摩理勢臣の居場所に近隣と推定しながら、ぞれぞれの名前の示す場所を求めることにする。


仲子阿椰に含まれる「仲」=「人+中」=「谷間を突き通すような山稜が延びている様」、「子」=「生え出た様」であり、仲子=谷間を突き通すような山稜から生え出たところと解釈される。また、「阿」=「台地」である。「椰」=「木+耳+阝(邑)」と分解する。椰=山稜が耳の形に集まっている台地となる。

図に示した場所が、これらが表す地形を示していることが解る。通常の意味(ヤシ)とは全くかけ離れた解釈である。ところでこの文字が何故ヤシを表すのか?…全く不確かのようである。

兄子毛津の「兄」=「谷間の奥が広がった様」、「子」は上記と同様である。兄子=奥が広がった谷間から生え出たところと解釈される。また「毛」=「(魚)鱗の形」を示すと解釈する。古事記の大雀命(仁徳天皇)陵の名前、毛受之耳原などで出現した文字である。毛津=鱗の地の傍らで水辺がより集まっているところを表していると読み解ける。「毛」の地形は、些か地図上では確認し辛いが、出自の場所は図に示したところと思われる。

そんなわけで物部一族の登場となる。來目物部伊區比」は物部の地の何処を示しているのであろうか?…早速紐解きを行ってみよう。來」は古事記での地形象形的用法は極めて少ないが、天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった馬來田國造に含まれている。

<來目物部伊區比>
來=谷間に挟まれた山稜が広がり延びる様を表していると読み解いた。行橋市の南側、御所ヶ岳・馬ヶ岳山系の北麓と推定した。

図に「來」の古文字を地形に映した結果を示した。「目」=「谷間」であるが、山麓で更に谷間が重なった地形を表している。

邇藝速日命の子、宇摩志麻遲命が祖となった物部連の地に「來目」の地形を見出すことができる。

「伊區比」の「區」=「区分けする」と読み解く。「伊」=「人+|+又(手)」=「谷間に区切られた山稜」として、區比=谷間に区切られた山稜が区分けされて並んでいるところと紐解ける。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が宇陀で出会った宇迦斯兄弟は、この谷間の先に住まっていたと推定され、彼らは邇藝速日命の後裔、物部一族だと解釈した。彼らは皇統に絡むことはないが古代の有力な氏族として存続することになる。その本貫の地である。

ところで摩理勢臣の子の兄の方が尼寺に逃げ込んだと記述している。なんだか余計な話のようにも受け取れるのだが、畝傍山(場所はこちら参照)が登場する。この文字列も「ウネビ」と読むのは些か無理があるように感じられる。そもそもは畝火山に由来する言葉なのであるが、そのまま読めば「畝の傍らの山」であろう。

上図に示したように「畝」の地形がある。現在は住宅地となって、その傍らに山らしきところを見出せないが、当時は”木立の薄い”小山があったのかもしれない。いずれにしても奈良大和の畝傍山の山容は畝火とは無縁であろう。書紀の編者の苦労が偲ばれるところである。余談だが、畝傍(ウネビ)は難読名称の第一位に輝くのだそうである。既に述べたように大和(ヤマト)もあり得ない訓読である。