坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅳ)
山背大兄王は蘇我一族の長老格の境部摩理勢臣に相談すると、ちゃんと君を推薦したよ、なんて聞かされるし、腑に落ちないことが多々あることから、通じ合う仲間の二人(三國王・櫻井臣和慈古)に経緯を聞きに行かせた・・・。
前回は初登場の人物及び斑鳩宮などの紐解きで終わってしまった。これに対して蝦夷大臣はまたもや群臣を呼び集めて論議させたようである。原文引用は青字で示す。
於是、大臣、得山背大兄之告而不能獨對、則喚阿倍臣・中臣連・紀臣・河邊臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣等、仍曲舉山背大兄之語。既而便且謂大夫等曰、汝大夫等共詣於斑鳩宮、當啓山背大兄王曰「賤臣何之獨輙定嗣位、唯舉天皇之遺詔以告于群臣。群臣並言、如遺言、田村皇子自當嗣位、更詎異言。是群卿言也、特非臣心。但雖有臣私意而惶之不得傳啓、乃面日親啓焉。」
前回の出席者は①大伴鯨連、②采女臣摩禮志、③高向臣宇摩、④中臣連彌氣、⑤難波吉士身刺、⑥許勢臣大麻呂、⑦佐伯連東人、⑧紀臣鹽手、⑨蘇我倉麻呂臣であった。これに⑩河邊臣が加わって、⑤難波吉士身刺、⑦佐伯連東人、⑨蘇我倉麻呂臣(保留とした)が抜けたようである。⑩河邊臣は蘇賀石河宿禰が祖となった臣に川邊臣が居たが、その地を表す名称と思われる。
彼らが斑鳩宮に詣でて蝦夷大臣の思いを伝えたのであるが、田村皇子の日嗣は、推古天皇の遺志及び群卿(臣)が言ったことであって、大臣の意思ではないと平身低頭の態度であると伝えた。さて、これへの山背大兄王の返答は如何?・・・。
爰、群大夫等、受大臣之言、共詣于斑鳩宮。使三國王・櫻井臣以大臣之辭啓於山背大兄。時、大兄王、使傳問群大夫等曰「天皇遺詔奈之何。」對曰、臣等不知其深、唯得大臣語狀、稱、天皇臥病之日、詔田村皇子曰「非輕輙言來之國政。是以、爾田村皇子、愼以言之、不可緩。」次詔大兄王曰「汝肝稚、而勿諠言、必宜從群臣言。」是乃、近侍諸女王及采女等、悉知之、且大王所察。」
何とも手続きが混み入って、伝聞作業である。群大夫は直接山背大兄王に伝えたのではなく、使者となっていた三國王と櫻井臣に伝え、彼らが大兄王に伝える。微妙に伝言が変化しているようである。蝦夷大臣の言葉を通じてなのだが、天皇の遺志は田村皇子が国政を担い、大兄王は騒ぐことなく、群臣の言に従えと言う明確な指示になったように伺える。挙句にその遺志が伝えられた時の証人まで挙げられることになる。
収まらないのが大兄王であろう。更に問答が続く・・・。
於是、大兄王、且令問之曰「是遺詔也、專誰人聆焉。」答曰「臣等、不知其密。」既而更亦令告群大夫等、曰「愛之叔父、勞思、非一介之使遣重臣等而教覺、是大恩也。然、今群卿所噵天皇遺命者、少々違我之所聆。吾、聞天皇臥病而馳上之侍于門下。時、中臣連彌氣、自禁省出之曰、天皇命以喚之。則參進向于閤門。亦、栗隈采女黑女、迎於庭中引入大殿。於是、近習者栗下女王爲首、女孺・鮪女等八人、幷數十人侍於天皇之側。且、田村皇子在焉。時、天皇、沈病不能覩我。乃栗下女王奏曰、所喚山背大兄王參赴。卽天皇起臨之詔曰『朕、以寡薄久勞大業。今曆運將終、以病不可諱。故、汝本爲朕之心腹、愛寵之情不可爲比。其國家大基、是非朕世、自本務之。汝雖肝稚、愼以言。』乃當時侍之近習者、悉知焉。故、我蒙是大恩而一則以懼一則以悲、踊躍歡喜不知所如。仍以爲、社稷宗廟重事也、我眇少以不賢、何敢當焉。當是時思欲語叔父及群卿等、然未有可噵之時、於今非言耳。吾曾將訊叔父之病、向京而居豐浦寺。是日、天皇遣八口采女鮪女、詔之曰『汝叔父大臣常爲汝愁言、百歲之後嗣位非當汝乎。故、愼以自愛矣。』既分明有是事、何疑也。然、我豈餮天下、唯顯聆事耳。則天神地祇共證之。是以、冀正欲知天皇之遺勅。亦大臣所遣群卿者、從來如嚴矛嚴矛、此云伊箇之倍虛取中事而奏請人等也。故、能宜白叔父。」
証人が居るとまで言われて、腹の虫が収まらなかったのであろうか、大兄王の記憶とは真逆の結果を問い質そうとなさるのである。大兄王が直接天皇から詔を賜った時に同席した田村皇子、中臣連彌氣(おそらく?)を含め、近習の采女の名前までが登場することになる。
残念ながら天皇は後継者はお前だとは、決して述べてないのであるが、「愛寵之情」を後継者指名と受け取ったところに事がややこしくなった原因であろう。がしかし受け取った本人が納得できなのだから益々拗れることになる。天皇はなかなか通じない大兄王に蝦夷大臣が反対している故に言動注意しろ、とまで諭している。
どうやら自分に反対する大臣からの伝言で天皇の遺志を聞かされたことが納得できない様子で、勿論当然の成り行きであろうが、かつ群臣の伝聞を聞かされている。日嗣の裏話を長々と記述した書紀の編者は後日に起る大事件の布石としたのであろうか・・・。
<采女の近習> |
「采女」の地は既に登場した「采女臣摩禮志」の場所に違いはなかろう。それに「栗」の文字が現れる。
「栗」が地形を表す例は、古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命を娶って誕生した天帶日子命が祖となった羽栗臣がある。
また白髮大倭根子命(清寧天皇)が坐した伊波禮之甕栗宮がある。前者は栗の雄花が長く延びて広がった様、後者は栗の毬(イガ:雌花)が包まれた様を表すと読み解いた。
「采女」は栗の雌花と雄花が揃った地形を有していることが解る。「采女」の地形を作る嫋やかに曲がって長く延びる山稜の付け根に栗の毬のような地形を見出せる。「栗下」は麓の谷間、「栗隈」は延びる山稜が鋭角に曲がっている「隈」の地を示していると解釈される。現地名は小倉南区徳吉南辺りである。
初めは「鮪女」とあるが次の登場では「八口采女鮪女」と補足されて記載される。「鮪」は何と読み解けるのであろうか?…前出の大伴鯨連の「鯨」=「魚+京」=「大きな魚の地形」として「魚」の文字そのものを当てた解釈とした。それに類似て「鯨」=「魚+有」と分解する。更に「有」=「手+月」と分解される。通常の意味は「肉(月)を手(腕)で抱き包む様」を象り、「内に存在する」と言う状況を表す文字となっている。
地形象形的には古事記に頻出の「月」=「山稜の端の三角州」と読むと、「有」=「曲がって延びる山稜に囲まれた三角州」と読み解ける。すると鮪=曲がって延びる山稜に囲まれ魚が寄り集まるように三角州があるところと紐解ける。八口=谷間の入口であろう。栗の雄花のような山稜が寄り集まっている場所、現地名は小倉南区長尾辺りと思われる。
「女孺」の「孺」=「子+需」と分解する。「需」に関連する文字は古事記には登場しない。魏志倭人伝の侏儒國のある「儒」に含まれていることが解る。「需」=「雨+而」と分解すると「水が流れるように曲がりながら延びている様」と解釈した。「イ」=「人(谷間)」を表す。この地形を「侏儒國」と名付けたのである。
これと全く同様に紐解くと「子」=「生え出たところ」として、孺=曲がりながら延びている山稜から生え出たところと読み解ける。「鮪女」の西隣の山稜の端が延びた端を示していることが解る。現地名は同上である。
実に「采女」の詳細の地形が語られていることになる。書紀に人物の出自の場所をあからさまにする意志は皆無であろう。がしかし原資料に記載された文字列をそのまま用いれば、自ずと地形象形の表記になってしまった、のであろう。
豐浦寺
「吾曾將訊叔父之病、向京而居豐浦寺」で記述されている。書紀に「豐浦」の文字は幾度か出現する。例えば豐浦津、穴門豐浦宮、豐浦皇子、小墾田豐浦などである。一方、古事記では帶中津日子命(仲哀天皇)紀に穴門之豐浦宮が唯一である。通説では「穴門=穴戸」として、関門海峡近隣、現地名の下関市長府辺りが比定されている。これに対して殆ど異論がないのが不思議なくらいである。
書紀に記載の各地の「豐浦」は後日に紐解くとして、「穴門之豐浦宮」に注目する。何故ならその地は「向京」に関わるところであり、山背大兄王が京に向かう途中、もしくは京の近隣にあった寺と推測されるからである。既に求めたように「穴門之豐浦宮」は、仲哀峠、仲哀隧道(現在は新仲哀トンネルが開通)の麓、現地名は田川郡香春町鏡山にあったと推定した。
「豐浦」=「豐國の裏側」を表すと解釈される。即ち仲哀峠を越えた先が豐國であった。「豐」=「多くの段差がある高台の地」と紐解いた。その地形を有する場所に名付けられた地名であり、ある意味混乱が生じる原因ともなっているようである。特徴的な地形を表すのに簡明で適切な文字が乏しかったのかもしれないが、場所の特定は付帯する文字によって達成されることになる。
「穴門」=「山麓の谷間の奥にある山の入口」と紐解いた。「豐浦」、「穴門」の文字で仲哀天皇の宮が特定されたのである。現在に仲哀峠、仲哀隧道は結果として残存地名と見做すことになる。まかり間違っても奈良大和に坐す天皇が徘徊した故に名付けられたのではなかろう。但し残念ながらこれだけの情報では一に特定することは叶わず、谷が行き着いた場所辺りとせざるを得ないようである。
<豐浦寺> |
「豐浦寺」も同じくその地域にあったと推定される。現在天樹院大日寺があるが、本寺に繋がる由緒は見出せなかった。勿論、該当せずとも徹底的に抹消されたのであろう。詳細の探索は後日に譲ることにする。
香春町の呉の地は、大長谷若建命(雄略天皇)紀に呉人を迎入れた場所(呉原)と推定した。彼らが開拓し、この深く大きな谷に水田を拡げたところと推察された。今に残る地名であろう。呉人達は、中国全土に展開しつつあった仏教…経典など持ち合わせていなくとも…を信じ、その為の寺院を造ったのではなかろうか。人々が日々を送るために必要であった心の支え、そして物事を考える知力が育まれた土地と思われる。この地より伝播して行ったと、久遠の昔日を思い浮かべる気分である。
続きは次回に・・・それにしても長くなるようである。