2020年3月4日水曜日

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅲ) 〔393〕

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅲ)


さて、前記に続いて読み下してみよう。書紀原文の引用箇所は青字で示す。更に事は拗れて、登場人物が増える、と言った感じである。現代語訳はこちらを参照。

先是、大臣獨問境部摩理勢臣曰「今天皇崩無嗣、誰爲天皇。」對曰「舉山背大兄爲天皇。」是時、山背大兄、居於斑鳩宮漏聆是議、卽遣三國王・櫻井臣和慈古二人、密謂大臣曰「傳聞之、叔父以田村皇子欲爲天皇。我聞此言、立思矣居思矣未得其理。願分明欲知叔父之意。」

新たに記された人物名などを紐解いてみよう。⑩境部摩理勢、⑪三國王、⑫櫻井臣和慈古の三名である。尚、前記に続く通し番号を付加した。山背大兄王の息の掛かった群臣であろう。
 
⑩境部摩理勢臣

古事記での「境」の地として表記されるのは、古くは大倭日子鉏友命(懿徳天皇)が坐した輕之境岡宮と後の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に誕生した境之黑日子王が居る。
 
<境部摩理勢臣>
「輕」の地形の近隣であり、現地名の直方市上境・下境として残存するところであり、遠賀川、彦山川、福地川が合流する地に坐していたと推定した。


てっきりこの地が出自かと錯覚しそうになるのだが、この人物は「蘇我稲目」の子と知られている。兄が「馬子」である。と言うことは、「馬子」の子が「蝦夷」であり、後に叔父と甥の確執が生じることになる(こちら参照)。

では、蘇我の地に「境(部)」の地形があるのか?…と言うことになる。「境」=「坂合」と読み解いた。即ち坂合=腕のような山稜が出合うところと解釈される。すると、その地形を「馬子」の北側の谷間に見出すことができる。部=近隣を表すとする。

「摩理勢臣」は「摩」=「山稜の端が細かく岐れている様」、「理」=「区分けされている様」、「勢」=「丸く小高くなっている様」とすれば、摩理勢=山稜の端が細かく岐れて区分けされている地が丸く小高くなっているところと読み解ける。多分、この台地の上が出自だったのであろう。

後に登場する「蘇我入鹿」、「蝦夷」の子であるが、「摩理勢」の南側の谷間と推定される。天皇家を脅かすほどに財力を蓄えた一族の物語が暫く続くようである。
 
⑪三國王

「三國」は上記の「意富本杼王(大郎子・亦名意富富杼王とも記される)」が祖となった地名である。古事記で記述される出雲國・筑紫國・紀國の三つの国が寄り集まるところに坐していたのが「三國君」と解釈した。現地名で言えば、北九州市門司区大里・小倉北区富野・小倉南区吉田の行政区分が集中する足立山~戸ノ上山山稜に位置するところである。
 
<三國王>
古事記中ではこの記述のみであるが、書紀では宣化天皇紀に「筑紫肥豐三國屯倉」と記載されている。

全国の屯倉が述べられている段なのであるが、通常の解釈は「筑紫と肥と豐の三つの国の屯倉」であろう。とてもこれら三国が寄り集まったところの屯倉とは読めないのである。

しかしながら上記の「出雲國・筑紫國・紀國」(紀國の山麓は豐國と繋がり「豐」の地形)が集まった「三國」を示している。筑紫・肥・豐が寄り集まったところ、それを三國と言う地名としたことが解る。

書紀はそれらを実しやかに書き換えたように思われる。詳細は後に読み下してみようかと思うが、残像のように真実の姿が浮かび上がって来るように感じられる。意外と書紀の読み解きは面白いかもしれない。

少々穿った見方をすれば書紀編者が「散在」と敢えて付記したのは、散り散りにあるのではなく、三国寄り集まったところの屯倉を暗示しているのかもしれない。

ともあれこの地は御諸山を中心とする山稜に沿っている。古事記が伝える古代に大物主大神等が鎮座した重要な祭祀の地であった。美和山(現足立山、かつては竹和山とも)は古代における最も霊験あらたかな山と位置付けられ、崇神天皇紀、垂仁天皇紀に挿入された説話がそれを物語っていると思われる。
 
<櫻井臣和慈古>

⑫櫻井臣和慈古

古事記の蘇賀石河宿禰が祖となった櫻井臣であろう。蘇賀の北端、現在の山口ダムの東側、高城山の南西麓辺りと推定した。字に谷が集まる地形を表している。

「和慈古」は如何なる地形を表しているのであろうか?…頻出の「和」=「嫋やかに曲がる」、「古」=「丸く小高いところ」であるが、「慈」を何と読むか?・・・。

「慈」=「茲+心」と分解される。更に「茲」=「艹(草)+幺(糸)+幺(糸)」と分解される。即ち茲=細かい山稜が次々と延び出ている様を示していると解釈される。

「心」=「中央に」と読むと、和慈古=嫋やかに曲がる細かい山稜が延び出て先が丸く小高くなったところと読み解ける。些か地形が微妙な感じになるので拡大した図を示した。櫻井の中央部にその地形を見出すことができる。

「井」(ダム)の近隣ではなく山側の地に居た人物であろう。山背大兄王の仲間は彼も含めて、山奥に居を構えていたようである。⑩境部摩理勢臣は河岸なのであるが、上記したように蘇我一族の長老的役割を果たしたのだろう。「境」の地は意富富杼王の妹、忍坂之大中津比賣命で繋がる。意富富杼王の末裔も巻き込んだ、と推測される。
 
斑鳩宮

厩戸皇子が坐した宮と知られている。法隆寺のある奈良県生駒郡斑鳩町にその名を留める・・・ではなかろう。斑鳩(イカルガ)と読むのであるが、これほど確からしい様相を持ちながら、文字そのものは「まだらばと」を示す。イカル(ガ)はスズメ目アトリ科の鳥である。少し調べれば、怪しげな雰囲気が充満している有様であることが解る。がしかし、これが正道なのである。勿論幾人かの人々がその怪しさを取り上げてはいるが、これとて明確ではないようである。
 
<斑鳩(鵤)宮>
そんな中で近年になって法隆寺修復の作業に伴って「鵤宮」の文字が記された土器が発見されたとのことである。

と言うことで、斑鳩宮=鵤宮とも記述された事実があった、との認識に至っている。

がしかし、これは本末転倒であろう。本来が「鵤宮」であって、後におそらく恣意的に置換えられたと見なすべきであろう。

何故か?・・・「斑鳩」では不明だが「鵤」だと、見事に地形象形表記なのである。

図に上宮之厩戸豐聰耳命の出自お場所を示した。現地名は田川市夏吉である。意祁命(仁賢天皇)が坐した石上廣高宮の崖の麓にある場所と読み解いた。穴穗命(安康天皇)の石上穴穂宮の近隣でもある。「鵤」=「角+鳥」と分解される。鵤=山麓の角の山腹に鳥の形をした山稜があるところと紐解ける。

古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の吉備高嶋宮大雀命(仁徳天皇)など、山腹に「鳥(隹)」が羽を広げて休む姿を象る記述が多く見られる。また隋書俀國伝の記された邪靡堆は、古事記の飛鳥を示すと解釈した。中国史書と国書の記述の繋がりが明らかになった例の一つである。

全く類似の用法によって宮の場所を求めることが可能なのである。「鵤」の地形象形解釈は極めて容易であろう。即ち、これを回避するために「斑鳩」の文字を当てたと推測される。謎めいた「斑鳩」の所以を求めてみると・・・、

随分と以前になるが箕面史学会の資料に『大和・いかるが考』として発表されている。丁寧に纏められてあるので一読されたく思うが、「イカ・ル」と解釈して激しい流れの水辺を表すと推論されている。上図に示した通り、この地は「石上」=「磯の上」砕け散る水の飛沫を感じさせるところであろう。あながち、そんなことも重ねた表記だったのかもしれない。いずれにせよ「斑鳩」の出所は不詳のようである。

またtenki.jpのサプリ記事に『斑鳩はなぜ「いかるが」なのか?・・・』があり、興味深い論旨であるが、元々「イカルガ」(例えば、邇藝速日命の哮ヶ峯:イカルガミネ、大阪府交野市)と言う地名であって、当初は「鵤」、それを「斑鳩」に置換えた(関係する秦氏のトーテム:鳩)と記されてる。古代の謎解きは、空飛ぶロマンかな?…これも面白いので、一読されては如何?…。

・・・のような記述がなされている。

さて、物語の流れは、前記で蘇我蝦夷が群臣を集めて論議させた様子を語ったのであるが、それに先立って境部摩理勢臣(蝦夷の叔父)に意見を求めている。結果は、にべもなく山背大兄王が継ぐべき、と言われたとのことである。そんな裏事情も含めて噂を聞きつけた山背大兄王は二人(三國王・櫻井臣和慈古)に密かに事の経緯を蝦夷大臣に尋ねさせた、と記されている。

自他ともに認める次期天皇であった筈が、何やら不穏な動きに些か動揺した感じであろう。果たしてこの行動が吉なのか凶なのか?…である。