坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅱ)
さて、前記に続いて読み下してみよう。書紀原文の引用箇所は青字で示す。
九月、葬禮畢之、嗣位未定。當是時、蘇我蝦夷臣、爲大臣、獨欲定嗣位、顧畏群臣不從、則與阿倍麻呂臣議而聚群臣饗於大臣家。食訖將散、大臣令阿倍臣語群臣曰「今天皇既崩无嗣。若急不計、畏有亂乎。今以詎王爲嗣。天皇臥病之日、詔田村皇子曰、天下大任、本非輙言、爾田村皇子、愼以察之、不可緩。次詔山背大兄王曰、汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。則是天皇遺言焉。今誰爲天皇。」
推古天皇の葬礼が終わっても日嗣は定まっていなかったようで、大臣の蘇我蝦夷(出自の場所は前記参照)が群臣を集めて論議する運びとなったと記される。独断専行は行わなかったようである。古事記には「宗賀稲目宿禰大臣」とあるから祖父から引き継いだ職位であろう。父親は蘇我馬子宿禰(出自の場所は前記参照)である。
<山背大兄王> |
一人は「田村皇子」、日子人太子と伊勢の田村王・亦名糠代比賣命との間に誕生した御子であり、もう一人は山背大兄王である。
「山背大兄王」については古事記も書紀もその出自を語らない。厩戸皇子(聖徳太子と言われる)の伝記の一つ『上宮聖徳法王帝説』に厩戸皇子と蘇我馬子宿禰の子・刀自古郎女との間に誕生した御子と伝えられている。
厩戸皇子(古事記では上宮之厩戸豐聰耳命)は、橘豐日命(用明天皇)と腹違いの妹の間人穴太部王との間の御子であり、「山背大兄王」は生粋の蘇我一族である。上記の『帝説』を信じて、廐戸皇子の近隣で出自場所を探索すると、図に示したところが見出せる。
「山背大兄王」については古事記も書紀もその出自を語らない。厩戸皇子(聖徳太子と言われる)の伝記の一つ『上宮聖徳法王帝説』に厩戸皇子と蘇我馬子宿禰の子・刀自古郎女との間に誕生した御子と伝えられている。
厩戸皇子(古事記では上宮之厩戸豐聰耳命)は、橘豐日命(用明天皇)と腹違いの妹の間人穴太部王との間の御子であり、「山背大兄王」は生粋の蘇我一族である。上記の『帝説』を信じて、廐戸皇子の近隣で出自場所を探索すると、図に示したところが見出せる。
山背=山が背になっている様、大=山稜の頂が平らな様、兄=谷間の奥が広がっている([兄]の文字形)様と解釈する。「兄」を用いた例としては、古事記記載の景行天皇の御子、吉備之兄日子王、日子人之大兄王などに用いられた地形象形表記と思われる。
書紀には登場されないが、「刀自古郎女」の出自場所を求めてみよう。蘇我馬子の娘であるから、その近隣と思われる。
刀=[刀]の文字形、自=鼻=端、息長の息に類似する。古=丸く小高い地形、頭蓋骨を象った文字である。纏めると刀自古=[刀]の形をした地の端で山稜が丸く小高くなっているところと読み解ける。
おそらく小高い地の西麓辺りに住まっていたのではなかろうか。息子が謀反人扱いになった故に、表舞台から抹消された感じであろう。致し方ないところではあるが・・・。
<蘇我刀自古郎女> |
刀=[刀]の文字形、自=鼻=端、息長の息に類似する。古=丸く小高い地形、頭蓋骨を象った文字である。纏めると刀自古=[刀]の形をした地の端で山稜が丸く小高くなっているところと読み解ける。
おそらく小高い地の西麓辺りに住まっていたのではなかろうか。息子が謀反人扱いになった故に、表舞台から抹消された感じであろう。致し方ないところではあるが・・・。
「刀自」を調べると…「戸主(とぬし)」の意で、「刀自」はあて字。家の内の仕事をつかさどる者をいう)。①家事をつかさどる婦人。主婦。いえとうじ。
さて、いよいよ問答が始まったようである・・・。
時群臣默之、無答、亦問之、非答。强且問之。於是、大伴鯨連進曰「既從天皇遺命耳。更不可待群言。」阿倍臣則問曰「何謂也、開其意。」對曰「天皇曷思歟、詔田村皇子曰天下大任也不可緩。因此而言皇位既定、誰人異言。」時、采女臣摩禮志・高向臣宇摩・中臣連彌氣・難波吉士身刺、四臣曰「隨大伴連言、更無異。」許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣鹽手、三人進曰「山背大兄王、是宜爲天皇。」唯、蘇我倉麻呂臣更名雄當臣獨曰「臣也當時不得便言、更思之後啓。」爰大臣知群臣不和而不能成事、退之。
大臣だけではなく当時の高官達(群臣)がズラリと勢揃いである。ともあれ彼らの出自の場所を求めておこう。便宜上番号付けをさせて頂いた。①大伴鯨連、②采女臣摩禮志、③高向臣宇摩、④中臣連彌氣、⑤難波吉士身刺、⑥許勢臣大麻呂、⑦佐伯連東人、⑧紀臣鹽手、⑨蘇我倉麻呂臣(別名雄當臣)の計九名である。
「大伴」の名前は、古事記の記述に天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣を娶って誕生した多くの御子達の一人に見出せる。橘豐日命(後の用明天皇)、豐御食炊屋比賣命(後の推古天皇)等の妹に大伴王が居た。大伴=平らな頂の山稜を二つに分ける深い谷間に坐していたと推定された。これに「鯨」と「連」が付加されている。
「鯨」をそのままに解釈しては、おそらく解には達せないであろう。「鯨」=「魚+京」と分解される。京(大きい)な魚を鯨とした。鯨は魚ではない!…海で泳いでる姿を魚と見做したのである・・・とこんなことをグダグダと述べていても解には届かない。図を参照すると「魚」の「灬」に部分に相当する場所が見出せる。
山稜の端が細かく分かれている様を「魚」と見做したと思われる。古事記の清寧天皇紀に菟田首等之女・名大魚という比賣が登場する。
この比賣の居場所の推定に「灬」の地形を当てた。袁祁命(顕宗天皇)・意祁命(仁賢天皇)が長い逃亡の末に見つけ出されて皇位に就く劇的な物語である。
「大伴鯨連は、その「灬」の端が延びているところ(連)に坐していたと思われる。
「佐伯」は古事記には登場しない。調べると「大伴」とは同祖と言われているようである。ならば「大伴」の近隣で「佐伯」を求めてみよう。
「伯」=「人+白」と分解される。「白」は古事記頻出であって主として二通りの解釈が有効と思われる。白=丸く小高いところ、くっ付いている様である。
「大伴」の北側の地形を見ると、伯=谷間(人)がくっ付くようになったところと紐解ける。「佐」は何と解釈するのであろうか?…古事記では「傍で支えるように見えるところ」の解釈とした。それでも一応「伯」の近辺を示すと解釈されるが、曖昧さは拭えない。「佐」=「人+左」と分解して、「左」=「左腕のような山稜」を表すとしていみると、佐=谷間に左腕のような山稜が延びている様と読み解ける。
その先は「山背大兄王」の居場所となる。「兄」=「谷間の奥にある広がる大地」であり、谷間で繋がる地形を示している。
古事記は素っ気ない記述であるが、複数の登場人物によって一層彼らの名前と居場所の関係が確かなものとなったと思われる。現地名は京都郡苅田町山口辺りである。
「采女」は古事記の神武天皇紀に登場する邇藝速日命の子、宇摩志麻遲命が祖となった地の一つに婇臣がある。
倭建命及び雄略天皇紀の説話にも登場する地名である。全て同一場所として解釈できる。更に「摩禮志」が付加された名前となっている。古事記に頻出する文字列である。「摩」=「近接する」、「禮」=「山麓の台地(高台)」、「志」=「之:蛇行する川」と読み解ける。
纏めると、摩禮志=近接する山麓の台地(の傍ら)で川が蛇行しているところと読み解ける。采女臣の中で特徴的な地形を表していることが解る。現地名は北九州市小倉南区長行西辺りである。
古事記記述に蘇賀石河宿禰が祖となった高向臣があった。その場所に違える事無く求められるであろう。③高向臣宇摩は、それに「宇摩」と付加される。宇摩=山麓が近い(迫る)と読める。山裾から急激に斜面が立ち上がる地形に居たと推定される。現地名は京都郡苅田町法正寺である。
その少し北側が⑨蘇我倉麻呂臣の出自の場所と思われる。「倉」=「谷」、「麻呂」=「擦り潰された台地」として、現地名京都郡苅田町谷の出口辺りを示していると思われる。
その昔に蘇賀石河宿禰が坐していた場所である。「臣」と記されることから「宿禰」ではなく小高いところの脇の谷間を示していると思われる。
別名があって「雄當臣」と記述されている。「雄」=「厷+隹」と分解され、「厷」=「ムの形に広がる様」を象った文字と言われる。
すると「雄」=「翼を広げた鳥」の形を表していると解説される。雄略天皇に含まれるが、古事記本文には登場しない文字である。がしかし、隋書俀國伝に記された用明天皇、阿毎多利思北孤阿輩雞彌に含まれる「雞」がある。
「當」=「尚+田」=「平らに広がる様」と読む(古事記の「當麻」など)。雄當=鳥が翼を広げたような平らなところと紐解ける。蘇賀石河宿禰が切り開いた由緒のある場所は、橘豐日、多利思北孤、阿輩雞彌、倉麻呂、雄當と幾つもの表記があったことが解る。一時は歴史の表舞台から退いたような地だが天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の御子、宗賀之倉王で蘇る。それも重ねた表記なのかもしれない
「中臣」の文字は邇邇藝命の降臨に随行した天兒屋命が祖となった地と知られる。同じく随行した布刀玉命が祖なった忌部氏と共に伊勢神宮の祭祀を司る役割を担ったと伝えられている。
そして中臣(藤原)氏の台頭によって忌部氏が退けられるようになって行くのである。いずれにしても歴史の大変曲点に関わる一族である。
既に「中臣」の示すところは読み解いたが、再掲すると、「中」=「真ん中を突き抜ける様」、「臣」=「山麓の小ぶりな谷間」と読むと、中臣=真ん中を突き抜けられたような山麓の谷間と紐解ける。
「連」はその谷間に長く延びる台地を示している。「彌氣」が付加されているが、その台地の形状を表したものであろう。彌氣=ゆらゆらと広がったところと読み解ける。
古事記の中で「中臣」はたった一度、上記に関わるところだけである。憚りがあったのかどうか知る由もないが、藤原氏の出自の場所、どうやら確定のようである。余談だが、中臣鎌子(足)の出自の場所が求められる。上図の谷奥にある鎌のような山稜から生え出た(子、足)の麓と推定される。現地名は北九州市小倉南区高野辺りである。
「難波吉士」に関連するところは、古事記に登場する帶中津日子命(仲哀天皇)紀の難波吉師部之祖・伊佐比宿禰と思われる。吉師=凹凸のある地形(師)で一杯に満ちた(吉)ところ、山稜の末端部の丘陵地帯を表したと解釈した。勿論「難波」は現在の豊前平野(行橋市)の一部であろう。当時の海岸線の様子は推測の域を脱せないが、さりとてその状態を思い浮かべずして地形を語ることは避けられない、と思われる。
謀反を起こした忍熊王達の最後を語る場面、それに乗じて貴重な情報を忍ばせる、いつものこととは言え真に巧妙な記述である。いや、そのお陰で古代の海面をかなりの精度で思い浮かべることが可能になったのである。
さて、ご登場の人物名、先ずは「身刺」から読み解いてみよう。「刺」=「棘の形」を表すと読み解いた。大国主命の出自に関る場所、である。
須佐之男命の後裔、天之冬衣神が刺國大神之女・名刺國若比賣を娶って生まれた大国主神(命)(亦名謂大穴牟遲神・亦名謂葦原色許男神・亦名謂八千矛神・亦名謂宇都志國玉神)と長々と記されている。
「刺國」とは?…通説は手も足も出なくて全くの不詳、である。大国主命は神話の世界、で終わっている。
刺國=佐度嶋=小呂島と読み解いた。島が「棘」のような形状をしているところから名付けられたと推定した。そして幾重にも重ねられた命名は彼が果たせなかった役割を物語るものであることを告げているのである。
「身」=「内に孕む様」を表すと解説される。身体の腹部を象った文字である。地形は横から見れば「弓状に曲がる様」、正面からみれば「ふっくらとした様」となろう。ここでは前者の「弓状に曲がる様」を採用する。同じ解釈となるのが、後に登場する蘇我臣(日向)身刺である。
吉士=蓋をするような地(吉)に突き出た山稜が延びている(士)ところ、身刺=弓状に曲がった(身)棘(刺)のようなところと紐解ける。古事記の大国主命(神)の出自の場所が刺國であった。正に「棘」のような島である。「難波」海岸より内に入った、多くの蛇行する川がある場所と思われる。現地名行橋市南泉の大山神社がある「棘」のような小山辺りと思われる。
建内宿禰の子許勢小柄宿禰に関わる場所であろう。書紀では「許勢」姓を持つ人物が登場するが、竹内宿禰との繋がりは不詳である。そもそも古事記の建内宿禰と書紀の武内宿禰とは同一人物らしき様相ではあるが、年代も含めて大きく異なる。古代歴史上最も重要な人物でありながら、その実態があやふやなのであり、恣意的な改竄が行われたと思われる。
おそらく「許勢」の場所があからさまになると「淡海」そして「出雲」の位置関係が見えて来る。
それを回避するために行われた改竄・無視だったのではなかろうか。詳細は後日に回そう。
ともかくも「許勢臣大麻呂」の居場所を求めてみよう。当該の宿禰が祖となった「許勢臣」の場所に含まれていることには間違いなかろう。
頻出の「麻呂」は同様に解釈すると、合致しそうなところが見出せる。しかも「大」=「平らな頂の山稜」の麓である(図中橙色破線)。しかしながら大幅な地形変更が行われているようで、当時の姿を想像するしか手はないようである。現地名は直方市上頓野辺りである。
建内宿禰の末裔が登場するなら、やはり「木角宿禰」に関わる人物と推測される。彼が祖となった「木臣」、その一族が浮かんで来る。既に求めた地は現在の豊前市大村辺りにある、正に「木」の形をした山稜が延びるところである。
ここで解釈が必要となって来るのが「鹽」の文字である。現在は「塩」の略字が使われているが、「シオ」を表す字源解釈を調べてみることから始める。
「鹽」=「監+歯」と分解できる。「監」は「鑑」の原字と言われる文字である。鏡のような水面、と言われる様に「鹽」が塩田で作られる状況から生まれた文字と解説されている。
鑑のような水面から歯(牙)のような塩の結晶が現れる。実に見事な字源解釈であり、「塩」そのものには決まった形は無く(結晶形は別として)、水の中から生まれて来るものと観察している。自然観察力、現在では喪失しかねない有様であろう。
それを地形象形として「鏡のような平面」を表すのに使ったと思われる。鹽手=頂きが真っ平らな手の形の山稜と読み解ける。現在は広大な公園となっており些か当時とは異なるかもしれないが、地形の基本は、実に平らな頂の山稜である。
古事記の海佐知・山佐知の段に鹽椎神が登場する。「海水面が背骨の形」を示すところの神と紐解いた。
古事記の文字用法に通じる、と言うか古代の文字の使い方として当たり前のことであった、と推測される。
群臣全員を纏めた図を示す。当然のことながら蘇我一族が多数を占めている。またその他のところも建内宿禰の後裔達が集まっていることが解る。
異質なのが「采女」と「中臣」であろう。「中臣」は天兒屋命の後裔であり、伊勢神宮を祭祀する役割であったと伝えられ、祭事に関わっていても不思議ではない。
「采女」は邇藝速日命の後裔であるが、ともかくも古くから開けた地であったのではなかろうか。
「伊勢」は特別の地であり、渡来した人々が一早く棲みついた場所だったと推測される。そんな彼らが日嗣の議事に関わる。さてどんな内容であろうか、少し話の流れを覗いてみよう。
次の天皇は田村皇子か山背大兄王か?…その問いに群臣達は容易に答えなかったようで、無理矢理に言わせたら、下記のような具合に意見が割れたとのことである。
田村皇子派:①大伴鯨連、②采女臣摩禮志、③高向臣宇摩、④中臣連彌氣、⑤難波吉士身刺
山背大兄王派:⑥許勢臣大麻呂、⑦佐伯連東人、⑧紀臣鹽手
保留:⑨蘇我倉麻呂臣
そもそも推古天皇の遺言の文句が曖昧で、解釈によって取り方が異なるように伺えるが、文字を辿れば田村皇子派の進言通りと思われる。だがその通りならば、山背大兄王への申し伝えは不要の筈なので、何か裏があると思いたく状況であろう。勿論その辺りは群臣達も心得ていて簡単には答えなかったのであろう。
⑥許勢臣大麻呂及び⑧紀臣鹽手は、距離的にも中央から遠く、素直に蘇我氏へ靡いた返答をしたのではなかろうか。⑦佐伯連東人が加わったのは対①大伴鯨連への反発、同郷(近隣・同祖)間の確執があったのかもしれない。
田村皇子派の①大伴鯨連は、蘇我氏への対抗であろう。同じ蘇賀一族でありながら蘇我一族への反発が推測される。いわば蘇賀は東西に分かれている地域関係を伺わせる場面であろう。その仲間に西側の③高向臣宇摩が含まれる。②采女臣摩禮志、④中臣連彌氣及び⑤難波吉士身刺は、中央(蘇我)から少し離れた立ち位置だったことに拠るのであろう。
保留の⑨蘇我倉麻呂臣は、蘇賀の西側の中心地(遠祖:蘇賀石河宿禰)に居た人物と推し量れば、正に軽々しく返答しかねたのではなかろうか。同郷間で蘇我氏に睨まれたら生命も危い?…かもしれない。
いずれにしても田村皇子が次期天皇となるのが推古天皇の思いのようなのだが、山背大兄王とした場合に「汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違」中の「必從群言」に引っ掛かっていたのであろう。一応会議は未決で終わったようだが、上記の派閥勢力は山背大兄王を日嗣とするには重い結果であったと伝えている。
更に書紀は事の経緯を述べているが、次回に続けようかと思う。古事記の地形象形による人名、やはりしっかりと踏襲されていると思われる。暫くは登場人物の居場所の読み解きを継続するつもりである。
※書紀(720)允恭二年二月「圧乞(いで)、戸母(トジ)、其の蘭(あららき)一茎(ひともと)といふ〈圧乞、此をば異提(いで)と云ふ。戸母、此をば覩自(トジ)と云ふ〉」②女性を尊敬または親愛の気持をこめて呼ぶ称。③年老いた女。老婦人。…などと記載されている。
時群臣默之、無答、亦問之、非答。强且問之。於是、大伴鯨連進曰「既從天皇遺命耳。更不可待群言。」阿倍臣則問曰「何謂也、開其意。」對曰「天皇曷思歟、詔田村皇子曰天下大任也不可緩。因此而言皇位既定、誰人異言。」時、采女臣摩禮志・高向臣宇摩・中臣連彌氣・難波吉士身刺、四臣曰「隨大伴連言、更無異。」許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣鹽手、三人進曰「山背大兄王、是宜爲天皇。」唯、蘇我倉麻呂臣更名雄當臣獨曰「臣也當時不得便言、更思之後啓。」爰大臣知群臣不和而不能成事、退之。
大臣だけではなく当時の高官達(群臣)がズラリと勢揃いである。ともあれ彼らの出自の場所を求めておこう。便宜上番号付けをさせて頂いた。①大伴鯨連、②采女臣摩禮志、③高向臣宇摩、④中臣連彌氣、⑤難波吉士身刺、⑥許勢臣大麻呂、⑦佐伯連東人、⑧紀臣鹽手、⑨蘇我倉麻呂臣(別名雄當臣)の計九名である。
①大伴鯨連・⑦佐伯連東人
「大伴」の名前は、古事記の記述に天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣を娶って誕生した多くの御子達の一人に見出せる。橘豐日命(後の用明天皇)、豐御食炊屋比賣命(後の推古天皇)等の妹に大伴王が居た。大伴=平らな頂の山稜を二つに分ける深い谷間に坐していたと推定された。これに「鯨」と「連」が付加されている。
「鯨」をそのままに解釈しては、おそらく解には達せないであろう。「鯨」=「魚+京」と分解される。京(大きい)な魚を鯨とした。鯨は魚ではない!…海で泳いでる姿を魚と見做したのである・・・とこんなことをグダグダと述べていても解には届かない。図を参照すると「魚」の「灬」に部分に相当する場所が見出せる。
<①大伴鯨連・⑦佐伯連東人> |
「大伴鯨連は、その「灬」の端が延びているところ(連)に坐していたと思われる。
「佐伯」は古事記には登場しない。調べると「大伴」とは同祖と言われているようである。ならば「大伴」の近隣で「佐伯」を求めてみよう。
「伯」=「人+白」と分解される。「白」は古事記頻出であって主として二通りの解釈が有効と思われる。白=丸く小高いところ、くっ付いている様である。
「大伴」の北側の地形を見ると、伯=谷間(人)がくっ付くようになったところと紐解ける。「佐」は何と解釈するのであろうか?…古事記では「傍で支えるように見えるところ」の解釈とした。それでも一応「伯」の近辺を示すと解釈されるが、曖昧さは拭えない。「佐」=「人+左」と分解して、「左」=「左腕のような山稜」を表すとしていみると、佐=谷間に左腕のような山稜が延びている様と読み解ける。
そんな具体的な地形を表すのか?…と地図を眺めると、白破線で囲った場所が右手と左手を合わせるような地形と見做せることが解る。その左手の傍で谷間がくっ付いている地形を佐伯で表現しているのである。更に名前らしき「東人」が付加されている。「東」=「突き通す、突き抜ける様」を象った文字と知られる。東人=狭い谷間(人)を突き抜けるところと読み解ける。
<采女臣摩禮志> |
古事記は素っ気ない記述であるが、複数の登場人物によって一層彼らの名前と居場所の関係が確かなものとなったと思われる。現地名は京都郡苅田町山口辺りである。
②采女臣摩禮志
「采女」は古事記の神武天皇紀に登場する邇藝速日命の子、宇摩志麻遲命が祖となった地の一つに婇臣がある。
倭建命及び雄略天皇紀の説話にも登場する地名である。全て同一場所として解釈できる。更に「摩禮志」が付加された名前となっている。古事記に頻出する文字列である。「摩」=「近接する」、「禮」=「山麓の台地(高台)」、「志」=「之:蛇行する川」と読み解ける。
纏めると、摩禮志=近接する山麓の台地(の傍ら)で川が蛇行しているところと読み解ける。采女臣の中で特徴的な地形を表していることが解る。現地名は北九州市小倉南区長行西辺りである。
③高向臣宇摩・⑨蘇我倉麻呂臣
古事記記述に蘇賀石河宿禰が祖となった高向臣があった。その場所に違える事無く求められるであろう。③高向臣宇摩は、それに「宇摩」と付加される。宇摩=山麓が近い(迫る)と読める。山裾から急激に斜面が立ち上がる地形に居たと推定される。現地名は京都郡苅田町法正寺である。
<高向臣宇摩・蘇我倉麻呂臣> |
その昔に蘇賀石河宿禰が坐していた場所である。「臣」と記されることから「宿禰」ではなく小高いところの脇の谷間を示していると思われる。
別名があって「雄當臣」と記述されている。「雄」=「厷+隹」と分解され、「厷」=「ムの形に広がる様」を象った文字と言われる。
すると「雄」=「翼を広げた鳥」の形を表していると解説される。雄略天皇に含まれるが、古事記本文には登場しない文字である。がしかし、隋書俀國伝に記された用明天皇、阿毎多利思北孤阿輩雞彌に含まれる「雞」がある。
「當」=「尚+田」=「平らに広がる様」と読む(古事記の「當麻」など)。雄當=鳥が翼を広げたような平らなところと紐解ける。蘇賀石河宿禰が切り開いた由緒のある場所は、橘豐日、多利思北孤、阿輩雞彌、倉麻呂、雄當と幾つもの表記があったことが解る。一時は歴史の表舞台から退いたような地だが天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の御子、宗賀之倉王で蘇る。それも重ねた表記なのかもしれない
④中臣連彌氣
<中臣連彌氣・中臣鎌子> |
そして中臣(藤原)氏の台頭によって忌部氏が退けられるようになって行くのである。いずれにしても歴史の大変曲点に関わる一族である。
既に「中臣」の示すところは読み解いたが、再掲すると、「中」=「真ん中を突き抜ける様」、「臣」=「山麓の小ぶりな谷間」と読むと、中臣=真ん中を突き抜けられたような山麓の谷間と紐解ける。
「連」はその谷間に長く延びる台地を示している。「彌氣」が付加されているが、その台地の形状を表したものであろう。彌氣=ゆらゆらと広がったところと読み解ける。
古事記の中で「中臣」はたった一度、上記に関わるところだけである。憚りがあったのかどうか知る由もないが、藤原氏の出自の場所、どうやら確定のようである。余談だが、中臣鎌子(足)の出自の場所が求められる。上図の谷奥にある鎌のような山稜から生え出た(子、足)の麓と推定される。現地名は北九州市小倉南区高野辺りである。
⑤難波吉士身刺
「難波吉士」に関連するところは、古事記に登場する帶中津日子命(仲哀天皇)紀の難波吉師部之祖・伊佐比宿禰と思われる。吉師=凹凸のある地形(師)で一杯に満ちた(吉)ところ、山稜の末端部の丘陵地帯を表したと解釈した。勿論「難波」は現在の豊前平野(行橋市)の一部であろう。当時の海岸線の様子は推測の域を脱せないが、さりとてその状態を思い浮かべずして地形を語ることは避けられない、と思われる。
謀反を起こした忍熊王達の最後を語る場面、それに乗じて貴重な情報を忍ばせる、いつものこととは言え真に巧妙な記述である。いや、そのお陰で古代の海面をかなりの精度で思い浮かべることが可能になったのである。
記紀を通じて、意味よりも文字要素…「吉」では「蓋」と「囗」…が表す形を地形象形に用いていると読み解いて来た。
それに従うならば、吉=谷間に蓋をするような様の解釈以外にあり得ず、「吉師」及び「吉士」の解釈も自ずと、”谷間に蓋をするような師=段差のある地が寄り集まったところ、及び士=山稜が真っ直ぐに突き出ているところ”と解釈される。
当時の海岸線と推測される現在の標高約10mの地形図を示した。この図は、「近淡海」の謂れを読み解く際に用いたものであり、全体の入江の形が「近」の文字形になっているを示している。
これまでは、古事記で登場する「墨江・長江・大江」(近淡海=近江)に注目して来たが、もう一つ、特徴的な地形があることが解る。上記したように「吉」は「近江」に蓋をするような地を表しているのである。捩じった表記を行う書紀ではあるが、文字が示す地形象形表現に対しては、忠実なのである。いや、元の資料を改竄しなかっただけかもしれない。
<難波吉士身刺> |
須佐之男命の後裔、天之冬衣神が刺國大神之女・名刺國若比賣を娶って生まれた大国主神(命)(亦名謂大穴牟遲神・亦名謂葦原色許男神・亦名謂八千矛神・亦名謂宇都志國玉神)と長々と記されている。
「刺國」とは?…通説は手も足も出なくて全くの不詳、である。大国主命は神話の世界、で終わっている。
刺國=佐度嶋=小呂島と読み解いた。島が「棘」のような形状をしているところから名付けられたと推定した。そして幾重にも重ねられた命名は彼が果たせなかった役割を物語るものであることを告げているのである。
「身」=「内に孕む様」を表すと解説される。身体の腹部を象った文字である。地形は横から見れば「弓状に曲がる様」、正面からみれば「ふっくらとした様」となろう。ここでは前者の「弓状に曲がる様」を採用する。同じ解釈となるのが、後に登場する蘇我臣(日向)身刺である。
吉士=蓋をするような地(吉)に突き出た山稜が延びている(士)ところ、身刺=弓状に曲がった(身)棘(刺)のようなところと紐解ける。古事記の大国主命(神)の出自の場所が刺國であった。正に「棘」のような島である。「難波」海岸より内に入った、多くの蛇行する川がある場所と思われる。現地名行橋市南泉の大山神社がある「棘」のような小山辺りと思われる。
⑥許勢臣大麻呂
建内宿禰の子許勢小柄宿禰に関わる場所であろう。書紀では「許勢」姓を持つ人物が登場するが、竹内宿禰との繋がりは不詳である。そもそも古事記の建内宿禰と書紀の武内宿禰とは同一人物らしき様相ではあるが、年代も含めて大きく異なる。古代歴史上最も重要な人物でありながら、その実態があやふやなのであり、恣意的な改竄が行われたと思われる。
<許勢臣大麻呂> |
それを回避するために行われた改竄・無視だったのではなかろうか。詳細は後日に回そう。
ともかくも「許勢臣大麻呂」の居場所を求めてみよう。当該の宿禰が祖となった「許勢臣」の場所に含まれていることには間違いなかろう。
頻出の「麻呂」は同様に解釈すると、合致しそうなところが見出せる。しかも「大」=「平らな頂の山稜」の麓である(図中橙色破線)。しかしながら大幅な地形変更が行われているようで、当時の姿を想像するしか手はないようである。現地名は直方市上頓野辺りである。
⑧紀臣鹽手
建内宿禰の末裔が登場するなら、やはり「木角宿禰」に関わる人物と推測される。彼が祖となった「木臣」、その一族が浮かんで来る。既に求めた地は現在の豊前市大村辺りにある、正に「木」の形をした山稜が延びるところである。
<紀臣鹽手> |
「鹽」=「監+歯」と分解できる。「監」は「鑑」の原字と言われる文字である。鏡のような水面、と言われる様に「鹽」が塩田で作られる状況から生まれた文字と解説されている。
鑑のような水面から歯(牙)のような塩の結晶が現れる。実に見事な字源解釈であり、「塩」そのものには決まった形は無く(結晶形は別として)、水の中から生まれて来るものと観察している。自然観察力、現在では喪失しかねない有様であろう。
それを地形象形として「鏡のような平面」を表すのに使ったと思われる。鹽手=頂きが真っ平らな手の形の山稜と読み解ける。現在は広大な公園となっており些か当時とは異なるかもしれないが、地形の基本は、実に平らな頂の山稜である。
<群臣一覧> |
古事記の文字用法に通じる、と言うか古代の文字の使い方として当たり前のことであった、と推測される。
群臣全員を纏めた図を示す。当然のことながら蘇我一族が多数を占めている。またその他のところも建内宿禰の後裔達が集まっていることが解る。
異質なのが「采女」と「中臣」であろう。「中臣」は天兒屋命の後裔であり、伊勢神宮を祭祀する役割であったと伝えられ、祭事に関わっていても不思議ではない。
「采女」は邇藝速日命の後裔であるが、ともかくも古くから開けた地であったのではなかろうか。
「伊勢」は特別の地であり、渡来した人々が一早く棲みついた場所だったと推測される。そんな彼らが日嗣の議事に関わる。さてどんな内容であろうか、少し話の流れを覗いてみよう。
次の天皇は田村皇子か山背大兄王か?…その問いに群臣達は容易に答えなかったようで、無理矢理に言わせたら、下記のような具合に意見が割れたとのことである。
田村皇子派:①大伴鯨連、②采女臣摩禮志、③高向臣宇摩、④中臣連彌氣、⑤難波吉士身刺
山背大兄王派:⑥許勢臣大麻呂、⑦佐伯連東人、⑧紀臣鹽手
保留:⑨蘇我倉麻呂臣
そもそも推古天皇の遺言の文句が曖昧で、解釈によって取り方が異なるように伺えるが、文字を辿れば田村皇子派の進言通りと思われる。だがその通りならば、山背大兄王への申し伝えは不要の筈なので、何か裏があると思いたく状況であろう。勿論その辺りは群臣達も心得ていて簡単には答えなかったのであろう。
⑥許勢臣大麻呂及び⑧紀臣鹽手は、距離的にも中央から遠く、素直に蘇我氏へ靡いた返答をしたのではなかろうか。⑦佐伯連東人が加わったのは対①大伴鯨連への反発、同郷(近隣・同祖)間の確執があったのかもしれない。
田村皇子派の①大伴鯨連は、蘇我氏への対抗であろう。同じ蘇賀一族でありながら蘇我一族への反発が推測される。いわば蘇賀は東西に分かれている地域関係を伺わせる場面であろう。その仲間に西側の③高向臣宇摩が含まれる。②采女臣摩禮志、④中臣連彌氣及び⑤難波吉士身刺は、中央(蘇我)から少し離れた立ち位置だったことに拠るのであろう。
保留の⑨蘇我倉麻呂臣は、蘇賀の西側の中心地(遠祖:蘇賀石河宿禰)に居た人物と推し量れば、正に軽々しく返答しかねたのではなかろうか。同郷間で蘇我氏に睨まれたら生命も危い?…かもしれない。
いずれにしても田村皇子が次期天皇となるのが推古天皇の思いのようなのだが、山背大兄王とした場合に「汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違」中の「必從群言」に引っ掛かっていたのであろう。一応会議は未決で終わったようだが、上記の派閥勢力は山背大兄王を日嗣とするには重い結果であったと伝えている。
更に書紀は事の経緯を述べているが、次回に続けようかと思う。古事記の地形象形による人名、やはりしっかりと踏襲されていると思われる。暫くは登場人物の居場所の読み解きを継続するつもりである。