幷序[序文]

幷序[序文]


古事記原文[武田祐吉訳]…、

臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。

是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。

曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世、濳龍體元、洊雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎步於東國、皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝、杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解、未移浹辰、氣沴自淸。乃、放牛息馬、愷悌歸於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。 

歲 次大梁、月踵夾鍾、淸原大宮、昇卽天位。道軼軒后、德跨周王、握乾符而摠六合、得天統而包八荒、乘二氣之正、齊五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘國。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。

於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」時有舍人、姓稗田、名阿禮、年是廿八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。卽、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。

伏惟、皇帝陛下、得一光宅、通三亭育、御紫宸而德被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮、日浮重暉、雲散非烟、連柯幷穗之瑞、史不絶書、列烽重譯之貢、府無空月。可謂名高文命、德冠天乙矣。

於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者、謹隨詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之 內 、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。

大抵所記者、自天地開闢始、以訖于小治田御世。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。

臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶

[わたくし安萬侶やすまろが申しあげます。 宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊みそぎをして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。 ほんとにそうです。神々が賢木さかきの枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。

これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。

飛鳥の清原の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。

そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。

ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。

謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王うおうよりも高く聞え御徳は殷いんの湯王とうおうよりもまさつているというべきであります。

そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。 しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。

大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。

和銅五年正月二十八日
正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶]

…と、見事な漢文で記述されている。「上古之時、言意並朴」文字を持たない原・日本人を”優しく”評しつつ、その言葉に可能な限り忠実に表記したと記している。「日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯」が例示されるが、「言意並朴」ながら、それが表す意味は本著によって初めて明らかにされる。

上記の武田氏の訳は「參神作造化之首」は、天之御中主神、高御產巢日神、神產巢日神と丁寧に補足されている。また伊邪那岐・伊邪那美、天照大御神、須佐之男命、大国主命、建御雷之男神なども追記され、各天皇の事績のところでは、事績からそれぞれの天皇名が追記されている。と言う訳で、原文よりも相当長い訳文になっている(近淡海→近江、遠飛鳥→大和の飛鳥などと訳されているが、本著では各々行橋市・京都郡みやこ町-苅田町、田川郡香春町とする)。

「番仁岐命」は「天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命」を示すが、その簡略表現として興味深い。本著では二度登場する邇(近い)|岐(分岐)|志(蛇行する川)を纏めて「邇邇」と表したと解釈したが、「仁岐」を仁(くっ付いて並ぶ)|岐(分岐)と読み解くと、簡略表記として的を得たものと思われる。本文中にも多数出現する同一場所の異なる表記の一例であろう。「神倭伊波禮毘古命」を「神倭天皇」、それを「神武天皇」確かに、である。

「神倭天皇、經歷于秋津嶋」と明記される。古事記の「秋津嶋」を現在の本州に当てるならば、彼は奈良大和へ向かったのであろう。やはり伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みにおける「大八嶋國」を明らかにすることは極めて重要であることが解る。「筑紫嶋」を九州に当てるかどうか、と密接に関連する。本著では、誕生した全十四島を明らかにし、その伝説に隠された本来の意味を解き明かそうと試みた。「秋津嶋」は本州ではないことを明らかにしたつもりである。詳細はこちらを参照。

<飛鳥淸原大宮御大八洲天皇>
「飛鳥淸原大宮御大八洲天皇」、勿論「天武天皇」を示す。古事記本文には、ご登場なさらない天皇なので宮の場所など紐解いてはいない。

が、何かを告げようとしているのかもしれない。「飛鳥」は本文で、かなりの文字数を使って読み解いた場所、現在の田川郡香春町にある香春一ノ岳山麓である。

御大八洲」の「大八洲」は、国(島)生みの「大八嶋(國)」と読める。確かに武田氏はそれに基づいて「天下を治める」の意味としている。ただ「大八嶋國」としていないところは、巧者たる所以であろう。

何故「嶋」を使わずに「洲」を用いたのであろうか?…これをそのまま「州」と解釈すると、他の文字も含めて御大八洲=平らな頂の山稜の谷間にある州を束ねるところと読み解ける。

「淸原」は「清らかに貴い原」と従来は読んで来たのであろう。地形象形的には淸原=水辺で野原に成りかけ(靑)のところと読めるが、より直截的な表記の筈である。「淸」の「靑」=「生+井(丼)」と分解される。「生」=「本来の、自然にある、元からある」の意味を採用すると、淸原=水辺で元からある四角く囲まれた野原と読み解ける(下図<赤駒>参照)。五徳川にある「洲」を束ねて金辺川・御禊川・五徳川が合流する場所と読み解ける。現地名は田川郡香春町大字香春の長畑である。

石上神宮、安康天皇の石上之穴穂宮、顕宗天皇の石上廣高宮で登場した石上(イソカミ)=磯の上、その「磯」に面するところと推定される。古くは天照大御神と速須佐之男命との宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった倭淹知造、正に水浸しになっていたところである。尚、「淸」については
天之日矛の後裔、淸日子(水辺で元から四角く囲まれた地に[日(炎)]の形が生え出ているところ)などで用いられている。
 
<赤駒>
尚、
万葉集に飛鳥淸原大宮」に関する歌がある。宮のあった場所を伺わせる内容と思われる。


宮のあった小高いところを赤駒と記している。石上(イソカミ)=磯の上の地に田が広がったところを詠っている(詳細はこちら参照)。

さて、この段の漢文には些か使い慣れない文字が並んでいるようである。武田氏の訳は、日本書紀からの引用がかなり多く、古事記本来の表現ではないように感じられる。

直訳すると…、

曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世(天武天皇の御代に至っては)、濳龍體元(潜伏していた「大海人皇子(天武)」が本来の姿を現し)、洊雷應期(時が至ってそれに応じた)。

開夢歌而相纂業(夢の中の歌を開けて業[皇位]を継ぐことを占った)、投夜水而知承基(夜水を投じて占うと承基[根本的なことを受け継ぐ]ことを知った)。

然(然れども)、天時未臻(天の時未だ至らず)、蝉蛻於南山([吉野山]で蝉の抜け殻のようになって[仙人])、人事共給(ヒト・モノ[兵力?]が満ち足りて)、虎步於東國(東国を威風堂々に進んで)、

皇輿忽駕(天皇の輿(こし)は忽ちに馬が掛けられ)、淩渡山川(山川を凌ぎ渡り)、六師雷震、三軍電逝(六師団、三軍隊が怒涛の如く進んだ)、杖矛擧威(矛を手に持ち威をたからに挙げ)、猛士烟起(勇猛な士は狼煙を起こし)、絳旗耀兵(濃紅の旗が兵を輝かせると)、凶徒瓦解(凶徒は瓦解した[屋根の瓦が崩れ落ちる様])、

未移浹辰(浹辰[十二支=十二日間]が経たぬうちに)、氣沴自淸(氣沴[悪い気]が自ら静まり)。乃、放牛息馬(牛を放って馬を休息させて)、愷悌歸於華夏(安らぎ楽しむことが都に帰って来た)、卷旌戢戈(旗を巻いて矛をしまい)、儛詠停於都邑(都で詠い舞って留まった)

…古事記本文には記載されない内容である(所謂『壬申の乱』に関連するところ。概略はこちらを参照)。

日本の歴史の空白、と言うか闇の部分である。飛鳥淸原宮から藤原京(実際の建設着工は天武天皇五年)、以来持統・文武・元明天皇三代の宮(和銅三年まで)であったと知られている。古事記が献上されたのが和銅五年だから、既に都は平城京に移っていたことになる。藤原京に移る前は「倭京」(詳細は不明)と伝えられるが、それは上記の「飛鳥淸原大宮」なのかもしれない。正に真っ暗闇、である。

いずれにしても、古事記編纂の指示をした天皇、それを奏上する時の天皇、共に崇め奉る美辞麗句が並ぶ。古代中国の王に優る・・・彼らは間違いなく中国からの渡来人達の末裔である。勿論何分の一かは原・日本人でもあろうが・・・。

尚、舎人稗田阿禮については雄略天皇紀に記載した内容を参照。その出自の場所を図に示した。

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上記のような背景で「古事記新釈」として解読した結果を述べることになる。古事記中に出現する漢字は、「地形象形」の表記であるとする。上記の例を挙げれば、大=平らな頂の山稜(麓)八=谷である。古事記の文字列を通常使われる意味(”大きい”、”多くの”など)のみと解釈しては、全く読み取ることはできない。「万葉」の表記を行っている。それが千三百年余り、解読されて来なかった最大の理由であろう。

同時代の事柄が記述されたと思われる中国史書、魏志倭人伝・隋書俀國伝・後漢書倭伝・旧(新)唐書東夷伝などについても、本書と同様に読み解いた。併せて読んで頂ければ幸いである。「まぼろしの邪馬台国」ではなく、邪馬壹國として明瞭に場所・領域、そして卑彌呼が女王として君臨していた場所も特定されている。日子番能邇邇芸命(番仁岐命)が坐した高千穂宮から豐御食炊屋比賣命(推古天皇)の小治田宮までの全ての宮を特定した手法に基づくものである。

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