天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅷ)
蝦夷大臣及び入鹿臣親子の振舞いは、大王=天皇のそれであって、彼らを遮る者はいなくなったようである。蘇我一族の範囲を越えて、使役やら番兵などに使う者の範疇は広がっていたと伝えている。同族支配からの逸脱、これはもう一豪族ではなく、天皇であろう・・・と書紀は告げている。
と言う訳で、クライマックス直前まで物語は進行したようである。即位四年(西暦645年)正月から続けられている。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
四年春正月。或於阜嶺、或於河邊、或於宮寺之間、遙見有物而聽猨吟。或一十許、或廿許。就而視之物便不見、尚聞鳴嘯之響、不能獲覩其身。(舊本云。是歲、移京於難波、而板蓋宮爲墟之兆也。)時人曰、此是伊勢大神之使也。
夏四月戊戌朔、高麗學問僧等言。同學鞍作得志、以虎爲友學取其術、或使枯山變爲靑山、或使黃地變爲白水、種々奇術不可殫究。又虎授其針曰、愼矣愼矣、勿令人知、以此治之病無不愈。果如所言、治無不差。得志、恆以其針隱置柱中。於後、虎、折其柱取針走去。高麗國、知得志欲歸之意、與毒殺之。
正月早々に山の峰やら川辺などあちこちで猿のうめき声が何度も聞こえたが、姿を確認することはできず、従って捕えることも事もできなかったと記されている。人は、これは伊勢大神の使いではないかと噂したと伝えている。天皇家の守り神の使者が出回ってるとは、何か不吉なことがおこる予兆か?…と述べているようでもある。詳細は不明だが、旧本でこの年に宮を移したとも記載されているとのこと。
四月になってのこと、百濟の学問僧が日本人の鞍作得志の件を告げたと述べている。余り真面目に読み取るのは無駄なような記述なのだが、この鞍作は結果的に毒殺されたと言う。教えを守らぬ輩は、そうなる定め・・・件の鞍作もそうなる運命、とでも言いたかったのかもしれない。
そして、漸くにしてクライマックスに辿り着いたようである・・・。
六月丁酉朔甲辰。中大兄、密謂倉山田麻呂臣曰、三韓進調之日必將使卿讀唱其表。遂陳欲斬入鹿之謀、麻呂臣奉許焉。戊申、天皇御大極殿、古人大兄侍焉。中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座。倉山田麻呂臣、進而讀唱三韓表文。於是、中大兄、戒衞門府一時倶鏁十二通門、勿使往來、召聚衞門府於一所、將給祿。時中大兄、卽自執長槍、隱於殿側。中臣鎌子連等、持弓矢而爲助衞。使海犬養連勝麻呂、授箱中兩劒於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田、曰、努力努力、急須應斬。子麻呂等、以水送飯、恐而反吐、中臣鎌子連、嘖而使勵。倉山田麻呂臣、恐唱表文將盡而子麻呂等不來、流汗浹身、亂聲動手。鞍作臣、怪而問曰、何故掉戰。山田麻呂對曰、恐近天皇、不覺流汗。中大兄、見子麻呂等畏入鹿威便旋不進、曰、咄嗟。卽共子麻呂等出其不意、以劒傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂、運手揮劒、傷其一脚。入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎。(蘇我臣入鹿、更名鞍作。)天皇卽起、入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。
粗筋を述べると・・・、
「中大兄皇子」は味方に引き込んだ「倉山田麻呂臣」に大極殿で三韓からの「調の表」を読んで貰うが、その時に「蘇我入鹿臣(鞍作臣)」を斬る計画だと明かした。当然のことながら実行役の名前も告げたであろう。
いざ本番では、先ずは「入鹿臣」が帯びている剣を方便で解かせて丸腰にし、門を全て閉じて密室にした。そこで「中大兄」及び「中臣鎌子連」は武器を準備し、「海犬養連勝麻呂」が実行役の「佐伯連子麻呂」及び「葛城稚犬養連網田」に武器を持たせた。
がしかし「山田麻呂臣」、「子麻呂」、「網田」は、極度に緊張した態度を露わにして事が発覚しそうになったところで、空かさず「中大兄」が一気に斬りつけ、「入鹿臣」の頭と肩を割った。驚いた天皇は即退去し、その後に「子麻呂」と「網田」が「入鹿臣」を斬った。
・・・と言う事件であった。今に伝えられる「乙巳の変」(乙巳:西暦645年)である。
是日、雨下潦水溢庭、以席障子覆鞍作屍。古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、韓人殺鞍作臣、謂因韓政而誅。吾心痛矣。卽入臥內、杜門不出。中大兄、卽入法興寺爲城而備。凡諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造國造、悉皆隨侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。於是、漢直等、總聚眷屬、擐甲持兵、將助大臣處設軍陣。中大兄、使將軍巨勢德陀臣、以天地開闢君臣始有、說於賊黨令知所赴。於是、高向臣國押、謂漢直等曰、吾等由君大郎、應當被戮。大臣亦於今日明日、立俟其誅決矣。然則爲誰空戰、盡被刑乎。言畢解劒投弓、捨此而去。賊徒亦隨散走。
事件発生からの後日談が語られている。それを目の当たりにした「古人大兄皇子」は、自分の宮に逃げて、「韓人殺鞍作臣、謂因韓政而誅。吾心痛矣。」と告げた。一方の「中大兄」は法興寺を城とし、およその皇子、諸王などを従えた。「蝦夷大臣」を護衛する「漢直等」は軍の準備を行ったが、「中大兄」の使者「巨勢德陀臣」のよって説き伏せられた。「入鹿臣」が「山背大兄王」を討伐する時にも従わなかった「高向臣國押」の言によって軍は解かれたと告げている。
「古人大兄」は、その場で立ち向かわなわず、逃げたのである。ここが歴史のターニングポイントであって、勿論武器もないわけだが、命懸けの抵抗はできた筈、また逃げた後も「杜門不出」では、後に些か抵抗を試みるようであるが、歴史の表舞台から降りることになったのであろう。
● 海犬養連勝麻呂
さて本事件を通じて既出ではない人物が一人登場している。「海犬養連勝麻呂」で、実行役に剣を渡す役目となっている。Wikipediaによると…「犬養部は宮門、大和朝廷の直轄領である屯倉などの守衛に当たる品部であり、県犬養は、稚犬養、阿曇犬養、海犬養とともにこれを統率した伴造4氏族の一つである」と記されている。前記の葛城稚犬養連網田もその氏族の一つであったことが分る。
上記の事件のキャストであることは「宮門」の守衛であったことと辻褄が合うわけである。「中臣鎌子」、「中大兄」の周到な人選であったことが伺える。更に重要なことに、「〇〇〇犬養」の「〇〇〇」が地名を示すと気付かされる。同様の任務を各地の「屯倉」において担っていたことに関連している。
<海犬養連勝麻呂> |
古事記・中国史書・日本書紀の表記が繋がった。
また「海」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった筑紫三家連の地、もしくはその近隣と思われる。
即ち「屯倉=三家(ミヤケ)」とすれば、「海犬養」は筑紫の地にあったことを表していることが解る。
「犬養」は前記と同様に紐解けるであろう。「犬」=「平らな頂の山稜」として、「養」=「羊+良」と分解した。「宇美」の「美」=「羊+大」である。
「羊」の古文字が示す「「山稜に挟まれた谷間」の地であることを表している。図に示したように、その出口に小高くなった「麻呂」がある。そこから僅かに延びたところが「海犬養連勝麻呂」の出自の場所であると読み解ける。「縣犬養」、「阿曇犬養」については後日に紐解くことにする。「巨勢德陀臣」については既に読み解いたこちらを参照。
韓人
「古人大兄」が逃げ帰って「韓人殺鞍作臣」と言ったと記載されている。彼は現場に居てつぶさに事件の見たのだから、殺人犯は「中大兄」であり、止めを刺したのが「子麻呂」と「網田」であることは重々承知の筈であろう。何故「韓人」ち表現したのであろうか?…「謂因韓政而誅」と記載され、同席したと思われる「調」の提供者「三韓の人」を表すように読める。
通説でも種々語られているようであるが、「韓」が関わったならば、国として一大事である。やはり「韓人」=「中大兄」のことを示すと思われる。既に幾度か出現した地形象形の解釈であるが、「韓」=「兄」である。韓=周囲が高く囲まれた様を、兄=谷間の奥で広がった様を表すと読み解いた。異なる表現ではあるが、地形的に類似であることが分かる。
「古人大兄」は、直截に名前を言わなかったのである。自分も「韓人」であり、「三韓」も居た。何とでも受け取れるような表現を用いたのであろう。保身に徹した態度を露わにした、そんな人であったと伝えているように伺える。後に自身が「誅」されることになる。やはり「韓人」と叫んだのであろうか・・・。
庚戌、讓位於輕皇子。立中大兄、爲皇太子。
皇極天皇紀最後の段である。参照しているこちらのサイトの全文を、謝辞を込めて、引用する・・・、
天皇記、国記は、豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)二十八年是歳条に、聖徳太子と馬子が録せしめたとあった。しかし、何故それが蘇我氏の下に管理されてていたのか?…船史は、天国排開広庭天皇(欽明天皇)十四年七月条の「船の賦を数へ録す」王辰爾に始まる。
船史の中には、天皇記、国記の編纂に用いられることがあったのかもしれない。事の重大さを理解しており、焼かれる前に運び出したとみえる。6月12日に入鹿が、6月13日に蝦夷が殺され、即日二人は墓に葬られた。尚、船史惠尺については、こちら参照。
三年六月、是月条の第一の謠歌は、中大兄が宮殿を嶋大臣の家に近接して建て、鎌足と入鹿を戮す密議をする兆し、第二の謠歌は、山背大兄等その性格が従順で無実であるのに入鹿に殺され、天がそれを咎め、入鹿を殺さしめた兆し、第三の謠歌は、入鹿が宮の中で佐伯連子麻呂・稚犬養連網田に殺される兆しであると解説した人が居た。
中大兄と鎌足は入鹿の家の動静を子細に調べあげ、行動パターン、出入りする人物を観察し、寝返る者を見極めんとしたのであろう。赤穂浪士が吉良邸の構造やそのスケジュールを調べあげたごときものである。反抗の意志もなく、無実である上宮の王等を殺したことを、天が許さなかった。入鹿を殺したのは、止めを刺した子麻呂と網田とした。
・・・と記載されている。
六月十二日に事件が起きて、十四日には譲位して「輕皇子」が即位し、「中大兄」が皇太子になったと述べる。事を為すにはこれくらいの用意周到であるべきなのかもしれない。「中臣鎌子連」なら当然、と言っているようである。
尚、2005年に奈良県高市郡明日香村の甘樫丘地区で遺構が発見され、蘇我入鹿の邸宅であった可能性があるとして、現在も発掘作業が継続されているとのことである。さて、思いのモノが出て来るのであろうか・・・。