2023年4月29日土曜日

高野天皇:称徳天皇(8) 〔632〕

高野天皇:称徳天皇(8)


天平神護二年(西暦766年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

秋七月乙丑。以中律師圓興爲大僧都。乙亥。出雲國按察使從三位文室眞人大市。外衛大將兼丹波守從四位下藤原朝臣田麻呂。右大弁兼越前守從四位下藤原朝臣繼繩並爲參議。授從五位下菅生王從五位上。正六位上石川朝臣眞守從五位下。爲近江介。從五位下太朝臣犬養爲信濃守。從五位下國見眞人安曇爲越中介。從五位下賀茂朝臣淨名爲紀伊守。丙子。遣使造丈六佛像於伊勢大神宮寺。己夘。近江國志賀團大毅少初位上建部公伊賀麻呂賜姓朝臣。」散位從七位上昆解宮成得似白鑞者以獻。言曰。是丹波國天田郡華浪山所出也。和鑄諸器。不弱唐錫。因呈以眞白鑞所鑄之鏡。其後。授以外從五位下。復興役採之。單功數百。得十餘斤。或曰。是似鉛非鉛。未知所名。時召諸鑄工。与宮成雜而練之。宮成途窮无所施姦。然以其似白鑞。固爭不肯伏。寳龜八年。入唐准判官羽栗臣翼齎之以示楊州鑄工。僉曰。是鈍隱也。此間私鑄濫錢者。時或用之。庚辰。詔賜三衛衛士諸司直丁直本司而經廿年已上者。爵人一級。」多褹嶋飢賑給之。

七月十二日に中律師の圓興(俗姓賀茂、道鏡の弟子。田守に併記)を大僧都に任じている。二十二日に出雲國の按察使文室眞人大市、外衛大将兼丹波國守の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)、右大弁兼越前守の藤原朝臣繼縄(縄麻呂に併記)をそれぞれ参議に任じている。菅生王に従五位上を授け、「石川朝臣眞守」に従五位下を授けて近江介に任じている。太朝臣犬養(多朝臣)を信濃守、國見眞人安曇(阿曇。眞城に併記)を越中介、賀茂朝臣淨名を紀伊守に任じている。

二十三日に使者を派遣して「伊勢大神宮寺」に丈六の仏像を造らせている。二十六日に近江國志賀団(志賀郡)の大毅(軍団の長官)の建部公伊賀麻呂(人上に併記)に朝臣姓を賜っている。

散位の「昆解宮成」は「白鑞」(錫)に似た鉱物を入手して献上し、以下のように言上している・・・これは「丹波國天田郡華浪山」より出土したものである。いろいろの器物を鋳造したところ、唐の錫に劣っていない・・・。そこで真の「白鑞」で鋳造した鏡を呈上した。その後、「宮成」に外従五位下を授け、また労役をおこしてこれを採掘させたところ、延べ数百人で十斤余りを得ている。ある人は[これは鉛(鑞鑛)に似ているが、「鉛」ではない。どういう名前かは知らない]と言っている。

その時、鋳工たちを召して「宮成」と一緒になってこれを精錬させたところ、「宮成」はどうすることもできず、悪い企みをなすことができなかった。しかし、それが白鑞に似ていることを根拠に、強く言い張って屈伏しなかった。寶龜八年、遣唐使准判官の羽栗臣翼(父親の吉麻呂[阿倍仲麻呂に随行]の長男。弟の翔[在唐]に併記)がこれを持って行って、揚州の鋳工に見せたところ、みな[これは鈍隱(不詳)だ。こちらで贋金を作る者は時々これを使っている]と言った。

<石川朝臣眞守-名繼-清麻呂>
二十七日に詔されて、三衛(左右衛士府と衛門府)の衛士と諸司の直丁で本司に二十年以上勤務している者に、位階を一級授けている。多褹嶋で飢饉が起こったので物を与えて救っている。

● 石川朝臣眞守

凄まじい数の登場人物である「石川朝臣」一族、直近でも今紀に望足(垣守に併記)が従五位下を叙爵されている。一見、佐伯宿祢眞守と見間違えそうな感じであるが、全く異なる一族である。

眞守=両肘を張り出したように腕に囲まれた地が寄り集まって窪んでいるところと読み解いた。その地形を「石川朝臣」の地で探索することになる。

すると、「名人」の東側の山稜にその地形を見出すことができる。膨大な人物を配置して来たが、この山稜に関わる人物は初見である。彼等の祖先となる蘇賀連子大臣の出自の場所が山稜の端にあったと推定した場所である。尚、「眞守」は最終正四位上・参議となり、「石川朝臣」出身の最後の公卿となったようである。

少し後に石川朝臣名繼石川朝臣清麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳のようなので、名前が表す地形から出自の場所を求めると、図に示したように推定することができる。名繼=山稜の端のが連なって延びているところ、頻出の清麻呂=水辺で四角く囲まれたところと解釈する。後に「淨麻呂」とも表記される。

伊勢大神宮寺 「神宮寺」の表記は初見である。思い起こせば、文武天皇紀に多氣大神宮度會郡(外宮之度相神)に遷したという記事があった。調べるとこれが「神宮寺」を示すと解釈されているが、”寺”がなく、定かではないようである。確かに「度會郡」には「外宮」があり、そこに「大神宮」を遷すことはないかもしれない。

更に関連する後の記述を見てみると、当初「度會郡」にあった「神宮寺」は、祟りがあって飯高郡(度瀬山房)に遷されたが、祟りが止まず、またもや遷された、と記載されている。右往左往の有様を述べているようである。また、後日に詳細を紐解いてみよう。尚、「神宮寺」の場所は、「度會郡」ではこちら、「飯高郡」ではこちら、かもしれない。

<昆解宮成-沙弥麻呂>
● 昆解宮成

「昆解」に関して、この人物については上記本文に記載された内容以上には殆ど得られることはないようなのだが、後に登場する昆解沙弥麻呂(佐美麻呂)については多くの情報があることが分かった。

延暦四(785)年五月に「右京人從五位下昆解宿祢沙弥麻呂等。改本姓賜鴈高宿祢」と記載されている。早速に右京の地で「鴈高」の地形を求めてみよう。

「鴈」=「厂+人+鳥」と分解される。「雁」の異字体でもある。文字要素は全て地形象形表記で用いられている。即ち、鴈=山麓の谷間で鳥のような形をした山稜が延びている様と解釈される。頻出の高=皺が寄ったような様であり、それらの地形要素を満たす場所を図に示したところに見出すことができる。

沙弥麻呂の頻出の沙弥=水辺で削られて先が尖ったようなった山稜が広がっているところと解釈すると出自の場所は「鳥」の足元辺りと思われる。すると、宮成=山稜に挟まれた谷間の奥まで広がった地で平らに盛り上げられたところと読み解くと、図に示した場所が「宮成」の出自と推定される。

「沙弥麻呂」に関する情報では、百濟貴首王の後裔である百濟系渡来人と称していたと知られる。上図に示した谷間は全て渡来系の人々によって開拓されていたようである。ところで昆解は地形象形しているのであろうか?…意外にもそのように思えて来た。

昆=日+比=太陽のような大きく丸い地に山稜が寄り集まっている様解=ばらばらに岐れている様と解釈される。彼等の居処は、書紀の皇極天皇に登場した膽駒山(イコマヤマ)の麓に当たる。「膽」=「三日月の形をした山稜(月)の傍らで頂上から多くの山稜が連なり広がっている(詹)様」と解釈した。「膽」の異字体は「胆」である。胆=月+旦=三日月の形をした山稜の傍らで太陽のような山稜が頭を出している様と解釈される。「昆解」は「膽駒山」の麓を表していたのである。

<丹波國天田郡華浪山・奄我社>
丹波國天田郡華浪山

元明天皇紀の和銅六(713)年四月に「割丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國」と記載されている。丹波國を五郡に割って、”丹”の背後に「丹後國」を設置したと解釈した。決して五郡を丹後國に配属したのではない(こちら参照)。

それはそれとして、ここに「天田郡」の名称は見られない。おそらく、備前國で藤原郡を設置したように隣郡の一部を分割して新たに設置したものと推察される。

天田郡天田=一様に平らな頂の山稜が広がった地を整えたところと解釈される。ところが、その地形は與佐郡・竹野郡を除く残りの三郡の地形に似て非なる有様と思われる。また、加佐郡・熊野郡は、ほぼ全域が同じような地形を示し、分割する動機が見当たらないとも思われる。残る丹波郡が対象となるようであるが、ここで華浪山の登場となる。

華浪=山稜の端にある花のような地が水辺でなだらかになっているところと読み解ける。この地形を図に示した場所に見出せる。古の息長一族発祥の山塊である。この山を含む地域、それを「天田郡」としたのであろう。「丹波郡」とは現在の長野間川で区切られた場所となる。確かにこの地は”丹波”でも”與佐”でもない地形であろう。

後に奄我社があったと記載される。奄我=平らな頂で延び広がった山稜にギザギザとした地があるところと解釈される。図に示した現在の立山大師がある小高い場所にあったのではなかろうか。また、「丹波郡」の人物も登場する。即ち、丹波郡も天田郡も併存していたことを伝えていることが分かる。

續紀は丹波郡分割を一切伝えることはしない。がしかし、上記の説話を挿入することによってその存在場所を明らかにしているのである。いや、当時の人々にとっては、当たり前過ぎるくらい常識だったのかもしれない。この地に蔓延った一族なのだが、現在は”謎の氏族:息長”としてロマン化されている。

八月壬寅。授從五位上石川朝臣名足正五位下。乙巳。散事從三位神社女王薨。庚戌。左京人從五位上桑内連乙虫女等三人賜姓桑内朝臣。

八月十九日に石川朝臣名足に正五位下を授けている。二十二日に散事(散位)で従三位の神社女王が亡くなっている。二十七日に左京の人である「桑内連乙虫女」等三人に「桑内朝臣」の氏姓を賜っている。

<桑内連乙虫>
● 桑内連乙虫女

「桑内連」に関する情報は極めて限られているように思われる。また、記紀・續紀に登場することもなく、今回が初見である。

「桑」が用いられていることから、おそらく”春日”の地に関係する一族だったかと思われるが、邇藝速日命の後裔との記録が残されているようである。

そんな背景で”春日”の地を探索する。とは言っても「桑」だらけの地で乙虫女が見出せるか?…いや、杞憂であることが分かった。

乙虫(蟲)=乙の形の山稜の麓が細かく岐れているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。山田御(三)井宿祢の東側の谷間と推定される。この地は、阿閇朝臣一族の居処の奥に当たる。『八色之姓』にも記載された古豪であろう。

彼等は、古事記の大毘古命の後裔氏族と知られている。邇藝速日命の子孫が蔓延った地の一角に侵出した一族であったと推測される。「桑内連」は、そんな時代の流れの中で、ひっそりと住まっていたのではなかろうか。またもや、續紀が埋もれた氏族を歴史の表舞台に引き摺り出した様相であろう。

九月戊午。勅。比見伊勢美濃等國奏。爲風被損官舍數多。非但毀頽。亦亡人命。昔不問馬。先達深仁。今以傷人。朕甚悽歎。如聞。國司等朝委未稱。私利早著。倉庫懸磬。稻穀爛紅。已忘暫勞永逸之心。遂致雀鼠風雨之恤。良宰莅職。豈如此乎。自今以後。永革斯弊。宜令諸國具録歳中修理官舍之數。付朝集使。毎年奏聞。國分二寺亦宜准此。不得假事神異驚人耳目。己未。賜助官軍近江國僧沙弥。及錦部蒿園二寺檀越。諸寺奴等物。各有差。」山背國人堅井公三立等十一人賜姓諸井公。丙寅。伊豫國人大直足山。私稻七萬七千八百束。鍬二千四百卌口。墾田十町。獻當國國分寺。授其男外少初位下氏山外從五位下。丁夘。從五位下佐伯宿祢家繼爲防人正。庚午。志摩國飢。賑給之。壬申。授從六位下息長眞人淨繼外從五位下。修行進守大禪師基眞正五位上。」攝津國武庫郡大領從六位上日下部宿祢淨方獻錢百万。椙榑一千枚。授外從五位下。丙子。以從四位下阿倍朝臣毛人爲五畿内巡察使。從五位下紀朝臣廣名爲東海道使。正五位上淡海眞人三船爲東山道使。從五位上豊野眞人出雲爲北陸道使。從五位上安倍朝臣御縣爲山陰道使。正五位下藤原朝臣雄田麻呂爲山陽道使。從五位下高向朝臣家主爲南海道使。採訪百姓疾苦。判斷前後交替之訟。并検頃畝損得。其西海道者。便令大宰府勘検。

九月五日に次のように勅されている・・・このごろ伊勢・美濃國等からの上奏をみると、風のため損壊した官舎が多く、ただ壊れるだけでなく、人命を奪っている。昔、馬のことを聞かなかったというが、それは先達の深い思いやりの現れである(孔子が廐が焼けた時、人に怪我がなかったと聞いた)。今風の被害が人を傷付けているので朕は大いに痛み嘆いている。---≪続≫---

聞くところによると國司等は、朝廷の委任に添わず、私利を求めていることは一早く現れ、倉庫は空っぽで稲穀は腐敗して赤くなっている。人民は既に少しの間の苦労で永く楽しもうという気持ちを忘れて、ついには米穀を雀や鼠や風雨に与えてしまうありさまになっている。どうしてこのようなことになるであろうか。---≪続≫---

今後は、永久にこの弊害を改めよう。そこで諸國に命じて、その年のうちに修理した官舎の数をもれなく書き上げて、朝集使に授け、毎年奏上せよ。國分寺と國分尼寺の修理もこれに准ずるようにせよ。神による異変のためであるなどと言って、人々の耳目を驚かすことがあってはならない・・・。

六日に『仲麻呂の乱』に際し、官軍を助けた近江國の僧・沙弥、及び「錦部・蒿園二寺」の檀越や、寺々の奴等に身分に応じて物を与えている。山背國の人である「堅井公三立」等十一人に「諸井公」の氏姓を与えている。十三日に伊豫國の人である「大直足山」が私稲七万七千八百束、鍬二千四百四十口、墾田十町を同國の國分寺に献上している。その息子の「氏山」に外従五位下を授けている。十四日に佐伯宿祢家繼を防人正に任じている。十七日に志摩國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。

十九日に息長眞人淨繼(廣庭に併記)に外従五位下、修行進守で大禅師の「基眞」に正五位上を授けている。攝津國武庫郡の大領の「日下部宿祢淨方」が銭百万文と椙榑(皮付きの杉材)一千枚を献上したので外従五位下を授けている。

二十三日に各巡察使として、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を五畿内、紀朝臣廣名(宇美に併記)を東海道、淡海眞人三船を東山道、豊野眞人出雲(出雲王)を北陸道、安倍朝臣御縣を山陰道、藤原朝臣雄田麻呂を山陽道、高向朝臣家主を南海道に任じ、人民の悩みや苦しみを問い、前後の國司の交替に伴う訴えの是非を判断し、併せて田地の稔りの善し悪しを検べさせている。西海道については大宰府に取調べさせている。

<錦部寺・基眞禅師・物部伊賀麻呂>
錦部寺

『仲麻呂の乱』において、逃げまどう彼等を追い詰めて行く過程で官軍に協力した者へ褒賞したと記載されている。逃亡行程上もしくはその近隣にあった寺であろう。

「錦部」の文字列は既出であり、河内國錦部郡で用いられている。錦部=山稜の端が小高く盛り上がって三角に尖った形をしているところと解釈した。それに酷似した地形を図に示した場所に見出せる。

「坂田郡」の「坂」に該当する山稜である。多分、寺はその山稜の東南麓にあったと推定され、「淺井郡」に属する地であったと思われる。「仲麻呂」一味が彷徨って上陸した淺井郡塩(鹽)津の近辺に位置する場所である。

一味は、上陸した後に再度北方にある愛發關方面に向かったと記載され、それを追跡した官軍に塩津周辺の在所に住まう寺の檀越や奴が協力したのであろう。極めて合理的な配置となっていることが解る。

直ぐ後に基眞禅師正四位上に叙爵され、法参議・大律師に任じられている。「法参議」は特例であり、道鏡の側近として、法臣圓興禅師の次ぐ処遇をしたと記載されている。また、俗姓として物部淨之朝臣の氏姓も賜っており、全てが異例尽くめであったようである。

「賀茂朝臣」出身の「圓興」と比肩するできるように出自を誂えたように思われる。調べると近江國の出自と知られている。頻出の物部の地形に類似した場所であろう。淨之=蛇行する川辺で両腕のような山稜が取り囲んでいるところと読み解くと、図に示した場所が見出せる。

既出の「基」=「其+土」=「箕のように山稜が延びている様」と解釈した。基眞=箕のように延びた山稜が寄り集まって窪んでいるところと解釈される。「物」の山稜の別表記であろう。要するに「仲麻呂」が頼りとする近江國、そこにも居場所がなかったことを告げているようである。

後に高野天皇が崩御され、道鏡が失脚してしまう。それに伴って弓削一族や取巻き連中も左遷されることになる。「基眞」は、暴挙が過ぎて既に飛騨國に配流されていたが、その出身地の一族である物部宿祢伊賀麻呂の宿祢姓も取り上げた、と記載されている。

伊賀=谷間に区切られた山稜が谷間を押し開くように延びているところと解釈されるが、残念ながら地形変形が凄まじく詳細を特定することが叶わないようである。およその場所を図に示した。

<蒿園寺>
蒿園寺

本寺も上記と同じく逃亡行程上もしくは近隣にあった寺であろう。「仲麻呂」一味は淺井郡・坂田郡で散々な目に遭って、また元来た道を引き返して高嶋郡に戻り、その地にあった三尾埼で致命的な敗北を喫し、そして勝野鬼江で非業の最後を迎えたと記載されていた。

「蒿」=「艸+高」=「二つの山稜に挟まれて皺が寄ったような様」と解釈される。纏めると蒿園=二つの山稜に挟まれて皺が寄ったような地にある取り囲まれたところと読み解ける。その地を三尾埼の北側の谷間に見出すことができる。

上記と同様に追い詰めた官軍に檀越・奴連中が加勢したのであろう。逆賊一味は戦意喪失、「仲麻呂」は無念にも戦線離脱をせざるを得ない状況になっていたと思われる。未曾有の権勢を誇った姿は、敢え無く消失してしまったわけである。

<堅井公三立>
● 堅井公三立

『仲麻呂の乱』における褒賞の件に山背國の住人が登場しているが、乱中に山背國は無縁であった。事後処理の記述に、連座し遠流の罪に問われた和氣王(舎人親王の孫)の最後が山背國相樂郡狛野であったと告げている。

既に捕らわれの身であり、官軍との戦闘が発生するわけもなく、「三立」等は何の協力をしたのであろうか?…多分、遺体の処理に関わった人達だったのではなかろうか。また、奔流の王であり、その墓所を見守る役目を仰せつかっていたのかもしれない。

堅井公の既出である堅=臣+又+土=小ぶりな谷間に手のような山稜が延びている様と解釈した。この地も多くの山稜が重なるように延びている地であり、一に特定することが難しい。名前の三立=三段に並んでいるところと解釈される。それらの地形を満たす場所を図に示した。「狛野」の東側に当たる場所である。

賜った諸井公の氏姓に含まれる諸井=耕地が交差するような地で四角く区切られているところと読み解ける。「狛野」と彼等の居処の谷間が交差している様子を表現したものであろう。以前にも述べたが、実に残酷な処罰であった。手厚く弔う気持ちが生じたのかもしれない。皇統は、とんでもない方向に流れようとしていた時である。

<大直足山-氏山>
● 大直足山・氏山

伊豫國でこの人物等の出自を探せ!…と記載している。伊豫國で「大」とくれば、前記の大山積神の「大」に繋がる場所を示しているのではなかろうか。

すると、同じく従四位下を叙爵された伊曾乃神が鎮座する背後の山、現在名白山も平らな頂を持つ山であることに気付かされる。

その西麓の地形を眺めると、どうやらそれらしき場所が見出せるようである。足山=山の前で足のような山稜が延びているところ氏山=山の前で匙のような山稜が延びているところと読み解ける。図に示した場所が、それぞれの出自と推定される。

孝謙天皇紀に賀茂伊豫朝臣の氏姓を賜った神野郡の賀茂直馬主等の南に接する地であり、この時代になって財を成して豊かさを享受できるようになったのであろう。息子の「氏山」に外従五位下を叙爵しているが、「馬主」等とは氏族が異なり、氏姓を賜ったという記事はないようである。

<攝津國武庫郡:日下部宿祢淨方>
● 日下部宿祢淨方

攝津國武庫郡大領を務めていると記載されている。通常からすると地元採用のように思われるが、名士日下部宿祢の氏姓となっている。

勿論日下部は固有の名称ではなく、他にも登場していたが(日下部深淵日下部直益人など)、「姓」まで同じなのには、戸惑わせる記述である。外従五位下の叙位であるからには、別の氏族であることには違いないであろう。

攝津國武庫郡は、續紀中の初見、かつ二度と記載されることはないようである。書紀では、応神天皇紀に「武庫水門」、孝徳天皇紀に「武庫行宮」、持統天皇紀に「武庫海」として記載されるが(こちら参照)、「武庫郡」の記述は見当たらないようである。いずれにしてもこれ等を含む、及び近隣の地域だったと推定される。

武庫=戈のような山稜の麓が延びて連なっているところと解釈される。延びた先は些か曖昧だが、図に示したような範囲と思われる。この武庫の地の西側は当時は海面下にあったと推測され、持統天皇が「武庫海」と呼び、更にこの入江に入る場所を「武庫水門」と応神天皇紀に呼称されていたのであろう。

日下部=太陽ような地の麓近くにあるところと解釈した。「戈」の山稜の端が、その地形をしていることが分かる。既出の文字列である淨方=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる地の傍にある四角く区切られたところと読み解くと、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。

上記の「大直足山・氏山」と同様に水辺が広がり水田稲作の範囲を拡大したのではなかろうか。山間の谷間を開拓する時代から、次第に水辺、海辺の平坦な地域が米の生産に寄与するようになって来た、と推測される。