2023年5月8日月曜日

高野天皇:称徳天皇(9) 〔633〕

高野天皇:称徳天皇(9)


天平神護二年(西暦766年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

冬十月癸未朔。日有蝕之。甲申。授无位大神朝臣田麻呂外從五位下。爲豊後員外掾。田麻呂者本是八幡大神宮祢宜大神朝臣毛理賣時。授以五位。任神宮司。及毛理賣詐覺。倶遷日向。至是復本位。乙酉。授无位笠朝臣始從五位下。丙戌。員外國司赴任者。一切禁之。丁亥。左京人從八位上壹難乙麻呂賜姓淨上連。庚寅。正五位上大伴宿祢御依爲出雲守。辛丑。授正四位下藤原朝臣繩麻呂正四位上。從四位下藤原朝臣是公從四位上。從五位下葛井連道依從五位上。正六位上弓削御淨朝臣塩麻呂從五位下。河内國人大初位下毘登戸東人等九十四人賜姓高安造。壬寅。奉請隅寺毘沙門像所現舍利於法華寺。簡點氏氏年壯然有容貌者。五位已上廿三人。六位已下一百七十七人。捧持種種幡蓋。行列前後。其所着衣服。金銀朱紫者恣聽之。詔百官主典已上礼拜。詔曰。今勅〈久〉。无上〈岐〉佛〈乃〉御法〈波〉至誠心〈乎〉以〈天〉拜尊〈備〉獻〈礼波〉必異奇驗〈乎〉阿良波〈之〉授賜物〈尓〉伊末〈志家利〉。然今示現賜〈弊流〉如來〈乃〉尊〈岐〉大御舍利〈波〉常奉見〈余利波〉大御色〈毛〉光照〈天〉甚美〈久〉大御形〈毛〉圓滿〈天〉別好〈久〉大末之〈末世波〉特〈尓〉久須之〈久〉奇事〈乎〉思議〈許止〉極難〈之〉。是以意中〈尓〉晝〈毛〉夜〈毛〉倦怠〈己止〉无〈久〉謹〈美〉礼〈末比〉仕奉〈都都〉侍〈利〉。是實〈尓〉化〈能〉大御身〈波〉縁〈尓〉隨〈天〉度導賜〈尓波〉時〈乎〉不過行〈尓〉相應〈天〉慈〈備〉救賜〈止〉云言〈尓〉在〈良之止奈毛〉念〈須〉。猶〈之〉法〈乎〉興隆〈之牟流尓波〉人〈尓〉依〈天〉繼比呂〈牟流〉物〈尓〉在。故諸〈乃〉大法師等〈乎〉比岐爲〈天〉上〈止〉伊麻〈須〉太政大臣禪師〈乃〉如理〈久〉勸行〈波之米〉教導賜〈尓〉依〈天之〉如此〈久〉奇〈久〉尊〈岐〉驗〈波〉顯賜〈弊利〉。然此〈乃〉尊〈久〉宇礼志〈岐〉事〈乎〉朕獨〈乃味夜〉喜〈止〉念〈天奈毛〉太政大臣朕大師〈尓〉法王〈乃〉位授〈末都良久止〉勅天皇御命〈乎〉諸聞食〈止〉宣。復勅〈久〉此〈乃〉世間〈乃〉位〈乎波〉樂求〈多布〉事〈波〉都〈天〉无一道〈尓〉志〈天〉菩薩〈乃〉行〈乎〉修〈比〉人〈乎〉度導〈牟止〉云〈尓〉心〈波〉定〈天〉伊末〈須〉。可久〈波阿礼止毛〉猶朕〈我〉敬報〈末川流〉和佐〈止之天奈毛〉此〈乃〉位冠〈乎〉授〈末川良久止〉勅天皇〈我〉御命〈乎〉諸聞食〈止〉宣。次〈尓〉諸大法師〈可〉中〈仁毛〉此二禪師等〈伊〉同心〈乎〉以〈天〉相從道〈乎〉志〈天〉世間〈乃〉位冠〈乎波〉不樂伊末〈佐倍止毛奈毛〉猶不得止〈天〉圓興禪師〈尓〉法臣位授〈末川流〉。基眞禪師〈尓〉法參議大律師〈止之天〉冠〈波〉正四位上〈乎〉授〈氣〉復物部淨〈之乃〉朝臣〈止〉云姓〈乎〉授〈末川流止〉勅天皇〈我〉御命〈乎〉諸聞食〈止〉宣。復勅〈久〉。此寺〈方〉朕外祖父先〈乃〉太政大臣藤原大臣之家〈仁〉在。今其家之名〈乎〉繼〈天〉明〈可仁〉淨〈伎〉心〈乎〉以〈天〉朝廷〈乎〉奉助〈理〉仕奉〈流〉右大臣藤原朝臣〈遠波〉左大臣〈乃〉位授賜〈比〉治賜。復吉備朝臣〈波〉朕〈我〉太子〈等〉坐〈之〉時〈余利〉師〈止之天〉教悟〈家流〉多〈乃〉年歴〈奴〉今〈方〉身〈毛〉不敢〈阿流良牟〉物〈乎〉夜晝不退〈之天〉護助奉侍〈遠〉見〈礼波〉可多自氣奈〈弥奈毛〉念〈須〉。然人〈止之天〉恩〈乎〉不知恩〈乎〉不報〈奴乎波〉聖〈乃〉御法〈仁毛〉禁給〈弊流〉物〈仁〉在。是以〈天〉吉備朝臣〈仁〉右大臣之位授賜〈止〉勅〈布〉天皇〈我〉御命〈乎〉諸聞食〈止〉宣。授參議從三位弓削御淨朝臣淨人正三位。爲中納言。正四位下道嶋宿祢嶋足正四位上。癸夘。勅。去六月爲有所思。發菩提心。歸无上道。因有靈示。緘器虔候。遂則舍利三粒見於緘器。數月感歎莫識所爲。朕聞。麟鳳五靈。王者嘉瑞。至徳之世。史不絶書。未見全身舍利如是顯形。有感必通。良有以也。朕以虚薄。兢懼歴年。撫育乖方。氷谷在惕。豈念。至道凝寂。應微情而示眞。圓性湛然。結靈光而表質。孤園絶跡。久矣驚心。雙林挽客。爛然滿目。玄珪緑字。何以同年。西法東流。知在茲日。猥荷希世之靈寳。盍同衆庶之歡心。宜可文武百官六位已下及内外有位加階一級。但正六位上者。廻授一子。其五位已上子孫年廿已上者。亦叙當蔭之階。普告遐邇知朕意焉。」授從五位下李忌寸元環從五位上。正六位上袁晋卿從六位上。皇甫東朝。皇甫昇女並從五位下。以舍利之曾奏唐樂也。乙巳。詔。法王月料准供御。法臣大僧都第一修行進守大禪師圓興准大納言。法參議大律師修行進守大禪師正四位上基眞准參議。丁未。授從四位上石上朝臣宅嗣正四位下。」備前國人外少初位下三財部毘登方麻呂等九煙賜姓笠臣。

十月一日に日蝕になっている。二日に大神朝臣田麻呂(宅女・杜女に併記)に外従五位下を授けて、豊後員外掾に任じている。「田麻呂」は、もと八幡大神宮禰宜が大神朝臣毛理賣(杜女)の時に、五位を授けられて神宮司に任ぜられたところ、「毛理賣」の偽りが発覚するに及んで、共に日向に遷されていたが、ここで本位に復している。

三日に「笠朝臣始」に従五位下を授けている。四日、員外の國司が任地に赴くことを一切禁止している。五日に左京の人である「壹難乙麻呂」に「淨上連」の氏姓を賜っている。八日に大伴宿祢御依(三中に併記)を出雲守に任じている。十九日に藤原朝臣繩麻呂に正四位上、藤原朝臣是公(黒麻呂)に従四位上、葛井連道依(立足に併記)に従五位上、弓削御淨朝臣塩麻呂(薩摩に併記)に従五位下を授けている。河内國の人である毘登戸東人(橘戸高志麻呂に併記)等九十四人に「高安造」の氏姓を賜っている。

二十日に隅寺(隅院)の毘沙門天像より現れた舎利を、法華寺(隅院近隣)に移して安置申し上げている。その儀式は各氏々のうち、壮年で顔かたちの優れた者を選び出し、五位以上の者二十三人、六位以下の者百七十七人が種々の幡と蓋を捧げ持ち、舎利の前後を行列してするものである。身に付ける衣服に、任意に金銀の飾りや朱・紫の色を用いることが許されている。

次のように詔されている(以下宣命体)・・・今天皇の仰せられるには、この上ない仏の法は、至誠の心を持って礼拝し尊び申し上げれば、必ずめずらしい不思議な験を現わしお授けになるものである。ところが今現れた如来の尊い立派な御舎利は、いつも拝見しているものより御色も光り輝いて大そう美しく、御形も円満で特にすばらしくおありなので、このような特別に神秘で不思議なことを考えることは極めて難しいことである。であるから、心の中で昼も夜も倦み怠らず、謹んで礼拝し、
お仕え申し上げている。---≪続≫---

これはまことに、仮の身については、因縁に従って救いを導き下されるにあたり、時を移さず行いに応じて慈しみ救い下されるということなのであろうと思っている。それにしても仏法を興隆させるには、人によって、継ぎ弘めるものである。だから諸々の大法師等を統率して、その上にいらっしゃる太政大臣禅師(道鏡)が道理に従って政事を勧め行わせ、教え導き下されたことによって、このように不思議な尊い験を現わされたのである。

ところがこのような尊くうれしい事を、どうして朕一人だけで喜ぶことができようかと思い、太政大臣である朕の大師に法王の地位を授けようと仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

また仰せになるには・・・俗世間の位を、願い求めるということは今までになく、ひたすら志して菩薩の行いを修め、人を救い導こうという気持ちを心に定めておいでになる。このようではあるが、なお朕の敬い、報い申し上げる行いとして、この地位をお授けしようと仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

次に、大法師たちの中でも、次の二人の禅師等は同じ心をもって、ともに従い、仏道を志し、俗世間の地位を願っておられないが、なおやむをえず圓興禅師に法臣の位をお授けする。基眞禅師(錦部寺に併記)には法参議・大律師として、位階は正四位上を授け、また物部淨之朝臣の氏姓をお授けする、と仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

また仰せになるには・・・この法華寺は、朕の外祖父である太政大臣藤原の大臣(不比等)の家である。今その家の名を継いで、明るく淨い心をもって朝廷をお助けお仕えしている右大臣藤原朝臣(永手)に左大臣の官職を処遇する。また吉備朝臣(眞備)は、朕が皇太子であった時より、師として教え悟して多くの年がたった。---≪続≫---

今は老年で身も自由にならないであろうと思われるのに、夜も昼も退出せずに護り助けてお仕えするのを見ると、ありがたいことと思う。ところが人として恩を知らず、恩に報いのないのは、聖人の法にも禁じていらっしゃることである。だから吉備朝臣(眞備)に右大臣の官職を授けると仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

参議の弓削御淨朝臣淨人(道鏡に併記)に正三位を授け、中納言に任じている。道嶋宿祢嶋足(丸子嶋足)に正四位上を授けている。

二十一日に次のように勅されている・・・去る六月、思うところあって仏道を求める心を起こし、この上なく優れた道に帰依したところ、不思議な啓示があり、密封した容器をつつしんでよく伺うと、ついに舎利三粒を密封した容器に現れた。感嘆しているうちに数ヶ月が過ぎたが、どうしてよいかわからない。朕は麒麟や鳳凰など五つの霊獣は、王者のめでたいしるしであると聞いている。德のみちた時代には、史書にその記録が絶えることがない。しかし完全な形の舎利がこのように姿を現わすことは、いまだかつて見たことがない。---≪続≫---

感応するということは、まことに理由のある事である。朕は少ない才能と浅薄な德をもって帝位につき、つつしみをおそれて年を経て来たが、人民を養い育てる方策を誤っており、常に薄氷を踏み、深谷に臨むような危うい心地である。だから、この上ない仏道が寂然として凝って舎利となり、朕の貧しい心情に応じて仏道の眞を示し、仏の円満な性格が静かに充足して舎利となり、霊妙な光を放ってその本質を表そうとは、思ってもみなかった。---≪続≫---

祇園精舎の跡が絶えてから、久しぶりに心を驚かすことである。沙羅双樹の林で釈迦の入滅を弔って以来、初めて明らかに舎利を見る。祥瑞である黒い玉と緑色の文字は、どうして同じ年に現れるであろうか。西方の仏法が東の日本に伝わるのは、この日であることを知った。---≪続≫---

みだりに世にまれな霊宝を身に受け、どうして多くの人民と共に歓ばないでいられようか。文武の全官人のうち、六位以下の者と中央・地方の有位の者に位階を一階加えよ。但し、正六位上の者には、本人ではなく、その子に授けるようにせよ。五位以上の者の子や孫で二十歳以上の者には蔭位の相当の位階を授けよ。広く遠近に告げて、朕の意向を知らせよ・・・。

李忌寸元環に従五位上、「袁晋卿・皇甫東朝・皇甫昇女」に従五位下を授けている。舎利の法会で唐楽を奏曲したからである。二十三日に詔されて、法王の月料を天皇の供御に、法臣・大僧都・第一修行進守で大禅師の圓興の月料を大納言に、法参議・大律師・修行進守で大禅師の基眞の月料を参議に准じさせている。

二十五日に石上朝臣宅嗣に正四位下を授けている。備前國の人である「三財部毘登方麻呂」等九戸に「笠臣」の氏姓を賜っている。

<笠朝臣始-雄宗-望足>
● 笠朝臣始

途切れることなく人材輩出の「笠朝臣」一族であるが、系譜は不詳のようである。直近では、山背國宇治郡の少領の笠臣氣多麻呂に朝臣姓を賜ったと記載されたり、同じ”氏姓”が異なる地を居処とする状況が生じている。

前記の日下部宿祢も同様であり、”氏姓”の表記に些か変化が生じているように感じられる。偶々なのか、意図的なのかは目下のところ判断しかねるが、留意すべき事柄のように思われる。

始=女+台=嫋やかに曲がって延びる山稜の端が耜のような形をしている様と解釈すると、図に示した場所が、この人物の出自と推定される。内位の従五位下を叙位されているが、この配置からすると「諸石」の系統だったのかもしれない。

後に笠朝臣雄宗が伊豫國員外掾に任じられている時に「白鹿」(白祥鹿)を献上したと記載されている。二階級特進して従五位下を叙爵され、後には能登守に任じられている。調べると御室の子、蓑麻呂の弟であったようである。

雄宗=羽を広げた鳥のような山稜の麓の谷間で高台となっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。尚、桓武天皇紀に小宗の表記で従五位下を叙爵されている。

更に後(光仁天皇紀)に笠朝臣望足が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であるが、名前の望足=足のような山稜が山稜を端の三角の地を見えなくしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。石川朝臣望足で用いられていた名前である。

<壹難乙麻呂>
● 壹難乙麻呂

関連する情報は殆ど見当たらずであるが、間違いなく渡来系の人物と思われる。既に左京には幾人かが、それぞれ氏姓を賜ったと記載されていた。

淳仁天皇紀に戸淨道(松井連)・斯﨟國足(清海造)、称徳天皇紀に維成澗(長井忌寸)が登場していた。右京も含めて、平城宮周辺は渡来人に取り囲まれていたと言っても過言ではない有様であろう。

さて、今回登場の人物は、その仲間かどうか、希少な名前を読み解いてみよう。壹難の「壹」=「蓋+壺+口」と分解される。地形象形的には「壹」=「壺のような谷間の口を蓋するように山稜が延びている様」と解釈した。魏志倭人伝に記載された邪馬壹國に用いられた文字である。

「難波」に用いられる「難」=「川が大きく曲がって流れる様」と解釈した。纏めると壹難=川が大きく曲がって流れている壺のような谷間の口を蓋するように山稜が延びているところと読み解ける。図に示した「松井連」などの居処の山稜を表していることが解る。”靈龜の首”辺りで現地名は田川市夏吉である。

乙麻呂乙=乙の形に曲がっている様であり、出自の場所を求めることができる。賜った淨上連の「淨」=「水+爪+ノ+又」=「水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様」であり、淨上=水辺で両腕のように取り囲んでいる山稜が盛り上がっているところと読み解ける。詳細な地形を表現している。

● 袁晋卿・皇甫東朝・皇甫昇女 李元環(清宗宿祢の賜氏姓)と同じく渡来系の唐楽演奏家として挙げられている。袁晋卿は、後に「清村宿祢」の氏姓を賜ったと知られている。おそらく「元環」の東隣辺りに住まっていたのではなかろうか。皇甫の二名も同様な境遇であったかと思われるが、関連する情報がないようである。

尚、天平八(736)年八月に、入唐して帰還した使者に随行して唐人三名・ペルシャ人一名が来朝、多分、その内の一人であろう「皇甫東朝」を十一月に叙爵したと記載されていた。後に改賜氏姓されることなく、従五位上に昇進、地方官(越中介)に任じられたりしている。「皇甫」は、唐において名家の一つであり、珍しい複姓である。

<三財部毘登方麻呂(笠臣)>
● 三財部毘登方麻呂(笠臣)

備前國の人物と記載されているが、賜った氏姓が「笠臣」である。備中國の「笠朝臣」とは無縁なのだが、少々込み入った様相となっている。

前記で藤野郡の再編が述べられたり、備前國の整備を急速に行ったと伝えているのであろう。既に述べたように備前國は、北へ北へとその領域を拡大して行ったのである。

三財部毘登に含まれる「三財部」は既出の文字列ではあるが、「財」=「貝+才」=「谷間の先が山稜によって遮られている様」と解釈する。三財部=三つ並んだ谷間を遮る山稜の近くにあるところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。

方麻呂方=四角く広がった様であり、谷間に挟まれた山稜の一つの地形を表していることが解る。その地がこの人物の出自と推定される。賜った笠臣は、背後の山稜の形をそのまま表現したものであろう。「笠朝臣」と全く類似する命名である。

十一月丁巳。正四位上藤原朝臣宿奈麻呂。正四位下藤原朝臣魚名並授從三位。從五位下諱從五位上。无位山邊王。石城王。若江王並從五位下。正五位上安倍朝臣息道。正五位下多治比眞人土作並從四位下。從五位上大伴宿祢伯麻呂正五位下。從五位下大原眞人嗣麻呂。百濟王理伯並從五位上。正六位上田口朝臣安麻呂。清原眞人清貞。息長眞人道足。粟田朝臣鷹守。輔治能眞人清麻呂。從六位上藤原朝臣種繼並從五位下。正六位上中臣伊勢朝臣子老外從五位下。无位小治田女王。正六位上伴田朝臣仲刀自。從六位下平群朝臣眞繼。大神朝臣東方。无位巨勢朝臣巨勢野。小野朝臣田刀自並從五位下。從六位下平野阿佐美。從七位上八坂造吉日並外從五位下。己未。以陸奥國磐城。宮城二郡稻穀一萬六千四百餘斛。賑給貧民。壬戌。贈正六位上村國連嶋主從五位下。嶋主者壬申年功臣贈外小紫男依之孫也。始仕仲滿任美濃少掾。寳字八年。遣使固關。嶋主内應先歸朝廷。勅使以其初逆黨。横加誅戮。死非其辜。故有此贈。」授從六位下美努連財女外從五位下。

十一月五日に藤原朝臣宿奈麻呂(良継)藤原朝臣魚名(鳥養に併記)に従三位、諱(山部王、後の桓武天皇)に從五位上、「山邊王・石城王・若江王」に従五位下、安倍朝臣息道多治比眞人土作(家主に併記)に従四位下、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)に正五位下、大原眞人嗣麻呂(繼麻呂。今木に併記)・百濟王理伯(①-)に従五位上、田口朝臣安麻呂(大戸に併記)・清原眞人清貞(大原眞人都良麻呂、淨原眞人淨貞)・息長眞人道足(廣庭に併記)・「粟田朝臣鷹守」・輔治能眞人清麻呂(和氣清麻呂)・藤原朝臣種繼(式家清成の子。藥子に併記)に従五位下、中臣伊勢朝臣子老(伊勢直族大江に併記)に外従五位下、「小治田女王・伴田朝臣仲刀自・平群朝臣眞繼」・大神朝臣東方(伊可保に併記)・「巨勢朝臣巨勢野・小野朝臣田刀自」に従五位下、「平野阿佐美・八坂造吉日」に外従五位下を授けている。

七日に「陸奥國磐城・宮城二郡」の籾米穀一万六千四百余石を貧民に与え救済している。十日に村國連嶋主に従五位下を贈っている。「嶋主」は『壬申の乱』の功臣である贈外小紫の「男依」(小依)の孫であった。初め「仲満(仲麻呂)」に仕えて美濃國の少掾に任ぜられた。天平字八年に乱が勃発した時、朝廷は使いを派遣して不破關を固めさせた。「嶋主」は内応して、真っ先に朝廷に帰順したが、勅使は初め「仲麻呂」の党派であったということで、不当にも誅殺した。死はその罪によるのではない。そこでこの贈位が行われたのである。また、美努連財女(財刀自[刀自の地形が不鮮明な故かも]。奧麻呂に併記)に外従五位下を授けている。

<山邊王・石城王・若江王>
● 山邊王・石城王・若江王

「山部王」以下四名の王が並んでいるのだが、前記と同様に(こちら参照)彼等の”仲間”、周辺の王達、即ち施基皇子の後裔だったのではなかろうか。「山部王」は登場間もなくで従五位上の昇進されている。

山邊王の「山邊」のは、期待通りに「山部王」のであろう。出自の場所は、「矢口王」の西側辺りと推定される。勿論、系譜は不詳、と言うか、敢えて伏せているのであろう。

石城王石城=山麓の区切られた地が平らになっているところと解釈すると、図に示した「山部王」の東側辺りと思われる。「白壁王」に所縁がありそうだが、これもあからさまにはされていないようである。

若江王は、前記で既に登場していた(❺)。重複記述か否かは定かではないが、前記との間で位階剥奪があったのかもしれない。敢えて記述したのは、「山部王」の仲間達であることを暗に示したのかもしれない。

<粟田朝臣鷹守-鷹主-廣刀自>
● 粟田朝臣鷹守

「粟田朝臣」一族も途切れることなく、有能な人材を輩出して来ている。直近では黒麻呂が従五位下を叙爵されて登場し、奔流の出自と推察される。

一方で、この一族での活躍が目立つのが、外従五位下からの叙位であった道麻呂であり、些か奔流の影が薄い感じなのである。ただ、「道麻呂」も非業の死を遂げており、名門「粟田朝臣」からの登用は必定であったもかもしれない。

そんな時代の流れなのであるが、「粟田」の狭い谷間に出自の場所を求めてみよう。既出の鷹=广+人+隹+鳥=山麓の谷間で山稜が二羽の鳥がくっ付いて並んでいるような形をしている様と読み解いた。頻出の守=宀+寸(肘)=肘を張ったように曲がる山稜に囲まれている様と解釈した。それらの地形を示す場所を図に示した。

「粟田朝臣」一族の中心人物であった「百濟」の近隣と思われる。巡り巡って元の地へ、でもなかろうが、確かに「粟田」の谷間も随分と埋まって来たようである。最終官位は従四位下・大藏卿であったと伝えれている。

後(光仁天皇紀)に粟田朝臣鷹主粟田朝臣廣刀自が従五位下を叙爵されて登場する。おそらく「鷹守」の兄弟かと思われるが、鷹主=[鷹]の地で山稜が真っ直ぐに延びいているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。頻出の女性の名称である「廣刀自」の地形を図の場所に確認することができる。この後、續紀に登場されることはないようである。
 
<輔治能眞人清麻呂>
● 輔治能眞人清麻呂

和氣清麻呂の別名である。「輔治能(フジノ)」と読むらしい。また、「統ける力のある」と訳すこともできるかもしれない。褒めた命名であろう。

更に輔治能=水辺で耜のような山稜から延び出て広がった地の隅にあるところと解釈される。読み、漢字の持つ意味、そして地形象形の三拍子そろった名称、万葉の表記に酔いしれた、のであろう。

備前國藤野郡に関連する記述によって、地形象形表記が一貫して行われていると解釈することが確信されたように思われる。当時の地形が、そのままでもなくても、その原形を留めている間に、万葉歌も読み解けることを願うばかりである。

「廣虫」の登場に併せて「清麻呂」の出自を求めたが、従五位下を叙位されて漸く歴史の表舞台に現れたようである。奈良時代末期の重要人物の一人と思われる。尚、神護景雲三(769)年五月に「從五位下吉備藤野和氣眞人清麻呂等賜姓輔治能眞人」と記載されている。

● 小治田女王 天平四(732)年正月に「小治田王」が従五位下を叙爵されて登場している。出自に関連する情報は見当たらず、古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)と豐御食炊屋比賣命(推古天皇)との間に誕生した小治田王の場所を出自とした人物では、と推察した。この女王も同じ状況であり、多分、その近辺を出自としたのではなかろうか。

<伴田朝臣仲刀自>
● 伴田朝臣仲刀自

朝臣姓を賜っているのだが、記紀・續紀を通じて初見であり、また、関連する情報も見当たらず、謎の氏族の状況である。辛うじて確認されたのは、聖武天皇紀に外従五位下を叙位された楢原造東人の一族と関係があったことである。

この人物は、孝謙天皇紀に赴任先の駿河國で黄金を採取し、献上したと記載され、一族等に「伊蘇志(勤)臣」の氏姓を賜っている。最終正五位下・大学頭(博士)となったと伝えられている。この一族から派生したのが「伴田朝臣」だったのかもしれない。

伴田朝臣伴田=谷間が二つに分けた平らにされたところと読み解くと、図に示した場所を表していると思われる。「伊蘇志臣」の南側で山稜が長く延びた地である。名前の仲刀自=谷間を突き通すように端が刀の形をした山稜が延びているところと解釈される。

續紀中に「伴田」は三度出現するが、全て「仲刀自」に関わるものであり、他の人物の登場は見られないようである。そんな状況下での推論であり、また、後日に関連する情報があれば加筆修正してみようかと思う。

<平群朝臣眞繼-臣足>
● 平群朝臣眞繼

「平群朝臣」には二系統があり、一つは遣唐使として活躍した「廣成」は、古事記の平群都久宿禰が祖となった「平群臣」の後裔一族、もう一つは「佐和良臣」の後裔一族である「人足」等が登場していた(こちら参照)。

「廣成」の帰朝が漂流などによって大きく遅れたことが、その系列のその後に多大な影響を及ぼしたようである。その間隙を突いたかのように、「佐和良臣」の後裔である「安麻呂」等の系列の登用が盛んになったのであろう。

眞繼=山稜が寄り集まった窪んだ地に山稜が連なって延び出ているところと読み解くと、図に示した場所がその地形を示していると思われる。後に従五位上に昇進されたと記載されている。いずれにせよ「平群朝臣」一族からの女孺としては、希少な存在だったのではなかろうか。

後(光仁天皇紀)に平群朝臣臣足が従五位下を叙爵されて登場する。臣足=[目]のように細長く窪んだ地に[足]のような山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。ここを出自とする人物だったと思われる。

<巨勢朝臣巨勢野-池長>
● 巨勢朝臣巨勢野

巨勢、巨勢と並んでいる名称、「巨勢朝臣」の、そもそもの中心地を出自とする女性だったと思われる。巨勢朝臣の嫡流と言えば、「徳太」大臣の系譜が書紀・續紀前半に全盛期を迎えていた(こちら参照)。

勿論、途切れることはなく、参議・公卿に名を列ねる人物が登場している。おそらく、その系列に属する女孺だったと思われるが、定かではないようである。

巨勢野の勢=山稜に挟まれて丸く小高くなっている様であり、その「勢」の麓で野が広がっているところを表していると思われる。図に示した場所が出自と推定される。

この人物は、この後幾度か登場され、命婦で正四位下まで昇進されている。また、没年が記載されていて、延暦元(782)年十二月とされている。本人の資質もさることながら、巨勢朝臣奔流の出身だったのであろう。

直後に巨勢朝臣池長が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、何とも特徴のない名前の持ち主であろう。池長=くねって曲がる水辺が長く続いているところと解釈される。「巨勢朝臣」の地では至るところに見出せる地形である。敢えてその地形を強調した表記とすると、図に示した場所を表しているのではなかろうか。たの情報が見当たることを祈って、当面、出自場所としておこう。

<小野朝臣田刀自-河根>
● 小野朝臣田刀自

「小野朝臣」一族は、全く途切れることなく登用されて高位に就くが、公卿・参議には至っていない。直近では竹良(小贄に併記)が「仲麻呂の乱」での功績で勲四等を授与されて従四位下まで昇進している。

また、女孺としての登場は極めて稀で、「田刀自」が初見かもしれない。小野の谷間一つ一つに各人が配置されつつある状況が、右図を参照するとよく分かる。

田刀自=山稜の端が[刀]の形をしている前で平らになった地があるところと読み解くと、図に示した場所が出自と思われる。「刀」の地形として、この場合は古文字形を用いている。現在では鉄道・道路が走っているが、当時は山麓がなだらかに広がっていたのであろう。續紀に二度と登場されることはないようである。

後(桓武天皇紀)に小野朝臣河根が従五位下を叙爵されて登場する。河根=[根]のような山稜の前で谷間が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。石根の子のようにも思われるが、定かではない。

<平野阿佐美>
● 平野阿佐美

「平野」の文字列は、記紀・續紀を通じて人名・地名として唯一の登場である。ずっと後の時代になれば平野氏が現れるのであるが、この時代の人物との繋がりは、皆目である。

唯一の手掛かりは、後の時代の地名であろう。すると攝津國住吉郡に関わる場所であることが分かった。既にこの郡は、現地名の行橋市矢留、矢留山山塊の西南側を表す場所と読み解いた。

ここまで絞り込めれば・・・とは言え、標高差が少なく少々判別し辛い状況なのだが、犀川(今川)東岸に平野の地形を見出すことができる。そして名前の阿佐美=左手のような形をした台地が谷間から広がり延びたところと読み解ける。

その地形を図に示した場所に確認することができる。多分、この人物は手の先辺りを出自としていたのではなかろうか。以前にも述べたが、續紀は九州島東北部に隈なく人々を配置して行くのであろう。それとのお付き合い、である。

<八坂造吉日>
● 八坂造吉日

「八坂」は、記紀では幾度か登場する極めて重要な地名であるが、續紀では初見、そして最後の出現である。この地からの人材登用は殆どなされなかったようである。

その場所は、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の子、八坂之入日子命、大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が娶った八坂之入日賣の出自の場所と思われる。現地名は、北九州市八幡東区・西区の端境である。

名前の吉日=太陽のような山稜が蓋をするように延びているところと解釈した。藤原朝臣吉日に用いられていた。図に示した場所、現在の花尾中学校があるところと推定される。花尾山から延びて、可頭山の麓をぐるりと取り巻きくように延びた山稜の上である。

余談だが、「八坂(ヤサカ)」=「ヤ(八百万の神)|サ(佐る)|カ(処)」=「祇園」と繋げたことを思い出す。洞海湾を見下ろす巨大な谷間である。書紀が、渾身の筆さばきで暈した場所なのである。續紀は、取り敢えず触らぬ神に祟りなし、女孺の登場で済ませているようである。

<陸奥國:磐城郡・宮城郡>
陸奥國:磐城郡・宮城郡

「磐城郡」は「石城國」と陸奥國から分割されたが、その後また復したのであろう。元正天皇紀に「石城國」は、「石城郡・標葉郡・行方郡・宇太郡・曰理郡」及び「常陸國菊多郡」の一部を属させたと記載されていた(こちらこちら参照)。

大幅に地形が変化している地域であって、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、各郡の配置を求めた。思い他に素直に配置されていることが分かる。

陸奥國に復すると同時に郡名表記を変更したのであろう。磐城郡は上記の「石城郡」を、宮城郡宮城=谷間の奥まで積み上げられた地が平らに整えられているところと解釈される。おそらく石城國分割時では「宇太郡」に含まれていたのではなかろうか。ただ、「宮城郡」は二度と續紀中に登場することはないようである。

現在に用いられている地名、「宮城」や「曰(亘)理」がここで登場している。明治十一年の行政区画整備の一環で名付けられた地名である。766年から1,878年、およそ1,100年間の空白を経た後の出来事である。日本の歴史には、多くの空白があるが、それを埋める気がない・・・いや、できないのかもしれない。

十二月乙酉。和泉國人外從五位下高志毘登若子麻呂等五十三人賜姓高志連。癸巳。幸西大寺。无位清原王。氣多王。梶嶋王。乙訓王並授從五位下。從四位下藤原朝臣田麻呂從四位上。正五位下大伴宿祢伯麻呂正五位上。從五位上豊野眞人出雲正五位下。從五位下豊野眞人奄智從五位上。正六位上豊野眞人五十戸從五位下。從五位下多治比眞人若日女正五位下。外從五位下桧前部老刀自外從五位上。丁酉。大和國人正八位下秦勝古麻呂等四人賜姓秦忌寸。己亥。從五位下漆部直伊波爲大和介。壬寅。因幡國博士少初位上春日戸村主人足獻錢百万。因幡國稻一万束。授其父從六位下大田外從五位下。人足從六位下。癸夘。外從五位下中臣伊勢連大津賜姓伊勢朝臣。丙午。復无位村國連虫麻呂本位外從五位下。戊申。右京人正七位下清野造牛養等十二人賜姓清野連。」授正五位下多可連淨日女從四位下。己酉。震大安寺東塔。庚戌。美作國人從八位下白猪臣大足賜姓大庭臣。辛亥。陸奥國人正六位上名取公龍麻呂賜姓名取朝臣。是年。民私鑄錢者。先後相尋。配鑄錢司駈役。並皆著鈴於其釱。以備鳴追捕焉。

十二月四日に和泉國の人である高志毘登若子麻呂ら五十三人に高志連の姓を賜っている。十二日に「西大寺」に行幸され、清原王(長嶋王に併記)・「氣多王・梶嶋王・乙訓王」に従五位下、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)に従四位上、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)に正五位上、豊野眞人出雲(出雲王)に正五位下、豊野眞人奄智(奄智王)に従五位上、豊野眞人五十戸(猪名部王、別名五十戸王)に従五位下、多治比眞人若日女(若日賣)に正五位下、「桧前部老刀自」に外従五位上を授けている。

十六日に大和國の人である「秦勝古麻呂」等四人に「秦忌寸」の姓を賜っている。十八日に漆部直伊波を大和介に任じている。二十一日に因幡國の博士である「春日戸村主人足」は銭百万文と稲一万束を献上したので、その父の「大田」に外従五位下、「人足」には従六位下を授けている。二十二日に中臣伊勢連大津(伊勢直族大江に併記)に「伊勢朝臣」の氏姓を賜っている。二十五日に無位となっていた村國連虫麻呂(子虫に併記)を、もとの位階の外従五位下に戻している。

二十七日に右京の人である清野造牛養(大友村主廣公に併記)等十二人に「清野連」の姓を賜っている。また、多可連淨日女(高麗使主淨日)に従四位下を授けている。二十八日に大安寺の東塔に落雷があったと記している。二十九日に美作國の人である「白猪臣大足」に「大庭臣」の氏姓を賜っている。三十日に陸奥國の人である「名取公龍麻呂」に「名取朝臣」の姓を賜っている。

この年、人民で贋金を作る者が相次いで現れたので、それらを捕らえて鋳銭司に配属して使役している。全て足枷に鈴を付けて逃走に備え、逃走した時は鈴の鳴る音を聞いて追い捕らえている。

<西大寺・飯盛山・西隆寺>
西大寺・西隆寺

記紀・續紀を通じて初見の寺である。孝謙天皇の肝入りの寺院であるが、續紀中では、その建立の経緯など、殆ど省略されているようである。東大寺(東の大寺)に対して「西大寺」は、その”西方の大寺”とされているが、詳しくは下記に述べることにする。

数少ない関連情報であるが、寶龜元(770)年二月に「丙辰。破却西大寺東塔心礎。其石大方一丈餘。厚九尺。東大寺以東。飯盛山之石也・・・」と記載されている。

要するに、3m四方で厚さが2.7mの巨石を心礎に用いていたのだが、それを砕いて適当な大きさに変えた。砕いた小石を道に捨てるなど、粗末に扱ったら祟りがあった、と言う、少々神懸かりなお話しのようである。その巨石を動かすのに数千人以上を要したとも述べている。

この逸話は何を告げようとしているのであろうか?…巨石を採取した山の名前も記載されている。「東大寺」の東方にある飯盛山、図に示した場所に”飯を盛ったような山稜”が見出せる(現在は些か変形しているが)。その山の麓を御祓川が流れているのが確認される。「西大寺」の心礎にするために船載移送を行ったのである。即ち、「西大寺」は御祓川下流域の川沿いにあることを暗示していると思われる。

「東大寺」は、”都の東方にある大寺”を示すのであろう。しかしながら、既に述べたように東=突き通すような様の地形象形表記であり、本来の名称、「金鍾寺」の金鍾=三角形に尖った高台が鐘を突くように見えるところの別表記だったのである。

とするならば、「西大寺」は、”東大寺の西方にある大寺”とすると同時に「西」も地形象形表記をしているのではなかろうか。西=笊(ザル)の形を模した文字である。図に示した場所にその地形を見出せる。御祓川の流域が現在の形に治まるまで、大きく蛇行していた場所と推察される。その「笊」の脇の高台に「西大寺」があったと推定される。

少し後に西隆寺(尼寺)の造営が開始されたと記載されいている。法隆寺の「法隆」=「水辺で四角く囲まれた窪んでいる地の先で小高く盛り上がっているところ」に類似して、西隆=笊(ザル)の形をした地の先で小高く盛り上がっているところと読み解ける。図に示した辺りに建立されたと思われる。

<氣多王・梶嶋王・乙訓王>
● 氣多王・梶嶋王・乙訓王

調べると鈴鹿王の系列であったと言われているようである。ならば既に臣籍降下して豊野眞人の氏姓を賜っていた出雲王等の近隣が出自と思われる。

少々広い谷間ではあるが、果たして残された場所は存在するのか?…臆することなく当て嵌めてみよう。

氣多王氣多=山稜の端がゆらゆらと延びているところ梶嶋王梶嶋=山稜の延び出た端が鳥の形をしているところ乙訓王乙訓=乙の字形に耕地が筋のように連なっているところと読み解ける。

それぞれの出自の場所を図に示した。「梶嶋王」の「梶」=「木+尾」であり、「尾張王」の「尾」に繋がる表記であろう。勿論、出自場所は近接していることになる。氣多王・乙訓王もそれぞれの名前が示す地形に無理なく納まっていることが解る。いずれにしても、正に谷間一つに一人の王の有様である。

<上野國佐位郡:桧前部老刀自>
上野國佐位郡

外従五位下を叙爵された桧前部老刀自に関しては、神護景雲元(767)年三月に「同(上野)國佐位郡人外從五位上桧前君老刀自上毛野佐位朝臣」と記載されている。

「上野國佐位郡」は、勿論初見であり、先ずはその場所を求めることにする。前記で碓氷郡甘樂郡が登場していたが、その周辺の地域と思われる。

既出の文字列である佐位=谷間にある左手のような山稜(佐)の傍らに谷間が並んでいる(位)ところと読み解ける。地形の凹凸が少なくて見辛いが、図に示した場所にその地形を見出せる。「佐位郡」は碓氷郡の東、甘樂郡の北に接していたことが解る。

● 桧前部老刀自(上毛野佐位朝臣) 既出の桧(檜)前=山稜が出会う地が前にあるところと解釈した(こちら参照)。図に示した場所と推定されるが、何とも壮大な「桧前」であろう。以前にも述べたように出会う場所は、当時は海面下にあったと推測した。図から分かるように、この巨大な湾には北から陸奥國、常陸國、上野國、そして紀伊國が面していたのである。

それはともかくとして、名前の老刀自=海老のように曲がって延びる山稜の端で刀の形をしたところと読み解ける。出自の場所を図に示した。碓氷郡の石上部諸弟、甘樂郡の物部公蜷淵・牛麻呂(旧名は磯部牛麻呂)等が隣人であったわけである。翌年に賜った上毛野佐位朝臣に含まれる頻出の上毛野=盛り上がった(上)鱗のような地(毛)が広がった(野)ところと読むと、「佐」の地形をより詳細に表記していることが解る。

<秦勝古麻呂・秦忌寸蓑守>
● 秦勝古麻呂(秦忌寸)

「秦忌寸」は、主として山背國葛野郡に蔓延った一族に賜った氏姓である(例えば、こちらこちら参照)。ここでは”大和國”と冠されていて、別の系列であることを示唆しているようである。

「桑原連」が登場した時に、書紀の神功皇后紀の記述に葛城襲津彥が新羅遠征時に捕虜とした漢人を住まわせた地名に「桑原・佐糜・高宮・忍海」があり、彼等の出自の地を大和國葛上郡に求めた。

「桑原連(公)・桑原直」は、「桑原」の地に広がった漢人の後裔として理解される。あらためて「佐糜」が表す地形は、糜=谷間にある左手のような擦り潰された山稜に米粒のような小高い地があるところと解釈すると、図に示した、現在の熊野神社が鎮座している高台を表していることが解る。

前記で桑原毘登として、「桑原連(公)・桑原直」と区別されていたことに繋がっていることが分かる。すると、「高宮」に住まった一族は、また別の系列として存在していたことになろう。高宮=皺が寄ったような山稜(高)に囲まれた谷間の奥まで積み重なっている(宮)ところであり、図に示した山稜を表している。古事記の玉手岡の一部に当たる場所である。

秦勝古麻呂の「秦勝」は「高宮」の山稜を示していることが解る。そして古麻呂古=丸く小高い様の地形を図に示した場所に見出せる。賜った秦忌寸は、彼等の居処の地形に基づく名称なのである。

直後に秦忌寸蓑守が外従五位下を叙爵されて登場する。物語の流れから、元来の「秦忌寸」(上記参照)の居処ではなかろう。蓑=艸+冉+衣=山稜が[蓑]のような形をして垂れ下がって延びている様、頻出の守=宀+寸=両肘を張ったように山稜が延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<春日戸村主人足-大田>
● 春日戸村主人足・大田

因幡國の住人の具体的な名称は、初見ではなかろうか。『八色之姓』で伊福部連に宿祢姓を賜ったと記載されたのみであった。

直近では和氣王が因幡國の掾に任じられていたと記載されたりするが、その地の人物の登場は皆目である。いずれにせよ、最近の記述は過疎地の人材を記す傾向にあるようである。

見慣れた「春日」について、少し詳細に述べてみよう。勿論、邇藝速日命の子孫が蔓延った地と類似の地形を表しているには違いない。「春」=「艸+屯+日」=「草のように延び出た山稜が[炎]のように細かく岐れている様」と解釈する。もう一つの「日」は何と解釈するのか?…「日」=「山稜が太陽のように見える様」と表現してみると、春日=太陽のような山の前で延び出た山稜が[炎]のように細かく岐れているところと読み解ける。

本家の春日では戸城山が、大倭國添下郡の春日離宮では岩石山が”太陽”の役割を果たしているのである。その地形を求めると図に示した場所が見出せる。残念ながら山の名前は不詳だが、湯川山南西麓にある嶺、実に見事な形をしていることが確認される。春日戸の「戸」は見ての通りに谷間を塞ぐように延びている様子を表している。

人足=谷間が足にような形をしているところ大田=平らな山稜が区分けされているところと解釈すると、この親子の居場所を突止めることができる。地道に財を成した父親に才気煥発の息子が昇位をもたらしたのであろうが、この後續紀に親子の登場は見られない。

<白猪臣大足-證人>
● 白猪臣大足(大庭臣)

「美作國」の住人、具体的な人物名は初見であろう。元明天皇紀に「割備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國」とあり、「備前國」から誕生した國であった(こちら参照)。

繰り返すようだが、「備前國」の六郡を「美作國」に属させたのではない。「備前國」が北へ北へと領域を拡げるに従って、後に、この六郡を「美作國」に転属したのである。

白猪臣大足が賜った大庭臣は、勿論、六郡に含まれる「大庭郡」に関わる氏姓であろう。大庭=平らな頂の山稜の麓で平らに延び広がったところと解釈した。その「大庭」の更なる詳細な地形を「大足」が示していると思われる。

既出の文字列である白猪=平らな地が交差する(猪)ように延びてくっ付いている(白)ところと読み解ける。「大庭」の端が二つに岐れている様を表している。その地形を大足と表記していることが解る。少し後に「美作國大庭郡人外正八位下白猪臣證人等四人賜姓大庭臣」と記載されている。例によって、詳細を後述とする續紀である。

白猪臣證人に含まれる初見の文字、「證」=「言+登」と分解すると、頻出の文字要素から成っていることが分かる。地形象形表記として、「證」=「丸く小高い地から耕地が二つにわかれて延びている様」と解釈される。纏めると證人=谷間にある丸く小高い地から耕地が二つにわかれて延びているところと読み解ける。「大足」の東側を表していることが解る。全て、丸く収まったようである。

<陸奥國名取郡・名取公龍麻呂>
<吉弥侯部老人>
陸奥國名取郡

「名取郡」として表記されるのは、後の神護景雲二(768)年になってからであり、また一度のみの登場でもある。具体的な人名まで記載されているが、詳細はその時としよう。

既出の文字列である名取=山稜の端が耳のような形をしているところと解釈される。陸奥國は、当時の地形が大きく変化した場所であり、判別が些か難しくなるのであるが、図に示した山稜の端に、その地形を見出せる。

前出の宮城郡・磐城郡の東側、柴田郡の南側に当たる場所である。書紀の持統天皇紀に「優𡺸曇郡」と記載され、出家を申し出た「城養蝦夷」の「脂利古・麻呂・鐵折」が住まっていた場所と推定した(こちら参照)。

● 名取公龍麻呂(名取朝臣) 名前の龍麻呂から「龍」の形をした図に示した場所場所が出自と思われる。「城養蝦夷」等との関係は、知る術もないが、蝦夷教化の結果かもしれない。いずれにせよ、陸奥國は、既に石城國を分割した後に復するなど幾多の変遷があったと伝えている。住人等も極めて流動的だったようである。

少し後に吉弥侯部老人上毛野名取朝臣の氏姓を賜っている。既出の文字列である吉弥侯部=蓋をするように弓なりに広がった山稜の先が矢のようになっているところと解釈した。また老人=谷間が海老のように曲がっているところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。上毛野=上流域ある鱗のように広がったところと解釈すると、「龍麻呂」とは別系列の一族であったことを示しているのであろう。
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『續日本紀』巻廿七巻尾