高野天皇:称徳天皇(10)
神護景雲元年(西暦767年)正月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。
神護景雲元年春正月己未。勅。畿内七道諸國。一七日間。各於國分金光明寺。行吉祥天悔過之法。因此功徳。天下太平。風雨順時。五穀成熟。兆民快樂。十方有情。同霑此福。」」尚膳從三位小長谷女王薨。三品忍壁親王之女也。己巳。御東院。詔曰。今見諸王。年老者衆。其中或勤勞可優。或朕情所憐。故隨其状。並賜爵級。宜告衆諸令知此意焉。无位依智王。篠嶋王。廣河王。淨水王。名方王。調使王。飯野王。鴨王。壹志濃王。田中王。八上王。津守王。名草王。春階王。中村王。池原王。積殖王。高倉王。礒部王。長尾王。淨名王並授從五位下。」從五位上百濟王理伯正五位上。外正五位下大原連家主。外從五位下池原公禾守。正六位上弓削御淨朝臣廣方。大野朝臣石本。文屋眞人忍坂麻呂。三嶋眞人嶋麻呂。藤原朝臣雄依。藤原朝臣長道。石川朝臣眞人。石川朝臣名繼。石上朝臣眞足。大原眞人年繼。石川朝臣人麻呂。巨勢朝臣苗麻呂。當麻眞人永嗣。從六位上安倍朝臣草麻呂。正六位上佐伯宿祢家主。川邊朝臣東人。吉備朝臣眞事。笠朝臣乙麻呂並從五位下。正六位上林連雑物。船連庭足。堅部使主人主。從六位上昆解沙弥麻呂。正六位上高屋連赤麻呂。秦忌寸蓑守。品治部公嶋麻呂。難破連足人並外從五位下。」從四位下藤原朝臣家子正四位下。庚午。无位廣田王。三笠王。神王並授從五位下。從五位下大伴宿祢益立正五位下。從五位下多治比眞人小耳從五位上。正六位上中臣朝臣子老。巨勢朝臣池長。石川朝臣清麻呂。上毛野朝臣稻人。榎井朝臣祖足。阿倍朝臣小東人。從六位上大春日朝臣五百世。大宅朝臣廣人並從五位下。正六位上土師宿祢位。土師宿祢田使並外從五位下。癸酉。授正六位上阿倍小殿朝臣人麻呂從五位下。復无位上毛野公眞人本位外從五位下。正六位上上部木。甲眞高。從七位下丹比宿祢眞嗣並外從五位下。己夘。尾張國飢。賑給之。
神護景雲元年正月八日に次のように勅されている・・・畿内及び七道の諸國は、七日の間、各々の國分寺である金光明寺で吉祥天悔過の法を行え。この功徳によって天下が太平になり天候が順調で、五穀が成熟し万民は快く楽しく暮らして、諸方の生き物が、同じようにこの福徳をこうむることができるであろう。尚膳の小長谷女王が亡くなっている。三品の忍壁親王の娘であった。
十八日に東院に出御されて、次のように詔されている・・・今、諸王を見てみると、年老いた者が多い。その中には働きを誉めるべき者や、或いは朕が心中、憐れに思っている者がいる。そこでその状態に従って、それぞれに位階を授ける。諸々の人々に告げてこの意図を知らせるように・・・。
「依智王・篠嶋王・廣河王・淨水王・名方王・調使王・飯野王・鴨王・壹志濃王・田中王・八上王・津守王・名草王・春階王・中村王・池原王・積殖王・高倉王・礒部王・長尾王・淨名王」に從五位下、百濟王理伯(①-⓭)に正五位上、大原連家主(大原史遊麻呂に併記)・池原公禾守・「弓削御淨朝臣廣方」・大野朝臣石本(眞本に併記)・文屋眞人忍坂麻呂(水通に併記)・「三嶋眞人嶋麻呂」・藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)・「藤原朝臣長道・石川朝臣眞人」・石川朝臣名繼(眞守に併記)・「石上朝臣眞足・大原眞人年繼・石川朝臣人麻呂」・巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)・當麻眞人永嗣(得足に併記)・安倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)・佐伯宿祢家主(眞守に併記)・「川邊朝臣東人」・吉備朝臣眞事・笠朝臣乙麻呂(不破麻呂に併記)に從五位下、「林連雑物・船連庭足」・堅部使主人主(田邊公吉女に併記)・昆解沙弥麻呂(宮成に併記)・高屋連赤麻呂(並木に併記)・秦忌寸蓑守(秦勝古麻呂に併記)・「品治部公嶋麻呂」・難破連足人(難波藥師惠日に併記)に外從五位下、藤原朝臣家子(百能に併記)に正四位下を授けている。
十九日に「廣田王・三笠王・神王」に從五位下、大伴宿祢益立に正五位下、多治比眞人小耳に從五位上、「中臣朝臣子老」・巨勢朝臣池長(巨勢野に併記)・石川朝臣清麻呂(眞守に併記)・上毛野朝臣稻人(馬長に併記)・「榎井朝臣祖足・阿倍朝臣小東人・大春日朝臣五百世」・大宅朝臣廣人(廣麻呂に併記)に從五位下、「土師宿祢位・土師宿祢田使」に外從五位下を授けている。
二十二日に阿倍小殿朝臣人麻呂(淨足に併記)に従五位下を授けている。無位の上毛野公眞人に本位である外従五位下に復させている。「上部木甲眞高・丹比宿祢眞嗣」に外従五位下を授けている。二十八日に尾張國で飢饉が起こったので物を与えて救っている。
● 依智王・篠嶋王・廣河王・淨水王・名方王・調使王・飯野王・廣田王・三笠王
年老いたり、憐れに思う諸王を一挙に登場させている。当然ながら今では、系譜不詳となって出自場所の推定に難儀することになる。
そんな状況で系譜が知られている王等を調べてみると、施基皇子・舎人親王(和氣王)・長屋王の後裔等が含まれいていることが分かった。
和氣王・長屋王系列は、憐れに思う諸王なのであろう。これ以外に挙げられた諸王を未だ登場していない谷間に当て嵌めてみることにする。前記で、現在の味見峠に向かう谷間を、『仲麻呂の乱』に対する褒賞で登場した多くの諸王・諸女王の出自場所と推定した(こちら、こちら参照)。
この谷間の北側、古事記の小長谷若雀命(武烈天皇)で記載された”小長谷”の場所であり、書紀の天武天皇の紀皇女(續紀では紀朝臣竃門娘)の出自の谷間がすっぽりと空いていることに気付かされる。と言うことで、各王の名前が表す地形を求めると・・・、
❶依智王:依智=谷間にある山稜の端が鏃と炎の形になっているところ
❷篠嶋王:筋になっている山稜が鳥のような形になっているところ
❸廣河王:水辺で谷間の出口が広がっているところ
❹淨水王:水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる麓を川が流れているところ
❺名方王:山稜の端が四角く広がっているところ
❻調使王:谷間で耕地に囲まれた地を突き通すように山稜が延びているところ
❼飯野王:なだらかに延びた山稜の麓に野が広がっているところ
❽廣田王:平らに整えられた地が広がっているところ
❾三笠王:笠のような山稜が三つ重なっているところ
・・・と読み解ける。上図に示したように、これらの諸王の出自場所を配置できることが解る。谷間の入口辺りには、既に臣籍降下した常陸王・平群王(志紀眞人)等が登場し、その谷奥にひっそりと暮らしていた王等、及び谷間を出た場所として求められたように思われる。最後の「三笠王」の地形象形は、実に明瞭であろう。
ところで、上記の王等の配置を求めている時に、左上の隅にある谷間は、未だ誰も出自の場所としていないかも、と眺めていたのだが・・・直後に婢の清賣を解放して忍坂の氏を授けたと記載されている。間違いなく、王等の西側の谷間は「忍坂」であろう。
「清(淸)」=「水辺で四角く区切られた様」、「賣」=「出+网+貝」=「出口が塞がった谷間から出ている様」とすると、淸賣=出口が塞がった谷間から出ている水辺で四角く区切られたところと読み解ける。この地が出自だったのであろう。
● 鴨王・壹志濃王・神王・田中王・八上王
これ等の王等は、系譜が知られていて施基皇子の後裔であったようである。但し、「田中王」については、調べた範囲で素性は定かではなくが、列挙された中に入っていることから、この仲間に入れることにした。
既に山部王を筆頭にして九名の王が登場していたが(こちら、こちら参照)、系譜が知られている王は少なかったのだが、何故かご本人の登場は殆ど見られない「湯原王」の系列がここで記載されている。と言うことで、各王の名前が表す地形を求めると・・・、
❶鴨王:鴨=甲羅のように盛り上がった地が鳥の形をしているところ
❷壹志濃王:壹志濃=蓋をするように延びる山稜の麓を蛇行してい流れる川の先で二枚貝が舌を出した形をしたところ
❸神王:神=高台が長く延びているところ
❹田中王:田中=平らに整えられた地に突き通すように山稜が延びているところ
❺八上王:八上=山稜の端が二つに岐れた谷間で盛り上がっているところ
・・・と読み解ける。図に示した場所が、各々の王等の出自と推定される。尚、「高田王」ついては、施基皇子の子と推定したが(一説では「春日王」の子)、上記の配置に従うと「鴨王」の父親だったと思われる。地形象形表記が正確であり、間違いないであろう。
● 津守王・名草王・春階王・中村王
「津守王」は、「船王」の孫(父親は葦田王。船王の山稜の北側の谷間が出自)であり、『仲麻呂の乱』に連座して配流(丹後國)されたと知られている。
「名草王」については、後の寶龜二(771)年九月に「和氣王男女大伴王。⾧岡王。名草王。山階王。采女王並復属籍」と記載されていて、「和氣王」の子であることが分かる。
「春階王」は、上記に含まれる「山階王」の別名ではなかろうか。最後の「中村王」は、関連する情報もなく、この後に登場されることはないが、「船王・和氣王」に関わる人物かと思われる。
津守王の津守=水辺で筆のような山稜の麓にある両肘を張ったような形をしたところと読み解ける。津守連一族で用いられた文字列である。推定した出自場所を図に示した。「船」の地形を「津」で言い換えた表記であろう。
名草王の名草=山稜の端に丸く小高い地があるところと読むと、図に示した場所が見出せる。春階王の春階=[炎]のように山稜が延び出た地が段々に連なっているところと読み解ける。別名の山階王は、「山」=「炎」を表していると思われる。「和氣王」の男として申し分のない配置であることが解る。
中村王の中村=手のような山稜が突き通すように延びているところと解釈すると、現在の須佐神社がある山稜の端辺りを表している思われる。位置的には細川王の子だったのかもしれない。ここで登場した各王は、草壁皇子及びその子の輕皇子の出自に隣接する場所を居処としていたのである(こちら参照)。がしかし、決して重なることはないように思われる。
関連する情報は全く見当たらず状況であるが、「池原王」の「池原」については、天武天皇の忍壁(刑部)皇子の子である「山前(隈)王」の娘に「栗前枝女」がいたことが知られている(こちら参照)。
續紀では、後の寶龜十一(780)年八月に「池原女王」と改名されて従五位下を授けられたと記載されている。即ち、池原王は、この「栗前枝女」の近隣を出自としていたのではなかろうか。
すると積殖王の積殖=山稜が真っ直ぐに延びて尽きる地が積み重なって小高くなっているところの地形を図に示した場所に見出せる。書紀の天武天皇紀に登場した積殖山口の解釈そのものである。多分、栗前(連)一族の娘に産ませた王であろう。高倉王の高倉=皺が寄ったように山稜が延びている谷間が奥まったところと読み解ける。古事記の高倉下(書紀では倉歷道)に用いられた文字列である。
「忍壁皇子」の後裔等の活躍は、短命であったことも加えて、華々しくはなかったようである。「山前王」の子、「葦原王」は暴挙が過ぎて配流されたと記載されていた。高野天皇が不憫に思った諸王だったのであろう。
「礒部王」は、長屋王の孫、父親が桑田王であったことが知られている。『長屋王の変』で自死をした息子等、「膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王」の一人として名前が挙がっていた。
礒部王の礒部=麓がギザギザとしている地の近隣のところと読み解くと、図に示した場所が出自と思われる。「桑田王」の西隣である。
淨名王・長尾王については系譜不詳であるが、この周辺の地を出自としていたのではなかろうか。淨名=山稜の端が水辺で両腕のような山稜に取り囲まれているところ、長尾=山稜が尾のように長く延びているところと解釈して、各々図に示した場所が出自と推定される。
「長屋王」の子である「安宿王」は、『長屋王の変』では藤原長娥子(宮子の妹)が母親であり、処罰されなかったが、後の『橘奈良麻呂の乱』では連座して佐渡國に配流されている。「淨名王」の配置は「桑田王」の子孫かもしれないが、「長尾王」は「安宿王」の子孫であった可能性が高い。いずれにしても、ここで挙げられた王等は、「長屋王」の後裔であり、やはり、不憫に思われたのであろう。
● 弓削御淨朝臣廣方
調べるまでもなく、道鏡の弟である「淨人」の子であろう。そして、二人の弟と共に三兄弟は父親の栄枯盛衰に従うことになったようである。
「弓削」の地形は起伏に富むが、変形も大きく、薩摩等が登場した時には、国土地理院航空写真を援用したが、陰影起伏図を拡大して出自の場所を求めてみよう。
二人の弟は、廣田・廣津と知られている。三兄弟併せて、廣方=四角く区切られた地が広がっているところ、廣田=平らに整えられた地が広がっているところ、廣津=水辺の筆のような地が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。父親をぐるりと取り囲ん配置になっていることが解る。
少し後に弓削御淨朝臣美夜治・弓削御淨朝臣等能治が従五位下を叙爵されたと記載されている。”御淨朝臣”故に「淨人」の近親者であり、共に女官として任用されたのであろう。女性の名前は、”古事記風”が多く見られる。端的な地形象形表記として、大歓迎である。
美夜治=谷間が広がった地(美)に曲がりくねっている谷間(夜)の傍に耜のような山稜(治)が延びているところと読み解ける。古事記で頻出の「夜」=「亦+夕」=「谷間に幾つかの山稜が延び出ている様」と解釈したが、結果として地形的には「谷間が曲がりくねる」ことになる。等能治=隅にある(能)並び揃った山稜(等)が耜のように(治)延びているところと読み解ける。それぞれの出自の場所を図に示した。
孝謙天皇紀に総勢二十名の王が一挙に「三嶋眞人」の氏姓を賜ったと記載されていた。彼等は、古事記に登場する三嶋湟咋の居処、現地名の京都郡みやこ町勝山箕田・宮原に広がる山稜に寄り添っていたと推定した(こちら参照)。
今回登場の人物は、それから十数年の月日が経ち、多分、その時には生まれていなかったのであろう。
嶋麻呂が表す地形は、嶋=山稜が鳥の形をしている様であり、麻呂=萬呂と解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。若干地形が変形しているが、読み取ることが可能のようである。前記したように、ほぼ全ての谷間に蔓延っていたわけで、彼等の中で最北の位置である。
任官された事例は極少なく、「嶋麻呂」はこの後何度か登場されるようである。また、幾人かの新人も見られるが、ご登場の時に出自場所を紐解くとして、上記の王等は、年老いていたように推測される。
● 藤原朝臣長道
南家の人物であり、右大臣「豊成」の孫、「武良自」の子と知られている。「仲麻呂」一家が壊滅した後に復権した系列である(こちら参照)。
長道=首の付け根のような窪んだ地が長くなっているところと読み解くと、父親の南側の場所が出自と推定される。弟に藤原朝臣長山がいて、後に登場する。併せて図に示した。
「武良自」は「仲麻呂」の讒言で失脚した父親「豊成」と共に地方官に左遷されたままで過ごしたようであり、その息子も日の目を見る機会がなかったと推測される。骨肉の諍いほど非情なものはなかろう。
兄弟共にこの後に幾度か登場されるが、重用されたわけではないようである。一方、北家の「永手」一家が隆盛となる様相が伝えられている。後(光仁天皇紀)に藤原朝臣長繼が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であるが、長繼=[長]に連なるところと解釈すると、図に示した「長道・長山」の近隣が出自と推定される。「武良自」の子のようだが、記録がないのであろう。
● 石川朝臣眞人・石川朝臣人麻呂
凄まじいくらいに登場している「石川朝臣」一族だが、まだまだ埋もれている人材がいたのであろう。ここでも四名の人物の叙位が行われている(二名は既に併記した引用図を参照)。
四名共に、当然ながら系譜不詳であり、名前が表す地形から出自の場所を求めることになる。さて、決して広くはない地…現地地名は京都郡苅田町谷…に隙間が見つかるのか、些か杞憂するところではあるが・・・。
頻出の眞人=谷間が寄り集まっている窪んだところと解釈すると、図に示した場所が、その地形を表しているようでる。地形の凹凸が少なく、見辛くなっているが、三つの谷間が集まったように見える地形であろう。
人麻呂=「人」の形をした谷間にある「萬」の頭部のようなところと読み解ける。「眞人」の北側にある場所が出自と推定される。正に谷間の段差一つ一つに配置したような有様が伺える。共に今後幾度か登場されるようである。
後(光仁天皇紀)に石川朝臣美奈伎麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。古事記風の名前である美奈伎=高台の前で谷間が広がって岐れているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。その後に地方官に任じられたと記載されている。
更に後に石川朝臣公足が同じく従五位下を叙爵されている。公足=谷間で小高くなった地に足のような山稜が延び出ているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。孝謙天皇紀に登場した君成の北側に位置する場所と思われる。その後に幾度か登場されるようである。
● 石上朝臣眞足
そんな背景からすると眞足=足のような山稜が寄り集まっている窪んだところの系譜不詳は、やや奇妙な感じを受けるようでもある。配置的には「東人」の子と知られる「家成」の西隣であり、弟だったように思われる。
「東人」は、殆ど表舞台に登場する機会がなく、従って関連情報が少ないのであろう。いずれにせよ「石上朝臣」の氏姓は「麻呂・豊庭」及びその子孫に当て嵌まるものであり、それ以外には用いることは不可であろう(石上=磯の上)。
後(光仁天皇紀)に石上朝臣繼足が従五位下を叙爵されて登場する。繼足=[足]に連なるところと解釈すると、図に示した辺りが出自と思われる。この人物も系譜不詳であるが、「東人」の後裔だったように思われるが、定かではない。
更に後(桓武天皇紀)に石上朝臣眞家が従五位下を叙爵されて登場する。眞家=豚の口のような山稜の端が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。續紀中では、その場限りであるが、後に従五位上に昇進されたようである。
● 大原眞人年繼
「年繼」も調べた範囲では、系譜不詳のようである。上記の夥しい数の王等と同様に、系譜が詳らかな皇族は、思いの外少なかったように思われる。臣籍降下しても状況は変わらずと言ったところであろう。
久々に登場の「年」=「禾+人」=「谷間に稲穂のような山稜が延びている様」と解釈した。古事記の大年神に用いられた文字である。纏めると、年繼=谷間で稲穂のように延びている山稜が連なっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。配置からすると「櫻井」の子のようでもあるが、やはり記録に残っていないのであろう。この後續紀に登場されることはないようである。
後(光仁天皇紀)に大原眞人室子が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、名前の室子=奥深い谷間から山稜が生え出ているところが示す地形を求めると、図に示した場所が見出せる。この人物も親の近隣のように思われるが、定かではない。後に幾度か登場され、十数年後に「命婦從四位下大原眞人室子卒」と記載されている。
更に後(桓武天皇紀)に大原眞人越智麻呂・大原眞人明・大原眞人長濱が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳の人物のようである。既出の文字列である越智=[鉞]と[鏃]と[炎]の形をしている山稜の端があるところ、明=[三日月]の形をした地に[炎]のような山稜が延び出ている様、長濱=水辺が長く延びているところと解釈される。図に示した場所が各々の出自と推定される。その後共にもう一度登場されるようである。
● 川邊朝臣東人
「川邊朝臣」は、古事記の蘇賀石河宿禰が祖となった川邉臣の子孫であろう。書紀では欽明天皇紀以降に対外的な任務を与えられて活躍した事例が記載されている。
續紀では元明・元正天皇紀に「川邊朝臣母知」及び「河邊朝臣智麻呂」が登場し(こちら参照)、「川邊」と「河邊」が書き分けられていた。
「河」=「谷間の出口」を表す地形象形として、きちんと整理された結果であろう。今回登場の人物は、勿論、「川邊朝臣」一族であり、「母知」や「東女」の近隣が出自と思われる。
頻出の東人=谷間(の入口)を突き通すようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。現在は谷間が開拓されて棚田が並んでいる様子だが、当時は狭い隙間だったのではなかろうか。「川邉」の川は、現在の小波瀬川であり、古事記の吉野河、書紀では息長横河と記載された川である。彼等は、その”河(川)尻”に住まっていたのである。
後(光仁天皇紀)に河邊朝臣嶋守が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の文字列である嶋守=山稜が鳥の形をしている麓で両肘を張り出したように延びているところと解釈して出自場所を図に示したところと推定した。「河邊朝臣」一族としては、実に久々の登場なのだが、その後は全くの不詳のようである。
更に後に川邊朝臣淨長が従五位下を叙爵されて登場する。淨長=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる地が長く延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。續紀中、その後昇進はないが、幾度か任官が記載されている。
● 林連雑物
「林連」については、孝謙天皇紀に久麻が外従五位下を叙爵されて登場している。前記でも述べたが、「久麻」には「廣山・雑物」の二名の息子がいたことが知られている。
また、後の神護景雲三(769)年二月に「外從五位下林連佐比物。廣山。正六位上日下部連意卑麻呂並賜姓宿祢」と記載されていて、「宿祢」姓を賜っている。「雑物」の別表記が「佐比物」であることも分かる。
雑(雜)物は、既出であるが、あらためて述べると、「雜」=「衣+集」と分解され、地形象形的には雜=山稜の端が寄せ集められたような様と読み解ける。頻出の物=[勿]の文字形のように谷間に山稜が延びている様と解釈した。それらの地形を図に示した場所に見出すことができる。
「物」の地形は地図の解像度では些か見辛いが、筋のように山稜が延びていることが確認される。佐比物=谷間にある左手のような山稜に「物」の地がくっ付いているところと読み解ける。納得の別表記であることが解る。兄の廣山=[山]の形の山稜が広がっているところと読むと、出自の場所を弟の南側に求めることができる。共に少し後に「宿祢」姓を賜っている。
後(桓武天皇紀)に林連浦海が外従五位下を叙爵されて登場する。「雑物」等とは系統が違っていたのであろう。浦海=母が両腕を広げて子を抱くように延びた山稜の前の水辺が平らに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後、改姓も昇進も見られないが、幾度か京官・地方官に任じられている。
● 船連庭足
「船連」一族について、直近の淳仁天皇紀に腰佩が外従五位下を叙爵されて登場していた。今回も同様に内位ではない外従五位下の叙位であったと記載されている。
ともあれ、途切れることなく人材輩出の一族であり、”船”の周辺の谷間からの登用が行われてようである。がしかし、複数回の登場は見られず、多くの人物のその後は不明である。
既出の文字列である庭足=麓で囲まれた地から足のように山稜が延びているところと読み解ける。些か地形の凹凸が僅かになって判別が難しくなっているが、図に示した辺りにその地形を見出せると思われる。
「船連」の中では最も西側、「津連」の居処に近接する場所となっている。上記の「腰佩」が東側の端に対して西端の人物だったようである。「船・津」連一族が宿祢あるいは朝臣姓を賜るのは四半世紀後と伝えられている。
後(桓武天皇紀)に船連稻船が外従五位下を叙爵されて登場する。稻船=[船]の地形の前で三本の細かく岐れた山稜が窪んだ地に延び出ているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後にもう一度任官の記載があるが、以後の消息は不明である。
「品治部公」は、古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀に登場した息長日子王(息長帶比賣命の弟)が祖となった吉備品遲君に関わる地の近傍を居処とする人物と推測される。
嶋麻呂の頻出の嶋=山稜が鳥の形をしているところ、麻呂=萬呂として出自の場所を図に示した場所に見出せる。「部」=「近隣」であり、実にきめ細かい表記であることも解る。
續紀中、ここでの外従五位下を叙爵された以外には登場されることはないようである。「吉備上道」の谷間の最奥となるが、さて、更なる人物は現れるのであろうか・・・。
● 中臣朝臣子老
後に右大臣となる「清麻呂」の次男と知られている。また、暫くして「大中臣朝臣」の氏姓を賜っている。「意美麻呂」の孫であり(こちら参照)、神祇伯を務める傍らで参議に列したと伝えられている。
幾度か登場の子老=生え出た山稜が海老のように曲がって延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
上記にも少し触れたが、右大臣の父親(「子老」は次男)の威光もあってか、最終官位は正四位下・参議・宮内卿・神祇伯という要職に任じされていたとのことである。未だ登場されていない兄弟についても、併せてその出自の場所を求めることにした。
知られている全てではないが、後に續紀に記載される長男の宿奈麻呂、三男の繼麻呂、四男の諸魚は、図に示した場所が出自と推定される。宿奈=谷間に細長く区切られて小高くなっているところ、繼=繋がっているところ、諸魚=[魚]の形をした山稜の前で耕地が交差しているようなところと解釈される。彼等は、各々「大中臣朝臣」一族として活躍の場を得たようである。
「物部朴井連」から始まる「榎井朝臣」は、特異な地形の谷間に蔓延った一族と推測した。現地地名は、北九州市小倉南区市丸である。
何と言っても彼等が歴史の表舞台で活躍するようになったのは、天武天皇が吉野を脱出する時、麓に住まう朴井連雄君がその手助けをしたことからである。
既出の文字列である祖足=積み重なった高台に足のような山稜が延び出ているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。前記で小祖父が登場していたが、「祖」は共通であろう。また弄麻呂の「弄」もこの「祖」を表している。「榎井」の中央にある山稜に着目した命名であることが解る。
● 阿倍朝臣小東人
相変わらず頻出の「阿倍朝臣」一族であるが、やはり系譜不詳の人物であったようである。前出の阿倍(引田)朝臣東人の近隣ではないかと、出自場所を探索すると、図に示した場所が見出せる。
小東人=三角に尖った山稜の傍らで谷間を突き通すようなところと解釈する。左図に示したように、阿倍(部)朝臣の中で引田系の人材登用もかなり多くになり、ほぼ谷間を埋め尽くしたように見受けられる。
おそらく現在の”真迫の上池”は、当時は存在しておらず、埋没した地を出自とする人物がこの後に登場するかもしれないが、目下のところではその気配を感じることはないようである。「小東人」は、この後幾度か任用されて登場するが、従五位下のままで最後に伯耆守となっている。その後の消息は定かではないようである。
後(光仁天皇紀)に阿倍朝臣船道が従五位下を叙爵されて登場する。上図にも示されているが、前出の船人の「船」に関わる人物と思われる。道=辶+首=首に付け根のように窪んだ様であり、船の西側の谷間を表していることが解る。その後に登場されることはなく、消息不明である。
● 大春日朝臣五百世
周辺には邇藝速日命命の子孫である穂積朝臣、皇別系の内眞人、及び渡来系とされる山田史(一部は山田三井宿祢)、李元環など多彩な素性の持ち主がひしめき合っていた場所と思われる。現地名は田川郡赤村内田山の内である。
既出の文字列である五百世=連なっている丸く小高い地が交差するように並んで(五百)途切れずに繋がっている(世)ところと読み解ける。図に示した「赤兄」の西側、「李元環」の北側に当たる場所と推定される。
後に大春日朝臣清足・大春日朝臣諸公が登場する。詳細は後に述べるとして出自の場所を求めておこう。清(淸)足=足のような山稜の前に四角く窪んだ地があるところ、諸公=斜めに耕地が交差する地で谷間にある区切られた小高いところと読み解ける。各々の場所を図に示した。「壹比韋」の地がすっかり埋まったようである。
● 土師宿祢位・土師宿祢田使
多くの人物が登場している「土師宿祢」一族であるが、流石に埋もれた人材を登用する主旨に沿った人選なのであろう、系譜は全く定かではないようである。
と言うことで、名前が示す地形を読み解いてみよう。位=人+立=谷間に山稜が並んでいる様と解釈される。幾度か用いられた文字であるが、立=竝と読む。
田使=谷間にある真ん中を突き通すように延びた山稜(使)の前に平らに整えられた地(田)があるところと読み解ける。これらの地形を未だ登場人物の居処でない「土師宿祢」の場所を探しても全く手掛かりが得られなかった。
そうこうする内に、直近で登場した贄土師連沙弥麻呂の東側の谷間に目が止まった。その東側は、『壬申の乱』で活躍した大分君惠尺・稚見等の出自の場所と推定した谷間となる。「土師宿祢」一族の東北端に位置する場所である。
少し後に土師宿祢眞月が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳で名前が表す地形のみで出自の場所を求めると、図に示した辺りと推定される。眞月=山稜の端の三角に地が寄り集まった窪んだところと解釈する。この後續紀での登場は見られないようである。
実に古い話であるが、古事記の「大國主神」の後裔が娶った日名照額田毘道男伊許知邇神の居処と推定した地である。古事記は、その後裔達が彷徨って朝鮮半島の新羅へ移り、更に壱岐に舞い戻ったと記載している。こんなところで再びお目に掛かれるとは・・・。
「上部」は、古事記の石上廣高宮の麓に位置する場所を示すと解釈した。この場所には、長谷部の氏名を持つ人物が登場しているが、古事記の長谷部若雀天皇(崇峻天皇)にも含まれている。要するに天神系及び別途に渡来した人々が混在している地域だったようである。
尚、古事記と續紀は「長谷部」であるが、書紀は「泊瀬部」と表記する。「大長谷・小長谷」との混乱を助長するかのような表現を行っているのである。「長谷」は固有の地名ではない。「長谷(ハセ)」と読んでは、古代は見えて来ないであろう。
さて、木甲=山稜が甲羅のようになっているところと解釈すると、「鵤」の地形を異なる視点で表現したのであろう。眞高=皺が寄ったような山稜が寄り集まった窪んだところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。「長谷部」と言うには、少々離れて、「上宮」と名乗るのはおこがましい、と言う思いであったのかもしれない。
話しが少し余談ぽくなるが、法隆寺の名称の由来を述べてみよう・・・法隆=水辺で四角く窪んだ地の先で小高く盛り上がったところと読み解ける。図に示した場所が「法隆寺」の”本貫”の地と推定される(こちら参照)。
● 丹比宿祢眞嗣
「丹比宿祢」は、直近では聖武天皇紀に人足が外従五位下を叙爵されて登場していた。現在の御所ヶ岳山塊の北麓であり、人材輩出の「多治比眞人」一族の背後の場所が出自と推定した。
古事記では「多治比」、書紀では「丹比」と表記され、續紀では「多治比」と「丹比」を使い分けている様子である。「眞人」と「宿祢」の姓が異なることから、全く別系統であることを示している。
そんな訳で、残された空白の地は極めて少ないのであるが、今回登場の人物の出自場所を求めてみよう。既出の文字列である、眞嗣=山稜に挟まれて狭まった谷間が寄り集まって窪んだところと読み解ける。地形の変形が見られるが、何とかそれらしき場所を見出せる。
ずっと後になるが、息子の丹比宿祢眞淨が登場する。眞淨=[眞]の傍らにある水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいるところと解釈する。出自の場所を併せて図に示した。また、丹比宿祢乙女が登場するが、図に示した場所が出自であろう。それぞれご登場の時にもう少し詳しく述べることにする。