2023年5月25日木曜日

高野天皇:称徳天皇(11) 〔635〕

高野天皇:称徳天皇(11)


神護景雲元(西暦767年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

二月甲申。幸東大寺。授正五位下國中連公麻呂從四位下。從五位下佐伯宿祢眞守從五位上。外從五位下美努連奥麻呂。桑原公足床並外從五位上。造寺工正六位上猪名部百世外從五位下。丁亥。幸大學釋奠。座主直講從八位下麻田連眞淨授從六位下。音博士從五位下袁晋卿從五位上。問者大學少允從六位上濃宜公水通外從五位下。賛引及博士弟子十七人賜爵人一級。戊子。幸山階寺。奏林邑及呉樂。奴婢五人賜爵有差。辛夘。淡路國頻旱乏種稻。轉播磨國加古印南等郡稻四万束。出擧百姓。」左京人正六位上大伴大田連沙弥麻呂賜姓宿祢。甲午。幸東院。出雲國造外從六位下出雲臣益方奏神賀事。仍授益方外從五位下。自餘祝部等。叙位賜物有差。丙午。淡路國飢。賑給之。丁酉。山背國飢。賑給之。庚子。伊豫國越智郡大領外正七位下越智直飛鳥麻呂。獻絁二百卅疋。錢一千二百貫。授外從五位下。壬寅。和泉國五穀不登。民無種稻。轉讃岐國稻四万餘束以充種子。癸夘。賜左右大臣近江國穀各二千斛。丁未。近衛將監從五位下吉備朝臣泉爲兼大學員外助。從五位下吉備朝臣眞事爲鑄錢員外次官。戊申。從四位下阿倍朝臣毛人爲大藏卿。從五位下藤原朝臣乙繩爲大輔。從五位上奈貴王爲大膳大夫。侍從正親正如故。從五位下石川朝臣人麻呂爲彈正弼。從四位下佐伯宿祢今毛人爲造西大寺長官。右少弁正五位上大伴宿祢伯麻呂爲兼次官。左中弁侍從内匠頭武藏介正五位下藤原朝臣雄田麻呂爲兼右兵衛督。從四位下藤原朝臣楓麻呂爲大宰大貳。

二月四日に東大寺に行幸され、國中連公麻呂(國君麻呂)に従四位下、佐伯宿祢眞守に従五位上、美努連奥麻呂桑原公足床(桑原連足床)に外従五位上、造寺工の「猪名部百世」に外従五位下を授けている。七日に大学に行幸され、釈奠(孔子の祭)を行っている。座主である直講の麻田連眞淨(金生に併記)に従六位下、音博士の「袁晋卿」(李元環の東隣)に從五位上、問者を勤めた大学少允の「濃宜公水通」に外従五位下を授けている。先導役と博士の弟子十七人に皆位階を一級ずつ賜っている。

八日に山階寺(興福寺)に行幸され、林邑楽呉楽が演奏されている。演奏に加わった奴婢五人にそれぞれ位階を賜っている。十一日、淡路國でしばしば旱魃が起こり、種籾が欠乏した。そこで播磨國加古・印南郡などの稲四万束を転送して人民に出挙している。また、左京の人である「大伴大田連沙弥麻呂」に宿祢姓を賜っている。

十四日に東院に行幸され、出雲國造の出雲臣益方が神賀事を奏上している。そこで「益方」に外従五位下を授けている。その他の祝部などにもそれぞれ位を授け、物を賜っている。二十六日に淡路國に飢饉が起こったので、物を与えて救っている。十七日に山背國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。

二十日に伊豫國越智郡の大領である「越智直飛鳥麻呂」が、絁二百三十匹、銭千二百貫を献上し、外従五位下を授けている。二十二日に和泉國の五穀が不作のため、民衆は種籾がなくなってしまった。そこで讃岐國の稲四万束を転送して、種籾に当てている。二十三日に左大臣・右大臣に近江國の籾米をそれぞれ二千石ずつ賜っている。

二十七日に近衛将監の吉備朝臣泉(眞備の長男)に大学寮の員外助を兼任させている。また、吉備朝臣眞事を鋳銭司の員外次官に任じている。二十八日に阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を大藏卿、藤原朝臣乙縄(縄麻呂に併記)を大輔、侍従正親正の奈貴王(石津王に併記)を兼務で大膳大夫、石川朝臣人麻呂を弾正弼、佐伯宿祢今毛人を造西大寺長官、右少弁の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を兼務で次官、左中弁・侍従・内匠頭・武藏介の藤原朝臣雄田麻呂を兼務で右兵衛督、藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を大宰大貮に任じている。

<猪名部百世>
● 猪名部百世

氏名「猪名部」については、書紀の応神天皇の記述と根拠として「猪名部は木工を専業とした職業部(品部)」として解釈されている。既に幾度も述べたように「部=職業部」と解釈してしまっては、肝心なことが見落としてしまうことになる。

たった一度の記述で決め付ける解釈、一度しか用いられないのに枕詞とする解釈と同様であろう。要するに文字列の意味が不明なだけであろう。

流石に「造寺工」の関連情報は、殆ど得られることはなく、辛うじて、『東大寺要録』に引用されている「大仏殿碑文」に「伊賀国人大工従五位下」の記述があると伝えられている。具体的な名前があるわけではなく、爵位が従五位下(本文は外位)となっていることからの推測となる。

ともあれ、伊賀國の地でこの人物の名前が表す地形を探すことにしよう。勿論、既に多くの「采女朝臣」一族が蔓延った場所を除いて、であろう。猪名=平らな頂の山稜の端が交差するように延びているところと解釈する。幾度か登場の文字列である。

部=近隣であり、百世=途切れずに丸く小高い地が連なっているところと読み解ける。これらの地形を満足する場所を図に示した。見事に谷間の奥がすんなりと埋められたようである。それが目的で登場させた、のかもしれない。

<濃宜公水通>
● 濃宜公水通

「濃宜公」は、記紀・續紀を通じて初見であり、また、関連する情報も皆無のようである。唯一、この後に信濃介に任じられたと記載されている。

名前が示す地形から、その出自の場所を求める試みを行ってみよう。「濃」=「氵+農(臼+囟+辰)」と分解される。かなり複雑に文字要素が組合わされた文字である。それを地形象形的には、「濃」=「二枚貝が舌を出したような様」と解釈した。

美濃國信濃國などに用いられ、馴染みの多い文字である。勿論、それぞれに立派な「濃」の地形を有している國なのである。何らの補足情報もないのなら、この二國のうちのどちらか、ではなかろうか。上記したように後に信濃介となることからすると、美濃國の出身だったと推測される。

さて、濃宜=積み重なった高台の前に二枚貝が舌を出したような地があるところと読み解ける。確かに地図を確認すると、「濃」の背後に高台がくっ付ている地形であることが解る。水通=川が突き抜けるように流れているところと読み解くと、出自の場所を図に示したところに求めることができる。

古事記の記述でも、かなり古い時代に登場する地であり、「國造」の居処の近隣と推定される。がしかし、その後に歴史の表舞台に現れる人物がなかったのである。またもや、續紀が埋もれた人材を引き摺り出したような記述を思われる。

<大伴大田連沙弥麻呂>
● 大伴大田連沙弥麻呂

「大伴大田連」に関しては、上記と同様に情報は極めて限られたもののようである。調べると、どうやら紀伊國に関わる一族であったことが分かった。

頻出の大伴=平らな頂の山稜を谷間が真っ二つに区切るところと解釈した。すると、古事記の倭建命が東方征圧を命じられて、足柄から東國に抜け、そして甲斐國の酒折宮に向かう山越えの行程が思い起こされる(こちら参照)。

大田=平らな頂の麓で平らに整えられたところと読むと、紀伊國伊都郡の谷間に広がる場所を示していることが解る。幾度か登場の沙弥麻呂沙弥(彌)=三角に尖った山稜の傍らで弓なりに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

国土地理院航空写真1961~9年では棚田が広々と開拓されているが、当時は、まだまだ狭い谷間が並ぶ有様であったように推測される。いやはや、埋もれた人材を強引に引っ張り出している様相である。今後も引き続き・・・なのであろう。

<越智直飛鳥麻呂-國益-蜷淵>
● 越智直飛鳥麻呂

「越智直」の氏姓を持つ人物である「廣江」は、元正天皇紀に明經第一博士として褒賞され、後に従五位下を叙爵されていた。その出自を伊豫國として求めた(こちら参照)。

今回は伊伊豫國越智郡と具体的に記載され、「廣江」の系列とは異なるが、「飛鳥麻呂」も同族の一人であったと推測される。

飛鳥麻呂飛鳥=山稜が飛んでいる鳥のような形をしているところと解釈する。記紀・續紀を通じて不変の解釈である。羽を長く延ばしている様子を捉えた表記と思われる。

麻呂=萬呂とすると、図に示した場所が出自と推定される。古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子、大雀命・根鳥命と併せて三羽の鳥が並んでいる地形である。また、文武天皇紀に伊豫國が白燕を献上したと記載されていた。まさに鳥尽くしである。

少し後に越智直國益物を献上し、外従五位下を叙爵されている。既出の文字列である國益(益)=区切られた地が谷間に挟まれて平らに広がって盛り上がっているところと解釈すると、出自場所の詳細は不明であるが、おそらく現在の二島中学校辺りと推定される。

更に後に越智直蜷淵が同様に貢献をして外従五位下を叙爵されている。蜷淵=山稜の端が握り拳のように丸まっている麓に淵があるところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。現在の二島小学校辺りを開拓したのではなかろうか。

三月庚戌朔。日有蝕之。辛亥。幸元興寺。捨綿八千屯。商布一千段。賜奴婢爵有差。壬子。幸西大寺法院。令文士賦曲水。賜五位已上及文士祿。乙夘。左京人正六位上上毛野坂本公男嶋。上野國碓氷郡人外從八位下上毛野坂本公黒益。賜姓上毛野坂本朝臣。同國佐位郡人外從五位上桧前君老刀自上毛野佐位朝臣。戊午。幸大安寺。授造寺大工正六位上輕間連鳥麻呂外從五位下。癸亥。幸藥師寺。捨調綿一万屯。商布一千段。賜長上工以下奴婢已上廿六人爵各有差。放奴息麻呂賜姓殖栗連。婢清賣賜姓忍坂。常陸國筑波郡人從五位下壬生連小家主女賜姓宿祢。乙丑。阿波國板野名方阿波等三郡百姓言。己等姓。庚午年籍被記凡直。唯籍皆著費字。自此之後。評督凡直麻呂等披陳朝庭。改爲粟凡直姓。已畢。天平寳字二年編籍之日。追注凡費。情所不安。於是改爲粟凡直。丙寅。勅。近衛將曹從六位下勳六等間人直足人等十九人。感會風雲。奮激忠勇。超群抜衆。斬寇滅凶。朕以嘉其武節。賞此高勳。宜令美服光榮。容儀標異。自今以後。諸勳六等已上身。有七位而帶職事者。許執牙笏并用銀裝刀帶等。及元日等節。著當階色。己巳。從五位下巨勢朝臣苗麻呂爲少納言。從四位下阿倍朝臣息道爲中務大輔。侍從如故。從五位下石川朝臣清麻呂爲少輔。從五位下賀茂朝臣大川爲大監物。從五位下文屋眞人忍坂麻呂爲右大舍人頭。從五位下石上朝臣眞足爲内匠助。從五位下粟田朝臣公足爲員外助。從五位下淨原王爲内礼正。從五位下紀朝臣廣名爲式部大輔。從五位下藤原朝臣小黒麻呂爲少輔。從五位下皇甫東朝爲雅樂員外助兼花苑司正。正五位上淡海眞人三船爲兵部大輔。從五位下百濟王三忠爲少輔。從五位下榎井朝臣祖足爲木工助。外從五位下津連眞麻呂爲攝津大進。從五位上佐伯宿祢三野爲下野守。從五位下縣犬養大宿祢内麻呂爲介。外從五位下利波臣志留志爲越中員外介。從五位下阿部朝臣許智爲丹波介。從五位下紀朝臣古佐美爲丹後守。從三位藤原朝臣藏下麻呂爲伊豫土左二國按察使。近衛大將左京大夫如故。從五位下藤原朝臣雄依爲右衛士督。從五位下田口朝臣安麻呂爲佐。」始置法王宮職。以造宮卿但馬守從三位高麗朝臣福信爲兼大夫。大外記遠江守從四位下高丘連比良麻呂爲兼亮。勅旨大丞從五位上葛井連道依爲兼大進。少進一人。大属一人。少属二人。」授外從五位下利波臣志留志從五位上。以墾田一百町獻於東大寺也。庚午。左京人從七位上前部虫麻呂賜姓廣篠連。乙亥。常陸國新治郡大領外從六位上新治直子公獻錢二千貫。商布一千段。授外正五位下。丙子。河内國古市郡人從四位下高丘連比良麻呂賜姓宿祢。

三月一日に日蝕が起こっている。二日に元興寺に行幸されて、真綿八千屯・商布(交易用の麻布)千段を喜捨し、寺の奴婢にそれぞれ位を賜っている。三日に西大寺法院に行幸されて、文人を集めて曲水の宴で詩を作らせ、五位以上の者や文人に禄を賜っている。

六日に左京の人である上毛野坂本公男嶋(石上部男嶋)、上野國碓氷郡の人である「上毛野坂本公黒益」に「上毛野坂本朝臣」の氏姓を、また、同國佐位郡の人である桧前君老刀自に「上毛野佐位朝臣」の氏姓を賜っている。九日に大安寺に行幸されて、寺を造営する大工の「輕間連鳥麻呂」に外従五位下を授けている。

十四日に藥師寺に行幸されて、調の真綿一万屯・商布一千段を喜捨し、常勤の大工以下奴婢までの二十六人に、それぞれ位を賜っている。また、奴の息麻呂(咋麻呂に併記)を解放して「殖栗連」の氏姓を、婢の「清賣」には「忍坂」(忍坂淸賣。依智王等に併記)の氏を賜っている。また、「常陸國筑波郡」の人である「壬生連小家主」に宿祢姓を賜っている。

十六日に「阿波國板野郡・名方郡・阿波郡」の人民が以下のように言上している・・・自分達の姓は、庚午(670)年の戸籍に”凡直”と記載された。ただ籍には”直”の字がみな”費”の字で書かれていた。それから後になって評督の「凡直麻呂」等が朝廷に申し立てて、既に粟”凡直”姓に改められている。ところが天平字二(758)年に戸籍を作る時、遡って”凡費”と注記されてしまった。自分達の心中は落ち着かない・・・。そこで”凡費”を改めて粟”凡直”に改姓している。

十七日に次のように勅されている・・・近衛将曹・勲六等の「間人直足人」等十九人は、天下の変動に際会したのに感激し、忠義武勇を奮い起こし、他の人々を超え抜きんでて、仇敵を斬り凶賊を滅ぼした。朕はこの武勇・忠節を喜んで、この大きな手柄に褒賞を与える。そこで立派な服を支給してこの栄誉を輝かし、姿形を他の人々と違っていることを明瞭にさせるべきである。今後は、勲六等以上の者で、七位を持っていて定まった職掌のある者は象牙の笏を持たせ、銀装の刀と腰帯などを用いることを許可する。但し、元日などの節会の時には、本来の位階に対応する種類のものを着用するように・・・。

二十日、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を少納言、侍從の阿倍朝臣息道を兼務で中務大輔、石川朝臣清麻呂(眞守に併記)を少輔、賀茂朝臣大川を大監物、文屋眞人忍坂麻呂(水通に併記)を右大舍人頭、石上朝臣眞足を内匠助、粟田朝臣公足(黒麻呂?)を員外助、淨原王(長嶋王に併記)を内礼正、紀朝臣廣名(宇美に併記)を式部大輔、藤原朝臣小黒麻呂を少輔、「皇甫東朝」(居処は李元環の谷間?)を雅樂員外助兼花苑司正、淡海眞人三船を兵部大輔、百濟王三忠()を少輔、榎井朝臣祖足を木工助、津連眞麻呂を攝津大進、佐伯宿祢三野(今毛人に併記)を下野守、縣犬養大宿祢内麻呂(八重に併記)を介、利波臣志留志(砺波臣)を越中員外介、阿部朝臣許智(駿河に併記)を丹波介、紀朝臣古佐美を丹後守、近衛大將左京大夫の藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を兼務で伊豫土左二國按察使、藤原朝臣雄依(小依)を右衛士督、田口朝臣安麻呂(大戸に併記)を佐に任じている。

また、初めて法王宮職を置いている。造宮卿・但馬守の高麗朝臣福信に大夫を兼任させ、大外記・遠江守の高丘連比良麻呂(比枝麻呂)に亮を、勅旨大丞の葛井連道依(立足に併記)に大進を兼任させている。少進一人、大属一人、少属二人を配属させている。この日、利波臣志留志(砺波臣)に従五位上を授けている。墾田百町を東大寺に献上したことによる。

二十一日に左京の人である前部虫麻呂(選理に併記)に「廣篠連」の氏姓を賜っている。二十六日に「常陸國新治郡」大領の「新治直子公」が銭二千貫・商布一千段を献上し、外従五位下を授けている。二十七日に河内國古市郡の人である高丘連比良麻呂(比枝麻呂)に宿祢姓を賜っている。

<上毛野坂本公黒益>
● 上毛野坂本公黒益

「上毛野坂本公」の氏姓については、天平勝寶五(753)年七月に左京の人である石上部男嶋が・・・本来の戸籍名は「上毛野坂本君(公)」である筈だから訂正願いたい・・・と言上し、許可されたことで登場している。

上記の記述で、「男嶋」の出自の地は上野國碓氷郡であったことを伝えていて、既に前記でその場所を求めた。「上野≠上毛野」であることも追記した。類似の文字列を用いて、恣意的に混乱させるような感じであるが、編者等のちょっとした戯れとしておこう。

既出の文字列である黒益(益)=二つの谷間に挟まれて平らに区切られた地に[炎]のような山稜が谷間へ延びているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。配置からすると「諸弟」に繋がる人物だったようにも思われるが、定かではない。

尚、彼等の東側が上野國佐位郡の桧前君老刀自の居処と推定した。同様に「上毛野佐位朝臣」の氏姓を賜った、と記載されている。「朝臣」姓授与が、やや濫発気味のような感じもするが・・・。

<輕間連鳥麻呂>
● 輕間連鳥麻呂

「輕間連」は、記紀・續紀を通じて初見である。しかも大安寺造営(修理?)の大工としての役割であり、些か、その出自を推定するのに情報が少ないような気配である。

ところが、調べてみると、何とれっきとした物部一族であることが分かった。「目・荒山」の系列、とすれば「伊莒弗」から繋がった系譜に属する人物だったようである(こちらこちら参照)。

輕間連の「輕」=「車+坙」=「突き通すように延びている様」、「間」=「門+日(月)」=「門のようになった地に山稜の端が挟まれている様」と解釈した。纏めると、輕間=門のようになった地に挟まれている山稜の端が突き通すように延びているところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。

鳥麻呂の「鳥」の地形は、その突き通すような山稜の端が、何となく鳥の頭部のように思われるが、現在の航空写真を参照すると、見事な鳥(ペリカン?)が横たわっているように見受けられる。いやはや、壮大な名前であろう。「鳥麻呂」は、後に修理次官に任じられている。

「物部」一族は、大連系列の「守屋」が失脚した後、「麻呂」の石上系列が主たる人材を輩出して来た。本来は嫡流のように思われる「伊莒弗・目」の麓に広がる地からは殆ど見られずの状態であった。邇藝速日命の子孫、天皇家に媚び諂う気分ではなかったのかもしれない。一族の中で奔流ではない系列がしゃしゃり出るのは、歴史が示すところでもあろう。

<常陸國:筑波郡・新治郡>
<壬生連小家主・新治直子公>
常陸國:筑波郡・新治郡

「筑波郡・新治郡」は、續紀本文における初見であるが、元正天皇紀に鹿嶋郡が登場した時に、これ等の郡を含めて、常陸國の郡割を求めた(こちら参照)。

郡名の由来については、勿論、地形象形表記であるが、詳細を述べてはいなかったので、ここであらためてそれぞれの郡名が表す地形を読み解いてみよう。

筑波の頻出の「筑」=「竹+工+丮」=「両腕を延ばしたような谷間を突き通すように山稜が延びている様」と解釈した。地形としては「谷間が[凡]の文字形のような様」である。「凡」に含まれる「、」が突き通す山稜を表している。「筑紫」などは、地名・人名に共に用いられているのである。また「波」=「氵+皮」=「覆い被さる様/傾いている様」と解釈したが、前者を用いる。

纏めると筑波=[凡]の文字形のような谷間が覆い被さるように広がり延びているところと読み解ける。図に示した場所が筑波郡と名付けられた場所と推定される。山麓と現在の長谷川との間の細長い地であったようである。二つに岐れた山頂は、現在の筑波山の男体山・女体山に対応するかのようで、何とも愉快である。

頻出の文字列である新治=切り分けられた山稜が水辺で耜のような形をしているところと読み解ける。図に示した山稜の形を、そのまま郡名に用いたのであろう。久慈郡・鹿嶋郡とせめぎ合うような配置となっている。

尚、古事記の倭建命の東方征伐記で邇比婆理(ニイハリ)・都久波(ツクハ)が登場する。読みは、そのものであるが、全く異なる場所を表していると解釈した。それを十分に承知の上で名付けられた郡名であろう。

● 壬生連小家主 「筑波郡」の住人に宿祢姓を賜ったと記載されている。実は、既に「壬生連小家主女」が『仲麻呂の乱』で外従五位下・勲五等を授かっていた。あらためて出自の場所を求めてみよう。

既出の文字列である壬生=生え出た地が弓なりに曲がっているところと解釈した。図に示した「筑波」のそのまた端にその地形を見出せる。小家主=三角に尖った豚の口のような山稜の後が真っ直ぐに延びているところと読むと、出自の場所を表していることが解る。

● 新治直子公 新治は、郡名そのものである。名前の「子公」は既出の文字列ではあるが、少々変わった用い方をされている。構わず読むと、子公=生え出た山稜の傍らの谷間に丸く小高い地があるところとなり、出自の場所を図に示した。些か鹿嶋郡との郡境が曖昧であったが、この人物の登場で明瞭になったように思われる。

<阿波國:板野郡・名方郡・阿波郡>
<粟凡直麻呂>
阿波國:板野郡・名方郡・阿波郡

常陸國に続いて阿波國の郡割が記載されている。勿論、これが全てか否かは不明であるが、先ずは各郡の配置を行ってみよう。

「板野郡」の板野=山稜が手のような形をして延びている麓に野があるところ、「名方郡」の名方=山稜の端が耜のように延びて広がっているところ、「阿波郡」の阿波=台地が覆い被さるように延びて広がっているところと読み解ける。

図に示したように各郡の配置が、すんなりと求められる。「阿波」は、上記の「筑波」と同様に解釈すると、単に「端」とするよりも実態に即した地形象形表記であることが解る。そもそも古事記で用いられた國名の「粟」ではなく、「阿波」の表記も國全体が覆い被さるような地形であり、極めて適切な表現となっているのである。

尚、少し後に麻殖郡が登場する。上図に示した場所と推定されるが、詳細は後に述べることにする。通常、徳島県麻植郡(平成の大合併で消滅)とされるが、「殖」と「植」は全く異なる地形を表す文字である。

● 粟凡直麻呂 「粟凡直」の氏姓を持つ人物は、聖武天皇紀に粟凡直若子が、多くの女官の一人として外従五位下を叙爵されて登場していた。麻呂=萬呂として解釈すると、図に示した「板野郡」の場所が出自と推定される。

古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子が多数住まっていた地域と推定した場所である(こちら参照)。しかしながら、その子孫が皇統に絡んだり、官吏に登用されることはなく、埋もれた一族の様相である。洞海湾がもたらす豊かさに支えられた國だったと推測される。

<間人直足人>
● 間人直足人

「間人直」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見のようである。「間人」の文字列は、間人皇女(天智天皇の妹)や中臣間人などで用いられているが、直接的な関連は見受けられない。

調べると丹波(後)國が出自であったらしいことが分かった。不確かな情報なのであるが、その地で間人=門のように延びた山稜に挟まれた谷間に三日月の形の地があるところを探すことにした。

すると、古事記の旦波之由碁理、後に三尾と呼称された山稜が、その地形を示していると気付かされる。この地には、多くの人物が登場し、『壬申の乱』においても三尾城があった場所と記載されていた。

足人=足のような谷間があるところと読むと、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。些か変わった褒賞を授かったようである。この後に登場されることはなく、消息は不明である。