高野天皇:称徳天皇(12)
神護景雲元年(西暦767年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。
夏四月辛巳。始授諸王四世者正六位上。五世者從六位下。其朝服用纁色。癸巳。東院玉殿新成。群臣畢會。其殿。葺以琉璃之瓦。畫以藻繢之文。時人謂之玉宮。」伊勢國多氣郡人外正七位下敢礒部忍國獻錢百万。絹五百疋。稻一万束。授外正五位下。庚子。放鹿嶋神賎男八十人。女七十五人從良。癸夘。勅。夫農者天下之本也。吏者民之父母也。勸課農桑。令有常制。比來諸國頻年不登。匪唯天道乖宜。抑亦人事怠慢。宜令天下勤事農桑。仍擇差國司恪勤尤異者一人。并郡司及民中良謹有誠者郡別一人。専當其事。録名申上。先以肅敬祷祀境内有驗神祇。次以存心勸課部下百姓産業。若其所祈有應。所催見益。則専當之人別加褒賞。乙巳。幸飽浪宮。賜法隆寺奴婢廿七人爵各有差。丁未。至自飽浪宮。戊申。長門國豊浦團毅外正七位上額田部直塞守獻錢百萬。稻一萬束。授外從五位上。任豊浦郡大領。
四月二日に初めて諸王の四世の者に正六位上、五世の者に従六位下を授けている。その朝服は纁色(淡赤色)を用いさせている。十四日に東院の玉殿があらたに完成している。この殿舎は「琉璃之瓦」(釉をかけた瓦)で屋根を葺き、彩色した文様を描いてある。当時の人は、これを玉殿と言った、と記している。また、「伊勢國多氣郡」の人である「敢礒部忍國」は、銭百万文・絹五百疋・稻一万束を献上し、外正五位下を授けている。
二十一日に「鹿嶋神宮」(常陸國鹿嶋郡)に所属する神賎(神社の雑役に従事した奴婢)、男八十人、女七十五人を解放し、良民にしている。二十四日に次のように勅されている・・・そもそも農業は天下の根本であり、官吏は人民の父母のようなものである。従って農耕や養蚕を奨励し従事させるには、最近、諸國で頻繁に不作が続いているが、その原因は単に天の道が程のよさを失っているだけでなく、そもそも人々の行いが怠けているからである。全國に命じて農耕や養蚕に一層励み努めさせるようにせよ。---≪続≫---
そこで國司のなかで抜きん出て職務に忠実な者を一人と、郡司及び民衆のなかで善良・謹直で誠実な者を郡ごとに一人選び出して、その事に専ら当たらせることとし、名前を記録して上申せよ。まずつつしみ敬う心をもって、その地域の霊験あらたかな神祇に祈祷やおまつりをし、その上で心をこめて管轄内の人民の産業を奨励せよ。もし、その祈念に霊験が現れたり、奨励に効果があれば、専ら事に当たった人には別に褒賞を与える・・・。
二十六日に「飽浪宮」に行幸されて、法隆寺に所属する奴婢二十七人にそれぞれ位を賜っている。二十八日に「飽浪宮」から帰られている。二十九日に「長門國豊浦団」の毅(軍団の長)の額田部直塞守(豊浦郡少領の廣麻呂に併記)は、銭百万文と稲一万束を献上したので外従五位下を授け、「豊浦郡」の大領に任じている。
「伊勢國多氣郡」の住人と記載されているが、「多氣郡」の表記は、文武天皇紀に「多氣度會郡二郡」として登場していた。古事記の天押帶日子命が祖となった多紀臣の場所と推定した。
その後は、音沙汰なく過ぎたのだが、聖武天皇紀に竹首乙女(後に多氣宿祢弟女)が登場し、「多氣郡」の所在が明らかになった。いずれにせよ、この地の登場人物は極めて稀であった。
敢礒部の「敢」の文字は人名・地名に用いられたのは初見であろう。また、見慣れた文字ではあるが、成立ちについては、かなり難解な部類に属している。参考しているこちらの解釈で地形象形表記としてみよう。
「敢」=「甘+爪+丿+又」と分解され、文字要素は全て今までの地形象形表記で用いられるものであることが解る。そのまま解釈すると、敢=手(爪)と手(又)の間に舌のような山稜(甘)が挟まれて(ノ)いる様となる。幾度か登場の礒=石+義=山麓がギザギザとしている様である。すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。
名前の忍國=取り囲まれた谷間に刃のような山稜の端が並んで延びているところと読み解ける。この人物の出自は図に示した辺りと推定される。何度も述べたように部=近隣を示す。「阿閉(アヘ)」氏の”部民”のような解説がなされているようだが、全くの見当違いであろう。史書は万葉仮名で書かれていない。後に敢臣、更に敢朝臣の氏姓を賜ったと記載されている。
本文の文脈からすると、間違いなく法隆寺の近隣にあった離宮と思われる。勿論、ネットの情報も豊かで、他の史書に記載された内容が引用されている。
フルネームとも言える飽浪葦垣宮の名称が示す地形を早速探索することにする。先ずは既出の文字列である飽浪=なだらかに延びる山稜が水辺で包み込むように延びているところと読み解ける。
これで、大体の場所は推定される。即ち、廐戸皇子の子、山背大兄王の弟である「泊瀬仲王」の場所辺りである。同じく既出の文字列の葦垣=山稜にぐるりと回りを取り囲まれたところと読み解ける。国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、そのものズバリの地形であったことが確認された。
「泊瀬仲王」の居処であったとする説があるとのこと、それを支持する結果となったようである。どちらかと言えば、当初は「垣」の上にあったように思われたが、やはりその「垣」の”中”が出自場所であることが解った。「垣」の上は、孝謙天皇紀に登場した多米王(高額眞人)が住まっていたのであろう。
通説は、「泊瀬(部)」=「長谷(部)」とするわけだから、「泊瀬仲王」は、斑鳩近辺に”別宮”を所有していた、としなければ辻褄が合わない。また、この時は「部」=「部民」と解釈しない。天皇の名称だから恐れ多い・・・ではなく、”別宮”も含めて、そもそもその解釈が誤っているのである。
五月壬子。貸畿内百姓不得種田者攝津國穀。壬戌。以從五位下三嶋眞人嶋麻呂爲大膳員外亮。從五位下乙訓王爲正親正。戊辰。先是。左京人從八位上荒木臣道麻呂。及其男无位忍國。墾田一百町。稻一万二千五百束。庄三區。近江國人外正七位上大友村主人主。稻一万束。墾田十町獻於西大寺。至是道麻呂身死。贈外從五位下。忍國。人主並授外從五位下。尾張國海部郡主政外正八位下刑部岡足獻當國國分寺米一千斛。授外從五位下。癸酉。從五位下笠朝臣乙麻呂爲内藏助。從五位下安倍朝臣小東人爲鼓吹正。外從五位下秦忌寸蓑守爲縫部正。外從五位下難破連足人爲主殿助。從五位下氣太王爲鍛冶正。從五位下下道朝臣色夫多爲備後介。戊寅。授外從五位下葛井連根主外正五位下。
五月四日に畿内の人民で田を植えることができない者に攝津國の籾米を貸し与えている。十四日に三嶋眞人嶋麻呂を大膳員外亮、乙訓王を正親正に任じている。二十日、これより前に左京の人である「荒木臣道麻呂」と、その息子の「忍國」は、墾田百町・稲一万二千五百束・荘(農作業場)三ヶ所を、また近江國の人である「大友村主人主」は、稲一万束・墾田十町を西大寺に献上している。ここに至って「道麻呂」が死んだので外従五位下を贈り、「忍國」と「人主」には外従五位下を授けている。また、「尾張國海部郡」の主政(郡司の三等官)の「刑部岡足」は尾張國の國分寺に米千石を献上したので外従五位下を授けている。
二十五日に笠朝臣乙麻呂(不破麻呂に併記)を内藏助、安倍朝臣小東人(阿倍朝臣)を鼓吹正、秦忌寸蓑守(秦勝古麻呂に併記)を縫部正、難破連足人(難波藥師惠日に併記)を主殿助、氣太王(氣多王)を鍛冶正、下道朝臣色夫多を備後介に任じている。三十日に葛井連根主(惠文に併記)に外正五位下を授けている。
● 荒木臣道麻呂・忍國
「荒木臣」は、記紀・續紀を通じて初見である。調べると、大倭國(この時点では大和國)の宇智郡(有智郡)を出自とする一族だったことが分かった。
荒木臣に含まれる既出の文字列である荒木=荒(艸/亡/川)+木=山稜が川辺で途切れているところと解釈される。彦山川の川辺を表していると思われる。勿論、治水された現在の流域ではなく蛇行して大きく川幅が広がっていたと推測される。図に示した岩亀八幡神社が鎮座する山稜を示していることが解る。
道麻呂の道=辶+首=首の付け根のように窪んだ様から、出自の場所を図に示した。既出の文字列である忍國=取り囲まれた地(國)で刃のような山稜が突き出ている(忍)ところと読み解ける。狹嶺山麓の谷間を表していると思われる。彦山川の川辺を治水し開墾したのであろう。
尚、光仁天皇紀に入って、実は「荒木臣」は本来「大荒木臣」の氏姓であり、それに復されたと記載されている。以後の登場には「大」の文字が付加されている。後に内位の従五位下に昇進したと伝えられている。
更に後に、越前國の人である大荒木臣忍山が蝦夷征討の兵粮を運んだ功績が認められ、外従五位下を叙爵されている。出自は「忍國」近隣と推測して、忍山=[山]の形に山稜が延びる前で谷間がギザギザとしているところと思われる。実に手狭な場所であり、越前に移住したのではなかろうか。
● 大友村主人主
「大友村主」は、淳仁天皇紀に右京人の廣公が外従五位下を叙爵されて登場し、現在の田川市夏吉が出自の場所と推定した。
後の延暦六(787)年七月に・・・右京人正六位上大友村主廣道。近江國野洲郡人正六位上大友民曰佐龍人。淺井郡人從六位上錦曰佐周興。蒲生郡人從八位上錦曰佐名吉。坂田郡人大初位下穴太村主眞廣等。並改本姓賜志賀忌寸・・・と記載され、右京と近江國に蔓延っていたことを伝えている。
今回登場の人主は近江國と記載され、すると野洲郡が出自と思われる。人主=真っ直ぐに延びる山稜の前に[人]の形を谷間があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
少し先走るが、引用中で志賀忌寸を賜姓された大友民曰佐龍人については、前出の曰佐若麻呂の近辺を出自としていたのであろう。「大友」の地であり、民=[民]の文字形(鏡文字)の形をしている様を表している。蘇我蝦夷の「蝦夷」の別表記である。
龍人=「龍」の頭部のような山稜の麓に[人]の形の谷間があるところと解釈すると、図に示した場所をが出自と推定される。志賀忌寸の志賀=押し開かれた谷間に蛇行する川が流れているところと解釈すると出自場所の別表記となっていることが解る。
孝謙天皇紀に桑原直氏姓を賜った大友史等は近江國神前郡であり、また異なる一族であったことが明らかにされている。それにしても”野洲・大友・民・曰佐”が示す地形は、図に示した地、蘇我”蝦夷”大臣と併せて、この地以外では存在し得ない場所と思われる。地形象形表記としての確信的な解読となったようである。
尾張國海部郡
「尾張國海部郡」は、記紀・續紀を通じて初見である。「紀伊國海部郡」は、聖武天皇の行幸記事に登場し、現在の北九州市門司区恒見辺りと推定した。複数の川の河口付近、当時は海面下であり、大きな入江となっていたと推測した(こちら参照)。
「尾張國海部郡」も國は違えど、類似の地形を表していると思われる。「尾張國」は、現在の北九州市小倉南区貫・長野・横代に跨る地域としたが、この地も当時は巨大な湾に面していて、「海部郡」のみでは一に特定することは叶わないようである。
少し後に尾張國中嶋郡が登場し、「海部郡」と二郡に水害が発生したと記載される。また更に少し後に尾張國葉栗郡と併せて三郡の水害の記述があり、これら三郡は美濃國との境にあったと述べられている。元明天皇紀に美濃國との境にあった郡として、席田郡があった。と言うか、元は尾張國に属していたが、美濃國に転属させたと記載されていた。
ここで各郡の配置を纏めて求めることにする。先ずは、それぞれの郡名が表す地形は、海部=水辺で母が両手で抱えるような山稜が延びている近隣にあるところ、葉栗=栗の枝が延びたような山稜が平たく広がっているところと解釈される。この二郡の場所を図に示したところに見出せる。
中嶋=鳥のような山稜が真ん中に突き出ているところと解釈されるが、ここでは「嶋」を、通常の海に浮かぶ島そのものと解釈すると、図に示した場所を表していると思われる。尾張國の國府・國分寺が最下流にあったとも述べられている。即ち、「中嶋郡」にあったことになるが、他の史書の記載内容と齟齬のない配置となっていることが解る。現地名は北九州市小倉南区田原である。
● 刑部岡足 「海部郡」の住人である人物の居処を求めることにする。頻出の刑部=四角く切り分けられた地の近くにあるところと読む。刑部皇子(忍壁皇子)、刑部眞木などで用いられている。岡足=岡のように小高くなった地が足の形をしているところと解釈される。すると図に示した場所がこれらの地形を満足していることが解る。
六月辛巳。伊豫國人白丁越智直國益授外從五位下。以獻物也。癸未。勅。東山道巡察使正五位上行兵部大輔兼侍從勳三等淡海眞人三船。禀性聰惠兼明文史。應選標擧。銜命巡察。諸使向道之時受事雖一。省風還報之日。政路漸異。存心名達。検括酷苛。以下野國國司等正税未納并雜官物中有犯。然獨禁前介外從五位下弓削宿祢薩摩。不預釐務。亦赦後斷罪。此陳巧弁。其理不安。既乖公平。宜解見任用懲將來。又比年法吏。但守文句。不顧義理。任意决斷。由是。薩摩訴状不得披心。清白吏道。豈合如此。自今以後。不得更然。若有此類。隨法科罪。己亥。左京人散位從八位上粟田臣弟麻呂。少初位上粟田臣種麻呂。正七位上粟田臣乎奈美麻呂三人。賜姓朝臣。庚子。紀伊國那賀郡大領外正六位上日置毘登弟弓。稻一万束獻於當國國分寺。授外從五位下。土左國安藝郡少領外從六位下凡直伊賀麻呂。稻二万束。牛六十頭獻於西大寺。授外從五位上。
六月三日に伊豫國の人である白丁(庶民)の越智直國益(飛鳥麻呂に併記)に外従五位下を授けている。物を献上したことによる。五日に次のように勅されている・・・東山道巡察使・行兵部大輔・侍従で勲三等の淡海眞人三船は、生まれつき聡明で文学や歴史にも通じている。巡察使の選考に際しては抜きん出て推挙され、命を受け巡察使としての任務についた。諸使が各道に出向く折は、委託される任務内容は同一であるが、風俗を視察して帰還後報告の時、政策がやや異なり、心を名誉と栄達に奪われ、取調べが苛酷であった。下野國の國司等が正税の未納を放置し、及び様々な官有物について、犯罪を犯すことがあった。---≪続≫---
これは國司全体の罪なのであるが、一人前の介の弓削宿祢薩摩だけを禁足して職務に就かせなかった。また恩赦の後で本来許されるべき者の罪を決定して、巧みに弁舌をふるった。しかしながら、その理由は穏当ではなく公平に道理に背いている。そこで現任を解任して、将来のために懲罰すべきである。また、近年裁判を行う官吏は法律の文言に拘泥して正しい道理を考慮せず、思いのままに判決を下している。このような点からみて、「薩摩」の訴状に納得することはできない。清廉潔白な官吏の道とは、本当にこのようであって良いであろうか。今後は決してこのようなことであってはならない。もしこれに類することがあったならば、法に従って処罰せよ・・・。
二十一日に左京の人である「粟田臣弟麻呂・粟田臣種麻呂・粟田臣乎奈美麻呂」の三人に朝臣姓を賜っている。二十二日に紀伊國那賀郡の大領の「日置毘登弟弓」に、稲一万束を紀伊國の國分寺に献上したので、外従五位下を授けている。また、「土左國安藝郡」の少領の「凡直伊賀麻呂」に、稲二万束・牛六十頭を西大寺に献上したので、外従五位下を授けている。
● 粟田臣弟麻呂・粟田臣種麻呂・粟田臣乎奈美麻呂
淳仁天皇紀に粟田臣道麻呂が朝臣姓を賜り、急速に昇進するのだが、謀反に連座して失脚する。その後左遷された地で亡くなったと記述されていた。奔流の「粟田朝臣」一族ではなく、即ち「粟田」の地の近傍に住まっていたと推定した。
おそらく、今回の人物等も同じような境遇と思われ、「道麻呂」の近隣を出自としていたのであろう。彼の出世に伴って、左京に移住していたのかもしれない。
弟麻呂の弟=ギザギザとした地がある様、種麻呂の種=禾+重=山稜が突き通すように延びている様、既出の文字列である乎奈美麻呂の乎奈美=息を吐き出すように開いた谷間にある高台が広がっているところと解釈される。三者の出自場所を図に示した。
彼等の北側の谷間は小野朝臣馬養の居処と推定した。粟田朝臣との境界を埋め尽くした様相である。さて、今後に両朝臣の新人達は如何なる配置となるのであろうか?…ご登場の際を期待しよう。
「紀伊國那賀郡」は、文武天皇紀に奈我郡の表記で登場していた。その後聖武天皇紀の行幸に際して、「玉垣勾頓宮」があった郡として那賀郡と記載されている。現地名は北九州市門司区恒見と推定した。勿論、その地を出自とする人物は、未だ登場せず、今回が初見となる。
日置=火のように延びる山稜の麓で真っ直ぐに延びる谷間が塞がれているところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。前出の場所と極めて類似した地形であることが解る。
名前の弟弓=ギザギザとした弓のような山稜が延びているところと読み解くと、この人物の出自の場所を求めることができる。「那賀郡」の別称が「奈我郡」であり、「我」=「ギザギザとした様」に通じている。当地の「大領」に相応しい名称だったのである。
「土左國安藝郡」は記紀・續紀を通じて初見である。更に言えば土左國の郡割そのものが初めて述べられているのである。いよいよ、配流先の地も國としての体裁を整えつつあったようである。
また、郡名「安藝」は安藝國で用いられた文字であり、固有の名称とする解釈では悩ましいところであろう。勿論、地形象形表記である以上類似の地形ならば、平然と使用されることになる。
繰り返しになるが、安藝=嫋やかに曲がって広がる谷間に山稜が並び揃って延びているところと解釈する。安藝郡の領域は…西側領域は定かではないが…図に示した場所、現地名の北九州市若松区大鳥居(一部乙丸)と推定される。前記で登場した道原寺・僧專住の居処があった地である。
● 凡直伊賀麻呂 凡直の既出である凡=[凡]の文字形に谷間が延びている様と解釈したが、図に示した谷間がその地形であることが解る。但し、当時はその大半が海面下にあったと推測される。伊賀麻呂の伊賀=谷間に区切られた山稜が谷間を押し開いているところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。おそらくこの人物は山稜を切り開いて開拓したのであろう。
文武天皇即位二(698)年正月に土左國が「牛黄」を献上したと記載されていた。水田稲作ばかりではなく、丘陵地帯における酪農も盛んに行っていたのであろう。牛黄は土地開拓として読んだが、どうやら重ねた記述だったようである。