2023年6月12日月曜日

高野天皇:称徳天皇(13) 〔637〕

高野天皇:称徳天皇(13)


神護景雲元(西暦767年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

秋七月庚戌。以從五位下大原連家主爲主税頭。但馬員外介如故。從五位下大伴宿祢潔足。從五位下當麻眞人永繼並爲刑部大判事。從五位下石川朝臣眞守爲右京亮。少納言從五位下當麻王爲兼信濃介。外從五位下林連雜物爲上野介。外從五位下道嶋宿祢三山爲陸奥少掾。外從五位下坂合部宿祢斐太麻呂爲筑後守。主殿頭從五位下美和眞人土生爲兼豊後介。壬子。復无位忌部宿祢鳥麻呂本位從五位上。丁巳。從五位下弓削御淨朝臣秋麻呂爲左少弁。從五位下楫嶋王。從五位下石上朝臣眞足並爲大監物。從五位下文室眞人眞老爲内藏助。從五位下賀茂朝臣大川爲内匠助。是日。始置内豎省。以正三位弓削御淨朝臣淨人爲卿。中納言衛門督上総守如故。從四位上藤原朝臣是公爲大輔。左衛士督下総守如故。從五位下藤原朝臣雄依爲少輔。右衛士督如故。從五位下田口朝臣安麻呂爲大丞。大丞二員。少丞二員。大録一員。少録三員。」正五位下豊野眞人尾張爲能登守。備前守正五位下石川朝臣名足爲兼陸奥鎭守副將軍。」初近衛從八位下物部礒浪。寳字八年仲滿奪鈴印時。疾走告急。至是授外從五位下。癸亥。以從五位上息長丹生眞人大國爲播磨員外介。丙寅。以正五位上右少弁造西大寺次官大伴宿祢伯麻呂爲兼駿河守。」陸奥國宇多郡人外正六位上勳十等吉弥侯部石麻呂賜姓上毛野陸奥公。辛未。河内國志紀郡人正六位上山川造魚足等九人賜姓山川連。同國同郡人從六位上依羅造五百世麻呂。丹比郡人從六位下依羅造里上等十一人依羅連。癸酉。授從八位下船木直馬養外從五位下。以獻物也。

七月三日に但馬員外介の大原連家主(遊麻呂に併記)を兼務で主税頭、大伴宿祢潔足(池主に併記)・當麻眞人永繼(永嗣。得足に併記)を刑部省の大判事、石川朝臣眞守を右京亮、少納言の當麻王()を兼務で信濃介、林連雜物を上野介、道嶋宿祢三山を陸奥少掾、坂合部宿祢斐太麻呂(金綱に併記)を筑後守、主殿頭の美和眞人土生(壬生王)を兼務で豊後介に任じている。

五日に忌部宿祢鳥麻呂を本位の従五位上に復位させている。十日に弓削御淨朝臣秋麻呂(道鏡に併記)を左少弁、楫嶋王(梶嶋王)・石上朝臣眞足を大監物、文室眞人眞老(長嶋王に併記)を内藏助、賀茂朝臣大川を内匠助に任じている。この日、初めて内竪省を設置している。弓削御淨朝臣淨人(道鏡に併記)を中納言・衛門督・上総守はそのままとして卿に任じている。左衛門士督・下総守の藤原朝臣是公(黒麻呂)を兼務で大輔、右衛門士督の藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を兼務で少輔、田口朝臣安麻呂(大戸に併記)を大丞に任じている。大丞は二人、少丞は二人、大録は一人、少録は三人としている。

また、豊野眞人尾張(尾張王)を能登守、備前守の石川朝臣名足に陸奥鎮守副将軍を兼任させている。以前に近衛の「物部礒浪」は、天平字八年に藤原仲麻呂が駅鈴と内印を奪おうとした時、一早く駆けつけて急を告げた。ここに至って外従五位下を授けている。十六日に息長丹生眞人大國(國嶋に併記)を播磨員外介に任じている。

十九日に右少弁・造西大寺次官の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を駿河守を兼任させている。また、陸奥國宇多郡(石城國宇太郡)の人である勲十等の「吉弥侯部石麻呂」に「上毛野陸奥公」の氏姓を賜っている。二十四日に河内國志紀郡の人である「山川造魚足」等九人に山川連、同國同郡の人である「依羅造五百世麻呂」、丹比郡の人である「依羅造里上」等十一人には、依羅連の姓を賜っている。二十六日に「船木直馬養」に外従五位下を授けている。物を献上したためである。

<物部礒浪>
● 物部礒浪

無姓の「物部」であり、居処も記載されていない。何とも不親切な?…唯一「近衛」が冠されているのみである。それが貴重な情報なのであろう。

前記で登場した物部蜷淵は、「上野國甘樂郡」の居処と「中衛」に在籍していたと述べられていた。この「近衛」と「中衛」の繋がりから、この人物の出自を「蜷淵」と同じ「甘樂郡物部」の地に求めてみよう。

礒浪礒=石+義=山麓の地がギザギザとしている様浪=氵+良=水辺でなだらかな様と解釈される。また、別表記の波=氵+皮=水辺で覆い被さるような様である。すると、図に示した場所がその地形であることが解る。

『仲麻呂の乱』における勲功を漸く認められたのであるが、外従五位下の爵位に加えて「物部公」の氏姓は賜らなかったようである。いや、実際にはそうであったのだが、それを記述しては簡単に出自が見えてしまう・・・だったのかもしれない。續紀のでの登場は、この場のみである。

<吉弥侯部石麻呂(上毛野陸奥公)>
<吉弥侯部眞麻呂-文知>
● 吉弥侯部石麻呂(上毛野陸奥公)

「陸奥國宇多郡」は、元正天皇紀に「陸奥國石城郡・標葉郡・行方郡・宇太郡・曰理郡」及び「常陸國菊多郡」の一部を属させて「石城國」とし、その後に「陸奥國」に復属させた「宇太郡」、あるいは、その一部を示していると思われる(”太”→”多”への変更)。

その地の住人が登場しているのであるが、この地は凄まじく地形が変形している場所である。現地名の北九州市門司区吉志新町に当たると推定し、広大な住宅地になっている。

図に国土地理院航空写真1974~8年を掲載した。既に一部が取り崩されつつあるが、辛うじて山稜が確認することができる。吉弥侯部の既出の文字列である吉弥(彌)侯=蓋をするように延びる山稜が弓なりに広がって端が矢のように尖っているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。「君子」を置換えた文字列であり(こちら参照)、勿論「君子」で表記されることも解る。

この「吉弥侯」の近隣(部)に石麻呂の出自の場所を図に示した。賜った上毛野陸奥公は、直近で登場の上毛野佐位朝臣上毛野坂本朝臣に類する名称であろう。「吉弥侯」地形を「毛」と見做した表記と思われる。繰り返すが、「上毛野」≠「上野」である。

少し後に吉弥侯部眞麻呂が蝦夷懐柔に成果を上げて、外正五位下を賜っている。「石麻呂」の西側の谷間に眞麻呂=[萬]の地形が寄り集まって窪んだところが確認できる。高市連眞麻呂と全く同じ解釈である。「上毛野陸奥公」の氏姓は賜っていなかったのであろう。

また、引き続いて吉弥侯部文知が登場し、「上毛野陸奥公」の氏姓を賜ったと記載されている。文知=鏃のような山稜が交差するように延びているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。そうなると、この氏姓は石麻呂の系列が授かったようであり、「眞麻呂」は別系列だったのであろう。

<山川造魚足(山川連)>
<山口臣犬養(山口朝臣)>
● 山川造魚足(山川連)

河内國志紀郡まで記載されていると、出自場所は容易に…高を括っては野壺に嵌ることになろう。「山川」の氏名は、極めて単純な上に、至る所に見出せる場所である。

関連する情報も皆無であり、また續紀に登場されるのも今回限りのようである。と言うことで、やはり「山川」が表す地形をしっかりと見極めることにする。

「山」は、山部王及びその他で用いられたように山=山稜が[山]の形をしている様と解釈する。すると林連の東側の谷間の地形を表していることが解る。纏めると山川=山稜が[山]の形をしている地の麓に川が流れているところと読み解ける。魚足=魚の足のように山稜が岐れて延びているところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。姓「造」を「連」とされたとのことである。

直ぐ後に山口臣犬養が山口朝臣姓を賜ったと記載される。山口=山稜が[山]の形をしている地の麓に口のような地があるところと解釈すると、「魚足」の東側の谷間を表していると思われる。頻出の犬養=平らな山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところとすると、図に示した場所が出自と推定される。

古事記の倭建命の白鳥御陵、品陀和氣命(応神天皇)の川内惠賀之裳伏岡陵の近辺、その隅々にまで人々が住まうようになって来たことが伺える。今から1,200年以上も前の記録である。驚嘆すべき史書なのだが、勿体ないことである。

<依羅造五百世麻呂(依羅連)>
● 依羅造五百世麻呂(依羅連)

ご丁寧に河内國志紀郡を居処とする人物と伝えてくれている。氏名の「依羅」の文字列は、幾度か登場している。例えば、物部依羅朝臣人會依羅我孫忍麻呂などで用いられていた。

要するに依羅=谷間にある山稜の端が三角形になった地が連なって並んでいるところの地形を表すと解釈した。記紀を通じて、多分續紀も、「羅」=「連なって並んでいる様」の解釈となる。

ところが、「羅」=「网+糸+隹」と分解され、本来「鳥を網で捕らえる」と言う意味を表す文字と知られている。即ち、書紀の皇極天皇紀に記載された河内國依網(屯倉)のことを示しているのである。

「網」=「糸+网+亡」と分解され、「依網」=「山稜の端の三角の地が見えなくなっているところ」であるが、「網」を「羅」に置換えると、依羅=山稜の端が鳥の形をした地に網を掛けて捕らえた(見えなくなった)ようなところと読み解ける。

「鳥」は、紛うことなく、古事記の倭建命の白鳥御陵で登場した「白鳥」の頭部を示しているのである。図に示したように、山稜の端が連なって並んでいる場所ではない。續紀編者等の”会心”の筆さばきだったようである。網(アミ)=羅(アミ)と同じ訓で、納得してては勿体ないこと、この上なしであろう。

名前の五百世麻呂五百世=丸く小高い地が連なった山稜が交差して途切れずに繋がっているところと解釈すると、出自の場所は図に示した辺りと推定される。續紀での登場は、この場限りのようである。

<依羅造里上(依羅連)・丹比連大倉>
● 依羅造里上(依羅連)

「河内國丹比郡」は、「丹比宿祢」一族が蔓延っていた地域であり、現在の御所ヶ岳山系の北麓に当たる場所と推定した。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保である(こちら参照)。

その周辺の地で「依羅」の地形を求めると、図に示した場所が見出せる。現地名は行橋市津積となっている。古事記の難波之高津宮があった近隣となる。

おそらく、当時は現在の住吉池は存在せず、依羅=谷間にある山稜の端が三角形になった地が連なって並んでいるところの地形を表すと解釈すべきであろう。

名前の里上の「里」=「田+土」=「平らに区分けされている様」と解釈すると、里上=平らに区分けされた地が盛り上がっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。現在は御所ヶ谷住吉池公園となっている。この人物も、後に登場されることはないようである。

少し後に丹比連大倉が外従五位下を叙爵されて登場する。「丹比連」は續紀中に初見であり、また二度と記載されることはないようである。「丹比」の地形が途切れることなく続いているので、図に示した場所が出自と推定した。大倉=平らな頂の山稜の麓にある四角く区切られたところと解釈する。

<船木直馬養>
● 船木直馬養

「船木直」一族は、書紀・續紀では初見である。古事記の神八井耳命が祖となった伊勢船木直、何とも古めかしいと言うか、埋もれた一族ではなかろうか。直近の記述は、正にそんな彼等を表舞台に引き摺り出しているような有様である。

船木=船のような形の山稜が延びているところと解釈し、現地名は北九州市小倉南区長行・辻三の端境の地域と推定した。

今回登場の人物名は、頻出の馬養=馬のような形の山稜の傍らで谷間がなだらかに広がっているところとすると、図に示した場所が出自と思われる。物を献上するほどに耕地を開拓し、財を成したのであろう。現在の地図からでも、山間に広がる地に蛇行する川(辻の蔵川)が流れ、その治水を上手に行ったのではなかろうか。

「馬養」は、後に官吏に取り立てられ、最後は若狭守を任じられている。尚、「伊勢船木直」一族に関しては、こちらで詳細に述べられているが、本貫の地は、今のところ不詳のようである。

八月辛巳。筑前國宗形郡大領外從六位下宗形朝臣深津授外從五位下。其妻无位竹生王從五位下。並以被僧壽應誘。造金埼船瀬也。乙酉。參河國言。慶雲見。屈僧六百口。於西宮寢殿設齋。以慶雲見也。是日。緇侶進退無復法門之趣。拍手歡喜一同俗人。戊子。外從五位下健部朝臣人上爲主計助。從五位上榎井朝臣子祖爲兵部大輔。從五位下多治比眞人長野爲刑部大判事。外從五位下葛井連河守爲伊賀守。從五位上佐伯宿祢眞守爲常陸介。從五位下石川朝臣名繼爲越前介。從五位下大伴宿祢潔足爲因幡介。從五位下弓削宿祢大成爲掾。從五位下佐伯宿祢久良麻呂爲豊後守。癸巳。改元神護景雲。詔曰。日本國〈尓〉坐〈天〉大八洲國照給〈比〉治給〈布〉倭根子天皇〈我〉御命〈良麻止〉勅〈布〉御命〈乎〉衆諸聞食〈止〉宣。今年〈乃〉六月十六日申時〈仁〉東南之角〈尓〉當〈天〉甚奇〈久〉異〈尓〉麗〈岐〉雲七色相交〈天〉立登〈天〉在。此〈乎〉朕自〈毛〉見行〈之〉又侍諸人等〈毛〉共見〈天〉怪〈備〉喜〈備都都〉在間〈仁〉伊勢國守從五位下阿倍朝臣東人等〈我〉奏〈久〉。六月十七日〈尓〉度會郡〈乃〉等由氣〈乃〉宮〈乃〉上〈仁〉當〈天〉五色瑞雲起覆〈天〉在。依此〈天〉彼形〈乎〉書寫以進〈止〉奏〈利〉。復陰陽寮〈毛〉七月十五日〈尓〉西北角〈仁〉美異雲立〈天〉在。同月廿三日〈仁〉東南角〈仁〉有雲本朱末黄稍具五色〈止〉奏〈利〉。如是〈久〉奇異雲〈乃〉顯在〈流〉所由〈乎〉令勘〈尓〉。式部省等〈我〉奏〈久〉。瑞書〈尓〉細勘〈尓〉是即景雲〈尓〉在。實合大瑞〈止〉奏〈世利〉。然朕念行〈久〉。如是〈久〉大〈仁〉貴〈久〉奇異〈尓〉在大瑞〈波〉聖皇之御世〈尓〉至徳〈尓〉感〈天〉天地〈乃〉示現〈之〉賜物〈止奈毛〉常〈毛〉聞行〈須〉。是豈敢朕徳〈伊〉天地〈乃〉御心〈乎〉令感動〈末都流倍岐〉事〈波〉无〈止奈毛〉念行〈須〉。然此〈方〉大御神宮上〈尓〉示顯給。故尚是〈方〉大神〈乃〉慈〈備〉示給〈幣流〉物〈奈犁〉。又掛〈毛〉畏〈岐〉御世御世〈乃〉先〈乃〉皇〈我〉御靈〈乃〉助給〈比〉慈給〈幣流〉物〈奈犁〉。復去正月〈尓〉二七日之間諸大寺〈乃〉大法師等〈乎〉奏請〈良倍天〉最勝王經〈乎〉令講讃〈末都利〉又吉祥天〈乃〉悔過〈乎〉令仕奉〈流尓〉諸大法師等〈我〉如理〈久〉勤〈天〉坐〈佐比〉又諸臣等〈乃〉天下〈乃〉政事〈乎〉合理〈天〉奉仕〈尓〉依〈天之〉三寳〈毛〉諸天〈毛〉天地〈乃〉神〈多知毛〉共〈尓〉示現賜〈幣流〉奇〈久〉貴〈伎〉大瑞〈乃〉雲〈尓〉在〈良之止奈毛〉念行〈須〉。故是以奇〈久〉喜〈之支〉大瑞〈乎〉頂〈尓〉受給〈天〉忍〈天〉默在〈去止〉不得〈之天奈毛〉諸王〈多知〉臣〈多知乎〉召〈天〉共〈尓〉歡〈備〉尊〈備〉天地〈乃〉御恩〈乎〉奉報〈倍之止奈毛〉念行〈止〉詔〈布〉天皇〈我〉御命〈遠〉諸聞食〈止〉宣。然夫天〈方〉万物〈乎〉能覆養賜〈比〉慈〈備〉愍〈美〉賜物〈仁〉坐〈須。〉又大神宮〈乃〉祢宜大物忌内人等〈尓波〉叙二級。但御巫以下人等叙一級。又伊勢國神郡二郡司及諸國祝部有位无位等賜一級。又六位以下及左右京男女年六十以上賜一級。但正六位上重三選以上者。賜上正六位上。又孝子順孫義夫孝婦節婦力田者賜二級。表旌其門至于終身田租免給。又五位以上人等賜御手物。又天下諸國今年田租半免。又八十以上老人及鰥寡孤獨不能自存者賜籾。又示顯賜〈弊流〉瑞〈乃末尓末仁〉年号〈波〉改賜〈布。〉是以改天平神護三年。爲神護景雲元年〈止〉詔〈布〉天皇〈我〉御命〈遠〉諸聞食〈止〉宣。又天下有罪。大辟罪已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸赦除之。但犯八虐。故殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦限。普告天下知朕意焉。」陰陽員外助從五位下紀朝臣益麻呂叙正五位下。允正六位上山上朝臣船主從五位下。〈今検。景雲二年始賜朝臣。此據位記而書之。〉員外允正六位上日下部連虫麻呂。大属百濟公秋麻呂。天文博士國見連今虫。咒禁師末使主望足。並外從五位下。伊勢守從五位下阿倍朝臣東人從五位上。介正六位下日置造通形外從五位下。大神宮祢宜外從五位下神主首名外正五位下。等由氣宮祢宜外正六位下神主忍人外從五位下。參河守從四位下伊勢朝臣老人從四位上。目正六位上紀朝臣門守從五位下。介外從五位下秦忌寸智麻呂。掾民忌寸総麻呂並外從五位上。」賜左右大臣綿人七百五十屯。二位四百五十屯。三位三百屯。四位百五十屯。五位六十屯。外位卌屯。女亦准此。甲午。志摩國飢。賑給之。戊戌。近衛少將從五位上弓削宿祢牛養爲兼越前介。從五位下石川朝臣名繼爲員外介。從五位下藤原朝臣雄依爲備前權守。庚子。散位正七位上秦忌寸眞成獻錢二千貫。牛十頭。授外從五位下。丙午。從四位下佐伯宿祢今毛人爲左大弁。造西大寺長官如故。從五位下紀朝臣廣庭。阿倍朝臣小東人。並爲勅旨少輔。從五位上葛井連道依爲員外少輔。法王宮大進如故。外從五位下健部朝臣人上爲大丞。正六位下紀朝臣益麻呂爲陰陽頭。從五位下弓削宿祢薩摩爲助。外從五位下松井連淨山爲内匠助。從五位上布勢朝臣人主爲式部大輔。正五位上百濟王理伯爲攝津大夫。從四位下阿倍朝臣毛人爲造東大寺次官。宮内卿如故。從四位上伊勢朝臣老人爲造西隆寺長官。中衛中將參河守如故。從五位下若江王。外從五位上秦忌寸智麻呂並爲寫一切經次官。外從五位下丈部直不破麻呂爲下総員外介。近衛員外少將如故。從五位下弓削御淨朝臣廣方爲武藏員外介。中衛將監如故。從五位下百濟王武鏡爲但馬介。從五位下賀茂朝臣大川爲長門守。外從五位上上村主五十公爲讃岐員外介。正五位上淡海眞人三船。從五位上大伴宿祢家持並爲大宰少貳。」散位從四位下粟田朝臣奈勢麻呂卒。

八月四日に筑前國宗形郡大領の「宗形朝臣深津」に外従五位下、その妻で「竹生王」には従五位下を授けている。二人は「僧壽應」に勧誘されて「金埼船瀬(泊)」を造ったためである。八日に參河國が慶雲が現れたと言上している。僧六百人を集めて、西宮の寝殿において僧達に食事を供している。慶雲が現れたためである。この日、僧侶の振舞いは仏門にある者のようではなく、手を打って歓喜する様子は俗人と全く同じであった。

十一日に健部朝臣人上(建部公人上)を主計助、榎井朝臣子祖(小祖父)を兵部大輔、多治比眞人長野を刑部大判事、葛井連河守(立足に併記)を伊賀守、佐伯宿祢眞守を常陸介、石川朝臣名繼(眞守に併記)を越前介、大伴宿祢潔足(池主に併記)を因幡介、弓削宿祢大成(薩摩に併記)を掾、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を豊後守に任じている。

十六日に神護景雲と改元し、次のように詔されている(以下宣命体)・・・日本國においでになって大八洲國を照らしお治めになっている倭根子天皇(称徳天皇)の御言葉として仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す。今年の六月十六日の申の時(午後三~五時)、東南の方角で、たいそう珍しく特に麗しい、七色のまじり合った雲が立ち上っていた。これを朕みずからも見たし、近侍していた人々も共に見て、不思議に思い、喜んでいたところ、伊勢國守の阿倍朝臣東人(廣人に併記)等が[六月十七日の度會郡の「等由氣宮」(豊受大神宮=外宮)の上に五色の瑞雲が立ち上って宮の上を覆っていた。そこでその雲の形を書き写して進上する]と奏して来た。---≪続≫---

また陰陽寮も[七月十五日に西北の方角に、美しく珍しい雲が立ち上っていた。同月二十三日に東南の方角に出た雲は、根本が朱色で端は黄色になっており、ほぼ五色を備えていた]と奏上して来た。このように珍しく尋常でない雲が出現した理由を検討させたところ、式部省(大学寮が所属)などが[祥瑞の書を仔細に検討してみると、この雲は景雲であり、まことに大瑞に該当する]と奏上した。---≪続≫---

そこで朕が考えてみると、このように大きくかつ貴く珍しく尋常でない大いなる瑞祥は、聖人の天皇の御世に、至上の德に感応して、天地があらわされるものであると、いつも聞いている。これは決して朕の德が貴い天地の御心を感動させ奉った事ではないと思わっている。しかもこの大瑞は伊勢大神宮の上に顕された。それ故に、やはりこれは天照大神のめぐみをお示しになったものである。また、口に出すのも恐れ多い代々の先祖である天皇の御霊が、お助け下さりおめぐみ下さったものである。

また去る正月に、二七日(十四日)の間、諸大寺の大法師等を招請して最勝王経を購読させ奉り、また吉祥天悔過を奉仕させた時、大法師たちが道理のとおりに勤行され、また諸臣たちも天下の政治を道理に叶って行い奉っていることによって、仏も仏に仕える諸天も、天神・地神たちも、共にお示しになった珍しく貴い大瑞の雲であるらしいと思われる。それ故珍しく喜ばしい大瑞を頭上に頂いて、自分の心に秘めて黙っていることができず、諸王・諸臣たちを召して、共に喜び尊んで、天地の御恩に報いるべきであると考えている、と仰せられる天皇の御言葉を、みな承れと申し渡す。---≪続≫---

さて、天は万物をよく覆い養われ、慈しみ憐れみ給うものであられる。また伊勢大神宮の禰宜・大物忌・内人などには、位を二階与える。但し、御巫以下の人々には一階を与える。また、伊勢國の神郡となっている二郡(多氣・度會)の郡司及び諸國の祝部で位を持っている者にも無位の者にも、一級与える。また、六位以下及び左右京の男女で年が六十以上の者には一級を与える。但し、正六位上の者で三年以上の勤務評定を重ねた者には、「上正六位上」(従五位下と正六位上の間)を与える。---≪続≫---

また、孝子・順孫・義夫・孝婦・力田には位を二級与え、その家の門にその旨を表彰し、終身その田租を免除する。また五位以上の人々には、天皇の御手元の物を与える。また、天下の諸國の今年の田租の半分を免除する。また、八十歳以上の老人、及び鰥・寡・孤・獨で自活できない者には籾を与える。また、天がお現わし下さった瑞祥のままに、年号を改める。そこで天平神護三年を改めて神護景雲元年とする、と仰せになる御言葉をみな承れと申し渡す。---≪続≫---(以下漢文)

また、全國で罪を犯した者は、死罪以下、罪の軽重に関わりなく、既に発覚した罪も、まだ発覚していない罪も、罪の確定した者も、また確定していない者も、獄に繋がれている囚人も、全て赦す。但し、八虐の罪、故意による殺人、贋金造り・強盗・窃盗、通常の恩赦では免除されない者は、赦免の範囲には入れない。このことをあまねく天下に告げて、朕の意図するとことを知らせるように・・・。

陰陽寮員外助の紀朝臣益麻呂(益人)に正五位下、同允の「山上朝臣船主」に従五位下〈分注。今調べてみると神護景雲二年に朝臣姓を賜っている。ここでは位記に準じて記載した、同員外允の「日下部連虫麻呂」、同大属の百濟公秋麻呂(余民善女に併記)、天文博士の國見連今虫(國見眞人眞城に併記)、咒禁師の「末使主望足」に各々外従五位下、伊勢守の阿倍朝臣東人(廣人に併記)に従五位上、同介の「日置造通形」に外従五位下、大神宮祢宜の神主首名に外従五位上、等由氣宮祢宜の神主忍人(首名に併記)に外従五位下、參河守の伊勢朝臣老人(中臣伊勢朝臣)に従四位上、同目の「紀朝臣門守」に従五位下、同介の秦忌寸智麻呂と同掾の民忌寸総麻呂(眞楫に併記)に各々外従五位上を授けている。左右大臣に真綿を各々七百五十屯、二位には四百五十屯、三位には三百屯、四位には百五十屯、五位には六十屯、外位の者には四十屯を賜っている。女もこれに準じて賜っている。

十七日に志摩國に飢饉が起こったので、物を与えて救っている。二十一日に近衛少将の弓削宿祢牛養(薩摩に併記)に越前介を兼任させ、石川朝臣名繼(眞守に併記)を員外介、藤原朝臣雄依(小依)を備前権守に任じている。二十三日に散位の秦忌寸眞成(兄の首麻呂に併記)は銭二千貫、牛十頭を献上したので外従五位下を授けている。

二十九日に佐伯宿祢今毛人を造西大寺長官をそのままとして左大弁、紀朝臣廣庭(宇美に併記)・阿倍朝臣小東人を勅旨省少輔、葛井連道依(立足に併記)を同員外少輔、法王宮大進の健部朝臣人上(建部公人上)を兼務で勅旨省の大丞、紀朝臣益麻呂(益人)を陰陽頭、弓削宿祢薩摩()を同助、松井連淨山(戸淨山)を内匠助、布勢朝臣人主(首名に併記)を式部大輔、百濟王理伯(①-)を攝津大夫、宮内卿の阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を兼務で造東大寺次官、中衛中将・參河守の伊勢朝臣老人(中臣伊勢朝臣)を兼務で造西隆寺長官、若江王()及び秦忌寸智麻呂を各々写一切経司次官、丈部直不破麻呂(刀自に併記)を下総員外介、近衛府員外少将の弓削御淨朝臣廣方を兼務で武藏員外介、中衛将監の百濟王武鏡(①-)を兼務で但馬介、賀茂朝臣大川を長門守、上村主五十公を讃岐員外介、淡海眞人三船及び大伴宿祢家持を大宰少弐に任じている。散位の粟田朝臣奈勢麻呂が亡くなっている。

<宗形朝臣深津・壽應>
● 宗形朝臣深津・壽應

「宗形朝臣」一族は、既に幾人かの人物、元明天皇紀に、聖武天皇紀に鳥麻呂(等抒に併記)、与呂志が登場していた。現在の宗像大社の西側の谷間に、各々の出自の場所を見出すことができた。

宗形郡大領である「深津」も、おそらく、その谷間の何処かを居処としていたのであろう。既出の文字列である深津=大きく開いた谷間の水辺で[火]のような山稜が延びた端が筆のような形をしているところと読み解ける。図に示したように「鳥麻呂」(宗形神主)の「鳥」を「深」で置き換えた表記と思われる。

ところで、「深津」夫婦に善行を勧めた僧壽應なる人物を登場させている。この僧の名前を読み解いてみよう。「壽」=「長く延びている様」と解釈する。古事記の畝火之白檮原宮の「檮」に含まれる文字である。

「應」=「广+人+隹+心」と分解される。全て地形象形の文字からなる文字であることが分かる。「應」=「山麓の谷間に囲まれて山稜が鳥のような形をしている様」と解釈される。纏めると壽應=山麓の谷間に囲まれて山稜が鳥のような形をしている地が長く延びたところと読み解ける。図に示した場所が、この僧の出自と推定される。

<竹生王>
● 竹生王

上記「深津」の妻であったと記載されている。しかも彼自身は、今回の叙位で外従五位下なのだが、妻は無位から内位の従五位下となっている。

皇孫に限りなく近い血筋の女性だったことが伺えるのだが、宗形郡の大領ごときが如何なる縁があって、高位な女性を娶ることができたのであろうか?・・・などと憶測が広がるが、意外にそれらしき筋道が見出せるようである。

上図に示したように高市皇子の母親は、「胸形」一族であった(こちら参照)。古事記の時代では、現在の釣川上流域に人々が住まい、時代と共に下流域の「宗形」がこの地を代表する地域となって行ったと思われる。挿入図に示した通り、「胸形」は安藝國、「宗形」は筑前國と名付けられている。

高市皇子後裔の”落胤”が、栄えつつある下流域の「宗形」に嫁ぐことも十分に考えられる婚姻だったように推測される。少々前書きが長くなったが、名前の竹生王が示す場所を求めてみよう。竹生=竹のような山稜から生え出たところと解釈すると、極めて明瞭に出自の場所を見出せる。

この地域で「竹」の形状は極めて希少なのである。そして、そもそも安藝國の由来に繋がっていることが解る。編者等にしてみても、これほど明らかなことはない、と言ったところであろうか。本著にしても、久々にすんなりと繋がった解読になったように思われる。

<金埼船瀬>
金埼船瀬

さて、今回の褒賞の対象となったのが、「深津・竹生王」夫婦が造った「金埼船瀬」であったと記載されている。調べると「船瀬」は平安時代以前に使われていた船の停泊場所を意味し、以降は泊(とまり)と呼ばれてとのことである。

通説では、現在の福岡県宗像郡玄海町鐘崎とされている。その地は古事記の氣多之前と推定した地の先端部に当たる場所であり、到底受け入れられる解釈ではない。

「金」と「鍾」、訓読みが同じだから疑う余地なし、なのであろうが、この二文字が表す地形は全く異なるのである。金鍾寺(東大寺)の名称は、如何に解釈するのであろうか?・・・。金埼=山稜の端が[金]の文字形のように三角に尖っているところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。現地名は宗像市神湊である。

その先の半島(当時は島状)の上に怡土城が造営されていた。海上を航行する船の目印であり、西海の状況を把握する上に置いて格好の位置にある場所と思われる。彼等が設営した「金埼船瀬」は、際立って目立つ怡土城及びその麓に(緊急)避難場所としての船瀬の存在価値に大いなる期待があったと推測される。

<等由氣宮>
等由氣宮

高野天皇が宣命体で述べられた中に登場する。勿論、外宮の豊受宮とすることには異論はなかろう・・・で終わるわけにはいかない。古事記の表記は登由宇氣神であり、詳細に検証してみる必要があろう。

「等」=「竹+寺」と分解され、古代の竹簡を作る時の状況を表す文字であって、「揃って並んでいる様」の意味を示す。即ち「登」の代わりに使われている。古事記表記に含まれていた「宇」=「宀+于」=「谷間に山稜が延びている様」と解釈したが、「由」=「抜け出る様」があれば、省略可能なことが解る。

宣命体のような話言葉を記載するとなれば、この省略は素直に受け取れることになろう。古事記の神懸かり的な表現として、各々の名称が表す意味が、未だもって曖昧な状況であることを顕している。豊受神の豐受=段差のある高台が繋がり並んでいるところを表すのである。

何度も繰り返すように古代の史書は漢語で記述されているのであって、和語(日本語)ではない。この視点を変えない限り、永遠に古代はロマンの世界に埋もれたままであろう。

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些か余談だが、先日吉野ヶ里遺跡に新しい発見があったとのこと(こちら参照)。邪馬台国九州説に有利な発見か?…相変わらずの論調である。以下のコメントが興味深い。畿内説に立つ橋本輝彦所長(桜井市立埋蔵文化財センター)「・・・極端な話“卑弥呼”と書いた物が出てこない限り、なかなか難しいのかなと」。

吉野ヶ里遺跡は、魏志倭人伝中の傍國の巳百支國()と推定した場所、”古有明海”の干潟が眼前に広がるところである。倭人(天神族とは異なる)が移住する以前から人々が住まっていたであろう。日本列島には多層の異民族が折り重なって渡来したのである。それにしても、延々と掘り返して来た奈良大和、まだ、”決定的なもの”が埋没されていると考えるのであろうか?・・・。

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<山上朝臣船主>
● 山上朝臣船主

「山於億良」(山上憶良)等の一族に関わる人物であったと知られている。「山於」の地は、現地名の田川郡添田町庄・中元寺・野田に跨る広範囲な地域であるが、「億良」の出自場所は野田と推定した(こちら参照)。

そんな背景で、「船主」が表す地形を探すのだが、それらしき場所は容易に見出せない状況に陥った。船主=船のような地に真っ直ぐな山稜が延びているところと解釈される。

今までに登場した「船」は、船体が細長く延びている様と見做していて、全てその解釈で求める地形を確認することが可能であった。「億良」の近辺で、何とか船首のような地形が目に止まるのだが、細長く延びているようには見えなかった。

結果、図に示したように、この地形を斜め上から眺めた表記であることに気付かされた。鋭角に尖ったのではなく、横に広がったような山稜を「帆」が立っている様と見做したのではなかろうか。そのメインマストを「主」と表現したのであろう。

この後も幾度か登場され、罪に問われて配流、そして赦免と流転の人生を送られたようである。陰陽頭・天文博士などを歴任されている。「億良」の子のかも、と言われているが、年代的・配置的にも、子ではなく孫のように思われる。勿論近親者には違いない。

<日下部連虫麻呂-意卑麻呂>
● 日下部連虫麻呂

「日下部宿祢」一族は、既に幾人かが登場しているが(こちら参照)、”連姓”の人物は續紀中初見のようである。また、古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀に沙本毘古王が祖となった中に「日下部連」が挙げられているが、直接的な繋がりは不詳である。

ところが、少し後の神護景雲二(768)年二月「河内國河内郡人日下部意卑麻呂賜姓日下部連」と記載され、居処に関する情報が提供されているのである。

更に「河内國河内郡」も記紀・續紀を通じて初見の郡名なのである。しかしながら、「河内郡」の全容は後に述べるとして、この郡の所在は直感的に求めることができそうである。現在の味見峠を越えた谷間が属していると思われる。前出の高安郡の南側である。

虫麻呂は頻出の蟲=山稜端が細かく岐れている様であり、図に示した辺りを出自としていたと思われる。三嶋眞人嶋麻呂の西隣である。氏名を日下部と主張できる根拠は如何なものであろうか?…彼の背後の山、それが太陽()のように丸く炎を上げている様子とし、その麓()に近接する地()を出自としたからであろう。

意卑麻呂卑=山稜の端が丸く平たくなっている様と解釈した。この文字は多用されることはなく、希少ではあるが、古事記の天之菩卑能命や、魏志倭人伝の卑彌呼にも用いられている。頻出の意=内に閉じ込められた様と解釈すると、これ等が表す地形を図に示した場所に見出せる。正に、全ての谷間を埋め尽くす様相である。

<山背國紀伊郡・末使主望足>
● 末使主望足

「末使主」は記紀・續紀を通じて初見の一族である。『新撰姓氏録』を横目で眺めると、山背國を本貫する百濟系渡来人だったようである。更に調べてみると、同國の「紀伊郡」らしいことが分かった。

「紀伊郡」の名称も初見であるが、書紀の欽明天皇紀に山背國紀郡深草里(こちら参照)と記載された「紀郡」ではなかろうか。すると、紀伊=谷間に区切られた山稜が[己]の字形に延びているところから、図に示した場所を表していることが解る。綴喜郡の南に接する地域である。

調連一族(調首淡海等)が西端に住まっていたが、東側は空地となっていた。そこが、どうやら今回登場の人物の出自の場所と思われる。末使主の「末」=「山稜の端」と解釈して問題なかろうが、もう少し掘り下げてみると、末=木+一=山稜の端が延びて見えなくなっている様と解釈される。

「使主」は姓と重ねて、やはりこれも地形象形表記であろう。使主=真っ直ぐに延びる山稜が谷間を突き通すようなところと読むと、図に示した場所の地形を表している。望足の名前は前出の石川朝臣望足に用いられていた。望足=足のような山稜が山稜を端の三角の地を見えなくしているところと解釈したが、酷似した地形である。伝えられている断片的な情報が、この人物の居処に収斂したような結果になったようである。

<日置造通形>
● 日置造通形

「日置造」一族は、既に登場していて、現在の田川郡香春町から北九州市小倉南区呼野に向かう境にある金辺峠の南側の谷奥に当たる場所と推定した(こちら参照)。

古事記の大山守命が祖となった弊岐君の場所であり、また日置女王の居処の近隣の地でもある。若干、詳細な場所を突止めるには大雑把な表記であったが、この一族の出現で状況が変わったように思われる。

名前の既出の文字である「通」=「辶+甬」=「突き通すように谷間が延びている様」、「形」=「山稜が四角く取り囲んでいる様」と解釈した。どうやら「形」は、上記の弊岐君の南側の土形君の「形」を表しているのであろう。勿論「刑部」の「刑」とも表記されたところである。

纏めると通形=[形]の地の上に突き通すような谷間があるところと読み解ける。図に示した場所が、この人物の出自と推定される。別名の道形は、その谷間の出口辺りを表していると思われる。後に栄井宿祢の氏姓を賜ったと伝わっている。「栄(榮)」=「𤇾+木」=「[火]のような山稜に囲まれた様」と解釈すると、栄(榮)井=[火]のような山稜に四角く囲まれたところと読み解ける。「日置」の別表記である。

<紀朝臣門守>
● 紀朝臣門守

「紀朝臣」一族ではあるが、全く系譜等の情報は伝わっていないようである。この後幾度か登場され、參河國の目から京官へ移り、最後は鋳銭次官を任じられたとのことである。

そんな背景で、名前から出自場所を求めてみよう。門守=門のように山稜が並んでいる麓で両肘を張り出したようなところと読み解ける。

図に示した場所の地形を表しているのではなかろうか。「大口」→「眞人」→「猪養」→「僧麻呂」系列が上流域へ遡った、その更に上流域の場所である(こちら参照)。續紀中初見である。現地名は豊前市野田である。

ところで、「等由氣宮」の上に架かった景雲に関わる國として、伊勢國・參河國が挙げられている。伊勢國は宮のある地で納得であるが、第一発見者に參河國がなり得た背景は如何なることなのであろうか?…豊受宮と參河國(現地名:北九州市小倉南区湯川)とは、直線距離約3kmなのである。途中遮る山塊もなく、目視確認できる距離である。

更に、上記で「豊受」は立派な地形象形表記と解釈したが、これは重ねられた表記なのである。豊受=豊(日別)に面する(受)ところと読み解ける(こちら参照)。古事記の伊邪那岐・伊邪那美が生んだ筑紫嶋の豐國謂豐日別の「豐」を示していることが解る。各地点の重要な配置を表しているのである。

従来の解釈では、伊勢湾(伊良湖水道)・三河湾を挟んで、伊勢國と參河國は対岸にある。だから当然・・・參河國のどの場所から?…伊良湖岬の突端から三重県高倉山まで約30km、豊川市国府からでは約70km、豊田市上挙母から約77km距離である。高倉山の上に架かった雲か否か、判別できるのであろうか・・・。我等の祖先は、不合理なことを書き残してくれてはいない、と思われる。