2023年6月21日水曜日

高野天皇:称徳天皇(14) 〔638〕

高野天皇:称徳天皇(14)


神護景雲元(西暦767年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

九月戊申朔。日上有五色雲。」右大臣從二位吉備朝臣眞備獻對馬嶋墾田三町一段。陸田五町二段。雜穀二万束。以爲嶋儲。己酉。幸西大寺嶋院。授從五位下日置造蓑麻呂從五位上。辛亥。從五位下池原公禾守爲造西隆寺次官。大外記右平凖令如故。從五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂爲豊前介。壬子。復无位玉作金弓本位外從五位下。己未。隼人司隼人百十六人。不論有位无位。賜爵一級。其正六位上者叙上正六位上。癸亥。日向員外介從四位上大津連大浦解任。其隨身天文陰陽等書沒爲官書。甲子。以從四位上日下部宿祢子麻呂爲内豎員外大輔。從五位下賀茂朝臣田守爲播磨守。乙丑。始造八幡比賣神宮寺。其夫者便役神寺封戸。限四年令畢功。己巳。河内國志紀郡人正六位上山口臣犬養等三人賜姓山口朝臣。上総國海上郡人外從五位下桧前舍人直建麻呂上総宿祢。右京人正七位下山田造吉繼山田連。庚午。備前國國造從四位下上道朝臣正道卒。正道者本中衛。勝寳九歳。以告橘奈良麻呂密。授從四位下。賜姓朝臣。語在勝寳九歳記中。歴美濃。播磨。備前等國守。宮内大輔。右兵衛督。

九月一日に太陽の上に五色の雲がかかったと記している。右大臣の吉備朝臣眞備は對馬嶋の墾田三町一段、陸田五町二段、雑穀二万束を献上している。そこで嶋の蓄えとしている。二日に西大寺嶋院に行幸されている。日置造蓑麻呂(眞卯に併記)に従五位上を授けている。四日に池原公禾守を大外記・右平準令はそのままとして造西隆寺次官に任じている。中臣習宜朝臣阿曾麻呂(山守に併記)を豊前介に任じている。

五日に玉作金弓を本位である外従五位下に復位している。十二日に隼人司の隼人百十六人に、位を持っているかいないかに関係なく、位階を一級ずつ賜っている。正六位上の者は上正六位上に叙位している。十六日に日向國員外介の大津連大浦(大津宿祢)を解任し、彼の所有していた天文・陰陽などの書物は没収して官有の書物としている。十七日に日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)を内竪省の員外大輔、賀茂朝臣田守を播磨守に任じている。

十日に初めて八幡比賣(比咩)神宮寺を造営している。そのための人夫として便宜的に八幡神宮寺の封戸を使役することとし、四年間を期限として完成させるようにしている。二十二日に河内國志紀郡の人である山口臣犬養(山川造魚足に併記)等三人に山口朝臣、上総國海上郡の人である桧前舍人直建麻呂(丈部大麻呂に併記)に上総宿祢、右京の人である「山田造吉繼」に山田連の姓を賜っている。

二十三日に備前國國造の上道朝臣正道(斐太都)が亡くなっている。「正道」はもと中衛であり、天平勝寶九歳(757年)に橘奈良麻呂の陰謀を密告した功績により従四位下を授けられ、朝臣の姓を賜った。仔細は天平勝寶九歳の記事の中にある。美濃・播磨・備前等の國守、宮内大輔、右兵衛督を歴任した。

<山田造吉繼>
● 山田造吉繼

「山田造」は記紀・續紀を通じて初見であり、續紀中もここでの登場限りである。何とも希少な氏姓なのであるが、「右京人」と記載されていることを、そのまま信じて出自場所を求めることにする。

おそらく、上記の「山川造」、「山口臣」などと同様に「山」の形に山稜が延びている場所と思われる。すると、前出の山村王の出自に関連する地域だったのではなかろうか。

即ち、久米王(書紀では來目皇子)の地であり、既に多くの人物が登場していた。久米朝臣久米連、皇族では久米女王・星河女王など、実に賑やかである。

名前の吉繼は既出の文字列であり、吉繼=蓋をするように延びた山稜が引き継がれているところと解釈される。図に示した場所がこの人物の出自と推定される。多分、皇族の賄いを担っていたのではなかろうか。爵位は記載されていないようである。

冬十月辛夘。勅。見陸奥國所奏。即知伊治城作了。自始至畢。不滿三旬。朕甚嘉焉。夫臨危忘生。忠勇乃見。銜綸遂命。功夫早成。非但築城制外。誠可減戍安邊。若不裒進。何勸後徒。宜加酬賞式慰匪躬。其從四位下田中朝臣多太麻呂授正四位下。正五位下石川朝臣名足。大伴宿祢益立並正五位上。從五位下上毛野朝臣稻人。大野朝臣石本並從五位上。其外從五位下道嶋宿祢三山。首建斯謀。修成築造。今美其功。特賜從五位上。又外從五位下吉弥侯部眞麻呂。徇國爭先。遂令馴服。狄徒如歸。進賜外正五位下。自餘諸軍軍毅已上。及諸國軍士。蝦夷俘囚等。臨事有効。應叙位者。鎭守將軍並宜隨勞簡定等第奏聞。癸巳。伊豫國宇摩郡人凡直繼人。獻錢百万。紵布一百端。竹笠一百蓋。稻二万束。授外從六位下。其父稻積外從五位下。甲午。授无位石上朝臣等能古從五位上。无位久米連若女。弓削御淨朝臣美夜治。弓削御淨朝臣等能治。大伴宿祢古珠瑠河並從五位下。庚子。御大極殿。屈僧六百。轉讀大般若經。奏唐高麗樂。及内教坊踏歌。辛丑。賜四天王寺家人及奴婢卅二人爵有差。十月壬戌。授從五位下吉備朝臣泉從五位上。外從五位下田部宿祢男足從五位下。命婦正四位下吉備朝臣由利正四位上。无位吉備朝臣枚雄。從六位上賀茂朝臣萱草並從五位下。

十月十五日に次のように勅されている・・・陸奥國が奏上して来たことによって、初めて「伊治城」が築城し終わったことを知った。造り始めて完成までに三十日に満たない。朕はこれを大変褒め称える。そもそも危機に直面して生死を忘れて勤めれば、その人の忠義や勇気が明らかになる。天皇の意を受けて使命を遂行し、工事が早くに成就した。単に城を築いて外敵を制圧するだけでなく、まことに防衛の負担を少なくし、辺境を安定させることができる。もし功績のあった者たちを褒めて昇進させなければ、どうして後に続く者を督励することができようか。功に報いる賞与を与えて、身を捨てて勤めた者たちを慰撫するように。---≪続≫---

ついては田中朝臣多太麻呂(陸奥守)に正四位下、石川朝臣名足(陸奥鎮守副将軍兼任)・大伴宿祢益立(陸奥鎮守副将軍兼任)にそれぞれ正五位上、上毛野朝臣稻人(馬長に併記)・大野朝臣石本(眞本に併記)にそれぞれ従五位上を授ける。また道嶋宿祢三山(陸奥少掾)は責任者となってこの計画を立案し、城を完成、築造した。そこでいまこの功績を褒めて、特に従五位上を与える。また吉弥侯部眞麻呂(石麻呂に併記)は、國のために率先して力を尽くし、ついに蝦夷をすなおに服従させ、夷狄の民は懐くように従った。そこで昇進させて外正五位下を与える。その他の諸軍の軍毅以上の者や諸國の軍士、蝦夷の俘囚などで、築城に際して功績があり、それぞれが功労に応じて等級を勘案し決定して奏上するように・・・。

十七日に「伊豫國宇摩郡」の人である「凡直繼人」が銭百万文・紵布(上質の麻布)百端・竹笠百蓋・稲二万束を献上し、外従六位下を、またその父の「稻積」にも外従五位下を授けている。十八日に「石上朝臣等能古」に従五位上、久米連若女弓削御淨朝臣美夜治・弓削御淨朝臣等能治(廣方に併記)・「大伴宿祢古珠瑠河」に従五位下を授けている。二十四日に大極殿に出御されて、僧六百人を召して大般若経を転読させ、唐楽・高麗楽と内教坊の踏歌を奏させている。

二十五日に四天王寺の家人と奴婢三十二人に身分の応じて位を賜っている。壬戌(?)に吉備朝臣泉(眞備に併記)に従五位上、田部宿祢男足に従五位下、命婦の吉備朝臣由利(眞備に併記)に正四位上、吉備朝臣枚雄(父親眞備に併記)、賀茂朝臣萱草(田守に併記)にそれぞれ従五位下を授けている。

<伊治城・陸奥國栗原郡>
伊治城

陸奥國周辺で蝦夷の領域を支配下に治めたことを記述している。陸奥最北の城は、淳仁天皇紀に陸奥國の浮浪人を徴発して造った桃生城であった。

更に北方に造城したのであるが、結局は城を造りながらその地を征圧する戦略だったわけである。事後には、その城は監視拠点であり、隅々にまで支配を及ぼすために必要であったと思われる。

そんな背景から、「伊治城」の場所は極めて容易に、また合目的な場所に見出せることが解った。頻出の文字列である伊治=谷間に区切られた山稜が水辺で耜のように延びているところと解釈する。現在の標高から、その東側は海だったと推測される。

この後直ぐに、この地を栗原郡と名付けたと記載される。頻出の栗=栗の雌花と雄花のような山稜が延びている様と解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。「栗原郡」は「伊治城」の背後の谷間を表していると思われる。現在は巨大な門司変電所の敷地及び貯水池となっている場所である。

「伊治城」の別表記に此治(コレハル)があったようである。既出の文字である此=止+匕=谷間を挟む山稜が折れ曲がって延びている様と解釈した。”栗の雄花”の別表記と思われる。

<伊豫國宇摩郡:凡直繼人-稻積-黒鯛>
伊豫國宇摩郡

伊豫國宇摩郡は記紀・續紀を通じて初見である。既に多くの郡名が記載されて来ている(例えばこちらこちら参照)。要するに、残された場所は、ほぼ限られていることになる。

その場所が宇摩郡の「宇摩」の地形を示しているのであろうか?…ご心配なく、はいてマス・・・ではなくて、宇摩=谷間に延びた山稜が細かく岐れているところの地形を確認することができる。志摩國の「志摩」と同様に解釈することが肝要である。

各郡の境界については、些か曖昧さが残るが、周敷郡の東、久米郡の北に位置する場所と推定される。表舞台に漸くこの地を出自とする人物が登場したようである。

● 凡直繼人・稻積 既出の文字である「凡」=「谷間が[凡]の文字形をしている様」と解釈した。その地形を「宇」の付け根の辺りに見出せる。稻積=稲穂を積み重ねたように山稜が並んで延びているところ繼人=谷間が繋がっているところと読み解くと、それぞれの出自の場所を図に示すことができる。開拓が進捗し、財を成したのであろう。目出度し、である。

少し後に凡直黒鯛が大学で学問に勤勉なことを褒められている。「鯛」=「魚+周」=「魚の形をした山稜が周りに広がっている様」と解釈すると、黒鯛=魚の形をした山稜が周りに広がっている谷間に炎のような山稜が延びているところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していると思われる。

<石上朝臣等能古>
● 石上朝臣等能古

「石上朝臣」一族の女性として、淳仁天皇紀の絲手に次いでの登場である。また、無位からいきなり従五位上の叙位をされていて、委細は不明だが素性は確かな人物だったように思われる。

前記でも述べたが、女性の名前が”古事記風”なのも興味深いところでもある。それは兎も角として、等能古=隅にある(能)揃って並んでいる山稜(等)に丸く小高い地(古)があるところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

また、等能能古と表記されることもあるようで、「等」の「能(隅)」であることを表し、より詳細な場所を表現していることが解る。前記で「麻呂」の子、「諸男」の出自場所とした谷間に当たり、おそらく、子もしくは孫だったのではなかろうか。「諸男」は、聖武天皇紀には物部一族を代表する一人であったが、その後の消息は伝わっていない。そんな背景も上記の叙爵に関係しているのであろう。

<大伴宿祢古珠瑠河-義久>
● 大伴宿祢古珠瑠河

またもや”古事記風”の女性名称が記載されている。その上に系譜は不詳のようであり、「大伴宿祢」の残された場所で名前が示す地形を探すことになる。

注目は、「古」と「河」であろう。「大伴」の谷間の出口である、その傍らにある馬の頭に当たるとして他の文字を読み解いてみよう。

「珠」=「玉+朱」と分解される。「貝を二つに割った(朱)中にある玉」から真珠を意味すると解説される文字である。地形象形的には珠=[玉]が二つに割かれている様と解釈される。

瑠=玉+留(卯+田)=[玉]が隙間から滑り出る様、もしくは[玉]が隙間を押し拡げる様と解釈される。これ等四つの文字が示す地形を満足する場所を図に示した。家持の谷間の一隅に該当することが解る。ほぼ間違いなく彼等の娘と思われるが、記録に残されていないのであろう。續紀中に二度と登場されることはない。

尚、久米連若女は、聖武天皇紀に石上朝臣乙麻呂と藤原式家の妻であった若女(賣)との姦通の罪によって共に配流されていた。後の大赦によってそれぞれ元に戻されたと記載されている。

後(光仁天皇紀)に女孺の大伴宿祢義久が従五位下を叙爵されている。逆立ちして読んでも女性の姿は浮かんで来ない名前である。義久=ギザギザとしている谷間が[く]の字形に曲がっているところと読み解ける。出自の場所は図に示した辺りと思われる。「古珠瑠河」と同様にその後に登場されることはないようである。

十一月壬寅。四天王寺墾田二百五十五町。在播磨國餝磨郡。去戊申年收。班給百姓口分田。而未入其代。至是。以大和。山背。攝津。越中。播磨。美作等國乘田。及沒官田捨入。乙巳。置陸奥國栗原郡。本是伊治城也。甲寅。出羽國雄勝城下俘囚四百餘人。款塞乞内属。許之。癸亥。參議從三位治部卿兼左兵衛督大和守山村王薨。池邊雙槻宮御宇橘豊日天皇皇子。久米王之後也。天平十八年。授從五位下。寳字八年。任少納言。授正五位下。于時高野天皇遣山村王收中宮院鈴印。大師押勝遣兵。邀而奪之。山村王密告消息。遂果君命。天皇嘉之。授從三位。薨時年卌六。丙寅。私鑄錢人王清麻呂等卌人賜姓鑄錢部。流出羽國。

十一月壬寅(?)に四天王寺の墾田二百五十五町が「播磨國餝磨郡」にあった。さる戊申年(諸説あり)に収公し人民の口分田として分かち与えたが、いまだにその代わりを施入していなかった。この度、大和・山背・攝津・越中・播磨・美作などの國の乗田(剰余の田)や官に没収した田をもって喜捨している。乙巳(?)に「陸奥國栗原郡」を設置している。これは元の「伊治城」の区域に当たる(上図参照)。八日に出羽國雄勝城下の俘囚四百人余りが城に申し出て服属することを願い、これを許可している。

十七日に参議・治部卿・左兵衛督・大和守の山村王が亡くなっている。池邊雙槻宮御宇橘豊日天皇(用明天皇、古事記の橘豐日命池邉宮)の皇子久米王の後裔であった。天平十八(746)年に従五位下を授けられ、天平字八(764)年に少納言に任ぜられ、正五位下を授けられた。その時、高野天皇が「山村王」を派遣して中宮院にあった駅鈴と内印を接収させた。大師惠美押勝(藤原仲麻呂)は兵士を派遣して待ち構えてこれを奪わせようとした。「山村王」は密かにこの動静を報告して、ついに君命を果たした。天皇はこれを褒めて従三位を授けた。薨じた時、年四十六歳であった。

二十日に贋金造りの「王清麻呂」等四十人に鑄錢部の氏姓を賜って、出羽國に配流している。

<播磨國各郡・白鹿・草上驛>
播磨國餝磨郡
 
伊豫國に続いて、そろそろ播磨國の郡割の全容も見定める時が来たように思われる。今回登場の「餝磨郡」に加えて、續紀中に記載される郡名を求めると、「美嚢郡・揖保郡」があったことが分かった。

既出の賀茂郡賀(加)古郡・印南郡・明石郡も併せて左図に示した。印南郡は、当初「印南野」と記載され、後に印南郡として登場している。これらの四郡は、播磨國西部地域であり、東部地域が今回以降に記載されることになる。

「播磨國」、古事記では「針間國」、針のような山稜が延びている國であり、その形状で命名されたのであろう。餝磨郡の「餝」=「食+芳」=「なだらかな山稜が広がり延びている様」と解釈される。餝磨=なだらかな山稜が広がり延びて平らになっているところと読み解ける。図に示した場所を表していると思われる。

美嚢郡の「嚢」=「袋ような様」と解釈すると、美嚢=谷間が広がった先が袋ように山稜に取り囲まれているところと読み解ける。餝磨郡の西隣の場所と推定される。書紀の天智天皇紀に播磨國狹夜郡として記載された地域かと思われる。下流域、即ち「嚢」が開拓されて、その地の中心となって来たのではなかろうか。

揖保郡の「揖」=「櫂(船を漕ぐ)」と解説されている。地形象形的には、「揖」=「手のような山稜が船を漕ぐ櫂の形をしている様」と解釈すると、揖保=手のような山稜が櫂の形をして延びている端に丸く小高い地があるところと読み解ける。山稜の端が、少し曲がって小高くなっている地形を見事に表現していることが解る。

全て山稜の端の部分の地形から名付けられていて、背後の谷奥まで付属するかは曖昧な状況である。その地を出自とする人物名が登場されることを期待しつつ、これ以上の詮索は行わないでおこう。

この後直ぐに播磨國が白鹿を献上したと記載されている。白鹿=鹿の角のような山稜が延びた地がくっ付いているところと解釈すると図に示した「揖保郡」の山間部を表していると思われる。その内に郡建てされるのかもしれない。

更に後(光仁天皇紀)に摩郡草上驛があったことが記載されている。磨=擦り潰されて平らな様摩=山稜が細切れになっている様に置換えられているが、この地には、それぞれの文字が表す地形があったことを示唆している。驛は後者の地にあり、草上=山稜が二つ並んでいる谷間が盛り上がっているところと解釈される。図に示した場所に造られていたのであろう。

<王清麻呂>
● 王清麻呂

「王」の氏名を持つ人物は、例えば古いところでは王仲文、また後部王安成等が既に登場し、彼等は全て武藏國に居処を定められていた。「清麻呂」と言う”倭風”の名称でもあり、おそらく渡来二世以降の人物だったのであろう。

背景的には理解できるのであるが、この名称のみで出自の場所を求めることは不可能であろう。上記本文で私鑄錢の罪で配流されるのだが、何故か「鑄錢部」と言う氏名を与えている。犯罪者に対する扱いとしては、何処か引っ掛るところであろう。

即ち、その名前が彼等の出自場所の地形象形表記なのではなかろうか。鑄=金+壽=長く延びた山稜の前が三角に尖っている様錢=金+戈+戈=三角に尖っている端がある戈のような山稜が重なって並んでいる様と解釈される。武藏國の谷間を眺めると、その地形を満足する場所が容易に見出せる。

更に、これ等の山稜の端が寄り集まった先に淸=水辺で四角く区切られた様の地形も確認される。清麻呂の出自場所と推定される。淳仁天皇紀に登場した物部廣成(後に入間宿祢を賜姓)の東隣に当たる場所となる。元正天皇紀に赤烏献上の記事があったが、谷間の開拓が進んでいて、そして、勢い余って贋金造りに狂奔したのであろう。

十二月庚辰。收在阿波國王臣功田位田。班給百姓口分田。以其土少田也。壬午。武藏國足立郡人外從五位下丈部直不破麻呂等六人賜姓武藏宿祢。甲申。外從五位下武藏宿祢不破麻呂爲武藏國國造。正四位上道嶋宿祢嶋足爲陸奥國大國造。從五位上道嶋宿祢三山爲國造。乙酉。從五位上菅生王爲少納言。從五位下石川朝臣清麻呂爲員外少納言。從五位上石川朝臣豊人爲刑部少輔。從五位下藤原朝臣弟繩爲大判事。正五位上縣犬養宿祢古麻呂爲宮内大輔。從五位下大宅王爲主油正。從五位下多治比眞人長野爲造東内次官。從五位上阿倍朝臣三縣爲田原鑄錢長官。刑部大輔如故。丁亥。伊勢國飯高郡人漢人部乙理等三人賜姓民忌寸。壬辰。美濃國比年亢旱。五穀不稔。除百姓所負租税。壬寅。授外從七位上丈部造廣庭外從五位下。以貢獻也。

十二月四日に阿波國にある諸王や諸臣の功田・位田を収公して、人民の口分田として分かち与えている。同國は田が少ないためである。六日に「武藏國足立郡」の人である「丈部直不破麻呂」等六人に「武藏宿祢」の氏姓を賜っている(こちら参照。刀自に併記)。八日に「武藏宿祢不破麻呂」を武藏國國造、道嶋宿祢嶋足(丸子嶋足)を陸奥國大國造、道嶋宿祢三山を國造に任じている。

九日に菅生王を少納言、石川朝臣清麻呂(眞守に併記)を員外少納言、石川朝臣豊人を刑部少輔、藤原朝臣弟縄(乙縄。縄麻呂に併記)を大判事、縣犬養宿祢古麻呂を宮内大輔、大宅王()を主油正、多治比眞人長野を造東内次官、刑部大輔の阿倍朝臣三縣(御縣)を兼務で田原鑄錢長官に任じている。十一日に伊勢國飯高郡の人である「漢人部乙理」等三人に「民忌寸」の氏姓を賜っている。十六日に美濃國は連年旱魃が起こり、五穀が稔らないので、人民の負担すべき租と税を免除している。二十六日に「丈部造廣庭」に外従五位下を授けている。私財を貢献したためである。

<漢人部乙理>
● 漢人部乙理

氏名の「漢人部」は大陸系渡来人の子孫を意味すると同時に地形象形した名称と思われる。既に「漢人」は幾度か登場しているが、「部」=「近隣」として詳細に、その居処を示している。

伊勢國飯高郡の地で、漢人=谷間が大きく曲がっているところが探索すると、意外にも特定されることが分かった。飯高君笠目親族縣造の居処の南側の谷間が、その地形を表している。

名前の乙理=[乙]の字形に区分けされているところと解釈すると、「漢人」の谷間の出口辺り()を表している。(中臣)伊勢朝臣一族の西側に当たる地域である。

賜った民忌寸の氏姓、既出の民忌寸一族と同祖を暗示するような記述であるが、やはりこれもきちんと地形象形されているのであろう。図に示したように彼等の背後の山稜の形を「民」と見做したと思われる。

<丈部造廣庭>
● 丈部造廣庭

「丈部造」は、元明天皇紀に智積がその孝行ぶりを褒められて表彰されたと記載されているが、その後の登場もなく、叙位も詳細は不明のようである。

何だか、居処の「相摸國足上郡」を登場させるために記述されたような感じなのである。それはそれとして貴重な情報であるが、今回にやっと外従五位下を叙爵された人物が登場したようである。

上記の「丈部直」の居処は、「武藏國足立郡」であり、ややもすると錯覚しそうな名称が用いられているが、間違いなくきちんと区別された場所を示しているのである。通説の話しになるが、この「足立郡」が現在の東京都足立区に繋がるのだから、いやはや、恐ろしいものである。

横道に逸れそうなので、廣庭=山麓が区切られて平らに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。貢献できるほどに治水を行って耕地を開拓したのであろう。

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『續日本紀』巻廿八巻尾