2023年6月29日木曜日

高野天皇:称徳天皇(15) 〔639〕

高野天皇:称徳天皇(15)


神護景雲二(西暦768年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月丙午朔。御大極殿受朝。舊儀少納言侍立殿上。是日。設坐席。餘儀如常。」授從四位下大和宿祢長岡正四位下。壬子。宴五位已上於内裏。賜祿有差。」授從三位圓方女王正三位。從四位上伊福部女王正四位下。乙夘。正四位上藤原朝臣繩麻呂。正四位下石上朝臣宅嗣並授從三位。從五位下藤原朝臣弟繩從五位上。」播磨國獻白鹿。

神護景雲二年正月一日に大極殿に出御されて、百官人の朝賀を受けている。旧来の儀礼では、少納言は殿上に侍り立つことになっていたが、この日は座席が設けられた。その他の儀礼は通常通りであった。大和宿祢長岡(大倭忌寸小東人)に正四位下を授けている。七日に五位以上の官人等と内裏において宴を催し、それぞれに禄を賜っている。圓方女王に正三位、伊福部女王(元明天皇紀に卒された女王とは別人)に正四位下を授けている。十日に藤原朝臣縄麻呂石上朝臣宅嗣に従三位、藤原朝臣弟繩(乙縄。縄麻呂に併記)に従五位上を授けている。播磨國が白鹿(揖保郡の山間部)を献じている。

二月丙子朔。授正六位上生江臣東人外從五位下。戊寅。從五位下勳六等漆部直伊波賜姓相摸宿祢。爲相摸國國造。庚辰。出雲國國造外從五位下出雲臣益方奏神賀事。授外從五位上。賜祝部男女百五十九人爵各一級。祿亦有差。」對馬嶋上縣郡人高橋連波自米女。夫亡之後。誓不改志。其父尋亦死。結廬墓側。毎日齋食。孝義之至。有感行路。表其門閭。復租終身。」河内國河内郡人日下部意卑麻呂賜姓日下部連。壬午。大和國人從七位下大神引田公足人。大神私部公猪養。大神波多公石持等廿人賜姓大神朝臣。癸未。授正六位上山村許智人足外從五位下。」石見國美濃郡人額田部蘇提賣。寡居年久。節義著聞。兼復積而能散。所濟者衆。復其田租終身。甲申。授无位笠王從五位下。乙酉。外從五位下山村許智人足爲肥後介。壬辰。備後國葦田郡人網引公金村。年八歳喪父。哀毀骨立。尋丁母艱。追遠益深。賜爵二級。復其田租終身。癸巳。以正三位弓削御淨朝臣清人爲大納言。内竪卿衛門督上総守如故。從三位中臣朝臣清麻呂爲中納言。神祇伯如故。大藏卿從三位藤原朝臣魚名爲參議。從五位上賀茂朝臣塩管爲神祇大副。從五位下中臣朝臣子老爲中務少輔。從五位上藤原朝臣家依爲侍從。從五位下坂上王爲大監物。從五位下巨勢朝臣公成爲左大舍人頭。從五位上豊野眞人奄智爲圖書頭。從五位下藤原朝臣家依爲式部少輔。侍從如故。從五位下高橋朝臣廣人爲散位助。外從五位下土師宿祢位爲諸陵助。從五位上石川朝臣人成爲民部大輔。從五位下石川朝臣己人爲主計頭。從五位下田部宿祢男足爲助。正五位上大伴宿祢益立爲兵部大輔。外從五位下伊吉連眞次爲鼓吹正。從五位上巨勢朝臣清成爲大藏大輔。從五位上榎井朝臣子祖爲宮内大輔。從五位下清原眞人清貞爲少輔。從五位下石川朝臣垣守爲木工頭。從五位下布勢王爲内膳正。從四位下多治比眞人土作爲左京大夫。讃岐守如故。從四位下百濟朝臣足人爲右京大夫。外從五位下上毛野公眞人爲造東大寺大判官。外從五位下飛騨國造高市麻呂。橘部越麻呂。並爲造西大寺大判官。從五位下安倍朝臣小東人爲衛門佐。外正五位下葛井連根主爲大尉。從四位下佐伯宿祢伊多智爲左衛士督。上野員外介如故。從五位下藤原朝臣長道爲佐。從五位下弓削御淨朝臣塩麻呂爲左兵衛督。從五位下巨勢朝臣池長爲右馬助。陸奥介從五位下田口朝臣安麻呂爲兼鎭守副將軍。大掾從五位上道嶋宿祢三山爲兼軍監。正五位上石川朝臣名足爲大和守。外正五位下敢礒部忍國爲志摩守。從五位下石上朝臣眞足爲遠江介。從五位下粟田朝臣鷹守爲安房守。從三位藤原朝臣繩麻呂爲近江按察使。民部卿勅旨大輔侍從如故。從五位下吉備朝臣眞事爲美濃介。正五位下藤原朝臣雄田麻呂爲武藏守。左中弁内匠頭右兵衛督等如故。從五位下葛井連立足爲若狹守。外從五位下下道朝臣黒麻呂爲越前介。外從五位下丹比宿祢眞繼爲伯耆守。從五位下藤原朝臣種繼爲美作守。從五位下藤原朝臣雄依爲備前守。從五位下石川朝臣眞人爲備中守。從五位下阿倍朝臣草麻呂爲介。園池正如故。從五位下藤原朝臣小黒麻呂爲安藝守。從五位上高圓朝臣廣世爲周防守。從五位下中臣朝臣常爲阿波守。外從五位下板茂連眞釣爲伊豫介。是日。勅。准令以高橋。安曇二氏任内膳司者爲奉膳。其以他氏任之者。宜名爲正。甲午。授无位弓削御淨朝臣淨方從五位下。癸夘。筑前國怡土城成。」讃岐國寒川郡人外正八位下韓鐵師毘登毛人。韓鐵師部牛養等一百廿七人。賜姓坂本臣。

二月一日に生江臣東人(安久多に併記)に外従五位下を授けている。三日に勲六等の漆部直伊波に相摸宿祢の氏姓を賜り、相摸國國造に任じている。五日に出雲國國造の出雲臣益方が神賀事を奏し、外従五位上を授け、祝部の男女百五十九人に、それぞれ位一階と禄を賜っている。

この日、「對馬嶋上縣郡」の人である「高橋連波自米女」は、夫が死亡した後、寡婦としての誓いを守り、その志を改めなかった。しかし、その父もまた死んでしまったので、夫と父の墓の側に廬を造り、毎日齋食を行った。これは孝義の極まるところであり、路行く人々を感心させた。そこでその旨を村里の門に表示し、彼女の田租を終身免除としている。河内國河内郡の人である日下部意卑麻呂(虫麻呂に併記)に日下部連の姓を賜っている。

七日に大和國の人である「大神引田公足人・大神私部公猪養・大神波多公石持」等二十人に大神朝臣の氏姓を賜っている。八日に山村許智人足(大和國添上郡人。山村臣伎婆都[華達]に併記)に外従五位下を授けている。「石見國美濃郡」の人である「額田部蘇提賣」は寡婦として暮らすこと年久しく、その節義は世によく知られているが、それに加えてまた、財を蓄積してよく貧者に散財するので、救われる者が多い。それで田租を終身免除としている。

九日に笠王(舎人親王の孫。淳仁天皇廃位に伴って無位?)に従五位下を授けている。十日に山村許智人足を肥後介に任じている。十七日に備後國葦田郡の人である「網引公金村」は、八歳の時に父を亡くし、その悲しみにやせ衰えてしまった。次に母の喪にあたって、追い慕う気持ちがますます深くなった。位二階を賜い、その田租を終身免除としている。

十八日に弓削御淨朝臣清人(淨人。道鏡に併記)を内竪卿・衛門督・上総守はそのままで大納言、中臣朝臣清麻呂(東人に併記)を神祇伯はそのままで中納言、大藏卿の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を參議、賀茂朝臣塩管を神祇大副、中臣朝臣子老(清麻呂の子)を中務少輔、藤原朝臣家依を侍從、坂上王()を大監物、巨勢朝臣公成(君成)を左大舍人頭、豊野眞人奄智(奄智王)を圖書頭、藤原朝臣家依を侍從はそのままで式部少輔、高橋朝臣廣人(國足に併記)を散位助、土師宿祢位を諸陵助、石川朝臣人成を民部大輔、石川朝臣己人(弟人)を主計頭、田部宿祢男足を助、大伴宿祢益立を兵部大輔、伊吉連眞次(益麻呂に併記)を鼓吹正、巨勢朝臣清成(淨成)を大藏大輔、榎井朝臣子祖(小祖父)を宮内大輔、清原眞人清貞(大原眞人都良麻呂、淨原眞人淨貞)を少輔、石川朝臣垣守を木工頭、布勢王(布施王)を内膳正、多治比眞人土作(家主に併記)を讃岐守はそのままで左京大夫、百濟朝臣足人を右京大夫、上毛野公眞人を造東大寺大判官、飛騨國造高市麻呂橘部越麻呂(橘戸高志麻呂)を造西大寺大判官、安倍朝臣小東人(阿倍朝臣)を衛門佐、葛井連根主(惠文に併記)を大尉、佐伯宿祢伊多智(治)を上野員外介はそのままで左衛士督、藤原朝臣長道を佐、弓削御淨朝臣塩麻呂(薩摩に併記)を左兵衛督、巨勢朝臣池長(巨勢野に併記)を右馬助、陸奥介の田口朝臣安麻呂(大戸に併記)を兼鎭守副將軍、大掾の道嶋宿祢三山を兼軍監、石川朝臣名足を大和守、敢礒部忍國を志摩守、石上朝臣眞足を遠江介、粟田朝臣鷹守を安房守、藤原朝臣繩麻呂を民部卿・勅旨大輔・侍從はそのままで近江按察使、吉備朝臣眞事を美濃介、藤原朝臣雄田麻呂を左中弁・内匠頭・右兵衛督等はそのままで武藏守、葛井連立足を若狹守、下道朝臣黒麻呂を越前介、丹比宿祢眞繼(嗣)を伯耆守、藤原朝臣種繼(藥子に併記)を美作守、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を備前守、石川朝臣眞人を備中守、阿倍朝臣草麻呂(安倍朝臣。弥夫人に併記)を園池正はそのままで介、藤原朝臣小黒麻呂を安藝守、高圓朝臣廣世(石川廣世)を周防守、中臣朝臣常(宅守に併記)を阿波守、板茂連眞釣(板持連)を伊豫介に任じている。

この日、以下のように勅されている・・・令に准拠して高橋・安曇二氏の者を内膳司に任じる時は、それを奉膳と称し、他氏の者を任じる時は、その呼び名を正とせよ・・・。十九日に筑前國の怡土城が完成している。讃岐國寒川郡の人である「韓鐵師毘登毛人・韓鐵師部牛養」等百二十七人に、「坂本臣」の氏姓を賜っている。

<對馬嶋上縣郡:高橋連波自米女>
對馬嶋上縣郡

「上縣郡」は記紀・續紀を通じて初見である。と言うか、對馬嶋の郡名として唯一である。明治になって対馬の北側を上縣郡、南側を下縣郡と名付けるのであるが、續紀には下縣郡は登場しない。

上野國に類似して、地形を表す「上」であろう。上縣=盛り上がった地が山稜から首をぶら下げたように延び出ているところと解釈する。すると前出の津嶋朝臣一族の居処の北側の山塊を示していることが解る。

書紀の天智天皇紀に造営された金田城があったと推定した、現在の上見坂展望台がある山塊と思われる。現在の行政区分では厳原町と美津島町の境になっている。

● 高橋連波自米女 この地を出自とする官人として任用される人物候補が現れず、選ばれたのが”孝義”の女性だったのであろう。筑後國山門郡の高橋連牛養が登場していたが、勿論直接的な関係はないと思われる。

高橋=山稜の端がしなやかに曲がっている地(橋)が皺が寄ったようになっている(高)ところの地形を求めると、図に示した場所が見出せる。波自米=水辺に覆い被さるように延びた山稜の端から出た米粒のようなところと解釈すると、出自の場所を推定することができる。今後も引き続きこの手法で未知の地が登場するのであろう。

<大神引田公足人-大神私部公猪養>
<大神波多公石持>
● 大神引田公足人・大神私部公猪養・大神波多公石持(大神朝臣)

文武天皇紀に大神大網造百足の家に嘉稻が生えたと記載されていた。例によって開拓した土地の献上物語と解釈し、その地は現在の田川郡香春町中津原と推定した。

愛宕山山麓の山邊、その更に麓に当たり、伊波禮の東側に位置する場所である。今回登場の三名の出自の場所であろう。

大神引田公足人引田=弓を引くような形に田が広がっているところと解釈した。阿倍引田臣で用いられた文字列である。足人=足のような谷間のところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。

大神私部公猪養私部=山稜に取り囲まれた地の近くにあるところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。猪養=平らな山稜に挟まれたなだらかな谷間が交差するしているところと解釈して、出自場所を求めることができる。

大神波多公石持波多=山稜の端が水辺を覆い被さるように延びているところと解釈する。「大神大網造」の「大網」の別表記である。石持=石のような地がある山稜が包むように延びているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。

結果として、「大網」をぐるりと取り囲んだような配置になったようである。彼等は「大神朝臣」の氏姓を賜ったのであるが、この氏姓は、三輪君系列及び八幡大神系列が既に登場していて、全く重なる表記となる。濫発の氏姓、さて如何なることになるのか?・・・。

<石見國美濃郡:額田部蘇提賣>
石見國美濃郡

”石見の美濃”とは、國名や郡名に用いられている文字列が錯綜とした有様であろう。それぞれが固有の名称とするならば、到底あり得ない表記である。

地形に基づく表記故に生じる、類似する地形を有する場所が同一名称となった、と思われる。故に同一の名称の國や郡が多数記載されることになっているのである。

そんな背景を頭の片隅に置いて、石見國(現在の北九州市小倉南区石田)で美濃=谷間が広がる地に二枚貝が舌を出したようなところを探索すると、図に示した場所が見出せる。長門國豊浦郡の北に接する地域である。

残念ながら續紀中に登場するのは、ここのみである上に、その他の関連する情報もなく、郡域を定めるには如何にも情報不足のようである。勿論、石見國そのものも、その領域は些か曖昧ではある。

● 額田部蘇提賣 「豊浦郡」の住人も額田部(直)塞守・廣麻呂の氏名と記載されていた。その「額田部」を引き継ぐ場所と思われる。蘇=艸+魚+禾=魚の形をした山稜と稲穂の形の山稜が並んでいる様提=手+是=山稜が匙のような形をしている様と解釈した。

「魚」の地形は、やや確認し辛いが、細かく岐れた山稜の端が認められる。すると図に示した場所が蘇提賣の出自場所と推定される。上記の「高橋連波自米女」と同じように、この地からの人材登用はなかったのであろう。

<網引公金村>
● 網引公金村

元明天皇紀に「備後國葦田郡」から、周辺の地を併せて甲努村を中心に郡建てを行ったと記載され、元正天皇紀には、「葦田郡」にあった常城を廃止したと伝えていたが、人物は登場していなかった。

上記の二人の女性と同様に、”過疎地”の人材発掘記事の様子であろう。終身田租免除とは、真に有難いことだった、ようである。

網引=網を広げた形の地が弓を引くように見えるところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していると思われる。金村=手のような山稜が延びた前に三角に尖った地があるところと読むと、この人物の出自の場所を推定することができる。

余談だが、通説では現在の広島県福山市新市町辺りを出自とするようであり、”網引公碑”なるものが建てられているそうである。”孝道”を広めるには格好の物語だったのかもしれない。但し、新市町は「品遲郡」(甲努村参照)に属し、「葦田郡」ではない、との説もあるとのことである。

<韓鐵師毘登毛人-牛養>
● 韓鐵師毘登毛人・牛養(坂本臣)

元明天皇紀に讃岐國寒川郡は、物部亂の出自場所として登場していた(こちら参照)。谷間が複雑に入り組んだ地であり、また背後の「山田郡」との境界もすっきりとはしていなかったのが実情である。

書紀の天智天皇紀の屋嶋城があったとされた「山田郡」の領域では、「寒川郡」の大半を覆うように思われる。詳細は不明だが、おそらく、「寒川郡」は後に郡建てされたのであろう。今回の人物名によって、明確になるのではなかろうか。

韓鐵師毘登の「韓鐵師」は、”韓から来た鐵に関わる一族”の雰囲気であるが、地形象形表記であることには違いがなかろう。既出の文字である、韓=取り囲まれた様鐵=真っ直ぐに延びた山稜の先が三角に尖っている様師=段差のある高台が寄り集まっている様と解釈した。図に示した場所にそれらの地形を見出すことができる。

頻出の毛人=谷間に鱗のような地があるところ牛養=牛の頭部のように延びた山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところと解釈した。その地形を図に示した場所で確認される。それぞれの出自の場所と推定される。

賜った坂本臣坂本=手のような山稜の根元にあるところと解釈すると、彼等の谷間の南側の斜面を表していることが解る。どうやらここまでが「寒川郡」に属していたことを告げているように思われる。

三月乙巳朔。日有蝕之。」先是東海道巡察使式部大輔從五位下紀朝臣廣名等言。得本道寺神封戸百姓款曰。公戸百姓。時有霑恩。寺神之封。未甞被免。率土黎庶。苦樂不同。望請。一准公民。倶沐皇澤。使等商量。所申道理。至是。官議奏聞。奏可。餘道諸國亦准於此。」又同前言。運舂米者。元來差徭。人別給粮。而今徭分輸馬。獨給牽丁之粮。窮弊百姓無馬可輸。望請。依舊運人別給粮。又下総國井上。浮嶋。河曲三驛。武藏國乘潴。豊嶋二驛。承山海兩路。使命繁多。乞准中路。置馬十疋。奉勅依奏。其餘道舂米。諸國粮料。亦准東海道施行。」陸道使右中弁正五位下豊野眞人出雲言。佐渡國造國分寺料稻一万束。毎年支在越後國。常當農月。差夫運漕。海路風波。動經數月。至有漂損復徴運脚。乞割當國田租。以充用度。山陽道使左中弁正五位下藤原朝臣雄田麻呂言。本道郡傳路遠。多致民苦。乞復隷驛將迎送。又長門國豊浦。厚狹等郡。宜養蚕。乞停調銅。代令輸綿。南海道使治部少輔從五位下高向朝臣家主言。淡路國神本驛家。行程殊近。乞從停却。詔並許之。癸丑。左京人外從五位下楊胡毘登人麻呂等男女六十四人賜姓楊胡忌寸。甲寅。免左右京五畿内天平神護二年逋租。戊午。雨雹。癸亥。外正六位上壬生眞根麻呂。外正六位上丹比連大倉並授外從五位下。以貢獻也。甲子。正八位上秦忌寸弟麻呂。外從七位上上忌寸生羽。外正八位上越智直蜷淵等三人。並授外從五位下。以貢獻也。

三月一日に日蝕があったと記している。これより先に東海道巡察使・式部大輔の紀朝臣廣名(宇美に併記)等が以下のように言上していた・・・本道(東海道)の寺院や神社の封戸の人民から[公民身分の人民は、時には租税免除のような恩恵に与ることがあるが、寺院・神社の封戸には、いまだかつて免除を受けたことがない。同じく天下の人民であるのに、苦楽は同じではない。公民に准じて共に天皇の恩恵に与ることを希望し請願する]との申し出を得た。巡察使等がはかり考えたところ、申す内容に道理がある・・・。太政官は、ここに至って審議して奏上し、この奏が許可されている。他道の諸國もこれに准じることになった・・・。

また、以下のように言上している・・・舂米(白米)の都への運送には、本来人民が雑徭を徴発し、各人に食糧が支給されることになっている。ところが今は雑徭の代わりに馬を差し出し、馬を牽く者だけに食糧が支給される。しかし貧しく生活に苦しい人民は馬を出すことができず、結局無支給のまま舂米を運ぶことになる。以前のように雑徭によって運送し、運ぶ人ごとに食糧が支給されることを希望する。また、下総國の「井上・浮嶋・河曲」の三駅と武藏國の「乘潴・豊嶋」の二駅は、山路・海路の両方がある駅なので使者の往来が頻繁である。中路(朝使往来の多少で大中小路とした)に准じて各駅に馬十匹を置くことを希望する・・・。太政官が奏上すると、奏に依れ、と勅されている。その他の諸道の舂米運送と諸國の運送人への食糧支給も、東海道に准じて施行させている。

北陸道巡察使・右中弁の豊野眞人出雲(出雲王)は以下のように言上している・・・佐渡國の國分寺造営料の稲一万束は、毎年越後國から支給されている。常に農繁の月に人夫を徴発して運漕するが、海路には風波があって時には数ヶ月かかり、流失損亡した時には、また運送の人夫を徴発することになる。佐渡國の田租を割いて用度に充てることを希望する・・・。

山陽道巡察使・左中弁の藤原朝臣雄田麻呂は以下のように言上している・・・本道は郡と郡を結ぶ伝馬の路が遠く、人民は大変苦しんでいる。人民を駅戸に配して徭役を免除し、送迎に従わせることを希望する。また、長門國の豊浦・厚狹などの郡に蚕を養わせ、調の銅を止めて、代わりに真綿を出させることを希望する・・・。

南海道巡察使・治部少輔の高向朝臣家主は以下のように言上している・・・淡路國の「神本」の駅家は前後の駅家と距離がことに近いので廃止することを希望する・・・。以上の言上は太政官から奏されて、詔によりいずれも許されている。

九日に左京の人である楊胡毘登人麻呂(陽侯史人麻呂)等男女六十四人に楊胡忌寸の姓を賜っている。十日に左右京と五畿内の天平神護二年の未納の田租を免除している。十四日に雹が降っている。十九日に壬生眞根麻呂(壬生直小家主女に併記)と丹比連大倉(依羅造里上に併記)に外従五位下を授けている。二十日に秦忌寸弟麻呂(秦老に併記)・「上忌寸生羽」・越智直蜷淵(飛鳥麻呂に併記)等三人に外従五位下を授けている。これ等の叙位は、私財を献じたためである。

<下総國:井上驛・浮嶋驛・河曲驛>
下総國:井上驛・浮嶋驛・河曲驛

下総國の詳細は、極めて限られていて、幾つかの例を挙げると、文武天皇紀に献上された「白烏」、元正天皇紀に「下総國香取郡」、聖武天皇紀になって初めて「香取連五百嶋」の具体的な人物名が記載されている(こちら参照)。

また、孝謙天皇紀に多産を褒賞された穴太部阿古賣が登場していたが、官人登用の記述は殆ど見受けられない状況である。今回も驛名が記載され、多くの人々が住まう地よりも交通の要所であったように思われる。

井上驛井上=四角く区切られた地の上にあるところ浮嶋驛浮嶋=水辺に浮かぶように鳥の形をした山稜が延びているところ河曲驛河曲=川が折れ曲がったようになっているところと解釈される。

それぞれが表す地形から、図に示した場所に設けられていたと推定される。「浮嶋」の”嶋”は、「五百嶋」の”嶋”を示していることが解る。いずれも現在の標高からすると、下総國そのものが海に突き出た半島状態であったと推測される。

<武藏國:乘潴驛・豊嶋驛
武藏國:乘潴驛・豊嶋驛

下総國に対して、武藏國は夥しいくらいの人物が登場している。高麗系渡来人を移り住まわせ、定着したら倭風の氏姓を授けている。既にこの時代まででも武藏國のほぼ全域に広がっているようである。

乘潴驛の「乘」及び「潴」の文字を名称に用いた例として初見と思われる。「乘」=「大+舛+木」と分解される。「舛」=「両足の動作」を表す文字要素であり、「舞」などに含まれている。地形象形的には、乘=平らな頂の山稜が足を拡げている様と解釈される。

潴=氵+猪(犬+者)=水辺で平らな山稜が交差するように延びている様と解釈される。これ等の地形を併せ持つ場所を図に示した。「乘」=「上に上がる様」、「潴」=「水が溜まっている様」の意味を示すと解説されている。現在の沼小学校の場所は、当時は海面下にあったと推測され、その上に上がったところを表していることが解る。

豊(豐)嶋驛豐嶋=段差のある高台が鳥の形をしているところと解釈される。その地形を、些か判別し辛いが、図に示した場所に見出せる。この地も海に突き出た半島状態であったと思われ、島状の地形であったであろう。

参考にしている資料では、本文「承山海兩路。使命繁多」を”東海道及び東山道に繋がる場所”と訳されている。勿論、本著の解釈でも東山道に接近している地ではあるが、「山海兩路」は上記のように山路・海路と訳すのが適切であろう。

<淡路國:神本驛家>
淡路國:神本驛家

淡路國も上記の下総國同様に登場人物の少ない國であり、直近では水海連淨成ぐらいであった。淳仁天皇が配流され、その地で亡くなったと記載されていた。

上記本文に「行程殊近。乞從停却」理由として廃止したと記されている。何とも不親切な記述であり、淡路國の他の驛が登場することはないようである。

致し方なく、調べると由良驛家大野驛家福良驛家があったとのことである。これ等の名称が示す地形を読み解くと、神本=しなやかに曲がって延びる高台の根元のようなところ由良=山稜が突き出てなだらかに延びているところ大野=平らな頂の麓に野が広がっているところ福良=酒樽ような山稜がなだらかに延びているところと解釈される。

「由良」は、古事記の「由良能斗」=「山稜が突き出て(由)なだらかに(良)延びている隅(能)で柄杓(斗)の形をしているところ」の「由良」を示している(こちら参照)。現地名は下関市彦島向井町(斗:田の首町)である。その他の驛家は、図に示した場所にあったと推定される。「福良」は、現在の彦島福浦町に、その名残を残しているようである。

図から分かるように「神本驛家」は、東の「大野驛家」と西の「福良驛家」の中間にあって、「由良驛家」から「福良驛家」までの配置として、”行程殊近”で廃止されたことと辻褄があっている。当時の行程は、内海の「水海」を通過していたのであろう。これも当時の地形(水位)を知る上で、貴重な記述かと思われる。

● 上忌寸生羽 「上忌寸」に関する情報は皆無のようである。一応「忌寸」の姓を持つことから関係する一族が存在していたのであろう。直感的に石村村主石楯等が賜った坂上忌寸一族、參河國碧海郡の住人だったのではなかろうか。生羽=羽のような地が生え出ているところと解釈すると、こちら辺りが出自と推定される。

確かに「坂」=「山麓に手のような山稜が延びている様」から少々離れた場所となり、それを省略した…と言っても賜った氏姓を勝手に変更できるとは思えないのだが・・・地形象形表記を最重要視するなら、受け入れられたのかもしれない。

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<佐渡國>
北陸道巡察使・右中弁の豊野眞人出雲(出雲王)の言上に依ると・・・佐渡國の國分寺造営料の稲は、毎年越後國から支給されていて、海路には風波があって時には数ヶ月かかる・・・と記載されている。

佐渡國・越後國(越後蝦狄)の配置を右図に再掲した。行程を推測するならば、現在の北九州市門司区春日町から峠越えで同区丸山に入り、川を下って河口に向かったのであろう。

その河口は、書紀の斉明天皇紀に、肅愼征伐のために阿倍臣闕名が二百隻の船を率いて着岸した場所である(こちら参照)。これより海路となって、「弊賂辨嶋」に向かい、おそらく現在の門司中央小学校辺りが國分寺建立の地だったのではなかろうか。

と言うことで、佐渡國は最北の地にあったことになる。勿論、陸奥國よりも北にある。故に北陸道と名付けられたのである。通説が述べる國別配置に違和感を覚える本著が怪しいのか、それとも・・・。

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