2023年7月6日木曜日

高野天皇:称徳天皇(16) 〔640〕

高野天皇:称徳天皇(16)


神護景雲二(西暦768年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

夏四月戊寅。授女孺正六位下百濟王清仁從五位下。乙酉。以從五位下弓削御淨朝臣廣方爲武藏介。近衛將監如故。外從五位下内藏忌寸若人爲員外介。辛丑。始賜伊勢大神宮祢義季祿。其官位准從七位。度會宮祢義准正八位。」伊豫國神野郡人賀茂直人主等四人賜姓伊豫賀茂朝臣。

四月五日に女孺の百濟王清仁(①-)に従五位下を授けている。十二日に弓削御淨朝臣廣方を武藏介、内藏忌寸若人(黒人に併記)を、近衛将監はそのままとして、員外介に任じている。二十八日に初めて伊勢大神宮の禰義(禰宜)に季禄(年二回の特別俸禄)を賜り、その官位は従七位に准じている。また度會宮(等由氣宮)の禰義(禰宜)の季禄は正八位に准じている。伊豫國神野郡の人である、「賀茂直人主」等四人に「伊豫賀茂朝臣」の氏姓を賜っている。

<賀茂直人主(伊豫賀茂朝臣)>
● 賀茂直人主

孝謙天皇紀に「伊豫國神野郡人少初位上賀茂直馬主等賜賀茂伊豫朝臣姓」と記載されていた(こちら参照)。「人主」も、おそらく近隣に住まう人物だったと思われるが、図が入組んでいるので改めて右図を掲載した。

人主=[人]の形をした谷間の傍に真っ直ぐに延びる山稜があるところと解釈すると、出自場所は図に示した辺りと推定される。

「馬主」の東側の谷間を表していることが解る。賜った氏姓が「馬主」の「賀茂伊豫朝臣」ではなく、「伊豫賀茂朝臣」と記載されている。同族だが異なる系列であったことを反映しているのかもしれない。現在の行政区分も「賀茂」を境にして頓田と小竹に分かれている。

いずれにしても「賀茂伊豫朝臣」も「伊豫賀茂朝臣」も二度と續紀に登場されることはないようである。また「伊豫國神野郡」に関する記述も見当たらず、と言った様子である。

五月丙午。勅。入國問諱。先聞有之。况於從今。何曾無避。頃見諸司入奏名籍。或以國主國繼爲名向朝奏名。可不寒心。或取眞人朝臣立字。以氏作字。是近冐姓。復用佛菩薩及賢聖之号。毎經聞見。不安于懷。自今以後。宜勿更然。昔里名勝母。曾子不入。其如此等類。有先著者。亦即改換。務從礼典。美作國大庭郡人外正八位下白猪臣證人等四人賜姓大庭臣。甲子。授鑄錢長官從五位下阿倍朝臣清成從五位上。次官正六位上多治比眞人乙安從五位下。以勤公也。丙寅。奉幣於畿内群神。旱也。辛未。惠美仲麻呂越前國地二百町。故近江按察使從三位藤原朝臣御楯地一百町捨入西隆寺。」甲斐國八代郡人小谷直五百依。以孝見稱。復其田租終身。信濃國更級郡人建部大垣。爲人恭順。事親有孝。水内郡人刑部智麻呂。友于情篤。苦樂共之。同郡人倉橋部廣人出私稻六万束。償百姓之負稻。並免其田租終身。

五月三日に次のように勅されている・・・國に入れば諱を尋ねるということは、かねてから聞いている。まして今後どうして諱を避けないでよいであろうか。ところが最近、諸司の奏上する名簿を見たところ、ある者は國主(天皇)・國継(皇太子)の諱を自分の名に使用し、朝廷へのその名を奏上している。恐れおののかざるを得ない。あるいは、姓の眞人や朝臣を取って字としたり、氏名を字にしているが、これは姓の秩序を冒すに等しいものである。---≪続≫---

また仏菩薩や賢聖の名を使用する者もいる。それらを聞くにつけ見るにつけ朕の心は不安になる。今後は、このようなことのないようにせよ。昔、里の名を勝母としたところ、孝心の厚かった曾子は、(母に勝つという里名を憚って)足を踏み入れなかった。礼を重んじる、このような類には先例があるものである。また、直ちに改め換えて、礼制に従うように努めよ・・・。この日、美作國大庭郡の人である白猪臣證人(大足に併記)等四人に大庭臣の氏姓を賜っている。

二十一日に鑄錢長官の阿倍朝臣清成(淨成)に従五位上、次官の「多治比眞人乙安」に従五位下を授けている。いずれも公務に精勤であったことによる。二十三日に幣帛を畿内の群神に奉っている。旱魃のためである。二十八日に惠美仲麻呂の越前國の田地二百町と、故近江按察使の藤原朝臣御楯(千尋)の田地百町を西隆寺に喜捨している。

この日、「甲斐國八代郡」の人である「小谷直五百依」は孝行を褒められているので、その田租を終身免除としている。信濃國更級郡の人である建部大垣(建部公豊足に併記)は人柄が恭順であり、親に仕えては孝行である。「水内郡」の人である「刑部智麻呂」は友情が厚く、苦楽を共にしている。また、同郡の人である「倉橋部廣人」は私稲を六万束出し、人民の負債とする稲を代償した。この三人共にその田租を終身免除としている。

<多治比眞人乙安-豊濱-公子-林>
● 多治比眞人乙安

「多治比眞人」一族からの登用は、一時の勢いではなくなってはいるが、連綿と続いているようである。ただ、系譜は全くの不詳であり、勿論、續紀を見る限り従五位下で登場後も急速な昇進は記載されていない。

この人物も鋳銭司・地方官などを歴任されるが、かなり後になって、鋳銭長官に任じられ、漸く従五位上(最終)を授与されているのに止まったようである。

名前が示す地形から出自の場所を求めるのであるが、乙安=[乙]の字形に谷間が嫋やかに曲がっている延びているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。現在住吉池となっている谷間の出口辺りと推定される。

少し後に多治比眞人豊濱が同じく従五位下を叙爵されて登場する。上記と同様に系譜不詳であり、地方官を務めたようである。豊(豐)濱=段差のある高台が水辺に近接するところと解釈すると「乙安」の北隣辺りが出自だったのであろう。

更に後(光仁天皇紀)に多治比眞人公子多治比眞人林が従五位下を叙爵されて登場する。共に系譜不詳で、公子=谷間にある小高い地から山稜が延び出ているところ林=山稜が並んで立っている様の名前が示す地形から求めると、図に示した辺りが各々の出自場所と推定される。
 
<甲斐國八代郡:小谷直五百依>
甲斐國八代郡

「甲斐國八代郡」は記紀・續紀を通じて初見である。と言うか、甲斐國の郡名そのものが初めて記載されている。また、この地の住人も初見である。初物尽くしの記述なのであるが、狭隘な谷間の地形を表しているのであろうか?・・・。

甲斐國に関する記述では、これまでに二回の献上物語が記載されている。元正天皇紀に白狐、及び聖武天皇紀に事細かく記述された神馬である。勿論、瑞祥と解釈されるが、これは未開の地を開拓した物語なのである。

八代=杙のような(代)山稜の前が二つに岐れている(八)ところと解釈する。古事記の波多八代宿禰に用いられた文字列である。図に示した場所、現在の鳶ヶ巢山の西麓に当たる。若干地形の変形があるが、識別可能であることが解る。

改めて地図を眺めると、当時は標高100m以上まで棚田を作っていたことからすると、決して狭い谷間ではなかったことが分かる。平坦な地に視点を置くのではなく、山頂から眺めることが古代の知ることに通じるようである。

● 小谷直五百依 行いを褒められての登場、何だか、無理矢理引き摺り出されたような感じではあるが・・・小谷=谷間の奥が三角に尖っているところと解釈する。大長谷(長く延びた谷間の奥が平らな頂になっているところ)・小長谷(長く延びた谷間の奥が三角に尖っているところ)の解釈である。「大きい・小さい」と読んでいては、古代は見えて来ない、のである。

頻出の文字列である五百依=谷間にある山稜の端(依)で連なった丸く小高い地(百)が交差するように延びている(五)ところと解釈される。図に示した「小谷」の谷間の出口辺りを出自とする人物だったと思われる。

<信濃國水内郡:刑部智麻呂・倉橋部廣人>
信濃國水内郡

上記の「更級郡」に続いて、「水内郡」が登場する。共に初見である。前者は、聖武天皇紀に記載された建部公(後に健部朝臣を賜姓)の居処を求める際に、既に求めた(こちら参照)。

「水内」の文字列については、書紀の持統天皇紀に「遣使者祭龍田風神・信濃須波・水內等神」に記述に含まれている(こちら参照)。

おそらく、この神が鎮座する谷間周辺を郡建てしたのであろう。「信濃」の”濃”の山稜に隔てられた「更級郡」の西隣に当たる場所である。

● 刑部智麻呂 既出の文字列である刑部=四角く取り囲まれた地の近くにあるところ智=[鏃]と[炎]の地形がある様と解釈すると、図に示した場所が見出せる。「健部朝臣」とは背中合わせになっている。

● 倉橋部廣人 同様に既出の文字列である倉橋部=四角く区切られた地の先で曲がって延びている山稜の近くにあるところ廣人=「人」の形をした谷間が広がっているところと解釈される。現在は高速道路のインターチェンジとなっているが、その地形の一部が残っているようである。

六月丁丑。授從五位下尾張宿祢若刀自正五位下。戊寅。以從四位上外衛中將兼造西隆寺長官參河守勳四等伊勢朝臣老人。掌膳常陸國筑波采女從五位下勳五等壬生宿祢小家主。尚掃從五位上美濃眞玉虫。掌膳上野國佐位采女外從五位下上毛野佐位朝臣老刀自。並爲本國國造。壬辰。右京人從五位上山上臣船主等十人賜姓朝臣。癸巳。武藏國獻白雉。勅。朕以虚薄。謬奉洪基。君臨四方。子育萬類。善政未洽。毎兢情於負重。淳風或虧。常駭念於馭奔。於是。武藏國橘樹郡人飛鳥部吉志五百國。於同國久良郡。獲白雉獻焉。即下群卿議之。奏云。雉者斯群臣一心忠貞之應。白色乃聖朝重光照臨之符。國号武藏。既呈戢武崇文之祥。郡稱久良。是明寳暦延長之表。姓是吉志。則標兆民子來之心。名五百國。固彰五方朝貢之驗。朕對越嘉貺。還愧寡徳。昔者隆周刑措。越裳乃致。豊碕升平。長門亦獻。永言休徴。固可施惠。宜武藏國天平神護二年已徃正税未納皆悉免除。又免久良郡今年田租三分之一。又國司及久良郡司各叙位一級。其獻雉人五百國。宜授從八位下。賜絁十疋。綿廿屯。布卌端。正税一千束。乙未。信濃國伊那郡人他田舍人千世賣。少有才色。家世豊贍。年廿有五。喪夫守志寡居五十餘年。褒其守節。賜爵二級。戊戌。從五位下紀朝臣門守爲圖書助。從五位下益田連繩手爲遠江員外介。外從五位下玉作金弓爲駿河員外介。從五位下石上朝臣家成爲上総守。庚子。内藏頭兼大外記遠江守從四位下高丘宿祢比良麻呂卒。其祖沙門詠。近江朝歳次癸亥自百濟歸化。父樂浪河内。正五位下大學頭。神龜元年。改爲高丘連。比良麻呂少遊大學。渉覽書記。歴任大外記。授外從五位下。寳字八年。以告仲滿反授從四位下。景雲元年賜姓宿祢。辛丑。衛門大尉外正五位下葛井連根主爲兼内竪大丞。從五位下安曇宿祢石成爲若狹守。從四位下阿倍朝臣弥夫人爲伊豫守。右中弁正五位下豊野眞人出雲爲兼土左守。從五位下紀朝臣廣純爲筑後守。

六月五日に尾張宿祢若刀自(馬身に併記)に正五位下を授けている。六日に外衛中将兼造西隆寺長官・參河守・勲四等の伊勢朝臣老人(中臣伊勢朝臣)、常陸國筑波郡出身の采女で掌膳(後宮膳司の第三等官)・勲五等の壬生宿祢小家主(壬生連)、尚掃(後宮掃司の長官)の「美濃眞玉虫」、上野國佐位郡出身の采女で掌膳の上毛野佐位朝臣老刀自を、それぞれ本國の國造に任じている。二十日、右京の人である山上臣船主等十人に朝臣姓を賜っている。

二十一日に武藏國から「白雉」が献じられ、次のように勅されている・・・朕は能力もなく德も薄いのに、誤って皇位を承け継ぎ、天下に君主として臨み、人民を我子として育んでいる。しかし善政はまだあまねく行き渡っておらず、心は常に重責を負うことを恐れており、淳朴な風俗も欠けることがあって、いつも心は奔馬を御しているようにびくびくしている。しかし、ここに「武藏國橘樹郡」の人である、「飛鳥部吉志五百國」が、同國の「久良郡」で「白雉」を捕らえ、献じた。---≪続≫---

直ちに群卿等に下し審議させたところ…[雉が現れたのは、群臣が心を一つにして忠貞であることに天が答えたからである。「白色」であるのは、朝廷の貴い光が天下に照り渡っているしるしである。その國が「武藏」というのは、武を用いず、文を尊ぶことの幸いを表している。また郡が「久良」というのは、天子の寿命が久しく延びる様子を明らかにしている。---≪続≫---

捕らえた人の姓が「吉志」であるのは、即ち多くの民が、子が親を慕うように君主のもとに集まる気持ちを表し、名が「五百國」であるのは、まことに五方の國々から朝貢のあるしるしを明らかにするものである]…と奏して来た。朕は、この良き賜り物を下さった天地の神々に対して応えねばならないが、かえって朕の徳の薄さを恥ずかしく思う。---≪続≫---

昔、勢の盛んな周が刑罰を止めたところ、越裳(安南の南にあった古の國)が周に白い雉を献じ、難波長柄豊碕宮朝廷(孝徳天皇)が天下を平らかにした時(白雉元年、650年)に「長門」(穴戸國)もまた白雉を献じた。永くこの良きしるしを伝えるためには、まことに人民に恩赦を施すべきである。---≪続≫---

そこで武藏國の天平神護二(766)年以前の正税未納分をみな全て免除する。また、「久良郡」の今年の田租の三分の一を免除せよ。また、國司と郡司には、それぞれ位一階を叙せよ。雉を献じた「五百國」には従八位下を授け、絁十疋・真綿二十屯・麻布四十端・正税稲千束を与えよ・・・。

二十三日に「信濃國伊那郡」の人である「他田舎人千世賣」は、若くして優れた才能と美しい容貌をもち、その家は年々財物が豊かであった。二十五歳の時に夫を失ったが、志を守り、一人で居ること五十年余りに及んだ。ここにその貞節の志を守ったことを褒め、位二階を賜っている。二十六日に紀朝臣門守を図書助、益田連繩手を遠江員外介、玉作金弓を駿河員外介、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を上総守に任じている。

二十八日に内藏頭兼大外記・遠江守の高丘宿祢比良麻呂(比枝麻呂)が亡くなっている。祖父の沙門詠は、近江朝(天智天皇)の癸亥の歳(天智二年、663年)に百濟より帰化した。父の樂浪河内は、正五位下・大学頭となり、神龜元(724)年には氏姓を改めて高丘連となった。「比良麻呂」は若くして大学に学び、広く書物に眼を通して大外記を歴任し、外従五位下を授けられた。天平寶字八(764)年には、「仲麻呂」の謀反を密告したことにより、従四位下を授けられた。神護景雲元(767)年には姓を改めて宿祢を賜った。

二十九日に衛門大尉の葛井連根主(惠文に併記)を兼務で内竪大丞、安曇宿祢石成(刀に併記)を若狭守、阿倍朝臣弥夫人を伊豫守、右中弁の豊野眞人出雲(出雲王)を兼務で土左守、紀朝臣廣純を筑後守に任じている。

<木國氷高評:内原直牟羅・眞玉賣>
● 美濃眞玉虫

従五位上の爵位を有する人物であるが、初見のようである。ならば、既に登場していたのだが、別名だったのかもしれない。遡って「眞玉」を調べると、幾つかの例が見つかるが、その中でも木國氷高評を出自とする眞玉女(賣)に着目する(左図を再掲)。

續紀編者の記述も歯切れが悪く、”木國”ではなく”本國”とし、上記本文と同様な記述であった。「紀朝臣」に関わる地であることは間違いないのだが、古事記の表記には従っていない。

改めて上図の眞玉賣の出自場所を眺めると、正に美濃=谷間が広がった地に二枚貝が舌を出したような山稜が延びているところの地形であることが解る。また、三つの「玉」の麓は蟲=山稜の端が三つに細かく岐れているところの地形を示している。賜った「内原直」は「牟羅」の地形に基づいていて、「氷」で別たれた地の「眞玉賣」は、納得していなかったのかもしれない。

古事記は「木國」と「紀國」を明確に区別した表現を行っている。しかしながら、書紀もそうであるが、續紀もこれを同一であるかのような記述にしてしまったのである。勿論、後代の國別配置に合わせるには、そうするしか手立てがなかったからである。

要するに古事記の「木國」を抹消し、「紀國」を「紀伊國」として「紀朝臣」が属する國名は記述されないのである。美濃眞玉虫は、この”曖昧な領域”に住まっていた人物だった、ことになる。

<武藏國:橘樹郡・久良郡>
<白雉・飛鳥部吉志五百國>
武藏國:橘樹郡・久良郡

武藏國の郡については、渡来人達を入植させた高麗郡などが記載されて来たが、漸く本来の古事記の无邪志國の谷間の郡名が登場し始めように思われる。この後直ぐに入間宿祢(物部廣成)の居処である「入間郡」が登場する。

橘樹郡の「橘」は、古事記の解釈通りと思われる。「橘」=「多くの枝分れしたような谷間を流れる川が寄り集まっている様」と解釈した(こちら参照)。「橘」の木の形態を表記していると読み解いた。勿論、縣犬養三千代が賜った橘宿祢にも用いられていた(古事記の橘大郎女)。

「樹」は単に”樹木”を表すと解釈すると、真に勿体ないことになる。これも地形象形している筈であろう。「樹」=「木+壴+寸」=「山稜の端が鼓のような形をしている様」と読み解ける。纏めると橘樹=多くの枝分れしたような谷間を流れる川が寄り集まっている地の傍らで山稜の端が鼓のような形をしているところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せ、郡の範囲を推定した。

久良郡の既出の文字列である久良=山稜が[く]字形に曲がってなだらかに延びているところと解釈すると、「橘樹郡」の西側、「入間郡」の南側に当たる地域と思われる。この地に白雉が棲息していた…いや、”白雉の地形”を見つけたと解釈される。図に示したように現在の高蔵山の北麓の山稜の形を白雉=[雉]のように見える山稜がくっ付いて並んでいるところと読み解ける。

● 飛鳥部吉志五百國 「飛鳥(アスカ)」に所縁のある人物なのか?…そんなことに拘っていては、迷路から抜け出すことは叶わないであろう。「飛鳥(トブトリ)」の地形を表す文字列である。図に示した通り、鋤崎山の山容を「飛鳥」に見立てたのである。例に依って「部」=「近隣」の地を示す。

吉志=蓋をするように蛇行する川が流れているところと解釈する。書紀で濫用された「吉士」=「蓋をするように山稜が突き出ているところ」であり、読みが同じとしては、全く異なる場所を表している。既出の文字列である五百國=丸く小高いところが連なった地が交差している麓で取り囲まれたところと読み解ける。図に示した辺りがこの人物の出自と推定される。

上記本文にも記載されているように書紀の孝徳天皇紀に「穴戸國司」が「白雉」を献上したと記載されている(こちら参照)。書紀の戯れた表記「穴戸國」は、「長門國」とはまったく別國(國:囲まれた地域)である。上記本文では「長門」と記載され、「國」を付加していない。續紀編者が、それに悪乗りした表記を行っているのである。「穴戸=長門」の言質を得た、なんて呑気なことではない。

<信濃國:伊那郡・他田舎人千世賣-眞枚女>
信濃國:伊那郡

上記の信濃國水内郡の善行の人物に続いて、「伊那郡」…これも初見…の貞節な女性の登場である。それなりに当時からの地形変形が発生している地なのであるが、果たして名称が示す地形を確認することができるであろうか・・・。

伊那郡に含まれる頻出の文字列、伊那=谷間に区切られた山稜の麓がゆったりと広がり延びているところと解釈される。図に示した場所に、その地形を見出すことができる。

山稜が広がって延びている地形を表し、極めて特徴的である。主山稜の端ではないことから「衣」を用いなかったのであろう。水内郡の南に接する地となる。現地名は、変わらず京都郡苅田町雨窪である。更に谷奥は、丸子大國の居処と推定したが、「伊那郡」はその地を含めないように思われるが、定かではない。

● 他田舎人千世賣 既出の文字列である。他田=谷間が曲がり畝って延びる地に田があるところ舎人=谷間で山稜が延びた先にある小高いところと読み解いた。更に千世=途切れずに連なっている地が谷間を束ねているところと解釈すると、この人物の出自場所を図に示した辺りと推定される。

後の桓武天皇紀に他田舍人眞枚女が外従五位下を叙爵されて登場する。眞枚=枝分かれしたような山稜が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に登場することはなく、消息不明である。

尚、「他田舍(舎)人」の氏名は、元正天皇紀に他田舍人直刀自賣、聖武天皇紀に他田舎人部常世が登場していた。「直」、「部」が含まれており、彼等は譯語田天皇の谷間(こちら参照)が居処と推定した。通説では、この場所が定まらずで、ましてや「他田舎人」ついては、駿河國・信濃國などに広く分布・・・要するに不詳となっているようである。