2023年7月15日土曜日

高野天皇:称徳天皇(17) 〔641〕

高野天皇:称徳天皇(17)


神護景雲二(西暦768年)閏六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

閏六月乙巳。從五位上船井王爲侍從。從五位上大野朝臣石本爲左大舍人頭。從五位下田中王爲内礼正。從五位上巨勢朝臣公成爲兵部少輔。從五位下佐伯宿祢三方爲右兵庫頭。從五位下石城王爲内兵庫頭。内藥佑外從五位下雀部直兄子爲兼參河員外介。從五位下長谷眞人於保爲武藏員外介。外從五位下林連廣山爲少掾。從五位上甘南備眞人伊香爲越中守。從五位下佐味朝臣宮守爲越後守。己酉。無位笠朝臣比賣比止。多治比眞人伊止。正六位上忌部宿祢止美並授從五位下。是日。戸百五十烟捨西大寺。庚戌。外正七位下國造雄萬。外正八位下物部孫足。從八位下六人部四千代並授外從五位下。以貢獻也。乙夘。以近衛少將從五位下佐伯宿祢國益爲兼備後守。庚午。授外從五位下健部朝臣人上從五位下。

閏六月三日に船井王を侍従、大野朝臣石本(眞本に併記)を左大舎人頭、田中王()を内礼正、巨勢朝臣公成(君成)を兵部少輔、佐伯宿祢三方(御方)を右兵庫頭、石城王()を内兵庫頭、内薬佑の雀部直兄子を兼務で參河員外介、「長谷眞人於保」を武藏員外介、林連廣山(雑物に併記)を少掾、甘南備眞人伊香(伊香王)を越中守、佐味朝臣宮守を越後守に任じている。

五日に左京の人である「和安部臣男綱」等三人に「和安部朝臣」の姓を賜っている。七日に笠朝臣比賣比止(不破麻呂に併記)・「多治比眞人伊止・忌部宿祢止美」にそれぞれ従五位下を授けている。この日、百五十戸を西大寺に施入している。八日に「國造雄萬」・物部孫足(山背に併記)・「六人部四千代」にそれぞれ外従五位下を授けている。私財を献じたためである。十三日に近衛少将の佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)に備後守を兼任させている。二十八日に健部朝臣人上(建部公人上)に内位の従五位下を授けている。

<長谷眞人於保>
<文室眞人子老-布登吉>
● 長谷眞人於保

「長谷眞人」は見慣れた文字列であるが、実は記紀・續紀を通じて初見なのである。そして、寶龜三(772)年正月に「從五位下⾧谷眞人於保賜姓文室眞人」と記載されている。回りくどいことだが、要するに文室眞人大市(大市王)の子孫であった(こちら参照)。

於保は既出の文字列であり、於保=旗をなびかせたように広がり延びた谷間にある山稜の先が丸く小高くなっているところと読み解ける。「眞老」の更に先にある場所を表してることが解る。

図から分かるように大市王の子孫は、長く延びた山稜に沿って南下したわけで、「於保」の場所は、まるで”遠祖”のような配置となっている。そして彼の東側は「長谷」の地形であり、それを氏名にしたのであろう。

また、「長谷(ハセ)」と読むわけにはいかないことも解る。以前にも述べたが、「長谷」は固有の地名では、決して、ないのである。この後、幾度か登場され、地方官を任じられて、最終従五位上・備後守と記載されている。

この直後に文室眞人子老が登場する。従五位下の爵位ではあるが、叙位の時期及び系譜も不明のようである。子老=生え出た山稜が海老のように曲がって延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。最終従五位上・安房守と伝えられている。

またその後にも女孺の文室眞人布登吉が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同じく系譜不詳、名前が表す地形から出自の場所を求めると、図に示したようになることが解った。既出の文字列である布登吉=蓋をするように延びた山稜の前で平らに広がった地に谷間の奥に高台があるところと読み解ける。地形変形が激しく、辛うじて判別できたようである。

<和安部臣男綱(和安部朝臣)>
● 和安部臣男綱(和安部朝臣)

「和安部臣」は、記紀・續紀を通じて初見の一族であろう。称徳天皇紀に入って、未記載の一族、即ちその居処を隈なく取り上げているようである。初見であると同時にこの後に登場されることもない。

致し方なく、関連情報を調べると、丸邇(古事記表記。書紀では和珥)一族に関係があることが分かった。しかしながら、この地には御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の子、天押帶日子命が祖となった多くの一族が蔓延った地でもある(春日臣・大宅臣・柿本臣・小野臣・粟田臣・壹比韋臣他:こちら参照)。

これ等の諸臣の後裔が多数登場し、また、吉田連(天押帶日子命の後裔である日子國夫玖命の子孫)も併せて、ほぼ埋め尽くされた感じのように思われるが、実は、直近で登場した大和國大神朝臣一族の居処との間に空隙があったのである。

和安部臣和=大和國を表すと解釈する。安=宀+女=山稜に挟まれて谷間が嫋やかに曲がって延びている様である。巷間では「安部=安(阿)倍」と読んで、”大和國の安倍”と解釈されているが、妄想の世界であろう。読むならば、安(ヤス)である。

古事記に倭建命が娶った「近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女・布多遲比賣」の出自の場所が近淡海之安(國)であったと記載され、時が流れて、近江國野洲郡と呼称されている。和安部=大和國の[安]の谷間付近のところと解釈される。名前の男綱=突き出た山稜が綱のように延びているところと読み解くと、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。

<多治比眞人伊止-賀智>
● 多治比眞人伊止

多くの人材が登場して来た「多治比眞人」一族であるが、系譜は不詳のようである。上記本文で「笠朝臣」と「忌部宿祢」と併せて三名は女官と思われ、それぞれ「止」の文字を含む名前である。

「多治比眞人」一族で女官らしき人物は、聖武天皇紀に乎婆賣・若日賣が従五位下を叙爵されて登場していた。変わらず系譜不詳であるが、「乎婆賣」の特徴的な地形から出自の場所を特定することができた。

そんな背景で、「伊止」も彼女等の谷間の地形を表わしているのではなかろうか。現在はゴルフ場に開発されていて、詳細を知るには、国土地理院航空写真1961~9年を参照することにする。

名称に用いられた「止」について、あらためて、その文字が表す地形を読み解いてみよう。「止」=「足(裏・跡)の形」を象形した文字とされている。「足」=「囗+止」=「足全体(膝小僧から足先)」を象形した文字であり、地形象形的には「小ぶりな谷間」を表すと解釈する。更に「止」=「両足が横から眺めて揃っている形」=「止まる」に意味展開することも理解される。

「止」の地形象形は、横から眺めるのではなく、上から見た足の形として、伊止=谷間に区切られた山稜(伊)の麓で小ぶりな細長い山稜が揃って並んでいる(止)ところを表すと解釈する。すると上図に示した場所にその地形を見出すことができる。「吉備」の東南側、「石足」の西側に当たる。

笠朝臣比賣比止については、標高差が少なく、また地形変形もあって、明瞭ではなかったが、ここで初めて「止」の地形を確認することが可能であった。と言っても現在の地図ではないが・・・。

後(桓武天皇紀)に多治比眞人賀智が従五位下を叙爵されて登場する。賀智=[鏃]と[炎]の形がある山稜が谷間を押し開くように延びているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。その後に幾度か地方官・京官を任じられている。

<忌部宿祢止美-人上>
● 忌部宿祢止美

「忌部宿祢」一族も途切れることなく登場している。系譜不詳であり、上記と同じく「止」の文字を含む名前が表す地形から出自場所を求めることになる。

書紀の天武天皇紀以降に活躍した忌部一族について、こちらこちらを参照すると、「首」の地形の東側へと子孫が広がったことが伺える。「子人(首)・色夫知」兄弟の西側の谷間は、全くの空白地域だったわけである。

現在は自動車学校の敷地となっている谷間の国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、見事な「止」の文字が表す地形を確認することができる。止美=小ぶりな細長い山稜が揃って並んでいる(止)先で谷間が広がっている(美)ところと解釈すると、図に示した場所が、この人物の出自と推定される。

後(桓武天皇紀)に忌部宿祢人上が外従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である人上=谷間に盛り上がった地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に幾度か登場するようである。

<國造雄萬>
● 國造雄萬

後の寶龜元年(770)四月に「美濃國方縣郡少領外從六位下國造雄萬獻私稻二万束於國分寺。授外從五位下」と記載されている。今回の叙爵で外従五位下を授けられている、重出のように思われるが、美濃國方縣郡の住人だったとして、出自場所を求めてみよう。

美濃國方縣郡は、元明天皇紀の行幸に供奉した住人の居処として記載されていた。また、書紀の天武天皇紀に『壬申の乱』における軍事拠点であった和蹔があった場所と推定した。現地名の京都郡苅田町若久町辺りである。

名前の雄萬=羽を広げた鳥の形の山稜の麓で「萬」の文字形ようになっているところと読み解ける。残念ながら現在は凄まじいばかりに地形変形していて、国土地理院航空写真1945~50年から出自の場所を求めると、図に示した辺りが出自と推定される。

<六人部四千代>
● 六人部四千代

「六人部」(無姓)は、孝謙天皇紀に「藥(久須利)」が登場し、右京の地に出自の場所を求めた(こちら参照)。また、六人部連は、山背國が出自と推定し、現地名の京都郡みやこ町犀川谷口辺りとした。

勿論、共に六人部=谷間(人)にある盛り上がって広がる(六)地の近隣のところが表す地形を有する場所である。幾度も述べるように、”地形”に基づく名称であり、”固有”ではないのである。

名前の四千代に含まれる既出の千代=杙のような山稜が谷間を束ねているところと読み解いた。その谷間がつあることになる。通常の地形図では変形が大きく、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、図に示したように六人部の地に四つの谷間を確認することができる。

秋七月壬申朔。以從四位下多治比眞人土作爲治部卿。左京大夫讃岐守如故。從五位下伊刀王爲雅樂頭。外從五位下昆解沙弥麻呂爲助。從五位下文室眞人子老爲諸陵頭。從五位下石河朝臣人麻呂爲大藏少輔。從五位下豊野眞人篠原爲彈正弼。從四位下小野朝臣竹良爲右京大夫。外從五位下秦忌寸眞成爲造法華寺判官。正五位上大伴宿祢伯麻呂爲遠江守。右中弁造西大寺次官如故。從五位下巨勢朝臣苗麻呂爲駿河守。從五位下佐伯宿祢國守爲上総介。從五位上紀朝臣鯖麻呂爲美濃員外介。外從五位下濃宜公水通爲信濃介。外從五位下船木直馬養爲越前員外掾。從五位下豊國眞人秋篠爲石見守。從五位下池原公禾守爲播磨介。大外記右平準令造西隆寺次官如故。庚辰。壹伎嶋飢。賑給之。壬午。武藏國入間郡人正六位上勳五等物部直廣成等六人賜姓入間宿祢。」授女孺无位沙宅萬福從五位下。」日向國獻白龜。乙酉。阿波國麻殖郡人外從七位下忌部連方麻呂。從五位上忌部連須美等十一人賜姓宿祢。大初位下忌部越麻呂等十四人賜姓連。戊子。從四位上伊勢朝臣老人爲修理長官。造西隆寺長官中衛員外中將如故。從五位下相摸宿祢伊波爲次官。右兵衛佐如故。庚寅。大宰府言。肥後國八代郡正倉院北畔。蝦蟆陳列廣可七丈。南向而去。及于日暮。不知去處。辛丑。大學助教正六位上膳臣大丘言。大丘天平勝寳四年。隨使入唐。問先聖之遺風。覽膠庠之餘烈。國子監有兩門。題曰文宣王廟。時有國子學生䄇賢告大丘曰。今主上大崇儒範。追改爲王。鳳徳之徴。于今至矣。然准舊典。猶稱前号。誠恐乖崇徳之情。失致敬之理。大丘庸闇。聞斯行諸。敢陳管見以請明斷。勅号文宣王。」授无位三嶋女王從五位下。正六位下大縣連百枚女。壬生公小廣。安都宿祢豊嶋並授外從五位下。

七月一日に、多治比眞人土作(家主に併記)を左京大夫・讃岐守はそのままで治部卿、伊刀王(道守王に併記)を雅樂頭、昆解沙弥麻呂(宮成に併記)を助、文室眞人子老(長谷眞人於保に併記)を諸陵頭、石河朝臣人麻呂(石川朝臣。谷間の出口の故に「河」を用いたのであろう)を大藏少輔、豊野眞人篠原(篠原王)を彈正弼、小野朝臣竹良(小贄に併記)を右京大夫、秦忌寸眞成(首麻呂に併記)を造法華寺(隅院近隣)判官、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を右中弁・造西大寺次官はそのままで遠江守、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を駿河守、佐伯宿祢國守(眞守に併記)を上総介、紀朝臣鯖麻呂を美濃員外介、濃宜公水通を信濃介、船木直馬養を越前員外掾、豊國眞人秋篠(秋篠王)を石見守、池原公禾守を大外記・右平準令・造西隆寺次官はそのままで播磨介に任じている。

九日に壹伎嶋に飢饉が起こり、物を与えて救っている。十一日に「武藏國入間郡」の人である勲五等の「物部直廣成」等六人に「入間宿祢」の姓を賜っている(こちら参照)。また、女孺の「沙宅萬福」に従五位下を授けている。日向國が「白龜」を献じている。十四日に「阿波國麻殖郡」の人である「忌部連方麻呂・忌部連須美等」十一人に宿祢姓、「忌部越麻呂」等十四人に連姓を賜っている。十七日に伊勢朝臣老人(中臣伊勢朝臣)を造西隆寺長官・中衛員外中将はそのままで修理司長官、相摸宿祢伊波(漆部直)を右兵衛佐はそのままで次官に任じている。

十九日に大宰府が…[「肥後國八代郡」の「正倉院北畔」に、「蝦蟇」が並び連なって「七丈」に広がり、南に向って去って行った。「日暮」で行方がわからない]…と言上している。

三十日に大学助教の「膳臣大丘」が以下のように言上している・・・「大丘」は、天平勝寶四(752)年に遣唐使に随って唐に渡り、古の聖人が遺した教化の跡を尋ね、上世の学校の余光を見た。國子監には二つの門があり、その額には文宣王(孔子の諡号)廟と記されていた。この時、國子監の学生で䄇賢という者がいて、大丘に…[今の皇帝は大変儒家の教えを尊び、後から改めて文宣王とされた]…と告げた。唐では聖人の徳の影響が今にまで及んでいる。---≪続≫---

ところが日本では旧い制に従って、なお孔子という前号を使用している。これではおそらく聖人の徳を崇める心に背くことになり、聖人を尊敬する道を失うことになるであろう。大丘は凡庸で愚かな者ではあるが、聞いたことをそのまま行おうと思っている。敢えて狭い自分の意見を述べ、明らかな判断をお願いする・・・。勅により、孔子の名を文宣王と呼ぶことにされている。

この日、「三嶋女王」に従五位下を授けている。また、「大縣連百枚女・壬生公小廣・安都宿祢豊嶋」に外従五位下を授けている。

● 沙宅萬福 「沙宅」の氏名を持つ人物は、書紀の斉明天皇紀に、伊吉連博德書云の中に百濟の重臣として「千福」が記載されている。その後天智天皇紀に百濟からの亡命者の一人として「紹明」が登場し、天武天皇紀に亡くなっている・・・大錦下百濟沙宅昭明卒。爲人聰明叡智、時稱秀才。於是、天皇驚之、降恩以贈外小紫位、重賜本國大佐平位・・・。

更に持統天皇紀に典薬博士の「萬首」が褒賞に与ったりしている。「萬福」はこの一族に関わる人物であったのであろう。百濟の名家、「沙宅」を倭風に変えなかったようである。近江國蒲生郡の地に、「沙宅」が表す地形があったのかもしれないが、後日としよう。

<日向國:白龜>
日向國:白龜

”白い亀”を献上した・・・ではなかろう。多くの「白龜」の献上物語が記載されていた。文武天皇紀に長門國(こちら参照)、元正天皇紀に左京、聖武天皇紀に河内國、孝謙天皇紀に大宰府及び尾張國の各地が開拓された物語であった。

その他にも「龜」の地形は随所に見出せて献上されたと記載されている。以前では、その発見の経緯を含めて、詳細に記述されていたが、今回に至っては、真に簡略な表現となっているようである。

それは兎も角として、白龜=龜の形をした地がくっ付いて並んでいるところの地形を求めると、図に示した場所が見出せる。当然のことなのだが、亀の甲羅を表す地形は、なだらかに広がっていて、格好の宅地開発場所であったと思われる。現在は広大な団地に変貌しているようである。

<阿波國麻殖郡>
<忌部連方麻呂-須美:忌部越麻呂>
阿波國:麻殖郡

少し前に阿波國の板野郡・名方郡・阿波郡の人々の氏姓は、「粟凡直」であることが記載されていた。勿論、粟凡直がその地の地形象形表記であることも確認された。

その時点で麻殖郡の場所を求めることが可能であったが、それを示すに止めていた。今回の記述で、他の三郡とは異なり、住人の氏姓は忌部連及び無姓の忌部であったことが明らかになっている。

既出の文字列である麻殖郡麻殖=擦り潰されたような山稜が真っ直ぐに延びた端が岐れて途切れているところと解釈される。骨の関節部を模した表記である。すると板野郡との境に延びる山稜の形を表していることが解る。他の三郡と同様に、崖のような山麓に延びる山稜の形で名付けられているのである。

● 忌部連方麻呂・須美 「忌部」は由緒ある名称であって、伊勢國の外宮の近隣の住まう一族と解釈して来た。元々は「忌部首」、後に宿祢姓を賜っている。勿論、「忌部連」は「忌部首」の一族ではなく、居処が同じような地形を示しているのである。

あらためて文字解釈を行ってみると、忌=己+心=谷間の中心に[己]の形に山稜が延びている様となる。「忌部」は、その近辺を示していることになる。「忌部首」の場所(現地名の北九州市小倉南区守恒辺り)の地形は、早くから宅地造成などで変形していて若干曖昧な様相であったが、この地で確認されることになった。

方麻呂方=耜のように山稜の端が広がった様である。既出の文字列である須美=州の先の谷間が広がっているところと解釈される。これ等の地形を満足する場所を、それぞれ図に示したように求めるできる。目出度く宿祢姓を賜っている。

● 忌部越麻呂 越=走+戉=山稜の端が鉞のような形をしている様と解釈したが、その地形を「須美」の東側に見出せる。この無姓の人物等は、別系列だったのであろう。連姓を賜ったと記載されている。古事記の品陀和氣命(応神天皇)が高木之入日賣命・中日賣命・弟日賣命を娶って多くの子が誕生したと伝えている(こちら参照)。その一人の阿倍郎女の「倍」は、「越」の地形の別表現である。

<肥後國八代郡:正倉院・蝦蟆>
肥後國八代郡:正倉院・蝦蟆

上記本文で大宰府が、唐突に言上したのであるが、蝦蟇が隊列を組んで何処かに隠れてしまった…一体、何を伝えようとしているのか、續紀に記すほどの出来事か…と訝っても、その後の進展は見出せないであろう。

「肥後國八代郡」は、聖武天皇紀に大災害が発生した記事があった。他の二郡、「葦北郡・天草郡」の名称も記載されている(こちら参照)。「八代郡」は、現在の古賀市に当たる場所と推定した。そして、今回の大宰府の文言の全てが、その地の地形を表しているのである。

正倉院の「正」=「止+一」と分解される。「止」=「足の形」の象形文字であり、それに「一」が加わわると、「正」=「両足を揃えたように山稜の端が並んでいる様」と解釈される。既出の「倉」=「四角く区切られた様」である。「院」=「阝+完」=「段差のある高台が丸く取り囲んでいる様」と解釈される。

纏めると正倉院=段差のある高台が丸く取り囲んでいる地の前で両足を揃えたように山稜の端が並んで麓が四角く区切られているところと読み解ける。図に示した場所にその地形を見出せる。肥後國なんかに”正倉院”がある筈がないとして、その國の”正倉”と読まれているようであるが、勿論、重ねた表記であろう。

<蝦蟆・日暮>
北畔は、正倉院の北辺のように読み取ってしまいそうだが、これも地形象形表記である。「畔」=「田+半」=「田を半分に切り分ける様」と解釈する。すると北畔=(正倉院の)北にある田を半分に切り分ける山稜が延びているところと読み解ける。

そこに蝦蟆が並んでいると述べているのである。図に示したように、細切れになった山稜、その一つ一つを「蝦蟆」の形と見做した表現である。それらが先ずは西方に、そして南に向きを変えて並び連なっていることが解る。

その「蝦蟆陳列」の向かった先に日暮がある。日が暮れて暗くて行方不明になった・・・ではなく、「暮」=「莫+日」=「[炎]のような山稜が見えなくなる様」と解釈して、日暮=[炎]の山稜が延びている地が[炎]の山稜を見えなくしているところと読み解ける。現在の尾東山とその背後の前岳の地形を表していることが解る。

上記本文の「蝦蟆陳列廣可七丈」は、まるで隊列の長さが「七丈」のように錯覚するところではあるが、全くの誤りである。「蝦蟆」が七匹並んでいる、と告げているのである。「日暮」の地は、全くの未知の地域である。それ故に「蝦蟆」を登場させたのであろう。この地の更に南は、博多大津に繋がる…それはあからさまには記述できない・・・久々に”万葉”の世界を伺わせてくれた記述だったようである。

<膳臣大丘>
● 膳臣大丘

「膳臣」は、古事記・書紀に古くから登場する一族の氏姓であって、人材輩出の地でもある。後に「高橋朝臣」の氏姓を賜っている(こちら参照)。

そんな背景であるが、未だに「膳臣」と名乗るのは、おそらく、「膳」の地そのものではなく、近辺を出自とする氏族だったのであろう。

かなり以前になるが、書紀の孝徳天皇紀に膳部臣百依が登場していた。おそらく、「膳臣」が「高橋朝臣」へと改氏姓するのに従って「部」を省略するようになったのではなかろうか。

名前の大丘=平らな頂をした丘になっているところと読むと、図に示した場所が出自であったと推定される。「百依」の北側の山稜の地形を表している。後に幾度か登場され、大学博士・豊後介など歴任されたとのことである。

● 三嶋女王 全く関連情報が欠落している女王のようである。ただ、續紀では、この後、延暦四(785)年正月に「授從五位上川邊女王正五位下。從五位下三嶋女王從五位上」、すぐに続けて「授從五位上三嶋女王正五位下」と記載されている。川邊女王は、舎人親王一家で三嶋王の娘であり、『仲麻呂の乱』に連座して配流された後に復帰している。

<大縣連百枚女・上村主五百公-刀自女>
三嶋王自身の事績は、殆ど見られず、早い時期に亡くなったように推測される。おそらく、三嶋女王はその地を居処としていたのではなかろうか。

● 大縣連百枚女

この人物の素性も、殆ど伝わっていないようである。氏名の「大縣」は、河内國大縣郡(元正天皇紀に「河内國堅下堅上二郡。更号大縣郡」と記載されている)に含まれていて、多分その地を居処としていたのではなかろうか。

百枚女百枚=丸く小高い地が連なる山稜が岐れて延びているところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。地形の凹凸が明瞭であって、地形象形表記としての確度は、かなり高いものと思われる。

少し後に「河内國大縣郡」の人である上村主五百公が「上連」の氏姓を賜ったと記載されている。上村主は、「村」=「木+寸」=「山稜が手を広げてのばしたような様」と解釈して、上村主=山稜に盛り上がった地がある[村]が真っ直ぐに延びているところと解釈される。五百公五百=小高い地が交差するように並んでいるところとすると、出自の場所を求めることができる。

更に少し後に河内國に行幸された際、九十九歳という高齢な女性である上村主刀自女に従五位下を授けたと記載されている。頻出の刀自女=刀の形の地が山稜の端にあるところと解釈すると、図に示した場所に住まっていたのであろう。

<壬生公小廣>
● 壬生公小廣

「壬生」の氏名には、①無姓②直姓③連姓の系統が登場し、それぞれ全く異なる地を出自とする一族であった。今回新たに「④公姓」の人物が登場したことになる。

續紀中に登場されるのは、ここのみであり、関連する情報は皆無の有様である。止む無く他の史料を調べると、古事記に「豐木入日子命者、上毛野君、下毛野君等之祖也」と記載されている「上毛野君・下毛野君」の子孫らしいことが分かった。

續紀においても、その子孫等は上毛野朝臣下毛野朝臣の氏姓を持つ人物として多数登場している。現地名は築上郡上毛町・吉富町と推定したが、その地で名前が示す場所を求めることになる。

壬生公壬生=丸く膨らんだような地が生え出ているところと解釈した。その地形を図に示した場所、山国川の西岸、現地名の築上郡上毛町垂水辺りに見出せる。小廣=三角の形に広がっているところと読むと、出自の場所を求めることができる。

「上毛野朝臣」の地ではなく、また「下毛野朝臣」の地でもない、その中間辺りの地域である。「下毛野君」の後裔として大野朝臣一族が登場していた。「下毛野」の地形象形とは、大きく異なることから「大野」という名称に変えたのであろう。「壬生公」も同じような立場だったと推測される。

<安都宿祢豊嶋-雄足>
● 安都宿祢豊嶋

「安都宿祢」の氏姓は記紀・續紀を通じて初見である。関連する名称を調べると、書紀の天武天皇紀に記載されている物部一族である「安斗連(阿刀宿祢)」の別称であることが分かった(こちら参照)。

史書に登場するのは「智德・阿加布・玄昉」の三名であるが、系譜が知られている人物等の出自の場所を求めた。

今回登場の豊嶋=鳥のような山稜の前で段々になった高台があるところについては、「阿加布」の子である「廣嶋・足嶋」と「嶋」で繋がっているように思われるが、定かではない。出自の場所は、図に示したように、二人の兄弟の間の山麓辺りと推定される。後に登場されることもなく、この後の消息は不明である。

ところで、この人物を調べていると、續紀等の史書には登場しないが、他の史書には安都宿祢雄足が頻繁に記載されているとのことである(Wikipedia参照)。雄足=羽を広げた鳥のような山稜の麓に足の形の地があるところ(上図参照。「石楯系列」か?)。

造東大寺司主典として、東大寺の越前國荘園の経営に深く関わっていた様子が記録されているそうである。天平字八(764)年、『仲麻呂の乱』以降の消息不明とのことで、この乱の一つの”戦場”であった越前國で紛争に巻き込まれたのかもしれない。