高野天皇:称徳天皇(18)
神護景雲二年(西暦768年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。
八月壬寅朔。日有蝕之。癸夘。出雲國嶋根郡人外從六位上神掃石公文麻呂。意宇郡人外少初位上神人公人足。同郡人神人公五百成等廿六人。賜姓大神掃石朝臣。己酉。參河國獻白烏。癸丑。賜大學直講正七位上凡直黒鯛伊豫國稻一千束。并授其母從八位下。賞勤學也。庚申。以外從五位下荒木臣忍國爲左兵庫助。」下総國言。天平寳字二年。本道問民苦使正六位下藤原朝臣淨弁等具注應掘防毛野川之状申官。聽許已訖。其後已經七年。得常陸國移曰。今被官符。方欲掘川。尋其水道。當決神社。加以百姓宅所損不少。是以具状申官。宜莫掘者。此頻年洪水。損決日益。若不早掘防。恐渠川崩埋。一郡口分二千餘田。長爲荒廢。於是仰兩國掘。自下総國結城郡小塩郷小嶋村。達于常陸國新治郡川曲郷受津村一千餘丈。其兩國郡堺。亦以舊川爲定。不得隨水移改。辛酉。近江國淺井郡人從七位下桑原直新麻呂。外大初位下桑原直訓志必登等賜姓桑原公。
八月一日に日蝕が起こっている。二日に「出雲國嶋根郡」の人である「神掃石公文麻呂」、意宇郡の人である「神人公人足」、同郡の人である「神人公五百成」等二十六人に「大神掃石朝臣」の氏姓を賜っている。八日に参河國が「白烏」を献じている。十二日に大学直講(大学寮で博士や助教を助けて経書の教授を担当した明経道教官)の凡直黒鯛(繼人に併記)に伊豫國の稲千束を賜い、併せてその母に従八位下を授けている。学問に勤勉なことを褒めるためである。
十九日に荒木臣忍國(父親道麻呂に併記)を佐兵庫助に任じている。また、下総國が以下のように言上している・・・天平寶字二(758)年に本道(東海道)の問民苦使の藤原朝臣淨弁(濱足に併記)等は、「毛野川」を掘り、洪水を防ぐ必要があることを詳しく記し、太政官に提出して許しを既に得ている。ところが、その後七年も経っているが、未だに実現していない。---≪続≫---
それについて「常陸國」から次のような文書が来ている…[今、到着した太政官符によって、これから川を掘ろうとしているが、その新しい水路の通り道を調べるてみると、ちょうどそれは「神の社を水が抉ること」になる(當決神社)。その上、人民の宅も損なうところが少なくない。このことを書面に記して太政官へ上申したところ、川を掘ってはならないとのことであった]…。---≪続≫---
その結果毎年のように洪水が起こり、損失は日毎に増えている。もし、早く川を掘り洪水を防ぐようにしなければ、多分用水の溝も壊れて埋まり、全郡の口分田二千余田も長く荒廃となるであろう・・・。
これを受けて太政官は下総・常陸の両國に命じて掘らせ、その新しい水路は「下総國結城郡小塩郷小嶋村」から「常陸國新治郡川曲郷受津村」に達するもので、長さは千丈余りに及んでいる。両國の「結城郡」と「新治郡」の郡界は、これまで通りに旧い川によって定めることにし、水路の変化に従って移し改めないようにしている。
二十日に近江國淺井郡の人である「桑原直新麻呂・桑原直訓志必登」等に「桑原公」の姓を賜っている。
今回初見の嶋根郡の名称は、今では県名(島根県)に用いられている。県庁のHPには…「島根」と名付けられたのは明治4年(1871年)11月のことでした。県庁がおかれた松江市が古くから島根郡(島根半島の東部)にあったためのようです…と記載されている。「島根」の由来は、何処も同じように、定かではないようである。
既出の文字列である嶋根=鳥のような形をした山稜の麓で根のように延びて岐れているところと解釈される。図に示した出雲の西端の場所を表している。上記の五郡が割り当てられて、唯一残った「楯縫郡」の西隣の場所である。蛇足だが、この「根」は、”球根”の形状をしている。古事記に記載された大物主大神の子孫である意富多多泥古の系譜中に登場する活”玉”依毘賣命の居処と推定した地である(こちら参照)。
● 神掃石公文麻呂 既出の文字である「神」=「示+申」=「高台が長く延びている様」、「掃」=「手+帚」=「山稜が箒のように広がり延びている様」、「石」=「厂+囗」=「山麓に小高い地がある様」とすると、神掃石=高台が長く延びて箒のように広がった先に小高い地があるところと読み解ける。文麻呂の文=綾模様のように折れ曲がっている様と解釈し、麻呂=萬呂とすると、この人物の出自を図に示した場所に見出せる。
● 神人公人足・神人公五百成 この二名は意宇郡が居処と記載されている。戸ノ上山の北西麓で山稜が長く延び出ている地と推定した。人足=谷間の先が足のような形をしているところ、五百成=連なっている丸く小高い地が交差して平らな高台になっているところと読み解ける。図に示した場所が、各々の出自場所と推定される。
ここで登場の人物に大神掃石朝臣の氏姓を賜っている。少々離れた場所に住まう彼等は同祖の一族だったのであろう。古事記の「大年神」の子孫は大きく分けて三つの系列があったことが記されている(こちら参照)。神掃石公は伊怒比賣系列(出雲臣も含む)、神人公は香用比賣系列の地に該当することが解る。ところが楯縫郡の地は、大年神系列ではなかったのである。何百年も以前のことをまだまだ色濃く引き摺っていたのであろう(詳細はこちら参照)。
參河國:白烏
それなりに登場して来た”瑞祥”であるが、これだけ発見されては、有難味も薄まって来たかもしれない。勿論、”鳥”が二匹並んでいる地形を表していると解釈する。
參河國には、山稜と言える場所は唯一なのであるが、その場所に”鳥”の地形を見出せるのであろうか?・・・杞憂である。麓の「碧海郡」に坂上忌寸一族が蔓延っている山稜の地形を白烏と表現したと思われる。今回も、それなりに素っ気ない記述のように感じられる。
と思いきや、直後に献上者は參河國碧海郡の住人である長谷部文選であり、爵位と褒賞を賜っている。長谷部=長い谷間の近辺にあるところと解釈されるが、各地にあった「長谷」の一つである。国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、山稜が綺麗に並んでいる谷間だったようである。文選=綾の形の山稜が揃って並んでいるところと読み解ける。出自の場所を上図に示した。
下総國結城郡・常陸國新治郡
毎年のように起こる両郡の間を流れる毛野川氾濫を防ぐために川を掘ることが提案されたのだが、何年たっても着工されていない。その経緯を含めて詳細が記載されている。
ところが、この本文の記述たとてつもなく違和感があるのだが、さて、如何なることになるのか、記載された地名を読み解いてみよう。
下総國結城郡は、初見である。この國の郡建てについては、元正天皇紀に香取郡が登場していた、それに続く郡名である。「結」=「糸+吉」と分解され、地形象形的には「山稜が蓋をしているような様」と解釈される。纏めると結城=山稜が蓋をするように囲まれた平らに整えられたところと読み解ける。
更に詳細に小塩郷小嶋村と記載されている。小塩(鹽)=平らな地が三角の形に囲まれているところ、小嶋=羽を広げた鳥のような形をしているところと解釈する。上記の「結城」の地形と併せて、図に示した場所を表していることが解る。「香取郡」の北側に接する場所である。尚、地形の詳細は国土地理院航空写真1961~9年(こちら)を参照して推測した。
すると毛野川は、毛野=鱗のような地の麓で野原が広がっているところを流れる川と解釈される。上・下総國の地形を「毛」で表現したのである。現在の吉田川である。前記の武藏國入間郡・久良郡・橘樹郡の谷間から流れ出る大河である。
この「毛野川」の対岸にある地が常陸國新治郡を記載されている。本著では、それは紀伊國飯高郡なのである。續紀編者等にしてみると、これはあり得ない配置となろう。言い換えると紀伊國の配置は、後世の國別配置と大きく異なっているのである。いつかはこの齟齬に出くわすであろうと思いながら、漸くその場面に遭遇したようである。
續紀編者等の心情を慮って、少し弁護をしておこう。その一:上図から分かるように紀伊國の「名草郡」の山稜は、「常陸」の地形をしているのである。その二:「飯高郡」の地形は「新治」である。その三:古事記の倭建命がこの地を”邇比婆理”、その先に”都久婆”があると詠っている(こちら参照)。編者等が配置した”本来の”「常陸國新治郡」は、こちらである。
”毛野川を掘る”とは、バイパスを造ることだったと推測される。そもそも今のような一つの川筋ではなく、氾濫を繰り返して複数の川筋であったと思われるが、大きく迂回させて水量を分散させる工法であったのであろう。そこで「尋其水道。當決神社」と記載されている。敢えて登場させている神社、それが伊太祁曾神が鎮座する地を抉ることになったと伝えている。編者等の”良心”が伺えるようである。
川曲郷受津村の川曲郷は下総國の河曲驛の対岸、受津=水辺で筆のような山稜が寄り集まっている窪んだところと解釈される。図に示した辺りを表してると思われる。
「桑原直」の氏姓を持つ一族は、孝謙天皇紀に大倭國葛上郡及び近江國神前郡に蔓延っていたのであるが(こちら参照)、ここでは丁寧に「近江國淺井郡」を居処とする一族と記されている。
また今回賜った「桑原公」についても、称徳天皇紀になって、大和國葛上郡の桑原連一族が賜っている。「桑原」の地形が各地に点在していたのである。
淺井郡では、図に示した場所に桑=叒+木=山稜の端が細かく岐れている様の地形を確認することができる。新麻呂の新=辛+木+斤=山稜が切り分けられている様であり、出自の場所を求めることができる。
既出の文字列の訓志必登=耕地の傍らを蛇行する川が流れている奥に高台がある谷間に挟まれた杙のような山稜が延びているところと読み解ける。出自を図に示した。残念ながら彼等はこの後に續紀に登場されることはなく、消息は不明のようである。
九月甲戌。大和守正五位上石川朝臣名足爲兼陸奥鎭守將軍。辛巳。勅。今年七月八日。得參河國碧海郡人長谷部文選所獻白烏。又同月十一日。得肥後國葦北郡人刑部廣瀬女。日向國宮埼郡人大伴人益所獻白龜赤眼。青馬白髪尾。並付所司。令勘圖諜。奏稱。顧野王符瑞圖曰。白烏者大陽之精也。孝經援神契曰。徳至鳥獸。則白烏下。史記曰。神龜者天下之寳也。与物變化。四時變色。居而自匿。伏而不食。春蒼夏赤。秋白冬黒。熊氏瑞應圖曰。王者不偏不黨。尊用耆老。不失故舊。徳澤流洽。則靈龜出。顧野王符瑞圖曰。青馬白髮尾者神馬也。孝經援神契曰。徳協道行。政至山陵。則澤出神馬。仍勘瑞式。白烏是爲中瑞。靈龜神馬並合大瑞。朕以菲薄。頻荷鴻貺。思順先典式覃惠澤。宜免肥後。日向兩國今年之庸。但瑞出郡者。特免調庸。大伴人益。刑部廣瀬女。並授從八位下。賜絁各十疋。綿廿屯。貲布卅端。正税一千束。長谷部文選授少初位上。賜正税五百束。又父子之際。因心天性。恩賞所被事須同沐。人益父村上者。恕以縁黨。宜放入京。」又先是勅。如聞。大宰府收觀世音墾田。班給百姓。事如有實。深乖道理。宜下所由研其根源。即仰大宰。搜求舊記。至是日奉勅。班給百姓見開田十二町四段捨入寺家。園地卅六町六段。依舊爲公地。壬辰。陸奥國言。兵士之設機要是待。對敵臨難。不惜生命。習戰奮勇。必爭先鋒。而比年。諸國發入鎭兵。路間逃亡。又當國舂運年粮料稻卅六万餘束。徒費官物。弥致民困。今検舊例。前守從三位百濟王敬福之時。停止他國鎭兵。點加當國兵士。望請。依此舊例點加兵士四千人。以停他國鎭兵二千五百人。又此地祁寒。積雪難消。僅入初夏。運調上道。梯山帆海。艱辛備至。季秋之月。乃還本郷。妨民之産。莫過於此。望請。所輸調庸。收置於國。十年一度。進納京庫。許之。乙未。左京人正七位上御使連清足。御使連清成。御使連田公等十八人賜姓朝臣。戊戌。正六位上田部直息麻呂。正八位上栗前連廣耳並授外從五位下。但廣耳以貢獻也。
九月四日に大和守の石川朝臣名足に陸奥國鎮守将軍を兼任させている。十一日に次のように勅されている・・・今年の七月八日、朕は參河國碧海郡の人である長谷部文選の献じた「白烏」を得た。同月十一日には、肥後國葦北郡の人である「刑部廣瀬女」と「日向國宮埼郡」の人である「大伴人益」が献じた「白龜赤眼」と「青馬白髮尾」を得た。それぞれ所司に送付して、図諜で調べさせたところ…[顧野王『符瑞図』は”白い烏は太陽の精霊”とあり、『孝経援神契』には”徳が鳥や獣にまで行き渡る時には白烏が天から降りて来る”とある。---≪続≫---
『史記』には、”神龜は天下の宝である。それは万物とともに変化し、四季に応じてその色を変える。居どころを隠し、卵を抱いている時は、物を食べない。春は蒼く、夏は赤く、秋は白く、冬は黒い”とあり、『熊氏瑞応図』には、”王が一方に偏らず不公平でなく、老人を尊んで登用し、昔からの馴染みを失わず、恵みが普く潤っている時には、霊龜が現れる”とある。---≪続≫---
顧野王『符瑞図』には、”青い馬で白く長い尾のあるのは神馬”とあり、『孝経援神契』には、”徳が天の心に叶い、正しい道が行われていて政治が山や丘などまで至る時、沢のなかから神馬が出現する”とある。そこで瑞式を調べてみると、白い烏は中瑞に、霊龜と神馬は、それぞれ大瑞にあたる]…と奏して来た。朕は德が薄いのに、しばしば大いなる賜い物を頂く。---≪続≫---
以前の仕来りに従って、ここに恵みを広く及ぼそうと思う。肥後・日向両國の今年の庸を免除する。但し瑞を出した郡は、特に調と庸を免除せよ。瑞を献じた「大伴人益」と「刑部廣瀬女」には、それぞれ従八位下を授け、絁十疋・真綿二十屯・ 布三十端・正税稲千束を賜う。長谷部文選には少初位上を授け、正税稲五百束を賜う。---≪続≫---
また、父と子の間には生まれつき親愛の情がある。恩情を及ぼすにも同じ恵みに浴するべきである。「人益」の父「村上」は縁の深い関係にあることを以って、以前の罪を許して赦免し、入京させることにせよ・・・。
また、これより先に次のように勅されている・・・大宰府は觀世音寺の墾田を収公し、それを公田として人民に班給したと聞いている。これがもし事実ならば、大変道理に背くことになる。このことを関係の役所に差し戻し、根本の理由を極めよ・・・。
太政官は直ちに大宰府に命じ、旧い記録を捜し求めさせたが、この日になって、天皇の勅を承って、人民に班給した現在開墾の済んでいる田十二町四段は寺に施入し、園地三十六町六段は今まで通り公地としている。
二十二日に陸奥國が以下のように言上している・・・兵士を準備しておくのは、緊急の事態に対応する為である。敵と相対して困難に臨んだ時生命を惜しまず、戦術を学び勇気を奮って必ず先駆を争う。ところが、このごろ諸國から徴発されて陸奥國に入る鎮兵は途中で逃亡してしまう。---≪続≫---
また当國では一年間の食料として稲三十六万束余りを米に舂いて運んでいるが、いたずらに官物を消費し、ますます人民を困らせることになっている。今、旧例を調べると、前守の百濟王敬福(①-❽)の時、他國の鎮兵を停止し、当國の兵士を徴発して加えた時があった。この旧例に従って、当國の兵士四千人を徴発して加え、他國の鎮兵二千五百人を停めることを請い願う。---≪続≫---
また、この地は大変寒く、積もった雪はなかなか消えない。そのため初夏になってから漸く調を運べるようになり、出発するが、山に梯子を掛けて登り、海を船で渡るような苦しみを具に経験する。また晩秋の九月に漸く本郷に還るので農繁期に遅れてしまうことになる。この調物の運京ほど人民の産業の妨げとなるものはない。人民の出した調・庸は國司のもとに収め置き、十年に一度の割合で都の倉庫に進納することを請い願う・・・。以上の言上は許されている。
二十五日に左京の人である御使連清足(三使連淨足)・御使連田公等十八人に朝臣姓を賜っている。二十八日に「田部直息麻呂・栗前連廣耳」に外従五位下を授けている。但し「廣耳」は私財を献じたことによる。
<肥後國葦北郡:白龜赤眼・刑部廣瀬女> |
肥後國葦北郡:白龜赤眼
確かに瑞祥献上物語が増えている。徳の少ない天皇ではなく、真逆の様相…西海の脅威やら天災が一段落した時期なのかもしれない。例に依って、珍しいものが献上されたわけではない。
「肥後國葦北郡」は、聖武天皇紀に肥後國の被災地として「八代郡・天草郡」と共に記載されていた(こちら参照)。北に接する筑後國と併せて現在の福津市に含まれる地域と推定した。
頻出と言える白龜=龜のような形をした地がくっ付いて並んでいるところと解釈した。「龜」の地形は、既出の場合も決して明瞭ではないのだが、御多分に漏れず、この地の「龜」も水中深くに潜っているかのように見分けることが困難ではあったが、図に示した場所に確認できそうである。
更に赤眼=(龜の)眼にあたる地で平らな頂の山稜が火のように延びているところと解釈される。それぞれの「龜」の頭部で「眼」の場所の地形を表していると思われる。白龜は、図に示した広がった谷間と推測され、そこを開拓したことを告げているのであろう。
● 刑部廣瀬女 ”発見者”ではなく本来は”開拓者”になるのであるが、多分、その近隣を出自とする人物だったと思われる。頻出の刑部=四角く取り囲まれた地の近辺のところ、廣瀬=瀬が広がっているところと解釈すると、出自は図に示した辺りと推定される。「葦北郡」の「北」が表す山稜に住まっていたことが解る。
日向國宮埼郡:青馬白髮尾
「日向國」の郡割は、元明天皇紀に「肝坏郡・贈於郡・大隅郡・姶羅郡」の四郡とし、別途大隅國を設置したと記載されていた(こちら参照)。
即ち、今回登場の宮埼郡は、その後に建てられた郡であり、おそらく上記四郡の一つが分割されたと推測される。陸奥國(一時石城國)の宮城郡に類似するように思われる。
名称の宮埼=奥まで段々に積み重なった谷間の傍らの山稜の端が三角に尖っているところと読み解ける。がしかし、日向國の地形からすると、極めてありふれた地形であり、一に特定することは難しく思われる。
ところが献上された青馬白髮尾が、実に貴重な情報を提供していることが分かった。先ずは、この文字列を読み下してみよう。青(靑)馬=四角く取り囲まれた地に馬の形をした山稜が延び広がっているところとなる。久々に魏志倭人伝の邪馬壹國を想起する羽目になったが、勝るとも劣らずの立派な「馬」が鎮座していることが解った。
既出の文字列である白髮尾=細く長い髪の毛のような山稜がくっ付いて並んでいる地が尾にあるところと読み解ける。図に示した馬の尾に当たる場所にその地形を見出せる。そして、勿論、「宮埼」の地形も確認することができる地域である。
● 大伴人益・村上 大伴=平らな頂の山稜を谷間が半分に切り分けているところであり、その谷間の峠を越えると他國に繋がる場所である。人益=谷間に挟まれて平らに広がった地の前に谷間があるところ、村上=手を開いたように延びた山稜の端が盛り上がっているところと解釈される。この親子の出自の場所を図に示した。
”祥瑞”の献上物語が如何に人民にとって重要なものであったかは、想像に難くないものであろう。開拓して公地として貢進する場合ばかりではなく、地形絵図にして「発見」するだけでも、叙位・褒賞に与ることができた。書紀・續紀を通じての”瑞祥”の記述を文字通りに読み飛ばしては、実に勿体ない、であろう。
尚、求められた「宮埼郡」の配置からすると、どうやら「大隅郡」を分割して建てられた郡であったことが解る。但し、この後の續紀には登場することもなく、詳細は不明のようである。
調べると、「田部」一族は各地に蔓延っていたようで、と言っても殆どの氏族がそうだと言われていて、諸説紛々の有様である。そんな中でも『正倉院文書』に伊豫國久米郡を居処とする一族の記録が残されている。
確かに「久米郡」は、長い谷間に田が連綿と作られていた地と思われる。古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の子、五百木之入日子命の出自の場所と推定した場所でもある。古くから開けた地ではあるが、表舞台への登場が途切れていたようである。息麻呂の息=谷間の奥から山稜が延び出ている様と解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。
この後に幾度か登場され、壹伎嶋守を任じられている時に”祥瑞”を献上して、昇位・褒賞を賜ったと記載されている。上記本文で同じように外従五位下を叙爵された人物は私財貢進で、ご当人はそうではない、と断っていることが腑に落ちるわけである。
● 栗前連廣耳
「栗前連」は記紀・續紀を通じて初見である。書紀中の関連する人物に、天智天皇の水主皇女の祖父が栗隈首德萬と記載されている。伊賀國の一角を占めていた人物と思われる。現地名は北九州市小倉南区長行・徳吉辺りである。
近隣は采女朝臣一族が蔓延っていて、かなり限られた地域を居処としていたように思われる。残念ながら、系譜は不詳であるが、おそらく「德萬」等の後裔に当たる人物だったのではなかろうか。
廣耳=広がり延びた耳の形のようなところと読むと、図に示した場所が見出せる。積殖山口に含まれる「殖」が表す地形を「耳」と表現していることが解る。『壬申の乱』で天武天皇が吉野脱出後に通過した場所である。確かに、ここは”空白地帯”であった。
そして、「采女」の地形から外れた場所になる。「栗隈(前)」一族は、おそらく「采女」と同様に邇藝速日命の子孫だったと思われるが、氏名は、実に地形に忠実であることが伺える。私財貢進で叙位されたのだが、この後にも登場され、内位の従五位下に昇位されている。
後(光仁天皇紀)に栗前連枝女が外従五位下を叙爵されて登場する。「枝」のように突き出た山稜の麓を居処としていたのであろう。図に示した場所が出自と推定される。