2023年7月31日月曜日

高野天皇:称徳天皇(19) 〔643〕

高野天皇:称徳天皇(19)


神護景雲二(西暦768年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

冬十月乙巳。授正六位上土師宿祢眞月外從五位下。戊申。授正五位上藤原朝臣雄田麻呂從四位下。女孺无位文室眞人布登吉從五位下。癸丑。授正四位上吉備朝臣由利從三位。從五位下平群朝臣眞繼從五位上。无位藤原朝臣淨子從五位下。乙夘。從四位下佐伯宿祢伊多智。坂上大忌寸苅田麻呂並授從四位上。從三位藤原朝臣百能正三位。正四位下藤原朝臣家子正四位上。從四位上大野朝臣仲智正四位下。從五位下久米連若女從五位上。无位多治比眞人古奈弥從五位下。庚申。幸長谷寺。捨田八町。」授從五位下高賀茂朝臣諸雄從五位上。從五位上桑田朝臣弟虫賣正五位下。壬戌。車駕還宮。授外從五位上上連五百公〈本名五十公十月〉從五位下。癸亥。授從五位下大神朝臣東公從五位上。從六位下朝妻造綿賣從五位下。甲子。充石上神封五十戸。能登國氣多神廿戸。田二町。」賜左右大臣大宰綿各二万屯。大納言諱。弓削御淨朝臣清人各一万屯。從二位文室眞人淨三六千屯。中務卿從三位文室眞人大市。式部卿從三位石上朝臣宅嗣四千屯。正四位下伊福部女王一千屯。爲買新羅交關物也。丁夘。授從六位上昆解宮成外從五位下。庚午。賜二品井上内親王大宰綿一万屯。」大尼法戒准從三位賜封戸。大尼法均准從四位下。

十月五日に土師宿祢眞月(位に併記)に外従五位下を授けている。八日に藤原朝臣雄田麻呂に従四位下、女孺の文室眞人布登吉(長谷眞人於保に併記)に従五位下を授けている。十三日に吉備朝臣由利(眞備に併記)に従三位、平群朝臣眞繼に従五位上、「藤原朝臣淨子」に従五位下を授けている。十五日に佐伯宿祢伊多智(治)坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)に従四位上、藤原朝臣百能に正三位、藤原朝臣家子(百能に併記)に正四位上、大野朝臣仲智(仲仟。廣言に併記)に正四位下、久米連若女に従五位上、多治比眞人古奈弥(小耳に併記)に従五位下を授けている。

二十日に「長谷寺」に行幸され、田八町を喜捨されている。また、高賀茂朝臣諸雄(田守に併記。下記に賜氏名の記述あり)に従五位上、桑田朝臣弟虫賣(桑内朝臣。桑内連乙虫女)に正五位下を授けている。二十二日に宮に還り、上連五百公(上村主)<分注。本名五十公>に従五位下を授けている。二十三日に大神朝臣東公(東方。伊可保に併記)に従五位上、「朝妻造綿賣」に従五位下を授けている。

二十四日に石上神に封五十戸、「能登國氣多神」に封二十戸と田二町を充てている。また、左右大臣(藤原朝臣永手吉備朝臣眞備)に各々真綿を二万屯、大納言の諱(白壁王)と弓削御淨朝臣清人(淨人。道鏡に併記)に各々一万屯、文室眞人淨三(智努王)に六千屯、中務卿の文室眞人大市と式部卿の石上朝臣宅嗣に四千屯、伊福部女王(元明天皇紀に卒された女王とは別人)に千屯を賜っている。新羅の貿易品を買うためである。

二十七日に昆解宮成に外従五位下を授けている。三十日に井上内親王に大宰府の真綿一万屯を賜っている。また、大尼の法戒は、従三位相当の身分と封戸(二百戸の半分)を賜っている。大尼の法均は従四位下相当(八十戸の半分)の身分としている。

<藤原朝臣淨子-乙倉>
● 藤原朝臣淨子

無位から従五位下に叙爵されていて、れっきとした藤原朝臣一族の人物だったと思われる。なのだが、系譜不詳のようであり、とすると「京家」あたりが出自か?…と推測されるが・・・。

孝謙天皇紀に、淨弁(濱足に併記)が東海・東山道の問民苦使に任じられて、二ヶ月前の八月記に下総國の毛野川氾濫対策を具申したりしていたが、爵位は正六位下と記されている。

淨子の「淨」は、多分、「淨弁」の「淨」を表していると思われ、その近辺を探索すると、図に示した場所が淨子=[淨]から生え出たところとの地形であることが解る。京家の始祖、「麻呂」の近隣となり、その一族であったと推測される。

上記本文の記述からすると、この人物は女官であったと思われる。暫く音信不通となるが、延暦十(791)年に正五位下に昇進されたと記載されている。

後(光仁天皇紀)に藤原朝臣乙倉が従五位上を叙爵されて登場する。「淨子」と同様に系譜不詳の女官のようであり、名前を頼りに出自の場所を求めると、図に示した辺りと推定される。乙倉=四角く閉じ込められた地が[乙]の形に曲がっているところと解釈される。京家「麻呂」に関わる人物だったのではなかろうか。

<長谷寺>
長谷寺

現在では、超有名な寺となっているが、創建については、殆ど伝わっておらず、勿論正史に登場するのは、これが初見である。この時点から百年程度過ぎた頃から注目されるようになったようである。

西大寺のような情報もなく、「長谷」の地に建立された寺として、その場所を求めてみよう。勿論、古事記の「長谷朝倉宮」、「大長谷若建命」(雄略天皇)に含まれる「長谷」であろう(こちら参照)。

ここまでは無難な流れのように思われるが、寺の場所となると”長谷”ゆえに一に特定が困難な状況に陥ってしまった。図に谷間の川の流れを示した(青破線)が、それを参考にして推定した。續紀には二度と登場することはなく、「長谷寺」と言う寺(おそらく、”チョウコクジ”と読むのであろう)があったことのみを伝えているように思われる。

<朝妻造綿賣>
● 朝妻造綿賣

「朝妻造」に含まれる「朝妻」は、元正天皇紀に幾人かの登場人物の氏名に用いられていた(こちら参照)。古事記の男淺津間若子宿禰命(後の允恭天皇)の「淺津間」の表記に繋がる。

書紀では、天武天皇紀に朝嬬・長江杜の「朝嬬」と表現されている。類似の読みとなって、同一場所を表しているように思われるが、実は微妙に異なっている。

記紀では、”朝”の東側が中心となるが、續紀の登場人物は西側となる。絶妙な表記であるが、当時としては日常茶飯事のことだったのかもしれない。万葉の世界に踏み込めるのは、いつの日になるのか・・・。

綿賣綿=糸+帛=細長く延びている様と解釈される。”妻”の一つの山稜が途切れずに延びている様子を表現していると思われる。出自の場所は、図に示した辺りと推定される。續紀に再度登場されることはないようである。

<能登國氣多神>
能登國氣多神

「氣多神」は、記紀・續紀を通じて初見である。「氣多」の文字列は、古事記の氣多之前で用いられていたが、その後幾つかの使用例が見受けられて来た(例えばこちら参照)。

氣多=ゆらゆらと延びる山稜の端に三角の地があるところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。上記の「長谷寺」と同様に、一に特定するには情報不足なのであるが、多分、海に面した場所に鎮座していたのではなかろうか。今後、神階として從一位・勲一等を授けられたとのことである。

現在では、気多大社(石川県羽咋市)・気多本宮(同県七尾市)に、その名を残しているようだが、本宮から大社へ遷座したとも伝えられているようである。「羽咋」は、上図の「羽咋郡」に関連するが、残念ながら續紀等に「七尾」の文字列は見当たらないようである。ただ、「氣多」の地形を”七曲の尾”と見ることもできそうである。

十一月壬申。美作掾正六位上恩智神主廣人獻白鼠。癸未。從四位下藤原朝臣楓麻呂爲右大辨。外從五位下石上朝臣家成爲勅旨少輔。從五位下紀朝臣門守爲大丞。從四位下藤原朝臣雄田麻呂爲中務大輔。左中弁内匠頭武藏守如故。從五位下石川朝臣眞守爲少輔。從四位上藤原朝臣是公爲侍從兼内藏頭。從三位石川朝臣豊成爲宮内卿。兵部卿從三位藤原朝臣宿奈麻呂爲兼造法華寺長官。從四位下藤原朝臣繼繩爲外衛大將。正五位上石上朝臣息繼爲左衛士督。河内守如故。從五位下上毛野朝臣馬長爲員外佐。從四位下阿倍朝臣息道爲左兵衛督。從五位下坂上王爲左馬頭。從五位下紀朝臣廣庭爲河内介。從五位上佐伯宿祢助爲山背守。從五位上息長丹生眞人大國爲美作員外介。外從五位下飛鳥戸造小東人爲長門介。大納言衛門督正三位弓削御淨朝臣清人爲兼大宰帥。從四位上藤原朝臣田麻呂爲大貳。是日。被任官者。多不會庭。省掌代之稱唯。於是詔式部兵部省掌。始賜把笏。戊子。以從五位上日置造蓑麻呂爲丹波守。」土左國土左郡人神依田公名代等卌一人賜姓賀茂。壬辰。設新甞豊樂於西宮前殿。賜五位已上祿各有差。丙申。從五位上賀茂朝臣諸雄。從五位下賀茂朝臣田守。從五位下賀茂朝臣萱草賜姓高賀茂朝臣。戊戌。授正五位上下毛野朝臣稻麻呂從四位下。己亥。從四位下國中連公麻呂爲但馬員外介。是日。以正三位弓削御淨朝臣清人爲検校兵庫將軍。從四位下藤原朝臣雄田麻呂爲副將軍。從五位下紀朝臣船守。從五位下池田朝臣眞枚並爲軍監。六位軍監二人。軍曹四人。

十一月二日に美作掾の「恩智神主廣人」が「白鼠」を献じている。十三日に藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を右大弁、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を勅旨少輔、紀朝臣門守を大丞、藤原朝臣雄田麻呂を左中弁・内匠頭・武藏守はそのままとして中務大輔、石川朝臣眞守を少輔、藤原朝臣是公(黒麻呂)を侍従兼内藏頭、石川朝臣豊成を宮内卿、兵部卿の藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を兼任で造法華寺(隅院近隣)長官、藤原朝臣繼縄(縄麻呂に併記)を外衛大将、石上朝臣息繼(奥繼。宅嗣に併記)を河内守はそのままで左衛士督、上毛野朝臣馬長を員外佐、阿倍朝臣息道を左兵衛督、坂上王()を左馬頭、紀朝臣廣庭(宇美に併記)を河内介、佐伯宿祢助を山背守、息長丹生眞人大國(國嶋に併記)を美作員外介、飛鳥戸造小東人(百濟安宿公奈登麻呂。戸憶志に併記)を長門介、大納言・衛門督の弓削御淨朝臣清人(淨人。道鏡に併記)を兼務で大宰帥、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を大貮に任じている。この日、任官した者の多くは、朝廷に集まらず、省掌が任官者に代わって、称唯(口を覆って「オオ」と返事すること)した。そのため、式部・兵部の省掌に詔し、初めて笏を持つことを許している。

十八日に日置造蓑麻呂(眞卯に併記)を丹波守に任じている。また、「土左國土左郡」の人である「神依田公名代」等四十一人に「賀茂」の氏名を賜っている。二十二日に新嘗祭の豊楽を西宮の前殿に設けている。五位以上の官人には地位に応じて禄を賜っている。二十六日に賀茂朝臣諸雄・賀茂朝臣田守・賀茂朝臣萱草に「高賀茂朝臣」(高鴨神参照)の氏姓を賜っている。

二十八日に下毛野朝臣稻麻呂(信に併記)に従四位下を授けている。二十九日に國中連公麻呂(國君麻呂)を但馬員外介に任じている。この日、弓削御淨朝臣清人を検校兵庫将軍、藤原朝臣雄田麻呂を副将軍、紀朝臣船守池田朝臣眞枚(足繼に併記)をそれぞれ軍監に任じている。この他に六位の軍監を二人、軍曹を四人を任じている。

<恩智神主廣人>
● 恩智神主廣人

「恩智」の氏名は、記紀・續紀を通じて初見である。ところが他の史書に伝わっていたようで、少し調べると、多くの百濟系渡来人が住まっていた河内國高安郡を本拠地とする一族であったことが分かった。但し、郡名は後の寶龜十一(780)年に記載されている。

恩智神主の「恩」=「囗+大+心」と分解される。地形象形的に解釈すると、「恩」=「囲まれた谷間の奥に平らな頂の山稜がある様」となる。頻出の「智」=「[鏃]と[火]の形の地が並んでいる様」と解釈した。

纏めると、恩智=囲まれた谷間の奥に平らな頂がある地に[鏃]と[火]の形の山稜が延びているところと読み解ける。「高安郡」の最北部、前出の高安造一族(毘登戸東人等)の北に接する谷間を表していることが解る。書紀の舒明天皇紀に遣隋使に随行して永らく滞在した高向漢人玄理の出自場所の谷奥に当たる。

廣人=谷間が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。神(神)主=高台が長く真っ直ぐに延びているところと解釈される。”姓”と解釈できるが、上古の地形象形した”姓”と思われる。

<美作國:白鼠>
美作國:白鼠

そんな出自の「廣人」が美作掾を任じられていた時に白鼠を捕まえて献上した、と記している。

”白い鼠”なら何処にでも棲息してそうなものなのだが、通常の解説は、瑞祥である・・・と言うようなことをかつてもしたような・・・聖武天皇紀に京識が献上していた(こちら参照)。

勿論、白鼠の地形の場所を開拓したのであるが、今回は、些か違ってそんな地形があることを述べただけのように思われる。それは兎も角として、類似の地形が美作國に見出せるか?…全く心配することはなかったようである。図に示した場所、かなり、地形変形が見られるが、鼠=穴虫の”穴”が山稜の両側に並んでいることが解る。

<土左國土左郡・神依田公名代>
土左國土左郡

少し前に土左國安藝郡に住まう人物が外従五位下を叙爵されたと記載され、それが土左國の郡割の最初の記述であった。それに引き続いて、今回土左郡が登場している。

國全体を表す土左=大地が左手のような形をしているところ、そして更にその中に同様の地形を示す場所を表しているのであろう。すると、前出の「安藝郡」の北に接する場所が、その地形であることが解る。

● 神依田公名代 既出の文字列である神依田=長く延びる山稜の端が平らに広がっているところと解釈すると、現在はゴルフ場となっているが、図に示した辺りを表していると思われる。同じく多用される名代=山稜の端の三角の地が谷間にある杙のような形をしているところと読み解ける。この周辺が「名代」等の出自の場所と推定される。

賜った賀茂公の氏姓は、賀茂=押し広げられた谷間に先が広がった山稜が延びているところであり、その地形を見出せる。一見複雑な山稜の様相であり、また地形変形もあるのだが、基本の形を読み取ることができたようである。

十二月甲辰。先是山階寺僧基眞。心性無常。好學左道。詐咒縛其童子。教説人之陰事。至乃作毘沙門天像。密置數粒珠子於其前。稱爲現佛舍利。道鏡仍欲眩耀時人。以爲己瑞。乃諷天皇。赦天下。賜人爵。基眞賜姓物部淨志朝臣。拜法參議。隨身兵八人。基眞所作怒者。雖卿大夫。不顧皇法。道路畏之。避如逃虎。至是。凌突其師主法臣圓興。擯飛騨國。癸丑。從四位上内藏頭侍從藤原朝臣是公爲兼下総守。丙辰。勅。陸奥國管内及他國百姓。樂住伊治桃生者。宜任情願。隨到安置。依法給復。壬戌。授外從七位上桑氏連鷹養外從五位上。以獻物也。甲子。尾張國山田郡人從六位下小治田連藥等八人賜姓尾張宿祢。乙丑。授美作國人外正八位上財田直常人外從五位下。以貢獻也。 

十二月四日、これより以前、山階寺(興福寺)の僧基眞は、心が落ち着かず、好んで邪な道を学び、詐術を使って彼に仕える童子を呪縛し、人の秘事を説かせたり、更には毘沙門天像を造って密かに数粒の玉をその前に置き、仏舎利の出現と称したりした。そのため道鏡は、この基眞を利用して世人の目をくらまし惑わせ、自分のめでたいしるしにしようと思い、天皇に告げて天下に恩赦を行い、官人達に位階を賜い、基眞には物部淨志朝臣(物部淨之朝臣)の氏姓を賜って法参議に任じ、身辺警護の兵八人を与えた。そのため基眞の怒りにふれた者は、たとえそれが卿大夫であろうと、天皇の定めた法を憚ることなく制裁を加えた。道行く人々は、これを恐れ、基眞を避けること、まるで虎から逃げるかのようであった。しかしここに至って基眞の師主である法臣の圓興を侮り欺こうとしたので、飛騨國に退けられた。

十三日に内藏頭・侍従の藤原朝臣是公(黒麻呂)に下総守を兼任させている。十六日に次のように勅されている・・・陸奥國の管内及び他國の人民で、伊治城桃生城に移り住むことを希望する者があれば、その願い通りに移住を許し、人民が到着次第、居住地を与えて安住させ、法に依って租税を免除せよ・・・。

二十二日に「桑氏連鷹養」に外従五位下を授けている。物を献じたことによる。二十四日に尾張國山田郡の人である「小治田連藥」等八人に「尾張宿祢」の氏姓を賜っている。二十五日に美作國の人である「財田直常人」に外従五位下を授けている。私財を献じたことによる。

<桑氏連鷹養>
● 桑氏連鷹養

「桑氏連」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見である。この後續紀に登場されることもないようである。物を献上して叙位されていることから、何処かの空白の地に棲息していた人物と推測される。

致し方なく他書を調べると、「但馬國氣多郡」に「桑氏連」を名乗る住人がいたようである。但馬國氣多郡は、後に續紀に記載されていることも併せて分かった。

上記の「氣多神」の氣多=山稜の端がゆらゆらと延びてるところとすると、古事記の”多遲麻”の別名とも言えるが、郡全体を見極めるのは、時期尚早と思われる。桑氏=山稜の端が細かく岐れて匙のような形をしているところと読み解ける。これも容易に見出せる地形である。

名前の既出の文字列である鷹養=山麓の谷間で二羽の鳥が並んでいるような山稜の隙間がなだらかに延びているところと読み解ける。名前の由来が、何とも壮大であるが、広々とした丘陵地を開拓したのであろう。

<小治田連藥>
● 小治田連藥

「尾張國山田郡」は、書紀の天武天皇紀に登場しているが、その地を出自とする人物は、生江臣安久多が國分寺に寄進をして外従五位下を叙爵されるまで登場せず、その後に一族が続いて記載されていた。

現地名は北九州市小倉南区長野の山稜に囲まれた地であり、大きく地形変形している場所でもある。国土地理院航空写真1961~9年を参照して、今回登場の人物の出自を求めてみよう。

見慣れた小治田=三角に尖った水辺に延びた耜のような山稜の麓で平らに広がっているところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。既出の藥=艸+白+糸+糸+木=山稜に挟まれた地に小高い地があるところと解釈すると、出自の場所を推定することができる。現在は広大な公園になっているようである。

賜った尾張宿祢は、すでに多くの人物が登場していて(例えばこちら、古事記では尾張連之祖・意富阿麻比賣の場所)、彼等とは同祖の関係だったのであろう。古事記が記す尾張國造之祖・美夜受比賣の居処を「山田郡」の場所と推定した。現在の長野川流域を本貫とする一族だのであろう。

<財田直常人・秦刀良>
● 財田直常人

備前國から分離独立した美作國は、前者が拡がるに伴って領域が大きく変貌したと推測した。元明天皇紀の当初はこちらであったが、後にこちらまで拡がっていた。

即ち、初期の「備前國」の領域を占める國割りに至ったように記載されている。と言う訳で対象の地が広くなったのであるが、この人物の名前、常人=北向きに山稜が延びている麓に[人]の形の谷間があるところが貴重な情報源となったようである。

この地形は、対象の地域では唯一であり、図に示した場所と推定される。この谷間は、古事記の大雀命(仁徳天皇)紀に登場した吉備海部直之女・名黑日賣の出自の場所とした地であり、その後にこの地に関わる人物は現れていなかった。

財田直の「財」は、古事記で多用される文字であるが、あらためて紐解くと、財=貝+才=谷間を遮るように山稜が延びている様と解釈した。財田=[財]の麓が平らに広がっているところとなり、図に示した地形を表していることが解る。

後に備前國出身で四十余年間内掃部司で勤務し、功労により外従五位下を叙爵された秦刀良が登場する。上図では美作國になっているが、この國が設置されたのが元明天皇紀の和銅六(713)年で、五十七年前であった(こちら参照)。十五歳前後で勤めだしたとすると、まだ備前國の名称であったように推測される。

そんな目論見で求めた彼等の出自の場所を図に示した。秦=稲穂のようなような山稜が延び出ている様であり、刀良=[刀]の形の山稜がなだらかに延びているところと解釈される。