2023年8月12日土曜日

高野天皇:称徳天皇(20) 〔644〕

高野天皇:称徳天皇(20)


神護景雲三(西暦769年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

春正月庚午朔。廢朝。雨也。辛未。御大極殿受朝。文武百官及陸奥蝦夷。各依儀拜賀。是日。勳六等已上。身有七位而帶職事者。始著當階之色。列於六位之上。六位諸王著纁者次之。壬申。法王道鏡居西宮前殿。大臣已下賀拜。道鏡自告壽詞。丙子。御法王宮。宴於五位已上。道鏡与五位已上摺衣人一領。蝦夷緋袍人一領。賜左右大臣綿各一千屯。大納言已下亦各有差。丁丑。御東内始行吉祥悔過。丙戌。御東院賜宴於侍臣。饗文武百官主典已上。陸奥蝦夷於朝堂。賜蝦夷爵及物各有差。戊戌。授无位牟都岐王從五位下。己亥。陸奥國言。他國鎭兵。今見在戍者三千餘人。就中二千五百人。被官符。解却已訖。其所遺五百餘人。伏乞暫留鎭所。以守諸塞。又被天平寳字三年符。差浮浪一千人。以配桃生柵戸。本是情抱規避。萍漂蓬轉。將至城下。復逃亡。如國司所見者。募比國三丁已上戸二百烟安置城郭。永爲邊戍。其安堵以後。稍省鎭兵。官議奏曰。夫懷土重遷。俗人常情。今徙無罪之民。配邊城之戍。則物情不穩。逃亡無已。若有進趨之人。自願就二城之沃壤。求三農之利益。伏乞。不論當國他國。任便安置。法外給復令人樂遷以爲邊守。奏可。

正月一日、朝賀を雨が降ったために廃している。二日に大極殿に出御され朝賀を受けられている。文武の百官及び陸奥蝦夷は、それぞれの儀式に従って拝賀している。この日、勲六等以上で、その身が七位の位にあり、定まった職掌のある者は、初めて七位の浅緑色の朝服を着して、六位の上に並んだ。六位の諸王のうちで纁色の朝服を着す者は、その次に並んでいる。

三日に法王の道鏡は西宮の前殿にいて、大臣以下は新年の拝賀を行っている。道鏡は、自ら祝いの言葉を告げている。七日に法王宮に出御され、五位以上の官人と宴を催している。道鏡は五位以上の官人に摺衣を各一領、蝦夷に緋袍を各一領与えている。天皇は左右大臣に真綿を各々千屯、大納言以下にも地位に応じて真綿を賜っている。八日に東内に出御され、初めて吉祥天に対する悔過を行っている。

十七日に東院に出御され、侍臣に宴を賜っている。また文武の百官で主典以上の官人と陸奥蝦夷を朝堂に招き饗宴を催している。蝦夷にはそれぞれ位と物を賜っている。ニ十九日に「牟都岐王」に従五位下を授けている。

三十日に陸奥國が以下のように言上している・・・他國の鎮兵で、現在守備に就く者は三千人余りいる。そのうちの二千五百人は官符を受けて既にその任を解くことを終えている。残りの五百人余りについては、しばらく鎮所に留め、それぞれの要塞を守ることを乞い願う。また、天平字三(759)年の官符を受けて浮浪人千人を派遣して桃生城の柵戸に割り当てた。しかし元々彼等の心には、巧みに負担を逃れようとする気持ちがあり、浮草のように彷徨い、蓬のように転々と場所を変え、城下に至るかにみえて、また逃亡する。國司の見るところでは、隣國の正丁が三人以上いる戸、二百戸を募って城郭内に留め置き、永らく辺境の守りとする。安住定着した後に少しずつ残りの鎮兵を省きたく思う・・・。

この言上を受けて太政官は審議し、以下のように奏している・・・郷土を思い他所へ遷ることに気のすすまないのは、世間の人の常に持つ感情である。今、罪のない人民を流刑のように遷し、辺境の城郭の守備に充てることは、物事のありかたとして穏やかではなく、逃亡が止むことはないであろう。そこでもし、進んで出かけようという人がいて、しかも自ら二城(桃生伊治)の肥えた土地で三農(平地農・山農・沢農)の利益を求めることを願うならば、当國人であろうと他國人であろうと関係なく、都合に合わせて一定の場所に安住させ、法の規定のほかにも租税の免除を与えて、他の人々にも移住を願わせ、そして辺境の守備に当たらせることをひたすら乞い願う・・・。この奏が許されている。

<牟都岐王>
● 牟都岐王

全く唐突に記載されているが、調べると古事記の久米王(書紀では來目皇子)の後裔であり、父親が長田王の系譜が伝えられていることが分かった。

少し前に亡くなった従三位・参議の山村王に類似する系譜だったようである。と言うことで、現地名の田川市夏吉の白髪川の左岸にある丘陵地帯を探索することになる。

”古事記風”の牟都岐王に含まれる、頻出の文字列である牟都岐=[牛]の頭部のような谷間に挟まれた山稜が交差するように延びた麓が二つに岐れているところと読み解ける。出自の場所を図に示した。後に牟都支王とも表記される。

ところが、この名称での登場は、ここのみであり、後に幾度か登場される時は、正月王と記載されている。正月=山稜の端が足を止めたように揃って並んでいるところと解釈される。見事な別名表記であることが解る。尚、父親の「長田王」は、図に示した場所を居処としていたのであろう。

二月壬寅。幸左大臣第授從一位。其男從五位上家依。從五位下雄依。其室正四位下大野朝臣仲智並賜一階。甲辰。以從五位上道嶋宿祢三山爲陸奥員外介。庚戌。授從五位下小垂水女王正五位下。甲寅。從四位下勳四等竹宿祢乙女卒。乙夘。奉神服於天下諸社。以大炊頭從五位下掃守王。左中弁從四位下藤原朝臣雄田麻呂。爲伊勢太神宮使。毎社男神服一具。女神服一具。其太神宮及月次社者。加之以馬形并鞍。丙辰。勅。陸奥國桃生。伊治二城。營造已畢。厥土沃壤。其毛豊饒。宜令坂東八國。各募部下百姓。如有情好農桑就彼地利者。則任願移徙。隨便安置。法外優復。令民樂遷。辛酉。伊勢國飯高郡人正八位上飯高公家繼等三人。左京人正六位上神麻續連足麻呂。子老。右京人神麻續連廣目等廿六人。攝津國嶋上郡人正六位上三嶋縣主廣調等並賜姓宿祢。癸亥。幸右大臣第。授正二位。乙丑。外從五位下林連佐比物。廣山。正六位上日下部連意卑麻呂並賜姓宿祢。」授從五位上吉備朝臣泉正五位下。丙寅。授正六位上平群朝臣家麻呂從五位下。 

二月三日に左大臣(藤原永手)の邸宅に行幸され、從一位を授けている。また、その息子の「家依」と「雄依」(こちら参照)、「永手」の妻である大野朝臣仲智(仲仟。廣言に併記)に、それぞれ位を一階賜っている。五日、道嶋宿祢三山を陸奥員外介に任じている。十一日に小垂水女王(図中)に正五位下を授けている。十五日に勲四等の竹宿祢乙女(多氣宿祢弟女。天皇の乳母の一人)が亡くなっている。

十六日に神服をを天下の諸社に奉っている。大炊頭の掃守王と左中弁の藤原朝臣雄田麻呂を伊勢太神宮使に任じている。各社に男神の服一具と女神の服一具を奉ったが、大神宮と月次社(年に二度の月次祭に参加する神社)には、これに加えて馬形(馬の模型)と鞍を奉っている。

十七日に次のように勅されている・・・陸奥國の桃生伊治の二城の造営は既に終わった。この地方の土地は肥えており、実りは豊かで満ち足りている。「坂東八國」(九國。常陸國を除く)に命令を下して國内の人民を募り、もし心から耕作と養蚕を好み、かの二城の地からあがる利益を得ようと思う者があれば、その願いに任せて移住させ、彼等の都合に従って安らかに住める地におくようにせよ。また、法の規定の他にも優遇して税を免除し、人民に移住を願わせるようにせよ・・・。

二十二日に伊勢國飯高郡の人である「飯高公家繼」等三人、左京の人である「神麻續連足麻呂・子老」、右京の人である「神麻續連廣目」等二十六人、攝津國嶋上郡の人である「三嶋縣主廣調」等に、それぞれ宿祢姓を賜っている。二十四日に右大臣(吉備眞備)の邸宅に行幸され、正二位を授けている。二十六日に林連佐比物(雑物)・廣山日下部連意卑麻呂(虫麻呂に併記)に、それぞれ宿祢姓を賜っている。また、吉備朝臣泉(眞備に併記)に正五位下を授けている。二十七日に「平群朝臣家麻呂」に従五位下を授けている。

<飯高公家繼-若舎人・笠目(諸高)>
● 飯高公家繼

伊勢國飯高郡の飯高公(君)とくれば、聖武天皇紀に采女の飯高君笠目が登場していた。古事記で天押帶日子命が祖となったと記載される伊勢飯高君に関わる一族であるが、系譜が定かではなかったのであろう。

今回の人物も爵位は決して高くはなく、官人としての認知度が低かったようであるが、この地域を出自を持つ人物としては貴重である。

家繼=山稜の端が豚の口のような形をしている地が繋がっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。「笠目」の東側である。残念ながら賜った飯高宿祢氏姓での登場は果たされなかったようであるが・・・。

後(光仁天皇紀)に飯高公若舍人が宿祢姓を賜っている。若舍人=谷間で山稜が延びた先で小高く広がった地が細かく岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

また、同じく光仁天皇紀に飯高宿祢諸高が従四位下を叙爵されている。勿論、それが初見なのであるが、あらためて「笠目」の地形を見ると、諸高=皺が寄ったような地で耕地が交差するように延びているところを表していることが解り、別名と推測される。

この人物が寶龜八(777)年八月に八十歳で亡くなっているのだが、珍しく略歴が記載されている。飯高郡の出身であり、采女として立派な務めを果たしたようである。如何に優秀であったかは、異例ともいえる最終典侍・従三位が表している。

<神麻續連足麻呂-子老-廣目>
● 神麻續連足麻呂・子老・廣目

「神麻續連」は、記紀・續紀を通じて初見の一族であろう。上記本文によると、彼等は”左京”と”右京”に分かれていたようである。即ち、左右京の別々の場所を居処としていた?…ではなかろう。

思い起こされるのが、京職が献上した白鼠に関して、この「白鼠」が左右京に跨っていたと解釈した。要するに、平城宮ができて、左右京の境界線が、この地を分断したのである。

神麻續=長く延びる山稜の麓に擦り潰されたように平らな地が次々と繋がっているところと読み解ける。「鼠」の巣穴が並んでいる地形の別表記のようにも思われる。

現在は大きな貯水池となっているため、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、彼等の出自の場所を求めることにする。足麻呂の「足」の地形を図に示した谷奥に見出せる。その南側に子老=生え出た山稜が海老のように曲がって延びているところが確認される。この二人は、間違いなく”左京”に属していることが解る。

廣目=目の形をした地が広がっているところと解釈すると、左右京の境界線を越えた、西側の場所がその地形示していると思われる。二十六人全員に「神麻續宿祢」氏姓を賜っているのだが、およそ九ヶ月後に、また連姓に復されている。理由は定かではないようである。

<三嶋縣主廣調・三嶋宿祢宗麻呂-廣宅>
● 三嶋縣主廣調

攝津國嶋上郡の住人と記載されている。元明天皇紀に初見である当該郡は、その後に記載されることがなく、この地を出自とする人物も登場することがなかった。

図に示したように書紀中(図中括弧付)で記載された人物名等が多く見られ、勿論、その時点では郡建てがなされていなかったのであろう。また、郡の領域も曖昧なままであった。

三嶋縣主の「三嶋」は、既に幾度か用いられた文字列であり、三嶋=三つの小高い島状の地が並んでいるところと解釈した。この地も変形が大きく、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、図に示した場所が見出せる。

また、この山稜が縣=首をぶら下げたような様であり、その中央の真っ直ぐ延びる()山稜の麓が出自の場所と推定される。些か変わった名前の持ち主なのであるが、廣調=耕地が周辺まで広がっているところと読み解くと、更にその場所の地形を表現していることが解る。

少し後に三嶋宿祢宗麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。「麻呂」=「萬呂」として、宗麻呂=山稜に挟まれた高台が[萬]の形になっているところと解釈すると、「廣調」の東側の谷間を示していると思われる。

後の桓武天皇紀に三嶋宿祢廣宅が従五位下を叙爵されて登場する。廣宅=谷間に延び出た山稜が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。女官のようであって、暫くして正五位下に昇進されている。

● 平群朝臣家麻呂 遣唐使節団の判官として、実に数奇な運命を辿った廣成が孝謙天皇紀に亡くなっていた(最終従四位上)。おそらく、その一族に関わる人物と推測されるが、地形変形が凄まじく、当時の平群の山稜を確認することが叶わないように思われる。引用した「廣成」の出自場所の周辺が、この人物の出自としておこう。

三月戊寅。授正六位上高市連豊足外從五位下。」以從五位下大伴宿祢形見爲左大舍人助。從五位下大伴宿祢清麻呂爲主税頭。外從五位上秦忌寸智麻呂爲助。從五位上船井王爲刑部大輔。從五位下石川朝臣望足爲右京亮。左中弁從四位下藤原朝臣雄田丸爲兼内豎大輔。右中弁從五位上阿倍朝臣清成爲兼田原鑄錢長官。左大弁從四位下佐伯宿祢今毛人爲兼因幡守。從五位下中臣朝臣子老爲美作介。近衛將監從五位下紀朝臣船守爲兼紀伊介。外從五位下高市連豊足爲大宰員外大典。從五位上阿倍朝臣三縣爲筑前守。辛巳。陸奥國白河郡人外正七位上丈部子老。賀美郡人丈部國益。標葉郡人正六位上丈部賀例努等十人。賜姓阿倍陸奥臣。安積郡人外從七位下丈部直繼足阿倍安積臣。信夫郡人外正六位上丈部大庭等阿倍信夫臣。柴田郡人外正六位上丈部嶋足安倍柴田臣。曾津郡人外正八位下丈部庭虫等二人阿倍曾津臣。磐城郡人外正六位上丈部山際於保磐城臣。牡鹿郡人外正八位下春日部奥麻呂等三人武射臣。曰理郡人外從七位上宗何部池守等三人湯坐曰理連。白河郡人外正七位下靭大伴部繼人。黒川郡人外從六位下靭大伴部弟虫等八人。靭大伴連。行方郡人外正六位下大伴部三田等四人大伴行方連。苅田郡人外正六位上大伴部人足大伴苅田臣。柴田郡人外從八位下大伴部福麻呂大伴柴田臣。磐瀬郡人外正六位上吉弥侯部人上磐瀬朝臣。宇多郡人外正六位下吉弥侯部文知上毛野陸奥公。名取郡人外正七位下吉弥侯部老人。賀美郡人外正七位下吉弥侯部大成等九人上毛野名取朝臣。信夫郡人外從八位下吉弥侯部足山守等七人上毛野鍬山公。新田郡人外大初位上吉弥侯部豊庭上毛野中村公。信夫郡人外少初位上吉弥侯部廣國下毛野靜戸公。玉造郡人外正七位上吉弥侯部念丸等七人下毛野俯見公。並是大國造道嶋宿祢嶋足之所請也。丁亥。下総國飢。賑給之。己丑。志摩國飢。賑給之。乙未。始毎年運大宰府綿廿万屯。以輸京庫。丙申。勅。縁有所思。大赦天下。神護景雲三年三月廿八日昧爽以前雜犯大辟罪以下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。及強竊二盜。咸赦除之。其八虐。私鑄錢。常赦所不免者。不在赦限。」以從五位上榎井朝臣子祖爲山背守。

三月十日に「高市連豊足」に外従五位下を授けている。また、大伴宿祢形見を左大舎人助、大伴宿祢清麻呂(淨麻呂。小薩に併記)を主税頭、秦忌寸智麻呂を助、船井王を刑部大輔、石川朝臣望足(垣守に併記)を右京亮、左中弁の藤原朝臣雄田丸(雄田麻呂)を兼務で内豎大輔、右中弁の阿倍朝臣清成(淨成)を兼務で田原鋳銭長官、左大弁の佐伯宿祢今毛人を兼務で因幡守、中臣朝臣子老を美作守、近衛将監の紀朝臣船守を兼務で紀伊介、「高市連豊足」を大宰員外大典、阿倍朝臣三縣(御縣)を筑前守に任じている。

十三日に陸奥國白河郡の人である「丈部子老」、「賀美郡」の人である「丈部國益」、標葉郡の人である「丈部賀例努」等十人に「阿倍陸奥臣」、また安積郡の人である「丈部直繼足」に阿倍安積臣、信夫郡の人である「丈部大庭」等に「阿倍信夫臣」、柴田郡の人である「丈部嶋足」に「安倍柴田臣」、會津郡の人である「丈部庭虫」等二人に「阿倍會津臣」、磐城郡の人である「丈部山際」に「於保磐城臣」、牡鹿郡の人である「春日部奥麻呂」等三人に「武射臣」、曰理郡の人である「宗何部池守」等三人に「湯坐曰理連」、白河郡の人である「靫大伴部繼人」と「黒川郡」の人である「靫大伴部弟虫」等八人に「靫大伴連」、行方郡の人である「大伴部三田」等四人に「大伴行方連」、苅田郡の人である「大伴部人足」に「大伴苅田臣」、柴田郡の人である「大伴部福麻呂」に「大伴柴田臣」、磐瀬郡(石背郡)の人である「吉弥侯部人上」に「磐瀬朝臣」、宇多郡(宇太郡)の人である吉弥侯部文知(石麻呂に併記)に「上毛野陸奥公」、名取郡の人である吉弥侯部老人(名取朝臣龍麻呂に併記)と「賀美郡」の人である吉弥侯部大成等九人に「上毛野名取朝臣」、信夫郡の人である「吉弥侯部足山守」等七人に「上毛野鍬山公」、「新田郡」の人である「吉弥侯部豊庭」に「上毛野中村公」、信夫郡の人である「吉弥侯部廣國」に「下毛野静戸公」、「玉造郡」の人である「吉弥侯部念丸」等七人に「下毛野俯見公」の氏姓を賜っている。これらの賜姓は、陸奥國大國造の道嶋宿祢嶋足(丸子嶋足)の申請によるものである。

十九日に下総國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。二十一日に志摩國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。二十七日に初めて毎年大宰府の真綿二十万屯を運ばせ、京の倉庫に納めさせることにしている。

二十八日に次のように勅されている・・・思うところがあるため、天下に大赦を行う。神護景雲三年三月二十八日の夜明け以前の様々な犯罪は、死罪以下、罪の軽重に関係なく、既に発覚した罪も未だ発覚していない罪も、既に罪名の定まった者も未だ定まっていない者も、獄に繋がれて服役している罪人も、また強盗・窃盗もみな全て赦す。但し、八虐を犯した者、贋錢造りなど常の赦では許されない者は、この赦の範囲に入れない・・・。この日、榎井朝臣子祖(小祖父)を山背守に任じている。

<高市連豊足-屋守>
● 高市連豊足

「高市連」は、書紀の天武天皇紀に登場した高市縣主許梅(後に連姓を賜う)、その後續紀の聖武天皇紀に大國・眞麻呂の名前が記載されている。

彼等の出自は、直近に天皇が行幸された「大和國高市郡」に含まれる場所である。その地詳細が述べられている貴重な記述であった(こちら参照)。

さて、今回登場の人物の出自の場所を求めるのだが、この地も地形の変形が凄まじく、国土地理院航空写真1961~9を参照しながらの探索となってしまうようである。

豐足=段差のある高台が足のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所に、それらしき地形を見出せる。「大國」の南に隣接する場所である。高市皇子の後裔、とりわけ長屋王系列の王等が多数蔓延った地の一角、勿論、未出である。

後(光仁天皇紀、寶龜六[775]年)に高市連屋守が外従五位下を叙爵されて登場する。屋守=延び至った山稜の端が両肘を張ったように延びているところと読み解くと、図に示した辺りが出自と推定される。

● 丈部子老[阿倍陸奥臣]・丈部直繼足[阿倍安積臣]・春日部奥麻呂[武射臣]・靫大伴部繼人/靫大伴部弟虫[靫大伴連]・吉弥侯部人上[磐瀬朝臣]

<陸奥國住人①>
登場した順ではなく、地域ごとに纏めて各人の出自の場所を求めることにする。先ずは、白河郡・磐瀬郡(石背郡)・安積郡
牡鹿郡、そして初見の黒川郡である。

結果的に「黒川郡」と名付けられた場所は、国土地理院航空写真1961~9においても、既に地形変形が見られ、推測の域に留まっている。

ただ、幸いなことに靫大伴部繼人(白河郡。靫大伴連を賜姓)及び靫大伴部弟虫(黒川郡。同じく靫大伴連を賜姓)に含まれる「靫大伴」の文字列が示す特徴的な地形から各々の出自場所を求めることができると思われる。初見の「黒川郡」は、多分、図に示した辺りと推測される。

靫=谷間が筒のようになっている様、頻出の大伴=平らな頂の山稜を半分に切りわっけているところと解釈される。残念ながら黒川黒=谷間に炎のような山稜が延びている様弟虫=山稜の端が細かく岐れてギザギザとしているところの地形は確認されないが、「黒」と「弟虫」は、極めて類似した地形を表していると思われる。

尚、陸奥國黒川郡は、聖武天皇紀に登場していた郡名であった。置賜郡の西側の谷間と推定した。ところがこの「置賜郡」は出羽國に編入され、二郡の配置からして「黒川郡」も、陸奥國ではなく、出羽國に属するようになっていたのではなかろうか。

丈部子老(白河郡。阿倍陸奥臣を賜姓)の丈部=杖のように細長く延びた山稜の近辺にあるところ子老=生え出た山稜が海老のように曲がっているところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。賜った阿倍陸奥臣の頻出の阿倍=台地が[不]の形に分かれているところと解釈したが、その地形を見出せる。

丈部直繼足(安積郡。阿倍安積臣を賜姓)の出自を「安積郡」で求めると、些か地形変形があって、曖昧さが残るが、繼足=足のような地が連なっているところを推定できる。図には示していないが、やはり賜った阿倍安積臣の「阿倍」の地形を当時は示していたのであろう。

春日部奥麻呂(牡鹿郡。武射臣を賜姓)は牡鹿郡の住人と記載されている。この申請を行った大國造の道嶋宿祢嶋足の居処であるが、元の名前である「丸子嶋足」の近隣には全く余地がない。尚かつ、春日部の氏名であり、果たしてその名が示す地形は存在するのか?…全くの杞憂であった。

春日部春日=太陽のような山稜の前で[炎]のように細かく山稜が延び出たところと解釈した。その地形を「道嶋宿祢」の北側の谷間に確認することができる。上記の航空写真を参照すると、その地形が見出せ、道嶋宿祢三山の一つの山が該当することが解る。賜った武射臣武射=戈のような山稜と端が弓のように曲がっている山稜があるところと読み解ける。この谷間のが出自の人物と思われる。

吉弥侯部人上(磐瀬郡。磐瀬朝臣を賜姓)の吉弥侯部=蓋をするように弓なりに広がった山稜の端が矢のように尖っているところと解釈した。「磐瀬郡」にある、これも既出の人上=谷間で盛り上がったところの谷間の西側の山稜を表していると思われる。

ところで「磐瀬郡」は、かつては石背=石を背にしているところと記載されていた。磐瀬=広がった磐のような山稜が水辺で飛び跳ねるように延びているところと解釈される。「牡鹿」の山稜の別表記であろう。

● 丈部國益[阿倍陸奥臣]・丈部大庭[阿倍信夫臣]・丈部庭虫[阿倍會津臣]・吉弥侯部大成[上毛野名取朝臣]・吉弥侯部足山守[上毛野鍬山公]・吉弥侯部廣國[下毛野静戸公]

<陸奥國住人②>
引き続いて信夫郡・會津郡の住人、そして、この地域でも初見の郡名、賀美郡が記載されている。賀美=谷間が押し広げられて延びているところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していると思われる。

多分、海水面が後退するのに加えて、海辺の耕地開拓が行われて来たのであろう。山間の棚田から海辺の水田に拡大させた日本の水田稲作の歴史である。

丈部國益(賀美郡。阿倍陸奥臣)の國益(益)=区切られた大地が谷間に挟まれて平らに広がったところと解釈される。

標高差が少なく一見確認し辛くおもえるが、図に示した場所に、その地形を見出せる。賜姓の阿倍陸奥臣の「阿倍」が示す「不」の地形を確認することができる。上記丈部子老と同じ賜姓となるが、同祖だったのかもしれない。尚、丈部の解釈も全く同様である。

同じ「賀美郡」の住人に吉弥侯部大成が記載されている。「吉弥侯」の地形を図に示した場所に見出せる。また賜姓の上毛野名取朝臣に含まれる名取=山稜の端が耳のような形をしているところから、この人物の出自場所を特定することができる。頻出の上毛野=盛り上がった鱗のような地が広がっているところと解釈する。

丈部庭虫(會津郡)の庭虫=山麓で広がった地の端が三つに岐れているところと解釈される。図に示した辺りが出自と推定される。賜姓の阿倍會津臣の「阿倍」は上記と同様の[不]の地形をしていることが解る。

「信夫郡」に住まう人、三名が登場している。丈部大庭大庭=平らな頂の山稜の麓で平らに広がり延びているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。賜姓の阿倍信夫臣の「阿倍」は上記の丈部子老(阿倍陸奥臣)と重なった表記で、郡名の由来である「信夫」の場所に当たることを表してる。

吉弥侯部足山守の名前は、何とも盛りだくさんの様子なのであるが、足=山稜が足のように二股に延びている様山=山稜が[山]の形に延びている様守=山稜が両肘を張り出したように延びている様と解釈されるが、これら三つの地形と見做せる場所を示しているのであろう。些か標高差が少なく確認し辛いが、図に示した辺りと思われる。賜姓の上毛野鍬山公の「鍬」がこれら地形を纏めて表現しているようである。

吉弥侯部廣國廣國=広がって区切られているところとであり、「足山守」の東側の小高くなった場所と推定される。賜姓が下毛野静戸公と記載されている。「下毛野」は、上記の「上毛野鍬山公」に対して下流域にあることから名付けられたのであろう。

「静(靜)」の文字が名称に用いられた最初の例と思われる。靜=靑+爭=両腕のような山稜の前で四角く取り囲まれた様と解釈される。図に示したように、それらしき窪みが見出せる。また、それが谷間を塞ぐようなの形になっていると見做した名称と思われる。

● 丈部賀例努[阿倍陸奥臣]・丈部山際[於保磐城臣]・宗何部池守[湯坐曰理連]・大伴部三田[大伴行方連]

<陸奥國住人③>
この地域は、かつて「石城國」とされ、その後に陸奥國に併合されている。各郡の配置はこちらとなるが、「宇多(太)郡」に関わる人物が既に登場し、そちらに纏めた。

兎も角も、最も激しく地形変形が行われた場所の一つであり、国土地理院航空写真のみで居処を求めることになる。ゴルフ場は、かなり元の地形を留めているが、宅地開発は、非情にも根こそぎである。”列島改造”のなせるところか・・・。

「標葉郡」の住人である丈部賀例努の名前に用いられている「例」は、初見の文字であろう。「例」=「人+列」と分解すると、例=谷間が並んでいる様と解釈される。

纏めると賀例努=押し開かれた谷間に二つの谷間が並んで嫋やかに曲がる山稜が延びているところと読み解ける。その山稜の麓が出自と推定される。賜姓は阿倍陸奥臣であり、やはり上記と同様に「阿倍」の地形を確認することができる。

「磐城郡」の丈部山際山際=山の麓にあるところと読める。これだけでは特定困難なのだが、賜姓の於保磐城臣の既出の文字列である、於保=旗をなびかせたような山稜の先の谷間に丸く小高い地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。

「曰理郡」の住人、宗何部池守の含まれる「何」=「人+可」=「谷間の出口が[人]の形をしている様」と解釈する。「宗」=「宀+示」=「谷間に高台がある様」であり、宗可=高台がある谷間の出口が[人]の形をしているところと読み解ける。名前の池守=水辺が曲がって延びている地に山稜が両肘を張り出したような形になっているところと解釈すると、出自の場所を求めることができる。

賜姓の湯坐曰理連湯坐=二つ並んだ小さな谷間に水が飛び散るように流れているところと読み解いた。古事記の額田部湯坐で用いられた文字列である。この地形を上記の写真から読み取ることができる。そして、この地形こそ、「曰理郡」の「曰」が表す地形であることが解る。上記の「於保」と併せて、”列島改造”前の地形図があれば、極めて確度高いものとなったであろう。

最後、「行方郡」の大伴部三田の「大伴」は、図に示したように谷間が突き抜けているように見える。それを表していると思われる。三田=三つ並んだ平らに整えられたところと読むと、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。賜姓の大伴行方連は、これらを併せた表記である。

● 丈部嶋足[安倍柴田臣]・大伴部福麻呂[大伴柴田臣]・大伴部人足[大伴苅田臣]

<陸奥國住人④>
「柴田郡・苅田郡」の住人について、その出自の場所を求めてみよう。元正天皇紀に「柴田郡」の二郷を割いて「苅田郡」とした、と記載されていた(こちら参照)。

「柴田郡」の丈部嶋足丈部は、上記と同様に陸奥國の地形、即ち、山稜が長く延びている状態を示している。嶋足=山稜が鳥の形して足を延ばしているようなところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。

賜姓は安倍柴田臣と記載され、安倍=山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がって延びている地に[不]の形の山稜があるところが表す地形の場所であることが解る。

同郡の大伴部福麻呂の「大伴」は、図に示した「苅田郡」の北端の谷間を表していると思われる。既出の福(福)=示+畐=酒樽のような小高い様と解釈した。図に示した場所辺りが、それらしき地形と思われる。賜姓の大伴柴田臣は、それを纏めた表記となっているようである。

「苅田郡」の大伴部人足人足=[人]の形をした足のようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。また、賜姓の大伴苅田臣は上記と同様の表記であろう。

● 吉弥侯部豊庭[上毛野中村公]・吉弥侯部念丸[下毛野俯見公]

<陸奥國住人⑤>
玉造郡は、前出の「玉作軍團」が設置されていた場所であり、聖武天皇紀に丹取郡が分割されて、金鉱が発見されて元号に関わる小田郡と二郡になったと思われる。

確かに「玉作郡」とすると「小田郡」と重なる地形象形表記となるために文字を換えた、のであろう。栗原郡の南側に当たる地域と思われる。

更に、初見の新田郡が登場している。新田=山稜が切り分けられた麓に平らに整えられた地があるところと解釈すると、図に示した谷間の地形を表していることが解る。「栗原郡」に含まれるのではなく、郡建てされていたようである。

住人である吉弥侯部豊庭の「吉弥侯」は上記と同様に解釈するとして、豐庭=段差のある高台の麓で平らに広がっているところと解釈すると図に示した辺りが出自と推定される。賜姓の上毛野中村公に含まれる中村=手のような山稜が真ん中を突き通しているところと解釈され、その山稜全体を毛野=鱗のように広がったところと見做していると読み解ける。「上」が付くのは、「下」の位置に類似する「毛野」があるからと思われる。

「玉造郡」の吉弥侯部念丸念=今+心=谷間の奥から蓋をするように山稜が延びている様と解釈する。それがの形をしていることを表す名前と思われる。図に示した場所が出自と推定される。賜姓の下毛野俯見公の「下毛野」は上記の通りであろう。

「俯」=「人+广+付」=「谷間で麓がくっ付いている様」と解釈される。纏めると俯見=麓がくっ付いている谷間が長く延びているところと読み解ける。当時の谷間の出口は海水面であったと推測され、実に限られた郡域だったと思われる。

総勢二十一名の一括賜姓、陸奥國の大半の住人があからさまにされたようである。元正天皇紀に「信太郡」在住の蝦夷、邑良志別君宇蘇弥奈等が登場していた。今回は「信太郡」の住人の賜姓は記載されず、大國造
道嶋宿祢嶋足の統治が行き届いていなかったのかもしれない。