高野天皇:称徳天皇(5)
天平神護元年(西暦765年)閏十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。
閏十月己丑朔。捨弓削寺食封二百戸。智識寺五十戸。庚寅。詔曰。今勅〈久〉。太政官〈乃〉大臣〈方〉奉仕〈倍伎〉人〈乃〉侍坐時〈仁方〉必其官〈乎〉授賜物〈仁〉在。是以朕師大臣禪師〈能〉朕〈乎〉守〈多比〉助賜〈乎〉見〈礼方〉内外二種〈乃〉人等〈仁〉置〈天〉其理〈仁〉慈哀〈天〉過无〈久毛〉奉仕〈之米天志可等〉念〈保之米之天〉可多良〈比〉能利〈多布〉言〈乎〉聞〈久仁〉是〈能〉太政太臣〈乃〉官〈乎〉授〈末都流仁方〉敢〈多比奈牟可等奈毛〉念。故是以太政大臣禪師〈能〉位〈乎〉授〈末都留止〉勅御命〈乎〉諸聞食〈止〉宣。復勅〈久〉是位〈乎〉授〈末都良牟等〉申〈佐方〉必不敢伊奈〈等〉宣〈多方牟止〉念〈之天奈毛〉不申〈之天〉是〈能〉太政大臣禪師〈乃〉御位授〈末都流等〉勅御命〈乎〉諸聞食〈等〉宣。」詔文武百官令拜賀太政大臣禪師。事畢幸弓削寺礼佛。奏唐高麗樂。及黒山企師部舞。施太政大臣禪師綿一千屯。僧綱及百官番上已上。至直丁擔夫各有差。内竪衛府特賜新錢亦有差。辛夘。詔。河内。和泉今年之調皆從原免。其河内國大縣若江二郡。和泉國三郡田租亦免。又行宮側近高年七十已上者賜物。犯死罪已下皆赦除。但十惡及盜不在赦限。又郡司供奉人等賜爵并物有差。」授守正五位下石上朝臣息嗣正五位上。介正六位上石川朝臣望足從五位下。和泉守從五位下紀朝臣鯖麻呂從五位上。兩國軍毅四人各進一階。是日。還到因幡宮。甲午。正六位上百濟王利善。百濟王信上。百濟王文鏡並授從五位下。從六位上百濟王文貞等三人賜爵人有差。乙未。授正六位下賀茂朝臣諸雄從五位下。丙申。留守百官拜賀太政大臣禪師。賜五位已上綿人卅屯。丁酉。騎兵一等二百卅二人賜爵人二級。二等卌八人。三等廿八人一級。並賜綿有差。大和。河内國郡司十四人賜爵人二級。八十七人一級。其獻物人等賜綿有差。癸夘。授正五位上阿倍朝臣毛人從四位下。從五位下大藏忌寸麻呂從五位上。外從五位下上村主五十公外從五位上。大初位下桑原公足嶋外從五位下。己酉。停河内國織御服絹戸。造餅戸。壬子。先是。兵庫器仗者。中務監物与本司相對出納。至是諸司相知出納。
閏十月一日に弓削寺に食封二百戸、智識寺に五十戸を施入している。二日に次のように詔されている(以下宣命体)・・・今仰せになるには、太政官の大臣に仕えることのできる人がおられる時には、必ずその官を授けるものである。それ故に、朕の師である大臣禅師(道鏡)が朕を守って下さり、助けて下さるのを見れば、出家と在家二種類の人達に対して、それぞれの道理に従って慈しみ愛され、過ちなく朝廷に仕えさせたいものだと思われて、人々を勧誘し仰せなるお言葉を聞くと、この太政大臣の官を授けても、その重責に耐えることがおできになるのではないかと思う。それ故に、「太政大臣禅師」の位をお授けすると、仰せになる御言葉をみな承れと申し渡す。
また、仰せられるには・・・この位をお授けすると申したならば、必ず「道鏡」はその重責に耐えられない、辞退すると言われるであろうと思われるので、「道鏡」には申さないで、この「太政大臣禅師」の地位をお授け申すと、仰せになる御言葉をみな承れと申し渡す・・・。
文武の官人達に詔されて、「太政大臣禅師」を礼拝させている。その事が終わって、弓削寺に行幸されて仏像を礼拝し、唐・高麗の楽と「黒山企師部」の舞を演奏させている。「太政大臣禅師」に真綿一千屯を授け、僧綱と交替勤務の官人以上の全ての官人、更に直丁・荷担ぎの人夫に至るまで、その身分に応じて物を賜っている。内竪・衛府には特に新銭をそれぞれ賜っている。
三日に次のように詔されている・・・河内・和泉の今年の調は全て免除する。特に河内國の大縣・若江の二郡と和泉國の三郡(大鳥・日根・和泉)は田租も免除する。また、行宮付近に居住している七十歳以上の高齢者に物を賜り、死罪以下の罪を犯した者をみな赦している。但し、十悪及び窃盗・強盗は赦免の範囲に入れない。また、郡司及び供奉した人々にはそれぞれ位と物を賜っている。
六日に百濟王:利善(①-⓬:敬福❽の子)・信上(明信①-⓱:理伯⓭の娘)・文鏡(武鏡①-⓮:敬福❽の子)に従五位下、百濟王文貞(仁貞①-⓰:全福❾の子)等三人には、それぞれに応じた位階を授けている。七日に賀茂朝臣諸雄(田守に併記)に従五位下を授けている。八日に平城宮の留守をしていた全ての官人が「太政大臣禅師」を拝して祝賀している。五位以上の官人に真綿をそれぞれ三十屯ずつ賜っている。
九日に行幸に陪従した騎兵で一等の二百三十人に位をそれぞれ二階、二等の四十八人と三等の二十八人にそれぞれ一階を賜い、同時に真綿をそれぞれ地位に応じて賜っている。大和國・河内國の郡司十四人に位をそれぞれ二階、八十七人に一階賜っている。行幸に際して物を献上した人達には、それぞれに応じて真綿を賜っている。
十五日に阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)に従四位下、大藏忌寸麻呂に従五位上、上村主五十公に外従五位上、桑原公足嶋(足床に併記)に外従五位下を授けている。二十一日に河内國の天皇の衣服にする絹を織る戸と造餅戸を廃している。二十四日に以前は左右兵庫の武器庫からの武器の出し入れは、中務省の監物と担当者の官司の役人が立ち会う上で行っていたが、今後は武器を使用する諸司も立ち会って出し入れすることにしている。
因幡宮
いよいよ行幸も終わりを告げようとして、平城宮にお帰りになられた、と記載している。直にお帰りかと思いきや、また、立ち寄り場所があったようである。
その場所が「因幡宮」であったのだが、既出の文字列である因幡=囲まれた平らな頂の山稜が幡のように延びているところと解釈すると、隣の大縣郡の山稜の地形を表していることが解る。
弓削行宮から平城宮に向かうには、この地を経て、現在の味見峠を越えて日下・飛鳥方面に抜ける行程と推測される。往路のように高市郡経由で還るのか?…復路では散策することはない故に五徳越峠経由で平城宮に向かったのではなかろうか。
上記本文の褒賞を顧みると、「大縣郡」の郡司の位階昇進・租税免除、更に大藏忌寸麻呂・上村主五十公を昇叙していることから、彼等の居処を通過したことが伺える。後者の二人は香春一~三岳の西側、即ち五徳越峠から広がり延びる谷間が出自と推定した。
前記で述べたように紀伊國伊都郡から那賀郡に向かう途中、牟婁郡を通過しているのである(こちら参照)。通説の國・郡の配置に致命的な誤謬があることを知りつつ、古代史学は黙している。いや、知らなかったとなれば、何をか況やの有様であろう。
黒山企師部 関連する情報が殆ど見当たらずである。「企師」=「吉士」と置き換えると渡来系の人々が住まっていた地域、その地で受け継がれている芸能と推測される。地形象形表記として読み解くと、企師=谷間で区切られた段差のある地が寄り集まっているところである。現在の遠賀郡岡垣町に黒山と言う地名がある。阿曇連(宿祢)一族が蔓延った地であるが、その地を居処する人々の舞踊だったのかもしれない。
十一月戊午朔。上野國甘樂郡人中衛物部蜷淵等五人賜姓物部公。壬戌。遣使修造神社於天下諸國。癸酉。先是。廢帝既遷淡路。天皇重臨万機。於是。更行大甞之事。以美濃國。爲由機。越前國爲須伎。庚辰。詔曰。神祇伯正四位下中臣朝臣清麻呂。其心如名。清愼勤勞。累奉神祇官。朕見之。誠有嘉焉。是以。天皇嘉曰其心如名特授從三位。」又詔曰。由紀須伎二國守等〈仁〉命〈久〉。汝〈多知方〉貞〈仁〉明〈伎〉心〈乎〉以〈天〉朝庭〈能〉護〈等之天〉關〈仁〉奉供〈礼方己曾〉國〈方〉多〈久〉在〈止毛〉美濃〈止〉越前〈止〉御占〈仁〉合〈天〉大甞〈乃〉政事〈乎〉取以〈天〉奉供〈良之止〉念行〈天奈毛〉位冠賜〈久止〉宣。」授美濃守正五位下小野朝臣竹良從四位下。介正六位上藤原朝臣家依從五位下。越前守從五位上藤原朝臣繼繩從四位下。介從五位下弓削宿祢牛養從五位上。」又詔曰。今勅〈久〉。今日〈方〉大新甞〈乃〉大新甞〈乃〉猶良比〈乃〉豊明聞行日〈仁〉在。然此遍〈能〉常〈余利〉別〈仁〉在故〈方〉朕〈方〉佛〈能〉御弟子〈等之天〉菩薩〈乃〉戒〈乎〉受賜〈天〉在。此〈仁〉依〈天〉上〈都〉方〈波〉三寳〈仁〉供奉。次〈仁方〉天社國社〈乃〉神等〈乎毛〉爲夜〈備末都利〉次〈仁方〉供奉〈留〉親王〈多知〉臣〈多知〉百官〈能〉人等天下〈能〉人民諸〈乎〉愍賜慈賜〈牟等〉念〈天奈毛〉還〈天〉復天下〈乎〉治賜。故汝等〈毛〉安〈久〉於多比〈仁〉侍〈天〉由紀須伎二國〈乃〉獻〈礼留〉黒紀白紀〈乃〉御酒〈乎〉赤丹〈乃〉保〈仁〉多末倍惠良〈伎〉常〈毛〉賜酒幣〈乃〉物〈乎〉賜〈方利〉以〈天〉退〈止〉爲〈天奈毛〉御物賜〈方久止〉宣。」復勅〈久〉神等〈乎方〉三寳〈余利〉離〈天〉不觸物〈曾止奈毛〉人〈能〉念〈天〉在。然經〈乎〉見〈末都礼方〉佛〈能〉御法〈乎〉護〈末都利〉尊〈末都流方〉諸〈乃〉神〈多知仁〉伊末〈志家利〉。故是以出家人〈毛〉白衣〈毛〉相雜〈天〉供奉〈仁〉豈障事〈波〉不在〈止〉念〈天奈毛〉本忌〈之可〉如〈久方〉不忌〈之天〉此〈乃〉大甞〈方〉聞行〈止〉宣御命〈乎〉諸聞食〈止〉宣。辛巳。詔曰。必人〈方〉父〈我〉可多母〈我〉可多〈能〉親在〈天〉成物〈仁〉在。然王〈多知止〉藤原朝臣等〈止方〉朕親〈仁〉在〈我〉故〈仁〉黒紀白紀〈乃〉御酒賜御手物賜〈方久止〉宣。甲申。右大臣從一位藤原朝臣豊成薨。平城朝正一位贈太政大臣武智麻呂之長子也。養老七年。以内舍人兼兵部大丞。神龜元年授從五位下。任兵部少輔。頻歴顯要。天平十四年。至從三位中務卿兼中衛大將。廿年。自中納言轉大納言。感寳元年拜右大臣。時其弟大納言仲滿。執政專權。勢傾大臣。大臣天資弘厚。時望攸歸。仲滿毎欲中傷。未得其隙。大臣第三子乙繩。平生与橘奈良麻呂相善。由是奈良麻呂等事覺之日。仲滿誣以黨逆。左遷日向掾。促令之官。而左降大臣爲大宰員外帥。大臣到難波別業。稱病不去。居八歳。仲滿謀反伏誅。即日復本官。薨時年六十二。
十一月一日に「上野國甘楽郡」の人である中衛の「物部蜷淵」等五人に「物部公」姓を賜っている。五日に使者を諸國に派遣して、神社を修理させている。十六日に是より以前、廃帝(淳仁天皇)は既に淡路に遷っており、天皇(称徳天皇)は再び天下を治めることとなった。そこでここに大嘗の事(大嘗祭)を行うため、美濃國を由機とし越前國を須伎としている。
二十三日、次のように詔されている・・・神祇伯の中臣朝臣清麻呂(東人に併記)は、その心も名前の通り清廉で身を慎み、職務に勤勉であり、神祇官の官職を歴任した。朕はこれを見て、真に喜ばしく思う。よって従三位を授ける・・・。
また、次のように詔されている(以下宣命体)・・・由機・須伎の二國の守達に仰せられるには、汝達は正しく明るい心を持って、朝廷の守りとして関所を固めて仕えているからこそ、國は多くあるけれども、美濃と越前とが御占に叶って、大嘗祭の政務を取り扱って奉仕するらしいと思って、ここに位階を与えると申し渡す・・・。
また、次のように詔されている(以下宣命体)・・・今、仰せになるには、今日は大嘗祭の直会の酒宴を行う日である。しかしこの度がいつもと異なっている理由は、朕が仏の弟子として菩薩戒を受けているということである。このため、上は三宝にお仕えし、次に天社・國社の神々を敬い申し上げ、次に仕えてくれている親王達、臣達、百官の人達、及び天下の人民達など全ての人々を憐れみ慈しみたいと思って、皇位に還り再び天下を治めるのである。それゆえ、汝達も安心して平穏に仕えて、由機・須伎二國の献上した黒酒・白酒の御酒を、頬が赤くなるほど歓び楽しみ、豊明りの節会の常例として賜う酒弊(引出物)の品を賜って退出せよとして、物を賜ると申し渡す・・・。
また、仰せられるには・・・人々は神々を仏から引き離して、仏に触れてはならないものと思っている。しかし経典を拝見すると、仏法を守護し、尊敬を奉っているのは諸々の神々であられる。それゆえに、出家した人も白衣の人も互いに入り混じって神にお仕えするのに、決して差し支えることはあるまいと思うので、もと忌んだようには忌まないで、この大嘗祭は執り行わせる、と言われる天皇の御言葉をみな承れと申し渡す・・・。
二十四日に次のように詔されている(以下宣命体)・・・人は必ず父方・母方の親族があって生まれ出るものである。そうして、朕の父方の王達と、母方の藤原朝臣達とは、朕の親族であるのだから、黒酒・白酒の御酒を賜い、朕の手沢のものを賜ると、申し渡す・・・。
二十七日に右大臣の藤原朝臣豊成が亡くなっている。平城朝(聖武朝)の正一位で太政大臣を贈られた「武智麻呂」の長子であった。養老七(723)年、内舎人にして兵部大丞を兼ねた。神龜元(724)年、従五位下を授けられ、兵部少輔に任じられた。しきりに要職を歴任して、天平十五(742)年には従三位・中務卿兼中衛大将に至った。天平二十(749)年に右大臣を拝命した。その頃、弟の大納言仲満(仲麻呂)は政治を司り権力を専らにして、その勢力は大臣を凌ぐものがあった。大臣は天性の資質に広く厚いものがあり、時の衆望の集まるところであったので、「仲満」は常に中傷しようとしていたが、乗ずる隙を得ないでいた。
<上野國甘樂郡:物部蜷淵(物部公)> <磯部牛麻呂> |
上野國甘樂郡
上野國の郡割については、直近になるまで殆ど記載されることはなく、聖武天皇紀の終盤になって、碓氷郡の人物が國分寺に寄進して外従五位下を叙爵されて、初めて具体的な登場人物となっていた。
そして今回がそれに続く記述となる。現地名の北九州市門司区吉志の地で「甘楽郡」の「甘楽」の地形を求めることになる。
既出の文字列であり、甘樂=口から舌を出したような谷間に延びた山稜の麓に丸く小高い地が並んでいるところと読み解ける。すると、「碓氷郡」の南側の谷間が、その地形を示していることが解る。些か地表の凹凸が少なく、それを強調した地図を示した。どうやら、現在の北九州市門司区と小倉南区の境が、当時の上・下野國の境だったように思われる。
● 物部蜷淵 この人物の具体的な事績は記載されないが、碓氷郡と同様に耕地の開拓が進捗したのであろう。物部=「勿」の文字形のように谷間に山稜が延び出ている地の近くにあるところと解釈した。その地形を図に示した、少々変形が見られるが、場所に見出すことができる。
名前に用いられる機会が少ないが、「蜷」=「虫+卷」=「山稜の端が握り拳のように丸まっている様」と解釈される。「淵」はそのままの川の様子を表していると思われる。「握り拳のような」として、紀伊國阿提郡で用いられた「提」=「手+是(匙)」=「匙のように山稜が延びている様」の地形に繋がることに気付かされた。
この匙の北麓を川が流れて淵を作っていたものと推測される。蜷淵=山稜の端が握り拳のように丸まっている麓に淵があるところと読み解ける。図に示した場所、拳に当たって大きく川が蛇行する場所を表していると思われる。阿提郡から那賀郡への変更、どうやら「提」の北側は上野國甘楽郡に属することにしたのではなかろうか。賜った物部公の氏姓は、問題なく受け入れられる名称であろう。
● 磯部牛麻呂 直後に磯部牛麻呂等四人が「物部公」の氏姓を賜ったと記載されている。磯部=磯の近隣として「牛麻呂」の牛の地形を図に示した場所に見出せる。甘樂郡に住人を一挙に登場させている。
藤原四家の北家「房前」の孫、「永手」の子と知られている(こちら参照)。南家「武智麻呂」の系列に続いて多くの後裔達が登場することになる。
ただ、「永手」の出自は極めて狭い場所であり、果たして名前が示す地形を地図上で確認できるかが課題となろう。少し後に登場する藤原朝臣小依(別名雄依)も併せて彼等の居処を求めることにする。
既出の文字列である家依=谷間にある山稜の端にある三日月の形の麓に豚の口のようになっているところと読み解ける。些か不明瞭ではあるが、その地形を図に示した「鳥養」の南隣に見出せる。
同様に小依=谷間にある山稜の端にある三日月の形の麓に三角に尖っているところと解釈すると、「家依」の南隣に、その地形を確認することができる。別名の「雄依」の「雄」=「厷+隹」=「鳥が羽を広げたような様」であり、図に示した山稜の端を表していることが解る。
纏めると、雄依=鳥が羽を広げたような山稜の端の麓にある三日月の形をしたところとなって、少々大げさな地形象形表記となっているが、間違いではなかろう。彼等は、左大臣となる「永手」の子息として、政権中枢に入って行くことになる。更に後にも娘が登場するが、図が混み入るので、ここでは省略する。
十二月辛夘。右京人外從五位下馬毘登國人。河内國古市郡人正六位上馬毘登益人等卌四人。賜姓武生連。己亥。授從六位下道嶋宿祢三山外從五位下。乙巳。河内國錦部郡人從八位上錦部毘登石次。正八位下錦部毘登大嶋。大初位下錦部毘登眞公。錦部毘登高麻呂等廿六人。賜姓錦部連。辛亥。外從五位下民忌寸総麻呂爲左衛士佐。從五位下漆部直伊波爲右兵衛佐。
上記本文に「右京人外從五位下馬毘登國人」と記載されている。既に登場した時に「馬史(毘登)」一族として出自の場所を求めたが、どうやら現住所は右京だったようである(こちら参照)。
今回は、その出自場所の人々と共に武生連の氏姓を賜ったと述べている。この記述パターンが多く出現しているように思われる。
先ずは益(益)人の地形象形表記を読み解いてみよう。益人=谷間に挟まれた平らに盛り上がった地に谷間があるところと解釈すると、「國人」の奥の谷間一帯に多くの人々の居処があったと推定される。また、「國人」の推定場所の確からしさが高まったように思われる。
武生連の武生=戈のような山稜が生え出ているところと解釈すると、その谷間の南側の山稜を表していることが解る。「馬毘登」一族の中で彼等に賜った氏姓と言うことになろう。
「道嶋宿祢」は、初見であるが、續紀の先読みをすると、陸奥國牡鹿郡を出自とする牡鹿宿祢嶋足(牡鹿連嶋足)が後に賜った氏姓であることが分かった。元々は丸子(無姓)の氏名であって、牡鹿連から牡鹿宿祢と改称して、更に「道嶋宿祢」と名乗ったようである。
「丸子」は、出自場所の地形に忠実な表記なのだが、「牡鹿」は、どう見ても彼等の居処には似付かわしくないと思ったのではなかろうか。度重なる改称には、それなりの理由があったようである。
道嶋宿祢の頻出の文字列である道嶋=首の付け根のように窪んだ地に鳥の形の山稜が延びているところと解釈される。「嶋足」の”鳥”に加えて他に二羽が佇んでいるようにも見える。今回の事変で、従四位下の「嶋足」は勲二等を授与されている。高位を与えられ、更にそれに見合う働きぶりである。そんな背景での本人物の登場となったのであろう。
● 錦部毘登石次・錦部毘登大嶋・錦部毘登眞公・錦部毘登高麻呂(錦部連)
<錦部毘登石次-大嶋-眞公-高麻呂> |
また、聖武天皇紀に錦部安麻呂(無姓)が私穀を献上して、外従五位下を叙爵されたと記載されている。通説では「錦部」は”錦”を織る品部を表すとされ、無姓はその部民であった、とまことしやかに解説されている。
本著も当初は、これに引き摺られて、あらぬ方向に迷い込んだものである。錦部=[錦]の周辺を表す表現である。同祖なのだが、系列が異なるために姓の有無が生じたものと推察される。
と言うことで、「錦部安麻呂」の出自の場所を、「道麻呂」等の「錦」=「現在の幸ノ山」の北麓に対して、南麓と推定した。今回登場の人物は「毘登(史)」姓を持っている。おそらく叙位された後に賜ったのであろう。「安麻呂」及び彼等四人の出自を図に纏めて示した。
❶石次=山麓の小高い地に欠伸をするように谷間が延びているところ
❷大嶋=平らな頂の山稜が鳥のような形をしているところ
❸眞公=谷間にある小高い地が寄り集まって窪んでいるところ
❹高麻呂=皺が寄ったような山稜が[萬]の形になっているところ
南麓一杯に彼等が蔓延っていたことが解る。古事記の「近淡海國」、その当時は墓所であったのが、徐々に、そして着実に開拓されて来た様子が伺える記述であろう。「錦」の西麓の住人も、その内ご登場なされるのかもしれない。
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『續日本紀』巻廿六巻尾