天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(4)
神龜二年(西暦725年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
二年春正月丙辰朔。山背。備前國獻白燕各一。庚午。大初位下漢人法麻呂賜姓中臣志斐連。己夘。有星孛于華蓋。
正月一日、山背・備前國が白燕を各々献上している。”一羽”とは読まない、のである。十五日、漢人法麻呂(中臣部加比に併記)が「中臣志斐連」姓を賜っている。二十四日に華蓋(仏像の頭上にかざす蓋だが、アンドロメダ星雲を示す)に彗星が現れている。
山背國・備前國:白燕
「白燕」献上物語は、文武天皇紀に伊豫國が初めてであった。大騒ぎにはならず、さらりと記載されていた(こちら参照)。続いては左京職(大神朝臣高市麻呂)が献上したと記しているが、烏や鳩と異なるのは、そのスマートな”体形”と思われる。がしかし、如何せん地形的には判別が難しい献上物であったと推測した。
勿論、元号の”神龜”と同じく、地形を動物の姿に模していることには変わりはないようである。そんな背景で、先ずは山背國で、スマートな形をした鳥二羽がくっ付いて並んでいる場所を探すと、図に示した御所ヶ岳山系南麓に見出すことができる。
「燕」として確認された初めての山容であろう。この地は度々登場する筱(佐佐)浪(書紀の天武天皇紀)、あるいは狹々波(同じく孝徳天皇紀)、古事記では佐佐那美と記載された場所に隣接する。現地名は京都郡みやこ町犀川大坂の笹原、松坂川沿いの地である。元正天皇紀に登場した山背甲作客小友ように、交通の要所ではあったが、崖の麓の開拓が進展し、人々住まうことができる環境になったのであろう。
備前國も、既に多くの献上を行って来ているが(赤烏・白鳩を献上、こちら参照)、「燕」は初めてである。上記と同様に探索すると、國境に鎮座していることが解った。崖下の狭い谷間を開拓したのであろう。それぞれ褒賞があったと思われるが、省略されているのではなかろうか。
閏正月己丑。陸奧國俘囚百卌四人配于伊豫國。五百七十八人配于筑紫。十五人配于和泉監焉。壬寅。請僧六百人於宮中。讀誦大般若經。爲除災異也。戊子。夜月犯填星。丁未。天皇臨朝。詔叙征夷將軍已下一千六百九十六人勳位。各有差。授正四位上藤原朝臣宇合從三位勳二等。從五位上大野朝臣東人從四位下勳四等。從五位上高橋朝臣安麻呂正五位下勳五等。從五位下中臣朝臣廣見從五位上勳五等。從七位下後部王起。正八位上佐伯宿祢首麻呂。五百原君虫麻呂。從七位下君子龍麻呂。從八位上出部直佩刀。少初位上紀朝臣牟良自。正八位上田邊史難波。從六位下坂下朝臣宇頭麻佐。外從六位上丸子大國。外從八位上國覓忌寸勝麻呂等一十人並勳六等。賜田二町。
閏正月四日に陸奧國の俘囚(捕虜とした蝦夷)百四十四人を伊豫國に、五百七十八人を筑紫、十五人を和泉監に配置している。十七日に僧六百人を宮中に招き、大般若経を読誦させている。災異を除ける為と記している。三日(日付混乱?)、月が填星(土星)を犯している。
二十二日に征夷將軍以下の千六百九十六人に勳位をそれぞれ授けている。藤原朝臣宇合に從三位勳二等、大野朝臣東人に從四位下勳四等、高橋朝臣安麻呂(若麻呂、父親笠間に併記)に正五位下勳五等、中臣朝臣廣見(兄の東人に併記)に從五位上勳五等、「後部王起」・佐伯宿祢首麻呂(智連に併記)・「五百原君虫麻呂」・「君子龍麻呂」・「出部直佩刀」・「紀朝臣牟良自」・田邊史難波(史部虫麻呂に併記)・坂下朝臣宇頭麻佐(坂本朝臣宇豆麻佐)・「丸子大國」・國覓忌寸勝麻呂(八嶋に併記)等の十人に勳六等を授けている。またそれぞれに田二町を賜っている。
● 五百原君虫麻呂・君子龍麻呂
淡海に面する地を出自に持つ命は、書紀にとっては”迷惑”なのである。おそらく、様々に試みた結果、無視することになったと憶測される。
ともあれ、蟲=山稜の端が細かく三つに岐れた様の麻呂の居処を求めると、図に示した辺りかと思われる。現在は広大な住宅地に開発されて、当時の地形を伺うには、些か難があるが、辛うじて読み解くことができたようである。
君子は、少し前に君子尺麻呂が登場していた。その君子が延びた先が二股に岐れ、龍の頭部と見做したのではなかろうか。また、近隣には丈部路忌寸一族が蔓延っていたことも既に読み解いたが、煩雑を避けて図への記載は控えた。
● 紀朝臣牟良自
頻出の紀朝臣一族であるが、系譜は知られていないようである。と言うことで、名前から出自の場所を求めることになる。
名前で用いられる牟=二つの谷間が寄り集まった様であり、「牛」の古文字の頭部がそれを表していると解釈される。
良=なだらかな様、自=鼻=端とすると、図に示した場所がこれらの地形要素を満たしていることが解る。前出の紀朝臣一族の南側であり、未だ登場していなかった場所である。
別名に武良士があったと知られている。武=止+戈=山稜が戈のような様であり、士=之=蛇行する川を表すとすると、申し分なく同一の地形を示していると思われる。
<出部直佩刀> |
● 出部直佩刀
「出部直」の出自は、全く不詳のようである。これだけ情報が欠落している人物も珍しいかもしれない。まるで〇〇王並みの扱いであろう・・・と拗ねてみても致し方なし故に、これまでの登場人物の傾向から類推してみることにした。
陸奥國方面の蝦夷討伐に参加したのだから、上記の五百原君蟲麻呂や君子龍麻呂と並ぶ地域からと仮定して、「出」の解釈を行った。
「出」=「止+凵」と分解して、箱(凵)から足を出す様を象った文字と知られている。正に文字形そのものとなり、地形象形していると解釈できる。すると、五百原君蟲麻呂の西側、周芳國(天武天皇紀に赤龜献上の記事あり)の山稜の三つの端がそれを示していることが解る。
「佩」=「人+凡+巾」と分解される。それを地形象形表現とすると「佩」=「[凡]の形の谷間が広がっている様」となる。古事記の天津日子根命が祖となった凡川內國造などで用いられていた「凡」の解釈である。續紀はそれを引き継いで凡河内忌寸石麻呂を登場させている。
纏めると佩刀=[凡]の形の谷間が広がり刀の形の山稜が延びているところと読み解ける。おっかなびっくりで探し求めた場所であるが、文字が示す地形を充分に満たす地であることが解った。些細なことだが、確かに「出」の近辺であり、「出部」の表記は的を得たものであろう。
● 丸子大國
「丸子(氏)」の出自を調べると、様々に伝えられていることが分るが、中でも紀伊國あるいは信濃國に関連が深い氏族であったようである。
紀伊國(北九州市門司区恒見・小倉南区吉田)で「丸」を頼りに少し探索すると、前記の韓鍛冶杭田の出自場所と被る地にそれらしき場所を見出せる。
一方、信濃國に目をやると、谷間の奥に「丸」の存在を確認することができる。丸子=丸の形の山稜の端が生え出たところと解釈される。大國=平らな頂の麓の地とすると、名前が示す地形要素を満たす場所であることが解った。極めて明確な「丸」の地形からして、ほぼ間違いのないところと思われるが、更に調べると・・・。
Wikipediaに「丸子氏」は・・・尾張氏や物部氏と同じ”高倉下”の末裔という伝承もある・・・と記載されている。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が熊野山中で彷徨した…此時、熊野之高倉下此者人名賷一横刀…で登場した人物である(こちら参照)。書紀では、その場所を『壬申の乱』で村國男依が近江直入を果たした倉歷道と記載していた。
図に示した通り、信濃國の谷奥にある「丸」は、「熊野之高倉下」の谷間の北側に位置することが解る。「熊野」を省いてはならない。”高倉下”の本貫の地は、「熊野」なのである。尾張氏・物部氏は、同じ貫山(古事記の伊服岐能山)山塊に属する地(尾張:北麓、物部:西麓)であることも加えて、”伝承”が垣間見せる古代の”真実”のように思われる。
● 後部王起 元明天皇紀に「後部王同」が登場していた(こちら参照)。「後部」、「前部」は高麗の地域名称であり、百濟王とは異なり元の名前を踏襲して、倭名を持っていなかったのであろう、と推測したが、変わりないようである。
三月庚子。常陸國百姓。被俘賊燒。損失財物。九分已上者給復三年。四分二年。二分一年。
夏五月甲辰。遣新羅使土師宿祢豊麻呂等還歸。
六月丁巳。和徳史龍麻呂等卅八人。賜姓大縣史。癸酉。太白晝見。
三月十七日に常陸國の百姓で、一旦帰順した蝦夷等の反乱で家を焼かれ、財産を九分以上損失した者には三年間、四分以上の者には二年間、二分以上の者には一年間の租税負担を免除している。
五月二十二日に遣新羅使の土師宿祢豊麻呂(大麻呂に併記)等が帰還している。
六月六日に「和徳史龍麻呂」等三十八人に「大縣史」姓を授けている。二十二日、太白(金星)が昼間に見えている。
● 和徳史龍麻呂(大縣史)
書紀の孝徳天皇紀に闕名で「和德史」のみで登場していた。阿曇連(後に宿禰)に関わる地が居処として読み解いた(こちら参照)。残念ながら採石場となっていて、詳細は不明であった。
今回は名前も記載され、新しく姓も授かっていて、情報豊かになっている。更に国土地理院年代別航空写真も活用できるので、何とか詳細を突き止めてみよう。
すると、実に鮮やかに龍麻呂の出自の場所を求めることが可能となったようである。採石によって重要な山稜が削られ、辛うじてその端が伺える程度の状態であることが判る。
図に示したように山稜の端が二股に岐れたところを龍の頭部に見立てた表記であろう。それが解ると、「和德史」の德=彳+直+心=四角く取り囲まれた様の場所が龍の胴体部分の脇にあることが確認される。そして和=禾+囗=しなやかに曲がる様、史=中+又=山稜が真ん中を突き通す様も明確になったと思われる。
また、書紀の皇極天皇紀に阿曇山背連比良夫が登場していたが、その出自の場所もはっきりと定めることが叶った、と思われる。元資料の修正を行わず、そのままとしておこう。忘れるところであったが、大縣は阿曇の「雲」を表していると思われる。
秋七月丙戌。河内國丹比郡人正八位下川原椋人子虫等卌六人賜河原史姓。戊戌。詔七道諸國。除寃祈祥。必憑幽冥。敬神尊佛。清淨爲先。今聞。諸國神祇社内。多有穢臭。及放雜畜。敬神之礼。豈如是乎。宜國司長官自執幣帛。愼致清掃。常爲歳事。又諸寺院限。勤加掃淨。仍令僧尼讀金光明經。若無此經者。便轉最勝王經。令國家平安也。壬寅。以伊勢尾張二國田。始班給志摩國百姓口分。
七月五日に「河内國丹比郡」の人、「川原椋人子虫」等四十六人に「河原史」姓を授けている。
十七日に七道諸國に対して以下のように詔されている。概略は、寃(無実の罪、あだ)を除き幸いを祈るには必ず幽冥(神秘的な力)を頼りにとし、神を敬い仏を尊ぶには清浄なことを第一とする。しかるに今聞くところによれば、天神・地祇を祀る諸國の神社内には多くの穢れた悪臭があり、また各種の家畜を放飼いにしていると言う。神を敬うための礼儀が、このようでは良い筈がない。これ以後は國司の長官が自ら幣 を神に捧げ、謹んで清掃を行い、それを年中行事とせよ。また諸寺院の境内は勤めて払清めよ。その上で僧尼に金光明経を読ませよ。その経がなければ最勝王経を転読させて国家を平安にさせよ、と述べている。
二十一日に伊勢・尾張二國の田を志摩の民に口分田として班給(分け与える)している。志摩國では、人口増加に対して稲作の用地が少なったから、であろうか・・・地形的には、それが最もらしい理由のように思われる。何らかの災害があったのかもしれないが・・・。
伊勢は近接していて問題ない距離であるが、尾張は?・・・意外なようであるが、最近接ではおよそ3km程度、与えられた口分田に通えるように思われる。いずれにしても全体的に耕地不足の状況に進んでいたことを暗示している、と感じられる。
「河内國丹比郡」は、文武天皇即位四(700)年三月に「三月己未。道照和尚物化。天皇甚悼惜之。遣使弔賻之。和尚河内國丹比郡人也」の記事で記載されていた。道照和尚の俗性は船史であることから、この郡は、現在の京都郡みやこ町勝山大久保と推定した。
「椋」=「木+京」=「山稜が大きな高台になている様」と解釈される。すると、「船連」一族の更に先、地図では北側の山稜を表していると思われる。「人」=「谷間」であり、纏めると椋人=山稜が大きな高台になっている地の谷間と読み解ける。
更に子虫(蟲)=生え出た山稜の端が三つに岐れているところとなる。図に示した場所がこの人物及び一族の出自と推定される。残念ながら「蟲」の地形を詳細には確認することは叶わないようであるが・・・。
賜った「河原史」姓については、元の「川原」ではなく、河=氵+可=川が谷間から流れ出ている様であり、河口付近の場所を示していることが解る。より正確な表記に変えている、と思われる。尚、史=中+又=山稜が真ん中を突き通すような様である。
直ぐ後に、行いが悪く官職位階を取り上げられた人物、川原史石庭が登場する。具体的な悪さは記載されないが、相当のものだったのであろう。石庭=山稜の麓が平らに広がったところと解釈する。「子虫」の山稜の端で平らに広がった場所と推定される。谷間の出口ではないから「川原」としたのであろう。
九月壬寅。詔曰。朕聞。古先哲王。君臨寰宇。順兩儀以亭毒。叶四序而齊成。陰陽和而風雨節。災害除以休徴臻。故能騰茂飛英。欝爲稱首。朕以寡薄。嗣膺景圖。戰戰兢兢。夕惕若厲。懼一物之失所。眷懷生之便安。教命不明。至誠無感。天示星異。地顯動震。仰惟。灾眚責深在予。昔殷宗脩徳消雊雉之寃。宋景行仁。弭熒惑之異。遥瞻前軌。寧忘誠惶。宜令所司。三千人出家入道。并左右京及大倭國部内諸寺。始今月廿三日一七日轉經。憑此冥福。冀除災異焉。
九月二十二日に次のように詔されている。概略は、聞くところに依れば、昔の賢明な王は、天地に従って民を育て養い、四季の秩序に応じて民を平等に治めている。陰と陽が調和して風雨に節度があるので災害も起こらなかった。朕は德が少なく才能も薄いままに皇位を受け継いだが、恐れおののいて夕べになるとその日に過失がなかった憂え危うく思っている。一物でもあるべき所を失わないようにし、生命あるものが安らかであるように注意を払っている。しかるに真の心を尽くしても感応することなく、天は星の運行の異常を示し、地は震動している。このような災いの責任は全く朕にある。殷の高宗は德を修め、宋の景公は仁政を行っている。よって所司に命じて三千人を出家入道させ、同時に左右京及び大倭國の官内の諸寺院において、今月二十三日より七日の間経典を転読させよ。この奥深い善行によって災害を除きたい、と述べている。
冬十月庚申。天皇幸難波宮。辛未。詔近宮三郡司授位賜祿各有差。國人少初位下掃守連族廣山等除族字。己夘。晝太白与歳星芒角相合。
十月十日に「難波宮」に行幸されている。孝徳天皇の難波長柄豐碕宮(現地名行橋市西谷)跡地である。二十一日に難波宮近辺の三つの郡司に、それぞれ位を授け禄を与えている。また國の人、「掃守連族廣山」等の姓から「族」の字を除かれている。二十九日、昼に太白(金星)と歳星(木星)の延び出た光の先が互いに合わさった、と記している。
● 掃守連族廣山
「掃守連」の出自は、孝徳天皇紀に登場し、河内國、現地名の京都郡みやこ町勝山浦河内と推定した(こちら参照)。
「掃」=「手+帚」、「守」=「宀+寸」とそれぞれ分解して、掃守=腕のような山稜が延びて箒のようになっている先で肘を張ったような山稜に囲まれたところと読み解いた。
その「族」と名付けられ、「國人」と記載されていることから、出自は上記の場所で現住所が難波宮の近辺か?…と、一見、解釈できるような記述である。
しかしながら、「姓」は授けられるものであって、出自に基づいて名乗った以上、「族」は付加されない筈である。即ち、現在の「族」の解釈ではなく、「掃守連」の地形と”同じ仲間”の場所とするのではなかろうか。合致するする地形で求めたところを図に示した。孝徳天皇紀に多くの離宮・行宮が設けられたが、この場所は空白であった。
名前の廣山も、その際立った地形を実に的確な表現していると思われる。既に述べたように續紀は、地形に基づいて重複する名称を用いている。例えば、伯耆國、伊豫國、大隅國などが登場した時に考察した通りである。「族」を取り除けば「掃守連」そのものとなるが、それを良しとする記述方針と推測される。人名・地名の名付けが大きく変貌しつつあることを告げているように思われる。
十一月己丑。天皇御大安殿。受冬至賀辞。親王及侍臣等奉持奇翫珍贄。進之。即引文武百寮五位已上及諸司長官。大學博士等。宴飮終日。極樂乃罷。賜祿各有差。▼是日。大納言正三位多治比眞人池守賜靈壽杖并絁綿。」中務少丞從六位上佐味朝臣虫麻呂。典鑄正六位上播磨直弟兄並授從五位下。弟兄初齎甘子從唐國來。虫麻呂先殖其種結子。故有此授焉。
十一月十日に天皇は大安殿に出御して冬至の賀辞を受けている。親王や侍臣等は珍しく稀ななぐさみものや食物を持参し、進上している。そこで文武の諸々の役所に勤める五位以上の官人及びそれ以下の諸官司の長官や大学の博士等を召して終日酒宴を開き、歓楽を尽くして終えている。またそれぞれに禄を賜っている。
この日、大納言の多治比眞人池守に霊寿の杖と絁・真綿を与えている。また中務少丞の「佐味朝臣虫麻呂」と典鋳正の「播磨直弟兄」に従五位下を授けている。「弟兄」は、初めて甘子(柑橘類の一種)を唐から持ち帰り、「虫麻呂」は真っ先にその種を植えて結実させている。
● 佐味朝臣虫麻呂
「佐味朝臣」一族もそれなりに人材を登場させている。宿那麻呂等、現地名の築上郡上毛町東下辺りを出自の場所と推定した。と言うことで、虫(蟲)麻呂の出自を簡単に求めらると思ったら、意外にも蟲=山稜の端が三つに細かく岐れている様が見出せなかった。
この地もかなり後代に手が加えられているようで(現在はメガソーラー用地、痛し痒しである)、早速、国土地理院航空写真で、それ以前の山容を見極めることにした。
すると整地される以前では「蟲」の地形を有していた場所が確認された。かなり広範囲に山稜が削られたように思われるが、1961~9年の写真から、その変容の有様を知ることができる。
ついでながら、後に佐味朝臣稻敷・佐味朝臣足人・佐味朝臣廣麻呂・佐味朝臣乙麻呂が登場する。既出の稻=禾+爪+臼=三つの山稜が窪んだ地に延びている様と解釈したが、現在は平山池となっているが、敷=平らに広がった様だったのではなかろうか。
幾人かが登場している、足人=長くなだらかな山稜が谷間に延びているところと解釈される。「賀佐麻呂」の西側の山稜を示していると思われる。廣麻呂は、宿奈麻呂の南側、山稜の端が広がった場所が出自と思われる。最後の乙麻呂は、「乙」の字形に谷間が延びているところが出自と推定される。まだまだ途切れることなく、この地から人材供給されるようである。
● 播磨直弟兄
「播磨」は、播磨國の「播磨」ではない。何故なら國全体を表す筈もなく、また「朝臣」姓を持つ人物も登場しているわけだから今更「直」と名乗る筈もない、と考えるが、では一体何処の場所を示しているのであろうか?・・・。
古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が娶った針間之伊那毘能大郎女の出自の場所と思われる。吉備國に向かう、針のような隙間の谷間を表していた。この「針間」→「播磨」と書き換えているのである。
その地を拡大表示すると、見事に、兄=谷間の奥が広がっている様の地形を見出すことができる。そして、その谷間が弟=ギザギザとしている様が確認できる。何とも奇妙な名前であるが、地形に忠実に表現したら、こうなってしまった、のであろうか。播磨直乙安と名乗る人物と同一、もしくは兄弟ではないか、と言われているようだが、ほぼ間違いなく同一人物と思われる。
續紀は古事記の表記である「針間」を用いていない。「吉備國」に接する地を「播磨國」とするためにだったのであろう。播磨=山稜が広がり延びて擦り潰されたような平らなところは、「針間」ではなく、伊那毘=谷間で区切られた山稜がなだらかに延びた傍らに窪んだ地が並んでいるところの地形を表している。國別配置が関われば續紀も慎重に文字を選択しているように思われる。
十二月庚戌朔。日有蝕之。庚午。詔曰。死者不可生。刑者不可息。此先典之所重也。豈無恤刑之禁。今所奏在京及天下諸國。見禁囚徒。死罪宜降從流。流罪宜從徒。徒以下並依刑部奏。
十二月一日に日蝕があったと記している。十二月二十一日に以下のように詔されている。概略は、死んだ者は生き返ることができないし、刑に処せられた者は二度と息をすることはできない。これは古典が重要なこととしたところである。刑の厳しい執行を禁じることにする。今、奏状に見える在京及び天下諸國に現在禁獄されている囚徒のうち、死罪の者は流罪に、流罪は徒罪に減刑せよ。徒罪以下の者については刑部省の奏状によって刑を行うようにせよ、と述べている。