天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(3)
神龜元年(西暦724年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
秋七月戊午朔。日有蝕之。庚午。夫人正三位石川朝臣大蕤比賣薨。遣從三位阿倍朝臣廣庭。正四位下石川朝臣石足等。監護葬事。又遣中納言正三位大伴宿祢旅人等。就第宣詔。贈正二位。賻絁三百疋。絲四百絇。布四百端。丁丑。自六月朔。至是日。熒惑逆行。
八月丁未。以從五位上土師宿祢豊麻呂爲遣新羅大使。
七月一日に日蝕があったと記している。十三日、夫人の石川朝臣大蕤比賣(天武天皇の石川夫人、父親は蘇我赤兄大臣、穂積皇子の母親)が亡くなっている。阿倍朝臣廣庭(首名に併記)・石川朝臣石足等を遣わして葬儀を執り行わさせている。大伴宿祢旅人等を遣わして詔を宣べて正二位を追贈し、絁三百疋などを贈っている。二十日、六月一日よりこの日まで火星の運行が逆になっている。
八月二十一日に土師宿祢豊麻呂(大麻呂に併記)を遣新羅大使に任じている。
冬十月丁亥朔。治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。伏聽天裁。詔報日。白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。尋問難明。亦所司記注。多有粗略。一定見名。仍給公驗。辛夘。天皇幸紀伊國。癸巳。行至紀伊國那賀郡玉垣勾頓宮。甲午。至海部郡玉津嶋頓宮。留十有餘日。戊戌。造離宮於岡東。是日。從駕百寮。六位已下至于伴部。賜祿各有差。壬寅。賜造離宮司及紀伊國國郡司。并行宮側近高年七十已上祿。各有差。百姓今年調庸。名草海部二郡田租咸免之。又赦罪人死罪已下。名草郡大領外從八位上紀直摩祖爲國造。進位三階。少領正八位下大伴櫟津連子人。海部直土形二階。自餘五十二人各位一階。又詔曰。登山望海。此間最好。不勞遠行。足以遊覽。故改弱濱名。爲明光浦。宜置守戸勿令荒穢。春秋二時。差遣官人。奠祭玉津嶋之神明光浦之靈。」忍海手人大海等兄弟六人。除手人名。從外祖父外從五位上津守連通姓。丁未。行還至和泉國所石頓宮。郡司少領已上給位一階。監正已下至于百姓。賜祿各有差。己酉。車駕至自紀伊國。乙夘。散位從五位下息長眞人臣足任出雲按察使。時贖貨狼籍。惡其景迹。奪位祿焉。
十月一日に治部省が以下のように奏言している。概略は、京及び諸國の僧尼の名籍を調べると、出家した当初について弁明できない者があり、名は僧綱所の帳簿にありながら太政官保管の名籍に落ちている者もあり、顔形にほくろがあると記しながら、最早該当しない者などがあって、それらが合わせて千百二十二人になる。格式に従って推量すれば公験(証明書)を支給すべきなのだが、処分の仕方が判らない。天皇の裁定を仰ぎたく思う、と述べている。
これに対して、次のように詔されている。白鳳以来、朱雀以前のことは、遥かに昔のこととなるので明らかにすることは困難である。また役所の記録も粗略な部分もある。よって全て現在の僧尼の名をもって確定し、それに基づいて公験を支給せよ、と述べている。
十月五日に紀伊國に行幸されている。七日、紀伊國那賀郡(文武天皇紀に奈我郡と表記)の「玉垣勾頓宮」に到着している。八日に「海部郡」の「玉津嶋頓宮」に至り、十日余り留まったと記している。十二日、「離宮於岡東」を造っている。この日、行幸に随った官人の六位以下、伴部に至るまで、それぞれ禄を与えている。
十六日に造離宮司及び紀伊國の國郡司、更には行宮付近の七十歳以上の高齢者にそれぞれ年齢に応じて禄を与えている。民の今年の調・庸、名草・海部二郡の田租を全て免除している。名草郡の大領の「紀直摩祖」を國造に任じ、位を三階昇進させている。少領の「大伴櫟津連子人」と「海部直土形」には二階、その他の五十二人には一階昇進させている。
また以下のように詔されている。概要は、山に登って海を見ると、この辺りが最も景色が良い。わざわざ遠出をしなくとも遊覧するには十分である。故に「弱浜」という名前を改めて「明光浦」とし、守戸を設置して荒れたり汚れたりしなようにせよ。また春と秋の二回、官人を遣わして「玉津嶋」の神である「明光浦」の靈に物を供えて祀るようにせよ、と述べている。この日、「忍海手人大海」等兄弟六人について手人の名称を除き、外祖父である津守連通の姓に従わせている。
二十一日に和泉國の「所石頓宮」に帰り至っている。郡司・少領以上に一階昇進させている。また、監正以下百姓にそれぞれ禄を与えている。二十三日に紀伊國より帰着している。二十九日、散位の息長眞人臣足が出雲按察使に任じられた時に濫りに不正な財物を取った故に、その行状を咎めて位禄を与えないことにしている。
紀伊國:那賀郡-玉垣勾頓宮・海部郡-玉津嶋頓宮
<紀伊國:那賀郡-玉垣勾頓宮/海部郡-玉津嶋頓宮> |
紀伊國の各郡については、既に纏めて述べたが、その中の奈我郡をここでは那賀郡と表記しているのであろう。那賀=なだらかに押し広げられた谷間としての別名として受け入れられる名称と思われる。
玉垣勾頓宮の玉垣=玉のような山稜に囲まれたところと解釈する。古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の師木玉垣宮で用いられた表記である。
更に勾=山稜が曲がって延びている様であり、この頓宮の場所は、かなり高い精度で求めることができ、図に示した「那賀」の谷間の出口辺りと推定される。
車駕は更に進んで海部郡にあった玉津嶋頓宮に向かっている。海部はそのまま読んで海辺の郡であろう。
また、持統天皇紀に登場した阿古志海部河瀬麻呂の居処を求めた際に海=氵+每=水辺で両手で抱えるような様の地形とした。図に示した範囲の郡であったと思われる。当初は牟婁郡に含まれるような解釈としたが、修正せずにそのまま引用する。
するとこの郡の中央付近に、当時は海に囲まれた島状であったと推測される丸く小高い地(玉)が見当たる。この地に玉津嶋頓宮があったと推定される。津=氵+聿=水辺で山稜が筆のように延びている様と解釈すると、その東側の山稜を表していると思われる。そしてこの「津」は、持統天皇が行幸された阿胡行宮があった場所と推定した。離宮於岡東は、「行宮」及びその東側を含めた地に造営されたのであろう。尚、岡=网+山=山稜に囲まれた山であり、通常の意味とは異なっていることも重要である。
弱濱・明光浦
さて、少し後に天皇の詔の中で、この地は弱浜(濱)と言うが、遠望するには最適な場所である。それ故に明光浦と名付ける、と述べられている。「弱」=「弜+彡+彡」と分解される。ピンと張った弓ではなく、弛んだ状態を表す文字と知られる。地形象形的には、弱=弓の糸が弛んだような谷間の川が並んでいる様を表すと読み解く。古事記の穴穗命(安康天皇)紀に登場した目弱王に用いられていた。図の「津」の脇を流れる川に注目した名称であろう。
幾度か登場に明=日+月=日(太陽)と月の形がある様と解釈したが、図に示した弱浜の出口で東西に並んでいる地形を示していると思われる。「月」は三日月ではなく、文字形そのものとしている。光=火+儿=[火]の形をした大きな谷間と解釈すると、浜の全体を表していると思われる。流石に天皇の名付けは、少々凝っている、かもしれない。
通説では、弱浜(ワカノハマ)・明光浦(アカノウラ)は、和歌浦を示すそうである。風光明媚な景観を眺めるための行幸だった、のではない筈だが、後に考察してみよう。
● 紀直摩祖・大伴櫟津連子人・海部直土形
行幸に伴う租税免除及び位階の昇位などが記載され、幾人かの登場人物が見られる。紀直摩祖を大領から國造としているが、実に古くから開けた地にしては、この人物の出自が余り明確ではなかったのかもしれない。
摩祖=山稜の端が細かく岐れて段々に積み重なったところと解釈される。日前神・國縣神の鎮座する場所と思われる。紀直=曲がりくねった尾根から山稜が真っ直ぐに延びたところと読めそうである。大領の場所として申し分のないところであろう。
少領の大伴櫟津連子人は東側の山稜が跨ぐように延びている谷間を大伴と見做していると思われる。古事記の倭建命が甲斐國酒折宮へと抜けた峠道と推定した場所である。
「櫟」=「木+樂」=「丸く小高く地が連なっている様」、上記の「津」=「水辺で山稜が筆のように延びている様」とすると、櫟津=水辺で山稜が筆のように延びた先で丸く小高い地が連なっているところと読み解ける。国土地理院航空写真(1945-50年)を参照すると、その地形を確認することができる。子人=谷間に山稜が生え出ているところと解釈される。図中、赤破線円で示したが、「摩祖」の地は既に大きく変化していることが解る。
海部直土形の出自の場所は、紀伊國海部郡で求めた。図に示した辺りと思われるが、後に採石場となったようで、国土地理院航空写真(1945-50年)(こちら参照)から、海部の地で土形=大地が井形に窪んでいるところの地形らしく見えるが、些か不鮮明である。一つの候補としておこう。
さて、今回の行幸の目的は何であったのだろうか?…それは、前記で海道蝦夷が謀反を起こし、陸奥國の大掾の佐伯宿祢兒屋麻呂(豊人に併記)を殺害する事件が発端と思われる。その後討伐隊を送ると共に坂東九國の兵士の軍事訓練を行っている。陸奥國周辺の地が海賊に脅かされている状況なのである。
上記の「明光浦」は、北方が開けた湾であって、背後の山からは下・上野國、常陸國、石城國、陸奥國が見渡せる位置にある。直線距離2km以下で対岸の海辺の状況を知ることができる場所なのである。それを「不勞遠行。足以遊覽」と表現している。
”遊覧”は、勿論、のんびり見物するのではなく、”見回る”の意味である。観光名所として有用な地ではなく、軍事拠点として重点整備すべき場所とした、と續紀は告げている。東北の脅威に対して、西南の地の出来事を述べているのでは決してない。歴代の天皇は、そんな呑気なお方ではない、筈であろう。
● 忍海手人大海
すると、海=氵+每の地形で示した場所が、現在の標高で約8m前後であり、汽水の状態であったと推測される。地形的な変化は少ないが、山林の状態は大きく異なっていたように思われる。
「津守連通」が陰陽師としての名声が高まって来たことも改姓が許された一因かもしれない。また、前記で忍海手人廣道が「久米直」姓を賜ったりしているが、全体的な流れだったように思われる。
<和泉國:所石頓宮> |
和泉國:所石頓宮
帰路の途中で和泉國に立ち寄っている。その宮が所石頓宮と記載している。郡司等を昇位させているのだから、何らかの行幸への寄与があったのであろう。
先ずは、この頓宮の場所を求めてみよう。「所」は、見慣れた文字であるが、初出かもしれない。「所」=「戸+斤」と分解する。そのまま読めば「戸が斧の形している様」となるが・・・そのまんまの表記であった。
所石=崖下の地が斧の形した戸のようになっているところと読み解ける。和泉國の名称の由来の地、その窪んだ地の扉の役目をしている山稜を表していることが解る。頓宮は、おそらく、図に示した辺りにあったのではなかろうか。
本文の日程を改めて見ると、二十一日に所石頓宮着、褒賞授与などを行って、二十三日に平城宮に帰着となっている。往復の全行程を纏めて、今回の行幸を眺めてみよう。
現在の地図では、この頓宮の場所は内陸部に入り込んでいるが、既に述べたように近淡海の長江がすぐそこにまで達していたと推測した(およそ2km)。和泉國は入江に面した國だったわけである。
海路約20kmを経て到着した紀伊國名草郡が次の目的地である那賀郡の玉垣勾頓宮及び海部郡玉津嶋頓宮への手配を担ったと思われる。当然ながら驛馬の如くにそれぞれの担当区間を行き来することになる。
この区間は、持統天皇が阿胡行宮に行幸した行程であり、その時に山越えの道が整備されたのであろう。また、途中の文武天皇が行幸した武漏郡(牟婁郡)、かつては武漏温泉で一休みの風情であったが、今回の目的は、明確であって、素通りの様相である。
現在から見ても極めて合理的な行程であり、それには各地の交通網が発達して来た様子が伺える記述と思われる。ところで所石頓宮から平城宮の距離は、本文の記述に従うと、ほぼ一日(おそらく半日程度)であったと思われる。図に示した通り、約12km(味見峠・五徳越峠を経由する最短を選択)であり、無理のない配置であろう。
通説を引っ張り出すと、所石頓宮は、現在の大阪府高石市取石にあったとされる。そこから平城宮までは45km前後であり(最短ルート)、所要日数は一日半から二日となろう。紀伊國の海部・名草郡同様に、しっかりと褒賞するに値する、この迂回の行程の目的は何であったのか?…天皇の気紛れとでも言うのであろうか・・・。
地図を眺める限りにおいて、奈良盆地の南から紀ノ川沿いに下るルートが素直である。海部郡を名草郡の海辺とされ、陸路で玉津嶋頓宮に向かうなら、都合よしであろう。いずれにせよ牟婁郡も含めて紀伊國内の”再配置”は、かなり乱暴な結果となっているようである。
十一月甲子。太政官奏言。上古淳朴。冬穴夏巣。後世聖人。代以宮室。亦有京師。帝王爲居。万國所朝。非是壯麗。何以表徳。其板屋草舍。中古遺制。難營易破。空殫民財。請仰有司。令五位已上及庶人堪營者搆立瓦舍。塗爲赤白。奏可之。辛未。遣内舍人於近江國。慰勞持節大使藤原朝臣宇合。己夘。大甞。備前國爲由機。播磨國爲須機。從五位下石上朝臣勝男。石上朝臣乙麻呂。從六位上石上朝臣諸男。從七位上榎井朝臣大嶋等。率内物部。立神楯於齋宮南北二門。辛巳。宴五位已上於朝堂。因召内裏。賜御酒并祿。壬午。賜饗百寮主典已上於朝堂。又賜无位宗室。諸司番上及兩國郡司并妻子酒食并祿。庚申。召諸司長官并秀才及勤公人等。賜宴於中宮。賜絲各十絇。乙酉。征夷持節大使正四位上藤原朝臣宇合。鎭狄將軍從五位上小野朝臣牛養等來歸。
十一月八日に太政官が以下のように奏言している。概略は、大昔は淳朴で冬になると土中に居室を造り、夏になると樹上を住処とした。後の時代の聖人は、代わりに宮室を造り、また京師を造って帝王はそれを住居とした。万国の使者が参朝するところは壮麗にして帝王の徳を表している。今、平城宮周辺に建ち並ぶ板屋や草葺きの家は昔ながらのつくりで、造営が難しい上に壊れやすいため民の財産を使い尽くす結果になっている。そこで五位以上の官人や庶民の中で造営する力がある者には、瓦葺の家屋を建て、赤や白の色を塗らせるように指示させたい、と述べ、許されている。
十五日に内舎人を近江國に遣わして、持節大使の藤原朝臣宇合を慰労している。四月七日に海道蝦夷の討伐に派遣されていた。二十三日に大嘗祭を行っている。備前國を由機(大嘗祭の時に新穀を奉じる第一の國)、播磨國を須機(同左第二の國)としている。石上朝臣勝男(物部朝臣堅魚)・石上朝臣乙麻呂・石上朝臣諸男・「榎井朝臣大嶋」等が内物部(参考資料では衛門府に属し警察事務を担当とされているが、物部本家ぐらいか?)を率いて神楯を齋宮の南北二門に立てている。
二十五日、五位以上の官人と宴会をし、内裏に招いて御酒と禄を賜えている。二十六日に百寮の主典以上の者と朝堂にて饗宴し、無位の皇族、諸司の番上(交替で官衙に出勤する者)及び由機・須機の國郡司並びに妻子に酒食と禄を与えている。二十九日、征夷持節大使の藤原朝臣宇合、鎭狄將軍の小野朝臣牛養(毛野に併記)等が帰朝している。
● 榎井朝臣大嶋
「榎井朝臣」姓を持つ人物は、概ね山稜の端、現在の東谷川沿いに広がって来た。希少な人物として、文武天皇紀に谷奥が出自と推定された榎井連弄麻呂が、やはり同じく朝臣姓を賜ったと記載されていた。
大嶋に含まれる頻出の大=平らな頂の山稜と解釈したが、「榎井」の地で「大」の地形を見出すことは叶わないようである。この「大」は吉野の台地(現平尾台)の縁にある山稜を表していると思われる。すると、崖下の谷間に、嶋=山+鳥=鳥の形らしき山稜を見出すことができる。
史上、類稀な位置付けの物部一族、彼等は皇統に絡むことなく、その道一筋に天皇家に仕えた一族であったが、その後に歴史の表舞台から遠ざかったようである。それは各地に拡散したのではなく、本貫の地(現地名北九州市小倉南区井手浦)を離れれなかったからであろう。續紀は、ひょっとしたら、それを伝えているかもしれない。