天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(2)
神龜元年(西暦724年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
三月庚申朔。天皇幸芳野宮。甲子。車駕還宮。辛巳。左大臣正二位長屋王等言。伏見二月四日勅。藤原夫人天下皆稱大夫人者。臣等謹検公式令。云皇太夫人。欲依勅号。應失皇字。欲須令文。恐作違勅。不知所定。伏聽進止。詔曰。宜文則皇太夫人。語則大御祖。追收先勅。頒下後号。壬午。始置催造司。庚申。定諸流配遠近之程。伊豆。安房。常陸。佐渡。隱岐。土左六國爲遠。諏方。伊豫爲中。越前。安藝爲近。甲申。令七道諸國依國大小。割取税稻四万已上廿万束已下。毎年出擧。取其息利。以充朝集使在京及非時差使。除運調庸外。向京擔夫等粮料。語在格中。陸奧國言。海道蝦夷反。殺大掾從六位上佐伯宿祢兒屋麻呂。
三月一日~五日に芳野(吉野)宮に行幸されている。二十二日に左大臣の長屋王等が以下のように奏言している。二月四日の勅で藤原夫人を大夫人と称せとあるが、公式令を調べると、天皇の母で夫人の地位にあった者は皇太夫人となっていて、皇の字が欠けることになる。伏してご判断を仰ぎたい、と述べている。これに対して、以下のように詔されている。文にする時は皇太夫人とし、口頭では大御祖(オオミオヤ)とし、先勅を撤回して、天下に頒ち下せ、と述べられている。
二十三日に初めて催造司を置いている。庚申(三月一日、挿入箇所の誤りか?)に流罪人の配流地の遠近の程度を次のように定め、伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土左の六ヶ國を”遠”、諏方・伊豫を”中”、越前・安藝を”近”とする、と記している。明らかに後の國別配置を意識したものであろう。ただ、「伊豫」を”中”とするなら、「安藝」の”近”は些か違和感がある。”庚申”の日付は、怪しさを暗示する編者の故意かもしれない。いずれにせよ、續紀の國別配置については、後日纏めて述べてみようかと思う。
二十五日に七道諸國に命じて國の大小に従って正税稲として四万束以上二十万束以下を割き取らせ、毎年出挙を行って利息を取り、それを在京の朝集使及び臨時に発遣する使者、それから調・庸以外の物資を京に運送する人夫等の食料に充てさせた。詳細は挌に定める。この日、陸奥國が以下のように言上している。海道蝦夷が反乱を起こし、大掾(國司四等官)の佐伯宿祢兒屋麻呂(豊人に併記)を殺した、と述べている。
夏四月庚寅朔。令七道諸國造軍器幕釜等。有數。壬辰。陸奧國大掾佐伯宿祢兒屋麻呂贈從五位下。賻絁一十疋。布廿端。田四町。爲其死事也。丙申。以式部卿正四位上藤原朝臣宇合爲持節大將軍。宮内大輔從五位上高橋朝臣安麻呂爲副將軍。判官八人。主典八人。爲征海道蝦夷也。癸夘。教坂東九國軍三万人教習騎射。試練軍陳。運綵帛二百疋。絁一千疋。綿六千屯。布一万端於陸奧鎭所。丁未。造宮卿從四位下縣犬養宿祢筑紫卒。」月犯螢惑。
四月一日に七道諸國に数を定めて軍器・幕・釜等を造られている。三日に殉職した陸奧國大掾の佐伯宿祢兒屋麻呂に從五位下を追贈し、また絁・田などを贈って弔っている。七日、海道蝦夷を征伐するために式部卿の藤原朝臣宇合を持節大將軍、宮内大輔の高橋朝臣安麻呂(若麻呂、父親笠間に併記)を副將軍として、判官八人、主典八人を任じている。
十四日に「坂東九國」の兵士三万人に、乗馬と弓を射る術を教習させ、布陣の仕方を訓練させている。また、綵帛(彩の有る絹)・絁。真綿などを陸奥の鎮所に運んでいる。十八日に造宮卿の縣犬養宿祢筑紫が亡くなっている。この日、月が螢惑(火星)を犯している。
坂東九國
後に多用される「坂東」の名称が出現している。陸奥國での争乱を発端とする記述であることから、手前の國々を示していることは間違いなかろう。
頻出の坂=土+厂+又=麓で山稜が延びている様と解釈した。記紀を通じて、所謂”坂”ではない。崖の地形を持つ山稜の麓を表す特徴的な場所なのである。
これが理解されていれば、図に示した通り、坂東=麓の山稜が突き通すように延びているところにある相摸國から常陸國までの九國と読み解ける。隣接する紀伊國・甲斐國は、「坂」の山稜が延びた地にあるのではなく、「坂東」には含まれないことが解る。
「坂東九國」の表記は、續紀中、この場限りであり、以降は「坂東八國」とされる。「八國」となるのは、突き通す山稜が開拓されて「坂」とは言えなくなった「常陸國」が省かれたのであろう。元は常陸國に属していた菊多郡は、陸奥國に併合されていた(こちら、こちら参照)。
後の時代のことであろうが、「坂東八国」として・・・関東地方八か国の総称。武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の八か国をいう。関八州。八州・・・と解説されている。また、現在の坂東市のサイトには…、
「坂東」は関東地方の古名であり、相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野を合わせて坂東八カ国と呼ばれていました。これは、足柄峠・碓氷峠などの山を「坂」として見立て、以東の諸国を「坂の東=坂東」としたことに由来するものです。当市はその関東地方のほぼ中央に位置し、位置をイメージしやすく、関東平野を代表するような雄大な都市を目指して選定されました。また当市は、平安時代に「坂東」一円を制した英雄・平将門公が本拠を構えた地として知られ、伝統と文化が今も息づいております。このことから、勇猛な「坂東武者」のイメージが込められています。さらに、当市を流れる利根川の古くからの愛称である「坂東太郎」が人々に親しまれていることから、利根川をはじめとする豊かな自然のイメージが込められています。
…と掲載されている。續紀の「坂東九(八)國」とは別の場所のことであろう。それを安易に引用されていないことは高く評価できる、と思われる。
五月癸亥。天皇御重閣中門。觀獵騎。一品已下至无位。豪富家及左右京。五畿内。近江等國郡司并子弟兵士。庶民勇健堪裝飾者。悉令奉獵騎事。兵士已上普賜祿有差。辛未。從五位上薩妙觀賜姓河上忌寸。從七位下王吉勝新城連。正八位上高正勝三笠連。從八位上高益信男捄連。從五位上吉宜。從五位下吉智首並吉田連。從五位下都能兄麻呂羽林連。正六位下賈受君神前連。正六位下樂浪河内高丘連。正七位上四比忠勇椎野連。正七位上荊軌武香山連。從六位上金宅良。金元吉並國看連。正七位下高昌武殖槻連。從七位上王多寳蓋山連。勳十二等高祿徳清原連。无位狛祁乎理和久古衆連。從五位下呉肅胡明御立連。正六位上物部用善物部射園連。正六位上久米奈保麻呂久米連。正六位下賓難大足長丘連。正六位下胛巨茂城上連。從六位下谷那庚受難波連。正八位上荅本陽春麻田連。壬午。從五位上小野朝臣牛養爲鎭狄將軍。令鎭出羽蝦狄。軍監二人。軍曹二人。
六月癸巳。中納言正三位巨勢朝臣邑治薨。難波朝左大臣大繍徳多之孫。中納言小錦中黒麻呂之子也。
五月五日に重閣の中門に出御されて猟騎(馬に騎乗して弓を射る儀式)を天覧されている。一品より無位に至るまで豪富の家及び左右京・五畿内・近江などの國郡司やその子弟、兵士、また庶民の中で勇敢健康で装束を付けて加われる者は全員、猟騎の行事に奉仕させている。兵士以上の全員に禄を賜われている。
十三日に以下の者が各々姓を賜っている。「薩妙觀」に「河上忌寸」(※)、「王吉勝」に「新城連」、「高正勝」に「三笠連」、「高益信」に「男捄連」、「吉宜・吉智首」に「吉田連」(※)、「都能兄麻呂」(角兄麻呂)に「羽林連」(※)、「賈受君」に「神前連」(神前郡)(※)、「樂浪河内」に「高丘連」(※)、「四比忠勇」に「椎野連」、「荊軌武」に「香山連」、「金宅良・金元吉」に「國看連」、「高昌武」に「殖槻連」、「王多寳」に「蓋山連」、「高祿徳」に「清原連」、「狛祁乎理和久」に「古衆連」、「呉肅胡明」に「御立連」(※)、「物部用善」に「物部射園連」、「久米奈保麻呂」に「久米連」(※)、「賓難大足」に「長丘連」、「胛巨茂」(太羊甲許母)に「城上連」(※)、「谷那庚受」に「難波連」、「荅本陽春」に「麻田連」、と記載されている。尚、既出の人物については(※)のリンクで示した。
二十四日に小野朝臣牛養(毛野に併記)を鎭狄將軍に任じ、出羽蝦狄を鎮圧させている。軍監二人と軍曹二人も併せて任じている。
六月六日に中納言の「巨勢朝臣邑治」が亡くなっている。難波朝左大臣の「徳多」の孫、中納言の「黒麻呂」の子であった(こちら参照)。
● 王吉勝(新城連)
高麗系渡来人であろうが、既に従七位下の爵位があることから何代か前に渡来した陰陽師の子孫と推測される。居処は賜った「新城連」から求めることにする。
「新城」は天武天皇紀に、新たに都を造ろうかと目論んだが、結局果たせなかった地の名称であった(こちら参照)。こんなところで再会である。
頻出の「吉」=「蓋+囗」=「山稜が蓋のように延びている様」、「勝」=「朕+力」=「押し上げられて盛り上がった様」である。纏めると吉勝=押し上げられて盛り上がった山稜が蓋をするように延びているところと読み解ける。
その地形が山稜の端近くに見出せる。現地名は田川郡添田町庄(大字)である。天武天皇即位十三(684)年正月の記事に「遣淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・錄事・陰陽師・工匠等於畿內、令視占應都之地」とあり、新しい都の候補地を視察させている。陰陽師は不可欠であり、「新城」と「陰陽師」との繋がりを示しているのであろう。
後に新城連吉足が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は不詳のようなのだが、多分息子だったのではなかろうか。吉が延びた(足)辺りが出自の場所と推定される。
● 高正勝(三笠連)・高益信(男捄連)
上記と同様に爵位を持ち、高麗系渡来人の子孫と思われる。但し、出自は詳細には分っていないようで、「正勝」が賜った三笠連が唯一の手掛かりのようである。
御笠連とも記載されるとのことで、これで一気に出自の場所へ近付いたように思われる。古事記に登場する玖賀耳之御笠、若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の子、日子坐王が旦波國のまつろわぬ輩を征伐した時に登場した「御笠」の居処を示すと思われる。
御笠=笠のような峰を束ねた山麓と解釈した。その三つの峰を三笠と言い換えているのであろう。既出の文字列である正勝=両足を揃えて立ち止まったように延びた山稜の麓に盛り上がった地があるところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。
高麗系渡来人としては高庄子の名前が知られていて、おそらくその子孫であったと推測されている。庄子=崖下の大地(庄)が生え出ている(子)ところと読み解ける。図に示したように彼等一族は、この突き出た小ぶりな半島に住まっていたのであろう。
地図を眺めていると、もう一人の高益信の出自の場所が浮かんで来た。決め手はやはり賜った男捄連に含まれる捄=手+求=山稜の端が引き寄せられている様の文字である。その引き締められて縊れたところを(益)と表記し、信=人+言=谷間に耕地ある様と続けているのである。現地名は、行橋市元永・長井、当時は海面に浮かぶ島状の地形だったと推測される。
● 四比忠勇(椎野連)
「四比」は、書紀の天智即位四(665)年 八月に「遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城」の記事に含まれていた。百濟系渡来人なのだが、百濟城があった場所が「泗沘」と知られる。その地が出自であったのかもしれない。
勿論、これは遠い異国の地の話しで、倭國では「椎野」に居処を構えていたようである。これが紐解きのヒントであろう。古事記の建小廣國押楯命(宣化天皇)の子、火穗王(書紀では火焔皇子)が「志比陀君」(書紀では「椎田君」)の祖であったと記載されている。
幾度か登場の椎=木+隹=山稜が積み重なっている様と解釈した。図に示したように山稜の端が背骨のように並んで重なっている様子を表していることが解る。椎野連については、現在は広々とした水田地帯となっているが、当時は崖下で、未だ野原が目立つ状態だったのではなかろうか。
「忠」=「中+心」=「中心にある様」、「勇」=「甬+力」=「押して突き通す様」と解釈される。忠勇=中心にある山稜が押して突き通すようなところと読み解ける。福夫の福=示+畐=酒樽のようなふっくらとした高台、夫=交差すような様であり、「忠勇」の北側の谷間を表していると思われる。
後(称徳天皇紀)に四比河守が「椎野連」の氏姓を賜ったと記載されている。既出の文字列である河守=山稜が両肘を張り出したように延びた前が水辺で谷間の出口になっているところと読み解ける。「忠勇」の南側の谷間を表していることが解る。「四比」、「泗沘」、「志比」、「椎」これらが重ねられた表記である。本貫の地の呼び名を忍ばせて、難攻の土地開拓に励んだのであろう。
「荊」は、和銅七(714)年正月に従五位下に叙位された「荊義善」が登場していた。関連情報が見当たらず、放置していたのだが、今回は「香山連」と言う貴重な地名情報が記載されている。
香山=(天)香具山、即ち現在の香春三ノ岳の麓の地で義善、軌武が表す地形を求めてみよう。親子関係のようではあるが、定かではない。
「義」=「羊+我」=「谷間がギザギザとしている様」、「善」=「羊+言+言」=「谷間で二つに岐れた耕地が連なっている様」と解釈した。纏めると義善=谷間で二つに岐れた耕地が連なった先で谷間がギザギザとしているところと読み解ける。図に示した地形を直截的に表現した名前であろう。
「軌」=「車+九」=「車輪のような山稜を九の字形に繋いだ様」と読み解ける。頻出の「武」=「戈+止」=「山稜の端が戈のような様」であり、軌武=戈のような山稜の先で車輪を九の字形に繋いだようなところと読み解ける。実に特徴的な二つの地形を象形した名前であることが解った。
後(称徳天皇紀)に香山連賀是麻呂が外従五位下を叙爵されている。幾度か登場の賀是=谷間を押し開く匙のような山稜が延びているところと解釈したが、その地形を「軌武」の東側に見出せる。親子のようにも思われるが、記録に残されていなのであろう。
<金宅良・金元吉(國看連)> |
● 金宅良・金元吉(國看連)
新羅系渡来人と思われるが、賜った「國看連」では彼等の出自の場所を特定するには至らないようである。調べると、文武天皇紀の大寶二(702)年に「僧隆觀還俗。本姓金。名財。沙門幸甚子也」とあり、飛騨國の神馬を献上したと記載されていた。
その地で彼等の名前が示す地形を探索すると、図に示したように、申し分なく「隆觀」の北側、越中國に接する場所で見出すことができる。また、賜った「國看連」の地形であることも確認できる。
頻出の宅=宀+乇=谷間に山稜が延びている様、良=なだらかな様と解釈した場所が「宅良」の出自であり、元=〇+儿=谷間に丸く小高いところがある様、吉=蓋+囗=山稜が蓋をするような様と解釈した場所が「元吉」の出自の場所と推定される。國看連の看=手+目=谷間に手のような山稜が延びている様であり、周辺の地形を表していることが解る。
● 高昌武(殖槻連)
高麗系渡来人であるが、関連情報は極めて限られているようで、やはり賜った「殖槻連」から出自の場所を推し測ってみよう。すると「殖槻」は平城宮の裏鬼門の方角に当たる右京の地に関係する名称であったことが分った。
早速、平城宮の西南の地を探索すると、それらしき場所が見出せる。「殖」の文字は書紀の天武天皇紀に積殖山口として登場した文字である。殖=歹+直=真っ直ぐに延びて尽きる様と解釈した。「歹」=「骨の関節部」を象った文字と知られる。
図に示した場所、後の時代に整地されて変形しているような感じであるが、二股に岐れた山稜の端が見出せる(年代別写真1961~9年を参照)。その股の谷間に丸く小高い地がある。それを槻=木+規=山稜が丸く小高くなっている様で表したと思われる。
また、高昌武の昌=日+曰=窪んだ地で太陽のように丸く小高くなっている様が示す場所でもあることが解る。武=戈+止=山稜の端が戈のような様であり、昌武は昌と武に挟まれた場所を出自としていたと推定される。実は続く登場人物が鬼門方面を居処としていたのである。
● 王多寳(盖山連)
多分、高麗系渡来人かと思われるが、詳細は殆ど知られていない人物である。やはり盖山連が頼りの出自探しとなろう。即ち、平城宮の鬼門に当たる方角にある地と思われる。
盖山は図に示した通り、平城宮の東北のあった、谷間を蓋するような山と解釈した。その谷間がこの人物の居処だったのであろう。
多=山稜の端(の三角州)であり、寶=宀+缶+玉+貝=山稜に囲まれた地に筒状の小高い地と玉のような丸く盛り上がった地と谷間がある様と解釈した。略字の「宝」では、地形要素の省略が多過ぎるようである。
一目で、これらの地形要素がぎっしりと詰まった場所であることが解る。「玉」は「盖山」が担っていることも見逃すわけには行かない、のである。それにしても左右京にかなり多くの渡来人達が住まっていたと伝えている。彼等の知識・技能をフルに活用していた有様が伺われる記述と思われる。
後の神龜四(727)年正月と天平四(732)年正月の二度、左京職が白雀を献上したと記載される。左京の地で、未開の場所から二羽並んだ鳥の地形を求めると、図に示した二場所が見当たった。どちらが先か?…は到底推測しかねるが、藤原宮の奥だったかもしれない。共に狭い谷間で、他の情報も皆無な状況である。
高麗系渡来人らしいのだが、この人物も出自は不明であり、賜った「清原連」が唯一の情報である。これは容易に気付かされる場所であって、古事記の序文に記載された飛鳥淸原(大)宮で用いられた文字列である。
書紀では「淨御原宮」であり、その文字列を用いずに、古事記本文ではなく序文にのみ記載されている「淸原」から、である。理由は後に述べることにする。
高祿德の「祿」は、官人の給与ではなく、地形象形すると祿=示+彔=高台が点々と連なっている様と解釈する。給与は、点々と連なっている、のである。德=彳+直+心=長四角に取り囲まれた様である。すると、図に示したように、德の縁の一部が点々と連なる高台となっていることが解る。
他の辺は、既に「凡海」一族の居処となっていたのである。彼等は「海」(水辺で両腕で抱えるように山稜が広がっている様)の縁であり、「祿德」は、その「海」には含まれていない。故に「清原連」姓を与えたと思われる。
「淨御原」姓としないのは、「淨」は宮があった山稜を表し、「原」を束ねるところを示している。「祿德」の出自の場所とは掛け離れているわけである。なかなかに興味深い記述であろう。それにしても、よくぞ”点々”が残存したものである。
後に清原連清道が外従五位下を叙爵されて登場する。淸道=水辺で四角く区切られた地にある首のような形をしたところと読むと、図に示した場所が出自と思われる。別名に淨道があったと知られている。例によって「淸↔淨」の置換えであろう。凡海一族と、棲み別けた様相であるが、共に渡来系の人々だったのであろう。
● 狛祁乎理和久(古衆連)
全くの古事記風名称である。下記で読み解くことにして、少し調べると、縵造(連)の後裔らしきことが伝えられてるとのことである。「縵造」は、書紀の天武即位八(679)年六月に「縵造忍勝、獻嘉禾、異畝同頴」と記載された記事に含まれていた(こちら参照)。
その地は、古事記の師木津日子玉手見命(安寧天皇)が娶った阿久斗比賣の近隣と推定した。この「阿久斗」の地形を「縵」と表現したと解釈された。
それではこの人物の名前を一文字一文字紐解いてみよう。「狛」=「犬+白」=「平らな頂の山稜がくっ付いている様」、「祁」=「示+邑」=「高台が寄り集まっている様」、「乎」=「谷間から小ぶりな山稜が延び出ている様」、「理」=「王+里」=「区分けされた様」、「和」=「しなやかに曲がっている様」、「久」=「くの字形に曲がっている様」、となる。
纏めると狛祁乎理和久=平らな頂の高台がくっ付いている地にある小ぶりな山稜が延び出ている谷間でしなやかに[く]の字形に曲がった山稜を区分けしたようなところと解釈される。図に示した谷間を出自としていたと推定される。古衆連の命名は、谷間から延び出た山稜が小高くなっている地形を表しているのであろう。”異畝同頴”は瑞兆かもしれないが、やはりきちんと地形象形した表記であることを確信できた、と思われる。
● 賓難大足(長丘連)・物部用善(物部射園連)
両名共に殆ど情報がなく、また、賜った連姓も記紀を通じて関連する記述も見当たらない状況のようである。辛うじて「物部用善」の「射園連」についいて葛下郡の地名に関わるようなことが伝えられている。
そこで葛下郡、現地名では田川郡福智町弁城・伊方の彦山川沿いの地で名前が示す地形を探索することにした。
賓難の賓=近接している様、難=川が大きく曲がる様と解釈すると、図に示した彦山川が中元寺川と合流する地点近くを表しているのではなかろうか。大足=平らな頂の山稜が長く延びたところであり、長丘連は、その地形を表していると思われる。
物部用善の「物部」の地形は、残念ながら、図に示した地形が大きく変化した場所近隣と思われ、射園連が表す地形を求めることは叶わず、国土地理院の年代別写真でも既に山容は変化し、元の姿を知ることはできなかった。皇極天皇紀に時の大臣蘇我蝦夷が息子の入鹿と共に「造雙墓於今來。一曰大陵、爲大臣墓。一曰小陵、爲入鹿臣墓」と記載された大陵と推定した場所(こちら参照)であるが、その後の登場はなく、関連する記述は見当たらないようである。
後に私稲を提供して困窮の人々を救済し爵位を授けられた大倭國葛下郡の人、花口宮麻呂が登場する。「花」=「端にある様」であるが、「花」=「艸+化」と分解すると、「花」=「端にある花が開いたような様」であり、「化」=「/+\」の地形を表す文字と解釈される。宮=宀+呂=谷間の奥まで積み重なっている様と読めば、図に示した場所が出自と推定される。
<谷那庚受(難波連)・荅本陽春(麻田連)> |
● 谷那庚受(難波連)・荅本陽春(麻田連)
「谷那」、「荅本(㶱)」は、書紀の天智即位十(671)年に百濟滅亡の難を逃れた有為な人物に爵位を授けた記事に登場していた。それ以上の情報はなく、ここで彼等の後裔達が連姓を賜ったと伝えている。
上記と同様に与えられた姓名が重要なヒントを提供してくれている。難波連は、間違いなく難波の地、即ち難波大郡・小郡の近隣と推測される。
庚受の「庚」=「干+廾」と分解する。「干」の古文字は、先がY字形開いた棒状を表す文字と知られる。即ち、「干」=「山稜の先が二股になっている様」、「廾」=「両手」であり、脇にある山稜を表している。
「受」=「爪+舟+又」=「窪んだ地に二つの山稜が寄り集まっている様」であり、纏めると庚受=先が二股になっている山稜が窪んだ地に寄り集まっているところと読み解ける。図に示したように「大郡」と「小郡」との間にある谷間を表していることが解る。後に難波連吉成の名前で登場する。吉=蓋+囗=山稜が蓋のように延びている様であり、「荅」が示す場所である。成=丁+戊=平らに盛り上げられた様であって、”倭風”の分り易い名前としたのであろう。
天智天皇紀の晋首との関係は定かではないようだが、多分親子、晋(晉)=至+至+日=炎のような山稜の端が延び切った様、その地にある首の付け根(首)のようなところと読み解ける。谷那=谷間がなだらかところは、地図に示された通りであろう。
荅本(㶱)の「荅」=「艸+合」と分解される。更に「合」=「亼+囗」から成る文字であり、口にぴったりと蓋を合せる様を表している。「本」は「㶱」の簡略表示であって「火の元」を示す文字と解釈される。合わせると荅本=蓋のような山稜が炎の地形の根本になっているところと読み解ける。
図を参照すると、蓋の形をした山稜が東側の谷間の出口に延び出ているところが見出せる。この蓋を春初の初=衣+刀=山稜の端にある刀のような山稜のことだと解る。頻出の春=叒+日=炎のように多くの山稜が延びている様であり、山麓の様子を表していると思われる。
陽春に含まれる、幾度か登場の陽=阝+昜=丸く小高く盛り上がった様であり、「小郡」の場所を示していると思われる。麻田連については、「淺田連」とも記載されることが分った。彼等の居処の奥は、『壬申の乱』の最終場面、近江朝の右大臣中臣連金を斬首した、と記載されていた淺井田根と推定した場所である。淺=氵+戈+戈=水辺で戈のような山稜がならんでいる様と解釈した。これで連姓との繋がりが紐解けたようである。
天智天皇紀に亡命した「谷那晋首・荅本春初」は「閑兵法」(兵法を習得)と記載されていた。白村江で大敗した(663年)後、唐・新羅の脅威が消え去らない時、近江大津宮の近辺である難波に配置されたのであろう。先進の知識・技術が転移する時には人が動いている、のである。
また、上記で引用したように「遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城」と記載されている。築城の仕様にも大きな変化をもたらしていたのである。瀬田橋の戦い(こちら参照)で登場した「智尊」も同じような経歴の持ち主だったのかもしれない。