2021年10月1日金曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(10) 〔547〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(10)


天平元年(西暦729年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

三月癸巳。天皇御松林苑宴羣臣。引諸司并朝集使主典以上于御在所。賜物有差。甲午。天皇御大極殿。授正四位上石川朝臣石足。多治比眞人縣守。藤原朝臣麻呂並從三位。從四位上鈴鹿王正四位上。從四位上長田王。從四位下葛城王並正四位下。從四位下智努王。三原王並從四位上。正五位下櫻井王正五位上。无位阿紀王從五位下。從四位下大伴宿祢道足正四位下。正五位下粟田朝臣人上正五位上。從五位上車持朝臣益。佐伯宿祢豊人並正五位下。從五位下息長眞人麻呂。伊吉連古麻呂。縣犬養宿祢石次。小野朝臣老。布勢朝臣國足並從五位上。外從五位下中臣朝臣名代。巨勢朝臣少麻呂。阿部朝臣帶麻呂。坂本朝臣宇頭麻佐並從五位下。正六位上巨勢朝臣奈氐麻呂。紀朝臣飯麻呂。大神朝臣乙麻呂。三國眞人大浦。正六位下小治田朝臣諸人。坂上忌寸大國。正六位上後部王起。垣津連比奈並外從五位下。」以中納言正三位藤原朝臣武智麻呂爲大納言。癸丑。太政官奏曰。令諸國停四丈廣絁。皆成六丈狹絁。又班口分田。依令收授。於事不便。請悉收更班。並許之。丁巳。以正八位上紀直豊嶋爲紀伊國造。

三月三日に天皇は松林苑に出御して群臣を宴に招いている。諸司と朝集使として入京していた國司の主典以上を御在所に招き入れて、それぞれに物を賜っている。

四日は大極殿に出御され、石川朝臣石足多治比眞人縣守藤原朝臣麻呂(萬里)に從三位、鈴鹿王に正四位上、長田王(六人部王に併記)・葛城王に正四位下、智努王三原王(御原王)に從四位上、櫻井王に正五位上、「阿紀王」に從五位下、大伴宿祢道足に正四位下、粟田朝臣人上(必登に併記)に正五位上、車持朝臣益佐伯宿祢豊人に正五位下、息長眞人麻呂(臣足に併記)伊吉連古麻呂縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)小野朝臣老(馬養に併記)布勢朝臣國足(阿倍朝臣首名に併記)に從五位上、中臣朝臣名代(人足に併記)巨勢朝臣少麻呂阿部朝臣帶麻呂(船守の子)・坂本朝臣宇頭麻佐(宇豆麻佐。鹿田に併記)に從五位下、巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)・「紀朝臣飯麻呂」・大神朝臣乙麻呂(通守に併記)・三國眞人大浦(友足に併記)・小治田朝臣諸人(當麻に併記)・坂上忌寸大國(忍熊に併記)・「後部王起」(高麗系渡来人)・「垣津連比奈」に外從五位下を、それぞれ授けている。また、藤原朝臣武智麻呂を大納言としている。

二十三日に太政官が次のように奏上している。「諸國の貢上する長さ四丈の広絁を廃止して、全て長さ六丈の狭絁にしたい。また口分田を班給するについて、令の規定に従って田を授けたり収公するのは実際上不便がある。そこで全国の口分田を一旦全て収公し、その後に班給するようにしたい。」これらが許されている。二十七日に「紀直豊嶋」を紀伊國造に任じている。

<阿紀王(安貴王)・市原王>
● 阿紀王

例によって、いきなりの登場なので、少し調べると施基皇子もしくは川嶋皇子の孫、父親は共に春日王、と言われていることが分った。

施基皇子(天武天皇の子)の子、春日王については、既に求めていたことから、阿紀王の名前に従って出自の場所を見出すことにした。

ただ、阿紀=台地が曲がりくねっているところと解釈されるが、この地は山稜が延びて重なるような地形であり、一に特定するのは困難である。やはり、別名、安貴王が重要な情報をもたらしてくれたようである。

頻出の安=宀+女=山稜に囲まれた地に嫋やかに曲がる谷間ある様と解釈する。「貴」は、施基皇子の別名、「志貴皇子」にも使われているが、あらためて読み解いてみよう。「貴」=「臾+貝」と分解される。「臾」=「両手で持つ様」を象って文字と知られる。纏めると貴=両手のような山稜に挟まれた谷間と解釈される。

図に示した場所、山稜を挟んで父親の春日王の西隣の谷間と推定される。勿論、「阿紀」が示す地形である。川嶋皇子の近隣に、この地形を見出すことは難しく、施基皇子の孫とする説が正しいようである。

「阿紀王」の子に市原王がいたと知られている。後に従五位下に叙爵されて登場する。市原=平らに広がった地が寄り集まったところと解釈されるが、現在は大きな貯水池になっていて当時を偲ぶことは叶わないようである。おそらく川の流れる野原として、谷間が交差している様子を表現した名称と推測される。

<紀朝臣飯麻呂・必登・可比佐>
● 紀朝臣飯麻呂

頻出の「紀朝臣」であるが、この人物を調べると古麻呂の子であることが分った。「大口」→「大人」→「古麻呂」と続く、「紀朝臣」の下流域で蔓延った一族であった。

幾度か登場の飯=食+反=谷間がなだらかに延びている様と解釈したが、「古麻呂」の東側の谷間を表していると思われる。現在は南側は池となっていて、当時の地形とは些か異なっているかもしれない。

弟に紀朝臣必登がいたことも知られていて、後に登場されることになる。前出の粟田朝臣必登と類似の地形を表していると思われる。

再掲すると、必=弋+八=谷間が杙のような山稜にくっ付いている様、頻出の登=癶+豆+廾=高台から山稜が二つに岐れている様とすると、図に示した場所が出自と推定される。更に後に紀朝臣可比佐が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の文字列である可比佐=谷間にある左手のような山稜の前に谷間の出口が並んでいるところと読み解ける。そのままの地形が図に示した場所に見出せる。

「古麻呂」の系列は、「麻呂」の系列に比べて少し遅れて子孫が登場しているが、長男の「飯麻呂」の最終官位は従三位・参議となっている。

<垣津連比奈>
● 垣津連比奈

この人物に関する情報は、全く皆無の有様のようである。續紀中も、ここで登場したのが最初で最後であり、手掛かりなしで、少々憶測してみよう。

「垣」に注目すると、古事記に登場する幾つかの宮の名前に含まれていた。水垣宮、玉垣宮、柴垣宮などが思い浮かぶところである。

それに加えて、登場人物が殆どなかった地域であることも重要な情報の一つと思われる。少し前に漆部の谷間を探索する羽目になったが、その時にこの谷間の西側が、長谷部若雀天皇(崇峻天皇)の倉椅柴垣宮を推定した場所と思い起こしていた。

すると、その「垣」の麓に津=氵+聿=水辺で筆のように延びた山稜がある様の地形を見出せる。更に、図では小さく見えるが、比奈=高台が並んでいるところがあり、そこが垣津連比奈の出自の場所と推定される。

書紀の「膽駒山」が登場した時も述べたが、この山は古事記では「倉椅山」と記述されている。大雀命(仁徳天皇)紀の説話に若い男女が「丸邇」から「蘇邇」へ駆落ちするのであるが、表通りでは発覚する危険がある故に、この「倉椅山」を越えて行ったと記載されている(こちら参照)。これを現在の生駒山としては、話が通じないのであるが、たかが、一説話なのであろうか?・・・この人物の情報が欠落しているのも頷けるようである。

<紀直豊嶋>
● 紀直豊嶋

「紀直」は、既出で神龜元(724)年十月に聖武天皇が紀伊國に行幸された際、紀伊國名草郡の大領だった摩祖を國造に任じた、と記載されていた。

四年半余りが経っていて、その間に数代の交替があったように言われているようだが、一年交替となって、果たして信頼できる資料に基づくものなのか、不明である。

ともあれ、豐嶋の出自の場所を求めてみよう。頻出の豐=段差のある高台嶋=山+鳥=山稜が鳥の形をしている様と解釈して来たが、その通りの地形が「摩祖」及び日前神・國縣神の西側に見出せる。

とりわけ、「豐」が示す場所は、かなり大きな段差がある地形であり、当時の下方部は海面下にあったと推測される。多分、深い淵の様相であったと思われる。何度も述べたように「豐」の略体字として「豊」を用いる表記は避けるべきであろう。本来は別字であって、史書が伝えることを見逃してしまうことになる。

● 小治田朝臣諸人 上記したように「小治田朝臣」一族については、図に纏めて出自の場所を示した(こちら参照)。若干の補足を行うと、諸=言+者=耕地が交差するように連なっている様人=谷間であり、図中の「諸人」が出自の場所と推定される。「小治田朝臣」一族、久々の登場であった。

夏四月壬戌。播磨國賀茂郡加主政主帳各一人。癸亥。勅。内外文武百官及天下百姓。有學習異端蓄積幻術。壓魅咒咀害傷百物者。首斬從流。如有停住山林詳道佛法。自作教化。傳習授業。封印書符。合藥造毒。萬方作恠。違犯勅禁者。罪亦如此。其妖訛書者。勅出以後五十日内首訖。若有限内不首後被糺告者。不問首從。皆咸配流。其糺告人賞絹卅疋。便徴罪家。又勅。毎年割取伊勢神調絁三百疋。賜任神祇官中臣朝臣等。太政官處分。舍人親王參入朝廳之時。諸司莫爲之下座。爲造山陽道諸國驛家。充驛起稻五万束。乙丑。筑前國宗形郡大領外從七位上宗形朝臣鳥麻呂奏可供奉神齋之状。授外從五位下。賜物有數。庚午。諸國兵衛資物。令當郡見在郡司節級輸之。仍附貢調使送所司。其輸法以上絁一疋充銀二兩。以上絲小二斤。庸綿小八斤。庸布四段。米一石。並充銀一兩。即依當土所出。准銀廿兩。

四月二日に播磨國賀茂郡(韓鍛冶百依に併記)に主政・主帳を各一人づつ加えている。<他の郡に比べて領域が広かったのであろう>。

三日に以下のように勅されている。内外の文武官及び人民のうち、異端のことを学び、幻術を身に付け、種々のまじない、呪いによって物の生命を損ない傷付ける者があれば、首犯は斬刑に、従犯は流刑に処する。もし山林に隠れ住み、偽って仏法を修行する言い、実は自ら人を導き、身に付けた業を教え伝え、呪符を書いて封印し、薬を合成して毒を作り、様々の仕方で奇怪の事をし、勅令の禁じるところに違犯した者についても、その罪は同様である。妖術妖言の書物を持つ者は、この勅が出てから五十日以内に自首せよ。期限内に自首せず、後になって告発された場合は、首犯・従犯の例なく全て流罪とする。告発した者には賞として罪人から徴発した絹を与える。

また、伊勢の神に貢上する調の絁を毎年割き留めて、神祇官に任じられた中臣朝臣等に与えることになった。太政官処分で、舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のために座席を降りるには及ばない、としている。山陽道に沿う諸國の駅家を造るために財源として駅起稲五万束を充当している。

五日に筑前國宗形郡の大領の宗形朝臣鳥麻呂(等抒に併記)が宗形の神に仕えることになった、と奏上している。外従五位下を授け、物を賜っている。十日に諸國から入京する兵衛を養うための物資は、その出身地で郡司となっている者から職階に応じて納めさせる。そして貢調使に付託して所管の官司に送らせる。その納付法は、上等の絁一疋を銀二両、上等の絹糸は小二斤、庸の綿は小八斤、庸の麻布は四段、米は一石をそれぞれ銀一両とみなす。その上で出身地の産物を一人当たり銀二十両分出させることとする。

五月甲午。天皇御松林。宴王臣五位已上。賜祿有差。亦奉騎人等。不問位品給錢一千文。庚戌。太政官處分。准令。諸國史生及傔仗等。式部判補。赴任之日。例下省符。符内仍稱關司勘過。自非辨官不合此語。自今以後。補任已訖。具注交名。申送辨官。更造符乃下諸國。

五月五日に天皇は松林苑に出御して諸王・臣下の五位以上の者を宴に招き、それぞれに禄・物を賜っている。また騎乗して天皇に随行した人々には、位の上下を問わず銭一千文を賜っている。二十一日に太政官処分として、令のよると諸國の史生と傔仗(武装護衛)は式部省が任命し、赴任する日に式部省の符を発行するのが通例である。ところがその符の文書には関司が通行に際して検査せよと述べている。この文言は弁官でないと相応しくない。よって今後は任命が終了すれば名簿を弁官に申し送り、その後弁官の符として発行するようにせよ、としている。

六月庚申朔。講仁王經於朝堂及畿内七道諸國。辛酉。廢營厨司。己夘。左京職獻龜長五寸三分。闊四寸五分。其背有文云。天王貴平知百年。庚辰。薩摩隼人等貢調物。癸未。天皇御大極殿。閤門隼人等奏風俗歌舞。甲申。隼人等授位賜祿各有差。乙酉。熒惑入大微中。

六月一日に朝堂院と畿内・七道の諸國において仁王経の講説が行われている。二日、営厨司を廃止している。二十日に左京職が「長さ五寸三分」、「幅四寸五分」の「亀」を献上している。その甲羅に文言があり「天王貴平知百年」(天皇の治政は貴く平和で百年も続くであろう)と読めたとか。

二十一日に薩摩隼人等が調物を献上している。二十四日、天皇は大極殿の閤門に出御し、隼人等が郷土の歌舞を奏している。二十五日に隼人等にそれぞれ位階を授け、禄を賜っている。二十六日に熒惑(火星)が太微宮(天子の宮廷に当たる星座)の中に入っている。

龜:天王貴平知百年
龜:天王貴平知百年

またまた左京から「龜」が献上、産卵場所でもあったのか?…のような有様なのだが、勿論、「龜」の地形を示すお話しかと思われる。

実は、井上内親王の出自の場所を求めた際、首皇子(聖武天皇)、阿倍内親王の場所と合わせて、見事に「龜」の頭部の形をしていることに気付かされていたのである(こちら参照)。

現在の地形図では全く変形していて、国土地理院の1961~9年航空写真で初めてその地形を見出すことができたわけである。即ち、靈龜(長七寸、闊六寸)と白龜(長一寸半、廣一寸)が三つ並んでいることになる。今回の「龜」は「長五寸三分、闊四寸五分」と記載されているが、二辺の比率も併せて実に適切な大きさではなかろうか。

王貴知百年は、何とも手前勝手な解釈のようだが、勿論、龜の地形を余すことなく表記していると思われる。「天」=「阿麻」=「擦り潰されたような(凹凸の少ない)台地」、「王」=「大きく広がった台地(高台)」、「貴」=「㬰+貝」=「両手のような山稜に谷間が挟まれている様」である。

ここまでで「天王貴」=「擦り潰されたような大きく広がった台地が両手を延ばしたような山稜に挟まれた谷間にあるところ」と読み解ける。また「知」=「矢+口」として「平知」=「平たい鏃のようなところ」となり、「百」=「白+一」、「年」=「禾+人」として「百年」=「小高い地が連なり(稲のような)山稜がしなやかに曲がったところ」と読み解ける。全て纏めると…、
 
凹凸が少なく大きく広がった台地が
両手のような山稜に挟まれた谷間にあり
平たい鏃のような地の後に
小高い地が連なりしなやかに曲がる山稜があるところ
 
…と解釈される。亀の甲羅に模様があるとは言え、読める筈もなく、何とバカバカしいことを・・・幾重にも重ねた表記、万葉の人々にとっては全くの日常のことであっただろう。そして元号天平に繋がって行くのである。

秋七月己酉。大隅隼人等貢調物。辛亥。大隅隼人姶羅郡少領外從七位下勳七等加志君和多利。外從七位上佐須岐君夜麻等久久賣並授外從五位下。自餘叙位賜祿亦各有差。癸丑。月入東井。

七月二十日に「大隅隼人」等が調物を貢上している。二十二日に「大隅隼人」で「姶羅郡」の少領である「加志君和多利」と「佐須岐君夜麻等久久賣」に外従五位下を授けている。その他の隼人にもそれぞれ位階を授けられ禄を賜っている。二十四日に月が東井(二十八宿の一つ、ふたご座の東方部)に入っている。

<大隅隼人>
● 加志君和多利・佐須岐君夜麻等久久賣(大隅隼人)

姶羅郡」が「大隅國」ならば、通常通りに”大隅國姶羅郡”と書く筈であろう。そう書かないところに、續紀編者のわざとらしさが伺える。この郡は列記とした「日向國」の一郡であろう(こちら参照)。

今一度、「姶羅郡」の「姶羅」が如何に特徴的な地形を表しているかを述べてみよう。「羅」は省略した文字で本来は「羅」に”衣()偏”が付いた文字である。故に姶羅=嫋やかに曲がって(女)くっ付いた山稜(合)の端の三角州(衣)が連なっている(羅)様と読み解いた。

この地形が発生するのは、尾根が真っ直ぐに延びているのではなく大きく湾曲し、その尾根から延びた幾つもの山稜が寄り集まるように並んでいる地形である。それを忠実に表現するために選ばれたのが…少々見慣れない文字だが…「姶[衤羅]」だったわけである。言い換えれば、現地名の遠賀郡岡垣町波津以外に用いられる文字ではなかったのである。

古事記では大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が娶った日向之美波迦斯毘賣の出自の場所と推定した。生まれた子が豐國別王で、「日向國造」の祖となったと記載されている(日向と豐國は縁が深い。豐玉毘賣参照)。そんな歴史的背景の地を「大隅國」と名付けることはあり得ないのである。姶羅郡」については、通説を横目で眺めると、そもそもの場所は不詳であり、時を経て改名されたり、何ともあやふやな有様であることが分る。

大隅=平らな頂の二つの山稜が出会う角のところと解釈される。即ち、大隅は固有の地名ではなく、それが表す地形の場所を示しているのである。姶羅郡」は、下図に示した通り、「大隅」の場所であり、その地に住まう人々を大隅隼人…「大隅國」ではなく…と呼称していることが解る。

<加志君和多利・佐須岐君夜麻等久久賣
さてさて、ご登場のお二方の出自の場所を求めてみよう。共に”古事記風”の名前である。

加志君和多利の「加」=「押し〇〇する様」、「志」=「川が蛇行している様」であり、加志=川が押し曲げられたように流れているところと読み解ける。

また、和多利=しなやかに曲がる(和)山稜の端(多)が切り分けれている(利)ところと読み解ける。図に示した場所を示していると思われる。

佐須岐君夜麻等久久賣については、頻出の文字列である佐須岐=谷間にある左手のように延びた山稜の麓(佐)で州(須)が岐れている(岐)ところと読み解ける。また、夜麻等久久=狭い谷間(夜麻)が揃って並んでいる(等)地の傍で[く]の形が二つ並んでいる(久久)ところと読み解ける。

古事記の「美波迦斯毘賣」(谷間が広がった端が切り分けられた地と出合うところ)の場所を、少々詳細に表記していると思われる。歴史の表舞台から遠のいていた地が、実に久方ぶりにお目見えした感じである。