天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(11)
天平元年(西暦729年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
八月癸亥。天皇御大極殿。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命〈乎〉親王等諸王等諸臣等百官人等天下公民衆聞宣。高天原〈由〉天降坐〈之〉天皇御世始而許能天官御座坐而天地八方治調賜事者聖君〈止〉坐而賢臣供奉天下平〈久〉百官安〈久〉爲而〈之〉天地大瑞者顯來〈止奈母〉隨神所念行〈佐久止〉詔命〈乎〉衆聞宣。如是詔者大命坐皇朕御世當而者皇〈止〉坐朕〈母〉聞持〈流〉事乏〈久〉見持〈留〉行少〈美〉。朕臣爲供奉人等〈母〉一二〈乎〉漏落事〈母〉在〈牟加止〉辱〈美〉愧〈美〉所思坐而我皇太上天皇大前〈尓〉恐〈古士物〉進退匍匐廻〈保理〉白賜〈比〉受被賜〈久〉者卿等〈乃〉問來政〈乎〉者加久〈耶〉荅賜加久〈耶〉荅賜〈止〉白賜官〈尓耶〉治賜〈止〉白賜〈倍婆〉。教賜於毛夫氣賜荅賜宣賜隨〈尓〉。此〈乃〉食國天下之政〈乎〉行賜敷賜乍供奉賜間〈尓〉。京職大夫從三位藤原朝臣麻呂等〈伊〉負圖龜一頭獻〈止〉奏賜〈不尓〉所聞行。驚賜恠賜所見行歡賜嘉賜〈氐〉所思行〈久〉者。于都斯久母皇朕政〈乃〉所致物〈尓〉在〈米耶。〉此者太上天皇厚〈支〉廣〈支〉徳〈乎〉蒙而高〈支〉貴〈支〉行〈尓〉依而顯來大瑞物〈曾止〉詔命〈乎〉衆聞宣。辞別詔〈久〉此大瑞物者天坐神地坐神〈乃〉相宇豆奈〈比〉奉福奉事〈尓〉依而顯〈久〉出〈多留〉瑞〈尓〉在〈羅之止奈母〉神隨所思行〈須〉。是以天地之神〈乃〉顯奉〈留〉貴瑞以而御世年號改賜換賜。是以改神龜六年爲天平元年而大赦天下百官主典已上等冠位一階上賜事〈乎〉始一二〈乃〉慶命詔賜惠賜行賜〈止〉詔天皇命〈乎〉衆聞食宣。其賜物。親王絁一百疋。大納言七十疋。三位絁疋。四位一十五疋。五位一十疋。正六位上絁四疋。綿一十屯。定額散位及左右大舍人。六衛府舍人。中宮職舍人。諸司長上及史生各布二端。使部伴部。門部主帥各布一端。其女孺采女准大舍人。宮人准使部。」又天下百姓高年八十已上及孝子順孫。義夫節婦。鰥寡惸獨。疹疾不能自存者。依和銅元年格。」又左右兩京今年田租。在京僧尼之父今年所出租賦。及到大宰府路次驛戸租調。」自神龜三年已前官物未納者皆免。」又陸奧鎭守兵及三關兵士。簡定三等。具録進退如法臨敵振威。向冐万死。不顧一生之状。并姓名年紀居貫軍役之年。便差專使。上奏。」其諸衛府内武藝可稱者。亦以名奏聞。」又諸大陵差使奉幣。其改諸陵司爲寮。増員加秩。」又諸國天神地祇者。宜令長官致祭。若有限外應祭山川者聽祭。即免祝部今年田租。」又在近江國紫郷山寺者入官寺之例。」又五世王嫡子已上。娶孫王生男女者入皇親之限。自餘依慶雲三年格。」其獲龜人河内國古市郡人无位賀茂子虫授從六位上。賜物絁廿疋。綿卌屯。布八十端。大税二千束。」又勅。唐僧道榮。身生本郷。心向皇化。遠渉滄波。作我法師。加以訓導子虫。令獻大瑞。宜擬從五位下階。仍施緋色袈裟并物。其位祿料一依令條。」既而授正五位下小野朝臣牛養。正五位上榎井朝臣廣國並從四位下。正五位下大伴宿祢祖父麻呂。佐伯宿祢豊人並正五位上。從五位上中臣朝臣廣見正五位下。從五位下大伴宿祢首。田口朝臣家主並從五位上。外從五位下高橋朝臣首名。紀朝臣飯麻呂。正六位上多治比眞人多夫勢。藤原朝臣鳥養並從五位下。丁夘。左大辨從三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫。少納言小花下安麻呂之子也。戊辰。詔立正三位藤原夫人爲皇后。壬午。喚入五位及諸司長官于内裏。而知太政官事一品舍人親王宣勅曰。天皇大命〈良麻止〉親王等又汝王臣等語賜〈幣止〉勅〈久〉。皇朕高御座〈尓〉坐初〈由利〉今年〈尓〉至〈麻氐〉六年〈尓〉成〈奴〉。此〈乃〉間〈尓〉天〈都〉位〈尓〉嗣坐〈倍伎〉次〈止〉爲〈氐〉皇太子侍〈豆〉。由是其婆婆〈止〉在〈須〉藤原夫人〈乎〉皇后〈止〉定賜。加久定賜者皇朕御身〈毛〉年月積〈奴〉。天下君坐而年緒長〈久〉皇后不坐事〈母〉一〈豆乃〉善有〈良努〉行〈尓〉在。又於天下政置而獨知〈倍伎〉物不有。必〈母〉斯理幣〈能〉政有〈倍之〉。此者事立〈尓〉不有。天〈尓〉日月在如地〈尓〉山川有如並坐而可有〈止〉言事者汝等王臣等明見所知在。然此位〈乎〉遲定〈米豆良久波〉刀比止麻尓母己〈我〉夜氣授〈留〉人〈乎波〉一日二日〈止〉擇〈比〉十日廿日〈止〉試定〈止斯〉伊波〈婆〉許貴太斯〈伎〉意保〈伎〉天下〈乃〉事〈乎夜〉多夜須〈久〉行〈無止〉所念坐而。此〈乃〉六年〈乃〉内〈乎〉擇賜試賜而。今日今時眼當衆〈乎〉喚賜而細事〈乃〉状語賜〈布止〉詔勅聞宣。賀久詔者挂畏〈支〉於此宮坐〈支〉現神大八洲國所知倭根子天皇我王祖母天皇〈乃〉始斯皇后〈乎〉朕賜日〈尓〉勅〈豆良久〉。女〈止〉云〈波婆〉等〈美夜〉。我加久云其父侍大臣〈乃〉皇〈我〉朝〈乎〉助奉輔奉〈氐〉頂〈伎〉恐〈美〉供奉乍夜半曉時〈止〉烋息無〈久〉淨〈伎〉明心〈乎〉持〈氐〉波波刀比供奉〈乎〉所見賜者。其人〈乃〉宇武何志〈伎〉事款事〈乎〉遂不得忘。我兒我王過无罪無有者捨〈麻須奈〉忘〈麻須奈止〉負賜宣賜〈志〉大命依而。加〈尓〉加久〈尓〉年〈乃〉六年〈乎〉試賜使賜〈氐〉此皇后位〈乎〉授賜。然〈毛〉朕時〈乃未尓波〉不有。難波高津宮御宇大鷦鷯天皇葛城曾豆比古女子伊波乃比賣命皇后〈止〉御相坐而食國天下之政治賜行賜〈家利〉。今米豆良可〈尓〉新〈伎〉政者不有。本〈由理〉行來迹事〈曾止〉詔勅聞宣。」既而中納言從三位阿倍朝臣廣庭更宣勅曰。天皇詔旨今勅御事法者常事〈尓波〉不有。武都事〈止〉思坐故猶在〈倍伎〉物〈尓〉有〈礼夜止〉思行〈之氐〉大御物賜〈久止〉宣。」賜親王絁三百疋。大納言二百疋。中納言一百疋。三位八十疋。四位卅疋。五位廿疋。六位五疋。内親王一百疋。内命婦三位六十疋。四位一十五疋。五位一十疋。
八月五日に天皇が大極殿に出御して以下のように詔されている(以下宣命体)。概略は、現つ御神として天下を統治する倭根子天皇の仰るお言葉を親王・諸王・臣下・百官人及び天下の公民を皆承れ、と申し渡す。高天原より降臨された天皇から始まって、この高御座にあって天地八方を治め調和させることは、天皇が聖人であり、賢明な臣下がお仕えして、人民が安穏に生活してこそ、天地の大瑞が現れてくるものである。このように言うのは、天皇である朕も聞き覚えている知識は乏しく、見覚えている善い行いは少ないので、臣下として仕える者も一つ二つの落ち度があろう。我が太上天皇の御前でかしこまってお尋ねすることは、「公卿等が問い尋ねる政治にこう答える、それともこう答える」と、また「誰を官職に任じるか」と申し上げると、教え導いて下さる。そうこうしていると京職大夫の藤原朝臣麻呂(萬里)等が文字を背に記した龜一匹を献上して来た。驚き怪しく思ったが、実際に見てみると、歓びめでたいものと判り、これは朕の政治が良いからか、また、太上天皇の厚く広い德を蒙ったことによって出現した大瑞の物であろう。言葉をあらためておっしゃるには、この大瑞は天におられる神と地におられる神が共に良しと祝福したことによって確かに出現した瑞であると、神として思う。そこで神龜六年を改めて天平元年とし、天下に大赦の令を下し、百官のうちの主典以上の人等の位階を一階上げることを初めとして、一つ二つの慶賀の大命を下し、恵みを施行する、と仰るお言葉を皆承れと申し渡す。
賜り物は、親王、大納言、三位、四位、五位、正六位上にそれぞれ絁などを賜っている。定員内の散位の者、左右の大舎人、六衛府の舎人、中宮職の舎人、諸司に勤める長上官、及び史生に、また、使部・伴造・門部・主帥には、それぞれ麻布を与えている。女孺と采女は大舎人に、宮人は使部に、それぞれ准じることとする。
また、人民のうち八十歳以上の高齢者、孝子・順孫・節婦、鰥・寡・惸・独、病気により自活ができない者については和銅元年の格によるものとする。また左右両京の今年の田租、在京の僧尼の父が今年出すべき租税、京から大宰府までの路次の駅戸の祖・調と、神龜三年以前の貸付稲の未返納分は免除している。また陸奥の鎮守府の兵士と、三關(鈴鹿・不破・愛發)を守固する兵士は軍法に当て嵌まっているか、敵に対して威力を振るっているか、死の危険をおかし生命を顧みず戦っているか等の状況と、併せて姓名・年齢・本籍・従軍の年数を詳しく記録し、この問題に限る特別の使者を任命して奏上せよ、と命じている。また諸衛府の中で武芸を讃えるべき者もその名を奏聞せよ、と述べている。
また、先帝の陵墓には使者を遣わして幣帛を進上するが、諸陵司を改めて寮に格上げし、その定員と俸給を増やせ、と命じている。また諸國の天神地祇は国の長官に祭祀を行わせよ。従来定められている以外に祭るべき山川の神があれば、これを許す。そして祝部の今年の租を免除せよ、と述べている。また近江國の「紫郷山寺」を官寺とする。また、天皇から数えて五世の王の嫡子以上の者が、天皇の孫を娶って産んだ男女は、皇親の範囲に入れる。その他のことは慶雲三年の格によるものとする。
その祥瑞の龜を捕えた河内國古市郡の人、「賀茂子虫」に従六位上を授け、更に絁・稻などを与えている。また、以下のように勅されている。唐僧の「道栄」(こちらに関連記事あり)は、体は中国に生まれながら、心では天皇の德化を慕い、はるばる大海を渡って、我が国の法師となった。その上、「子虫」を教導して大瑞を献上させた。従五位下の位階になぞらえて緋色の袈裟と物を施すことにする。
二十四日に五位の官人と諸司の長官を内裏に呼び入れて、知太政官事の舎人親王が天皇の勅を述べている(宣命体)。天皇のお言葉であると、親王等、また汝等諸王等、臣下に語ってやれと仰せられるには、天皇である朕が高御座に初めて就いてから今年に至るまで六年を経た。この間、天皇の位を継ぐべき順の者として皇太子があった。これにより母である藤原夫人を皇后と定める。これは天皇である朕の身にも年月が重なって来たからである。天下の君主として長い年月の間、皇后がいないのも、一つの善くないことである。また天下の政にあっては朕一人で処理すべきではなく、必ず後の政(内助)があるべきである。これは特別なことではない。天に日月があり地に山川があるように、二人並んであるべきであるということは、汝等王臣等も良く見知っているところである。然るにこの皇后の位をこのように遅くなって定めたのは、吾が家を任せる妻を、一日二日をかけて選び、十日二十日かけて試み定めるというから重大な天下の事を軽々しく行ったりはすまいと思って、この六年間選び試み、今日目の前に皆を召し入れて、細かに事の様子を話すのであると仰せになるお言葉を、皆承れと申し渡す。
このように仰せになるのは、恐れ多いこの平城の宮にあって、現つ御神として大八洲国を治めになった倭根子天皇、即ち我が祖母である天皇(元明天皇)が初めてこの皇后を朕に給わった日に、次のように言われた。「女と言えば皆同じであるから、自分がこのようにいうかと言えば、そうではない。この女の父である不比等大臣が力を添えて天皇をお助けし、敬い慎んでお仕え申し上げつつ、夜中や暁にも休息することなく、浄く明るい心をもって仕えているので、その人の悦ばしい性格や勤勉なことを忘れることができない。親愛な我が王よ、この忠臣の娘に過ちがなく罪がなければ、お捨てになるな、お忘れになるな」と仰せられたお言葉に従って、あれこれと六年をかけて試み使ってみて、皇后の位を授けるのである。
このようなことをするのは(非皇族を皇后にすること)、朕の世だけではない。難波の高津宮にあって統治された大鷦鷯天皇(仁徳天皇)は、葛城の曽豆比古の娘、伊波乃比売(磐之媛)命を皇后として結婚されて、天皇の統治すべきこの国の天下の政をお治めになった。故に今時の珍しく新しい政ではなく昔から行ってきた先例のあることであるぞ、と仰せられるお言葉を皆承れと申し渡す。
続いて中納言の阿倍朝臣廣庭(首名に併記)が更に天皇の勅を述べている。天皇の言葉として今申し渡した詔は、尋常の事ではない。汝等を親しく思う故に、この何もせずに済ますべきことはあるまいと思って、大御物(天皇の物)を禄として賜うのであると申し渡す。親王、大納言、中納言、三位、四位、五位、六位、内親王、内命婦の三位、四位、五位にそれぞれ絁を賜っている。
<近江國紫郷山寺> |
近江國紫郷山寺
大寶元(701)年八月に「太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物」と記載されていた近江國志我山寺の別称と知られている。
他にも「志賀山寺」と称されていたとも言われるが、ここで官寺にするほどの寺である以上それなりの由緒ある地に建てられていたのであろう。「志賀(蛇行する川が流れる押し開かれた谷間)」は古事記の若帶日子命(成務天皇)の近淡海之志賀高穴穂宮があった地名であり、「志我」は「蛇行する川が作るギザギザとした台地の形状」を表わしていると解釈した。
頻出の「紫」=「此+糸」=「谷間を挟んで(此)山稜が長く延びている(糸)様」と解釈した。「郷(鄕)」は、郷里を示す表記としてそれなりに頻度高く登場している文字であるが、地形象形表記として用いられた例としては、初めてではなかろうか。少し字源に立ち返って解釈してみよう。
「鄕」=「乡+皀+邑」と分解すると、「乡」=「邑の鏡文字」と解説され、この文字が「人々の住まう邑が合わさって賑わっている様」を表していると解釈される。地形象形的には「鄕」=「丸く区切られた地が間に鏡があるかのように寄り合わさっている様」となる。纏めると紫鄕=谷間を挟んで長く延びる山稜の麓で丸く区切られた地が間に鏡があるかのように寄り合わさっているところと読み解ける。
図の山稜の端が細く延びた形が、鏡像のように並んでいる様子が伺える。この文字が使えることを着眼した人は、してやったり、だったのではなかろうか。地形は見る角度によって極めて特徴的な表現となるのである。ともあれ、今回の名称が最も全体的な表現であることが解る。
<賀茂子蟲> |
● 賀茂子虫
「賀茂朝臣」と関係あるや否やではなく、河内國古市郡に「賀茂」の地形があったと理解すべきであろう。また、「毛受」と結び付けてみることも、結果として「毛受」の地にあるかもしれないが。
先ずは、河内國古市郡の地形に「賀茂」があるのか?…であろう。その地形は、賀茂=押し広げられた谷間を覆いかぶせるように山稜が延びているところと解釈した。すると、古事記の水齒別命(反正天皇)陵があったと記載された毛受野に見出せる。
「賀茂朝臣」の地からすると何とも小ぶりな「賀茂」であるが、地形要素はしっかりと保持されているように思われる。現在は広大な牧場地となっているが、国土地理院写真(1961~9年)を参照すると、まだ谷間に棚田、山稜は畑地のような状態であったことが分る。
「蟲」=「山稜の端が三つに岐れた様」と解釈したが、子蟲=生え出た山稜が三つに岐れたところと読み解ける。図に示したように、端ではなく、「賀茂」の途中から延び出ている山稜を表していることが解る。山崎川の川辺近傍ではなく、少し奥まった谷間に面したところが出自の場所と推定される。最もらしい場所であろう。
たった”一匹の龜”を捕えただけで従六位上の爵位を授けられて、背中の文字を読めなかった筈もないが、高僧の指導を受けて解読に成功・・・と読んでしまっては、もう一人の登場人物、京職大夫の担当分が欠落していることになる。この龜は「左京」に棲息していたからである。藤原朝臣麻呂を記載したのは、續紀編者のちょっとした心配りであろう。それも空しく、相変わらず”一匹の龜”と解釈されているようである。
● 多治比眞人多夫勢
この人物は、正六位上から従五位下と通例の昇位であり、既に高位の爵位を持つからにはそれなりの系譜があったと推測されるが、不詳のようである。
「多治比眞人」の地で名前が示す地形を探してみよう。思いの外容易に見出せたのだが、この地は無数の山稜が尾根から延びているにも関らず、実は交差するようになっている場所は、一に特定されるのである。
頻出の文字列である、多夫勢=山稜の端(多)が寄り集まっている(夫)傍らに丸く小高い地(勢)があるところと読み解ける。前出の吉備・吉提の谷間の端に当たる場所と推定される。その配置ならば、「麻呂」の系列(年代的には孫)のようにも思われるが、定かではないようである。
尚、この人物には倓世の別名があったようで、「倓」=「人+炎」=「谷間にある[炎]のような様」と解釈され、合わせると倓世=谷間にある炎のような地に繋がるところと読み解ける。吉備(夜部)で表される山稜が並んでいる様を「炎」と見做した命名と思われる。やはり、吉備の子、かもしれない。
現在は貯水池となっている。多分、当時は奥が大きく広がった谷間であったと推測される。国土地理院写真(1961~9年)を参照すると、まだゴルフ場開発は行われておらず、池は既に見られるが、それらしき地形を確認することができる。
後に多治比眞人伯が従五位下に叙爵されて登場する。”外”が付かないことから、身元は、はっきりしていたが、上記と同様に系譜は伝わっていないようである。と言うことで、頻出の伯=人+白=谷間がくっ付く様の場所を探すと、図に示した辺り、「廣成」の南に接する地と思われる。
● 藤原朝臣鳥養
藤原四家の北家、「房前」の長男と知られる。当然、”外”が付く筈もなくの叙位である。勿論、「不比等」の孫であり、藤原朝臣一族の将来を担う出自となる。
大伴・佐伯一族と同じく、狭い谷間に蔓延った一族であり、地図は勢い拡大図となる。「房前」の出自の場所は、その谷間が交差するところであり、背面は急峻な崖の麓となる。
北側の谷間を見ると、「鎌」の先が突き出た場所であり、その先端を鳥で表したと思われる。行程が少なく、明瞭な地形を伺うことは叶わないが、国土地理院写真(1961~9年)を参照すると、その山稜の先端に三角形の鳥の形がくっ付いていることが確認される。
頻出の養=羊+良=谷間の先がなだらかになっている様であり、図に示した地形を表し、その場所が鳥養の出自と推定される。この地は、天智天皇紀の右大臣、中臣金連の出自と推定した場所であるが、『壬申の乱』後に斬首され、一族は配流されたと記載されていた。そこに「房前」の子孫が入って行ったのであろう。
後に兄弟が続々と登場することになる。長男の「鳥養」の活躍見られず、夭折したと考えられているようである。多くは大臣・大納言などを歴任したとのことである。各人の出自の場所を求めてみよう。次男の藤原朝臣永手の永手=山稜が長く延びた手のようなところとすると、「鳥養」の東側下手の三角州を表していると思われる。
三男の藤原朝臣眞楯の眞楯=谷間を塞ぐように延びる山稜が寄り集まって窪んでいるところと読み解ける。谷間を北に遡った場所に「楯」のような地形が並んでいる場所が見出せる。初名の八束=二つに岐れた山稜を束ねるようなところと解釈すると同一場所の別称であることが解る。四男の藤原朝臣淸河の淸河=水辺で四角く区切られた地が谷間の入口にあるところと読み解ける。これも難なく図に示した場所と推定される。
五男の藤原朝臣魚名の「魚」は、多くの例では「灬」の部分に注目した地形象形であるが、ここでは「魚」の頭部及び口の形に着目したのではなかろうか。三角の頭部に尖った口が付いた地形と見做せる。これも一つの象形法であろう。五兄弟、見事に狭い谷間に収まったようである。
九月庚寅。仰大宰府令進調綿一十万屯。辛丑。陸奧鎭守將軍從四位下大野朝臣東人等言。在鎭兵人勤功可録。請授官位勸其後人。勅宜一列卅人各進二級。二列七十四人各一級。三列九十六人各布十常。乙夘。正四位下葛城王爲左大弁。正四位下大伴宿祢道足爲右大弁。正三位藤原朝臣房前爲中務卿。從四位下小野朝臣牛養爲皇后宮大夫。正四位下長田王爲衛門督。
冬十月戊午朔。日有蝕之。甲子。以辨淨法師爲大僧都。神叡法師爲少僧都。道慈法師爲律師。
九月三日に大宰府に命じて調の真綿十万屯を進上させている。十四日に陸奥鎮守将軍の大野朝臣東人等が次のように言上している。鎮守府の兵士と人民のうち、勤務ぶりや軍功を記録してもよいほどの者には、官位を授与して後輩たちの励みとさせたい、と述べ、天皇は次のように、功績第一等の者三十人は二級特進とし、第二等の者七十四人は一級進め、第三等の者九十六人には麻布十器常を与える、と勅されている。二十八日に葛城王を左大弁、大伴宿祢道足を右大弁、藤原朝臣房前を中務卿、小野朝臣牛養(毛野に併記)を皇后宮大夫、長田王(六人部王に併記)を衛門督に任じている。
十月一日に日蝕があったと記している。七日に辨淨法師を大僧都、神叡法師を少僧都、道慈法師を律師に任じている。養老三(719)年十一月に「神叡法師」と「道慈法師」の逸話と、共に知恵と德行を備えた僧として顕彰されたと記載されていた(詳細はこちら参照)。
十一月癸巳。任京及畿内班田司。」太政官奏。親王及五位已上。諸王臣等位田。功田。賜田并寺家神家地者不須改易。便給本地。其位田者如有情願以上易上者。計本田數任聽給之。以中換上者不合与理。縱有聽許。爲民要須者。先給貧家。其賜田人先入賜例。見無實地者。所司即与處分。位田亦同。餘依令條。其職田者民部預計合給田數。隨地寛狹取中上田。一分畿内。一分外國。隨闕收授。勿使爭求膏腴之地。」又諸國等前任之日。開墾水田者。從養老七年以來。不論本加功人轉買得家。皆咸還收。便給土人。若有其身未得遷替者。依常聽佃。自餘開墾者一依養老七年格。」又阿波國山背國陸田者不問高下。皆悉還公。即給當土百姓。但在山背國三位已上陸田者。具録町段附使上奏。以外盡收。開荒爲熟。兩國並聽。」其勅賜及功者。不入還收之限。並許之。
十一月七日に京と畿内の班田司を任じている。太政官が次のように奏上している。概略は、親王と五位以上の諸王・臣下等に与えた位田・功田・賜田と寺家・神家の地(寺田・神田)は、班田に該当し、他の場所に改め易えて班給すべきではなく、元の場所で給すべきである。しかし位田はもし上田を他の地にある上田に易えたいと願い出る者があるなら、元の田の面積を測って希望通りに班給することを許可する。但し、中田を以って上田と交換したいという場合は道理として与えてはならない。たとえ一旦許可しても、それが人民にとって必要ならば、先ず貧家に班給する。賜田を給される人は、優先して与える扱いとする。現に賜田に宛てる土地がなければ担当の司が相談して決定する。位田も同様にし、その他の令の規定に従うようにする。職田は民部省があらかじめ支給すべき田の面積を計算し、土地の広い狭いに応じて中田・上田をとり、半分は畿内に半分は畿外に国に設定し、欠員が生じれば前任者の田を収めて、別の任官者に授け、肥えた上等の土地を争い求めさせてはならない。
また諸國の國司等が、かつて任期中に水田を開墾した場合は、養老七年以降は、実際に労働力を投下して得たものと金銭で買得したものとを論ぜずに任期終了時に皆収公して、その國の人民に班給する。もしまだ転任できないものがおれば、それまで通りに田地を耕作することを許可する。その他の開墾については全く養老七年の格に従うこととする。
また阿波國と山背國の陸田は、現在の所有者の身分の高下を問わず全て収公して、そのまま当國の人民に班給する。但し、山背國にある三位以上の者の陸田は、詳細に面積を記録し使者に授けて上奏し、それ以外の者の陸田は全て収公する。また荒地を開いて良い陸田とした場合は、両國とも所有を許す。勅によって賜った陸田と、功績によって与えられた陸田は、収公の扱いとはしない、と述べ、いずれも許されている。