天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(12)
天平二年(西暦730年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
二年春正月丙戌朔。廢朝。雨也。丁亥。天皇御大極殿受朝。壬辰。宴五位已上於中朝。賜祿有差。辛丑。天皇御大安殿宴五位已上。晩頭。移幸皇后宮。百官主典已上陪從踏歌。且奏且行。引入宮裏。以賜酒食。因令探短籍。書以仁義禮智信五字。隨其字而賜物。得仁者絁也。義者絲也。礼者綿也。智者布也。信者段常布也。辛亥。陸奧國言。部下田夷村蝦夷等。永悛賊心。既從教喩。請建郡家于田夷村。同爲百姓者。許之。
二月丁巳。釋奠。詔遣右中辨正五位下中臣朝臣廣見。就大學寮宣勅。慰勞博士學生等勸勉其業。仍賜物有差。
正月一日の朝賀は、雨のために廃止されている。二日、天皇は大極殿に出御して朝賀を受けている。七日に五位以上の者と中朝殿で宴を行い、そのぞれに禄を賜っている。
十六日に天皇は大安殿に出御して五位以上の官人を宴に招き、夕暮れに皇后宮に移っている。百官の主典以上の人々が付き従い、踊り歌い、音楽を奏でつつ皇后宮に向かっている。彼等を皇后宮内に引き入れ、酒食を賜い、短籍(札)を引かせた。札には仁義礼智信の五字(その一文字)が記されていて、その字によって物を賜っている。仁は絁、義は絹糸、礼は真綿、智は麻布、信は一段の常布とされていた。
二十六日に陸奥國が次のように言上している。管轄下にある「田夷村」の蝦夷等は久しい以前から反逆心を捨てて、既に教導に従っている。そこで「田夷村」に郡役所を作り、新郡を建てて蝦夷を百姓(公民)にしたい、と述べて、許されている。
陸奥國の中で「田夷」の地形の場所にあった村であろう。これに含まれる「夷」は、間違いなく陸奥蝦夷の「夷」と思われる。夷=大+弓=平らで弓形に区切られた様と解釈する。
地図では省略しているが、当時は、現在の松ヶ江小学校辺りまで海面下であったと推測される。複雑に入り組んだ海岸線に延びた山稜が崖のようになっていたのではなかろう。通説では、「田夷」は平野部の「蝦夷」を意味すると解釈されている。だが、漠然とした意味では”郡建て”は不可であろう。
陸奥國は分割されたり、郡を起こしたり、きめ細かく統治されていた様子が伺える。遥か彼方の遠国の地のことでは、決して、ない。大臣蘇我臣蝦夷、鴨君蝦夷のように人名にも用いられた「蝦夷」の解釈は、その根本から見直すべきかと思われる。
三月丁亥。天皇御松林宮。宴五位以上。引文章生等令賦曲水。賜絁布有差。辛夘。大宰府言。大隅薩摩兩國百姓。建國以來。未曾班田。其所有田悉是墾田。相承爲佃。不願改動。若從班授。恐多喧訴。於是隨舊不動。各令自佃焉。丁酉。周防國熊毛郡牛嶋西汀。吉敷郡達理山所出銅。試加冶練。並堪爲用。便令當國採冶。以充長門鑄錢。庚子。熒惑畫見。辛亥。太政官奏稱。大學生徒既經歳月習業庸淺。猶難博達。實是家道困窮無物資給。雖有好學。不堪遂志。望請。選性識聡惠藝業優長者十人以下五人以上專精學問。以加善誘。仍賜夏冬服并食料。又陰陽醫術及七曜頒暦等類。國家要道。不得廢闕。但見諸博士。年齒衰老。若不教授。恐致絶業。望仰。吉田連宜。大津連首。御立連清道。難波連吉成。山口忌寸田主。私部首石村。志斐連三田次等七人。各取弟子將令習業。其時服食料亦准大學生。其生徒陰陽醫術各三人。曜暦各二人。又諸蕃異域。風俗不同。若無譯語。難以通事。仍仰粟田朝臣馬養。播磨直乙安。陽胡史眞身。秦忌寸朝元。文元貞等五人。各取弟子二人令習漢語者。詔並許之。
三月三日に天皇は松林宮(元興寺に併記)に出御して五位以上の者と宴を行っている。文章生等を招き曲水の詩を作らせ、出来栄えや身分に応じて絁と麻布を与えている。七日に大宰府が以下のように言上している。大隅・薩摩両國の民は、國を建てて以来、班田されたことがない。所有する田地は全て荒地を開拓した墾田であって、祖先から受け継ぎ耕作をしており、田地の移動を願っていない。もし班田収受を行えば、恐らく騒がしい訴えが相次ぐことであろう。そこで旧制のままで田地の移動は行わず、それぞれ耕作させたい、と思う。」
十三日に周防國熊毛郡「牛嶋」の「西汀」と、「吉敷郡」の「達理山」から産出する銅を冶金・精錬してみると、使用に堪えることが分った。そこで周防國に採鉱・冶金を命じ、長門國での鑄錢に充てている。十六日に熒惑(火星)が昼に見えている。
二十七日に太政官が次のように上奏している。概略は、大学に在籍する生徒の中には、年月を経ても身に付いた学業が浅薄な者がいる。真に家が貧しく生徒の学費を充分に出すことができなければ、学問を好んでいてもその志を遂げることができない。生まれつき知恵がさとく学業の優良な者五~十人選び、専一に学問を精進させ後進への善き誘いにしたいと思う。そこで夏冬の服装と食料を支給して頂きたい。
また陰陽・医術・七曜(天文学)・頒歷(暦の作成)等の学術は、国家のかなめの道であり、欠くことはできない。ただ指導する博士達が高齢で老衰しており、今の内に学術を教授しておかないと、これらの業が絶えてしまうことになる。そこで次のことを、吉田連宜(吉宜、智首に併記)・大津連首(意毘登)・御立連清道(呉肅胡明)・難波連吉成(谷那庚受)・山口忌寸田主・私部首石村・志斐連三田次(悉斐連三田次、文部此人に併記)等七人は、それぞれ弟子をとらせて学業を教授させる。弟子達の季節ごとの服装と食料は大学生に准じる。その生徒数は陰陽・医術は各三人、七曜・頒歷は各二人とする。
また蕃國は、國も違い風俗も様々であり、通訳がいなければ事を通じことができない。そこで粟田朝臣馬養・播磨直乙安(弟兄)・陽胡史眞身・秦忌寸朝元・文元貞(東漢一族か?)等五人に命じて各々弟子を二人とり、漢語を習わせたいと思う、と述べ、全て許されている。
<周防國熊毛郡:牛嶋西汀> |
周防國熊毛郡:牛嶋西汀
周防國熊毛郡は、既に登場していて、分割して玖珂郡を設置したと記載されていた。現地名は宗像市曲であり、毛(鱗)状の地形がある場所と推定した。
古事記の多紀理毘賣命(奥津嶋比賣命)が坐した胸形之奥津宮があった地である。勿論、そんな事はおくびにも出さず、淡々と記述されていたわけである。
牛嶋は、正に「奥津嶋」に当たると思われるが、図を確認すると、嶋の西方の山稜が牛の形をしていることが分る。確かに、そう言われればの感があるが、無理のない象形ではなかろうか。胴体部分だけでは、「馬」との区別がつき難いが、更によく見ると、ちゃんと「角」が生えていることが解る。
ここまでの表記で十分なのだが、西汀が付加されている。「汀」=「氵+丁」と分解され、「水際」を表し、通常「渚」と同義と解釈されている。「嶋」であるから至る所に「渚」がある筈で、それを承知で「汀」の文字を選択したのであろう。
「丁」は、それに組合わされる文字要素によって「丅」形あるいは「丄」形に解釈される。例えば「成」=「丁+戊」=「平らに盛り上げた様」(丅)、「亭」=「丁+高」=「高い建物」(丄)などがある。後者と解釈すると西汀=西端にある水辺で高く盛り上がったところを表していると読み解ける。銅が産出する”水辺の山”を「汀」の一文字で表しているのである。
<周防國吉敷郡:達理山> |
周防國吉敷郡:達理山
「周防國吉敷郡」は初出である。「吉敷」に含まれる「吉」=「蓋+囗」=「蓋のように山稜が延びている様」を頼りに、探すと周防國の東端にある地形がどうやらそれらしいことが解った。
しかしながら、広大な団地が開発されて、当時の面影を全く伺うことが叶わない有様であることも確認された。多分、その団地は1960年代以降に造成されたと信じて、国土地理院写真1961~9年を調べると、予想の通り、丘陵地帯に多くの山稜と、その間の谷間が並ぶ地形をしていたことが判った。
大きく広がって延びた山稜(敷)に「蓋」をするように延びている山稜(吉)があり、吉敷が表す地形を示していると思われる。確かに「蓋」の地形は特徴的ではあるが、随所に見られる地形でもある。「吉」の文字が頻出するのは、自然が造る地形の相似性に由来すると思われる。
慶雲三(706)年七月に「周防國守從七位下引田朝臣秋庭等獻白鹿」と記載された白鹿の東側の角に該当する地である。変形した場所でも鹿の角ならば何とか推測できたわけである。
そうすると達理山の所在も、極めて容易に求めることが可能となった。「達」=「辶+大+羊」と分解される。地形象形的には「達」=「平らな頂の麓で谷間が延びている様」と解釈される。「理」=「王+里」=「区切られている様」であり、纏めると達理山=平らな頂の麓の谷間で山稜が区切られてできた山と読み解ける。
それにしても、ものの見事に削られて痕跡も残っていない山となったようである。1960年代の国土開発の凄まじさを目の当たりにしている気分である。古代を復元することが益々困難な状況になって行くのであろうか・・・。
夏四月甲子。太政官處分。畿内七道諸國主典已上。雖各職掌。至於行事。必應共知。或國司等私造税帳。竟後取署。不肯署名。因此上下觸事相違。又大税收納不得輕忽。進税帳日。不問穎穀。倉別署主當官人名。又國内所出珍奇口味等物。國郡司蔽匿不進。亦有因乏少而不進。自今以後。物雖乏少。不限驛傳。任便貢進。國内施行雜事。主典已上共知。其史生預事有失。科罪亦同也。庚午。詔曰。聖人大寳曰位。因茲嚮重明。以聽民風。理財正辞曰義。所以裁衣裳而齊時俗。安不之事在予一人。自今以後。天下婦女。改舊衣服施用新樣。永言念茲。懋允所職。公卿百寮豈不愼歟。辛未。始置皇后宮職施藥院。令諸國以職封并大臣家封戸庸物充價。買取草藥。毎年進之。
四月十日に太政官が次のように処分している。畿内及び七道の諸國の主典以上は、それぞれ職掌が異なっていても共同で事を処理すべきである。ところが他に知らせずに税帳を作り、同僚の國司に署名を求めても得られないことがある。また大税の収納は軽々しく行うべきではない。税帳を中央に提出する際には、頴(稲の穂束)と穀とを問わず倉庫ごとに担当責任者の官人名を署せ。また国内で産出する珍奇な食料品などを國郡司がかくして貢上しないことがある。また産出が少量なので貢上しないこともある。今後は、これらの物は少量であっても、駅馬・伝馬に限らず都合の良い手段で貢上せよ。また国内で施行するさまざまな事は、主典以上の官人が共同して関与せよ。史生が事を処理して失策があれば、主典以上の國司にも同様の罰を加えることとする。
十六日に以下のように詔されている。聖人の大きな宝は天子の位である。聖人はこの位をよりどころとして、日月に向かい、民の風俗を聞いた。財を管理し、正邪を正すのを義と言う。故に聖人は衣裳を作って、その時代の風俗を整えた。風俗の安定は、朕一人にかかっている。そこで今後、全国の婦女は旧制の衣服を改めて新制を用いよ。よくよく風俗の重要なことを忘れず職務を勤めよ。公卿と百官の人等も同じである。十七日に初めて皇后宮職の内に施薬院を設けている。諸國に命じて皇后宮職の封戸(二千戸)と太政大臣家の封戸の収入の内、庸の品物の代価にあてて、薬草を買い取り、毎年これを進上させている。
六月甲寅朔。太政官處分。自今以後。史生已上上日數。毎月讀申長官。如長官不參。讀申大納言。庚辰。縁旱令検校四畿内水田陸田。」神祇官曹司災。壬午。雷雨。神祇官屋災。往往人畜震死。
閏六月甲午。制。奉幣伊勢大神宮者。卜食五位已上充使。不須六位已下。庚子。縁去月霹靂。勅新田部親王。率神祇官卜之。乃遣使奉幣於畿内七道諸社。以礼謝焉。庚戌。勅。比者亢陽稍盛。思量年穀不登。宜遣使者四畿内。令検百姓産業矣。
秋七月癸亥。詔曰。供給齋宮年料。自今以後皆用官物。不得依舊充用神戸庸調等物。其大神宮祢宜二人進位二階。内人六人一階。莫問年之長幼。
八月己丑。太白入大微中。辛亥。遣渤海使正六位上引田朝臣虫麻呂等來歸。
六月一日に太政官が「今後は史生以上の官人の出勤日数を毎月長官に読み上げて報告せよ。もし長官が不在なら大納言に報告せよ」と処分している。神祇官の事務を執る建物に火災があった。二十七日に日照りのため畿内四ヶ國の田畑の状況を巡検させている。二十九日に雷雨があり、神祇官の建物に火災が発生し、人畜の中には落雷によって落命した者があった、と記している。
閏六月十一日に以下のように制している。「幣帛を伊勢大神宮に奉るには、五位以上の者で亀卜により適当とされた者を使者に充て、六位以下の者を充ててはならない」十七日に先月の落雷のため、新田部親王に勅し、神祇官の役人を率いてこの事を卜わせている。それにより使者を遣わして全国の神社に奉幣し、礼拝陳謝させている。二十七日に以下のように勅されている。「此の頃日照りが続き、穀物の不作が予想される。そこで使者を畿内四ヶ國に派遣して民の農業の状況を巡検せよ」
七月十一日に以下のように詔されている。「伊勢の齋宮に供給する毎年必要な物資は、今後みな官物を用いて整えるようにせよ。旧例に従い神戸の納める庸・調などの物資を宛ててはならない。また大神宮の禰宜二人について、その位階を二階上げ、内人六人には一階を上げよ。年齢の長幼を問うてはならない。」
八月七日に太白(金星)が太微宮に入っている。二十九日に遣渤海使の引田朝臣虫麻呂等が帰朝している。
九月壬子朔。日有蝕之。癸丑。天皇御中宮。虫麻呂等獻渤海郡王信物。己未。從二位大納言多冶比眞人池守薨。左大臣正二位嶋之第一子也。丙子。遣使以渤海郡信物。令獻山陵六所。并祭故太政大臣藤原朝臣墓。戊寅。正四位下葛城王。從四位下小野朝臣牛養。任催造司監。本官如故。己夘。停諸國防人。庚辰。詔曰。京及諸國多有盜賊。或捉人家劫掠。或在海中侵奪。蠧害百姓莫甚於此。宜令所在官司嚴加捉搦必使擒獲。又安藝周防國人等妄説禍福。多集人衆。妖祠死魂。云有所祈。又近京左側山原。聚集多人妖言惑衆。多則萬人。少乃數千。如此徒深違憲法。若更因循爲害滋甚。自今以後。勿使更然。又造阹多捕禽獸者。先朝禁斷。擅發兵馬人衆者。當今不聽。而諸國仍作阹籬。擅發人兵。殺害猪鹿。計無頭數。非直多害生命。實亦違犯章程。宜頒諸道並須禁斷。
九月一日に日蝕があったと記してる。二日に天皇は中宮に出御して、引田朝臣虫麻呂等が渤海郡王の進物を献上している。八日、大納言の「多治比眞人池守」が亡くなっている。文武朝の左大臣「嶋」の第一子であった(こちら参照)。二十五日に使者を派遣して渤海郡の進物を六ヶ所の山陵に献上し、併せて故太政大臣藤原朝臣不比等の墓を祭祀させている。
二十九日に次のように詔されている。「京と諸國に盗賊が多く発生している。あるいは人家に侵入して略奪し、あるいは海上において海賊行為をしている。人民をそこなう害としてこれよりひどいものはない。各地にある関係の官司に厳しく逮捕の手段をこうじさせ、必ず生け捕りにさせるべきである。また、安藝・周防両國の人の中には、みだりに禍福の因果を説き教え、多くの人を集め、死者の霊をまつり、祈祷する者がいるという。また京に左側の丘陵に多人数を集めて妖しげな説教で人を惑わす者がいる。多い時には一万人、少ない時でも数千人が集まっている。これらの者は甚だしく国法に背いている。もしこれ以上放置すれば人々の受ける害はますます大きくなる。今後はこのようなことを許してはならない。また、捕獲用の施設を作って多く鳥獣を捕まえることは、過去の天皇の時代から禁断している。また許可なく兵馬や人々を徴発することは当代でも許していない。ところが國々では、なお檻や垣根を作ったり、勝手に人や兵士を徴発して猪や鹿を捕え殺す者がいる。その頭数は数えきれないほどである。このことはただ生物の命を奪うだけでなく、まことに国法にも違反しているといわねばならない。諸道に朕の命を下して、二つとも禁断すべきである。」
冬十月乙酉。大僧都辨靜法師爲僧正。丙午。彈正尹從四位下酒部王卒。庚戌。遣使奉渤海信物於諸國名神社。
十一月丁巳。雷雨大風。折木發屋。
十月四日に大僧都の辨靜法師(前記の辨淨法師であろうが、出自は不明)を僧正に任じている。二十五日、彈正尹の酒部王が亡くなっている。二十九日に使者を國々の名神(国家にとって主要な格付け)の神社に派遣して、渤海からの進物を分かち奉っている。
十一月七日に雷雨と強風があり、樹木が折れ人家が損害を受けている。
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『續日本紀』巻十巻尾