天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(13)
天平三年(西暦731年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
三年春正月庚戌朔。天皇御中宮宴羣臣。美作國獻木連理。乙亥。神祇官奏。庭火御竃四時祭祀。永爲常例。丙子。授正三位大伴宿祢旅人從二位。從四位下門部王。春日王。佐爲王並從四位上。正五位上櫻井王從四位下。從五位下大井王從五位上。從四位下多治比眞人廣成。紀朝臣男人。大野朝臣東人並從四位上。正五位上大伴宿祢祖父麻呂從四位下。正五位下中臣朝臣廣見正五位上。從五位上石上朝臣勝雄。平群朝臣豊麻呂。小野朝臣老。從五位下石川朝臣比良夫並正五位下。從五位下波多眞人繼手。久米朝臣麻呂。石川朝臣夫子。高橋朝臣嶋主。村國連志我麻呂並從五位上。外從五位下巨勢朝臣奈氐麻呂。津嶋朝臣家道。正六位上石川朝臣加美。大伴宿祢兄麻呂並從五位下。正六位上息長眞人名代。當麻眞人廣人。巨曾倍朝臣足人。紀朝臣多麻呂。引田朝臣虫麻呂。巨勢朝臣又兄。大伴宿祢御助。佐伯宿祢人足。佐味朝臣足人。佐伯宿祢伊益。土師宿祢千村。箭集宿祢虫麻呂。物部韓國連廣足。船連藥。難波連吉成。田邊史廣足。葛井連廣成。高丘連河内。秦忌寸朝元並外從五位下。
正月一日に天皇は中宮に出御されて群臣と宴を行っている。美作國が「木連理」を献上している。二十六日に神祇官が「庭火・御竈は年中定例に祭り、いつまでも恒例としたい。」(こちら参照)と奏上している。
二十七日に、大伴宿祢旅人に從二位、門部王・春日王・佐爲王(狹井王。葛木王に併記)に從四位上、櫻井王に四位下、大井王に從五位上、多治比眞人廣成・紀朝臣男人・大野朝臣東人に從四位上、大伴宿祢祖父麻呂(牛養に併記)に從四位下、中臣朝臣廣見(兄の東人に併記)に正五位上、石上朝臣勝雄(勝男、堅魚)・平群朝臣豊麻呂(父親の子首に併記)・小野朝臣老(馬養に併記)・石川朝臣比良夫(枚夫)に正五位下、波多眞人繼手(足嶋に併記)・久米朝臣麻呂・石川朝臣夫子・高橋朝臣嶋主(廣嶋に併記)・村國連志我麻呂(小依の子、等志賣に併記)に從五位上、巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)・津嶋朝臣家道・石川朝臣加美(枚夫に併記)・「大伴宿祢兄麻呂」に從五位下、息長眞人名代(臣足に併記)・當麻眞人廣人(東人に併記)・巨曾倍朝臣足人(許曾倍朝臣陽麻呂に併記)・「紀朝臣多麻呂」・引田朝臣虫麻呂・巨勢朝臣又兄(少麻呂に併記)・「大伴宿祢御助」・「佐伯宿祢人足」・佐味朝臣足人(虫麻呂に併記)・「佐伯宿祢伊益」・土師宿祢千村(父親百村に併記)・箭集宿祢虫麻呂(蟲萬呂)・物部韓國連廣足(榎井倭麻呂に併記)・「船連藥」・難波連吉成・田邊史廣足(史部虫麻呂に併記)・葛井連廣成(白猪史廣成)・高丘連河内(樂浪河内)・秦忌寸朝元に外從五位下を授けている。
<美作國:木連理> |
美作國:木連理
「木連理」は、文武天皇紀以降に数多く出現してる”献上物”である。勿論『世界大百科事典』にある「根や幹は別々だが,枝がひとつに合わさっている木」と読んでしまっては、勿体ないことこの上なし、であろう。
以前に出現した例を挙げると、阿波國獻木連理、美濃國獻木連理并白鴈、近江國獻木連理十二株があった。途切れた尾根に向かう深い谷間を開拓したことを告げているのである。記紀・續紀は、正に国土開拓史と言える。
これら前例を同様な地形を求めると、図に示した場所に届く。当時は横切る谷間の東側半分は海面下であって、開拓したのは途切れた山稜の両端に見える細かな谷間だったと推測される。一方西側半分は、現在の海面近くまで開拓できたように思われるが、現地名は下関市吉母となっている。
美作國は、旧備前國の時代から、多くの献上物(赤烏、白鳩)があった地域であり、皇極(斉明)天皇、孝徳天皇の出自場所である吉備國を中心として広がって行った様子が伺える記述かと思われる。古事記で登場した吉備國関連の人物一覧はこちら参照。
● 大伴宿祢兄麻呂・御助
調べると「兄麻呂」は、『壬申の乱』の功臣、大納言(贈右大臣)御行の子であることが分かった。大臣長德一家、”外”の付かない従五位下からの叙爵は納得のところであろう。
頻出の兄=谷間の奥が広がった様と解釈したが、麓の御行の山の手にその地形を見出すことができる。幾度も目にしていた場所であるが、まさかの名称であった。そして「大伴一族」の”本貫”の地と確信したわけである。
一方の大伴宿祢御助に関しては、全く情報がなく、谷間を探索する羽目に至った。ところが、この狭い谷間に助=押し盛り上げられて小高くなった様を見出すことは叶わず、少し範囲を広げてみることにした。
すると「長德」の東側、広義にはこの地も大伴の谷間と見做せるが、幾つかの山稜の端が一段高くなった地形をしていることに気付かされた。更に国土地理院写真1961~9年を参照すると、現在の山口ダムとなる以前は、広大な棚田の様相であったことが伺える。「助」に囲まれた場所が御助の出自と推定される。
後に大伴宿祢麻呂・老人が外従五位下を叙爵されて登場する。何の修飾もなく「麻呂」は、「萬呂」と解釈してみると、「御助」の東側の山稜がその地形を示しているように思われる。更に東側の山稜が老=海老のように曲がっている様を示している。
また大伴宿祢首名が遣唐使の准判官であったと記載される。頻出の首名=山稜の端が首の付け根のようになっているところとすると、上記と同様に国土地理院写真を参照して、三人の人物の出自の場所と推定される。彼等は書紀の舒明天皇紀に登場した大伴鯨連の子孫のように思われるが、系譜が定かでなければ、”外”が付くのであろう(首名は從七位下)。
● 佐伯宿祢人足・佐伯宿祢伊益
「人足」は、調べると百足の子と分かった。東人の子が廣足で、その子が百足と言う系譜と知られている(こちら参照)。余り表舞台での活躍が見られなかった系譜の故か、”外”が付加されている。
父親の百足=山稜が[ムカデ]のようなところと読むが、それなりに頻度高く用いられる名前である。国土地理院の写真を参照すると、その地形が確認される。大伴・佐伯の谷間は、その西側の斜面を凄まじいばかりに開拓していたことが分かる。
人足=谷間が延びたところと解釈すると父親の南側辺りが出自の場所と推定される。これほどの急斜面に造られた棚田では、治水の工夫を如何に行っていたのか、極めて興味深いところであるが、またいずれ調べてみよう。蛇足ながら、足人=谷間に山稜が延びているところ、である。
兄弟に佐伯宿祢淨麻呂がいたと知られている。後に外従五位下を爵位されて登場する。幾度も用いられている淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様と解釈すると、図に示した「百足」と「人足」の間の山麓の地形を表してると思われる。これも年代別写真で明瞭に確認される地形であることが解る。
伊益=谷間に区切られた山稜が谷間に挟まれて平らに盛り上がったところと読み解ける。頻出の文字の組合せである。この地形が彼等の急斜面の中腹に見出せる。謀反人の嫌疑を掛けられた倉山田石川大臣一家の逃走ルート上にあったと推定した場所であった(こちら参照)。人の佇まいは、光陰矢の如しで忘却の彼方へと向かうのであろう。
<紀朝臣多麻呂-鹿人-小鹿> |
● 紀朝臣多麻呂
頻出の「紀朝臣」であるが、”外”から昇進させられるので、少し外れた系列のようである。と言っても全く関連情報は見当たらず、名前のみで出自の場所を探してみよう。
「多」=「山稜の端の三角の地(州)」と解釈して来たが、それでは至る所に存在することになり、もう少し異なる視点での解釈となると思われる。
あらためて「多」=「夕(月)+夕(月)」と分解すると、この文字形のように、多=端に三角州のある山稜が並んでいる様を表しているのではなかろうか。すると図に示した場所に綺麗に並んでいる地形が見出せる。書紀に登場した紀温湯と藤白坂の間にある谷間がこの人物の出自と推定される。
西側の谷間に「紀朝臣」一族の「大音」、また上記の大伴宿禰御行の妻であった「音那」の出自の場所がある(こちら参照)。紀一族の発祥の地と思われるが、久しく登場人物が見られなかった土地でもある。古事記では、木臣一族であり、建内宿禰の子、木角宿禰が祖となった場所、更に古くは、木國之大屋毘古神が坐していた地でもある。
少し後に紀朝臣鹿人が同じく外從五位下に叙爵されて登場する。「鹿」=「山麓」と解釈するが、この場合は鹿人=鹿の角のような山稜で挟まれた谷間と読み解くことにする。すると図に示した二つの山稜の間の長い谷間を表していると思われる。娘の小鹿は、谷奥の山稜の端が三角形(小)になっていることに依るのではなかろうか。
<船連藥・狹山下池> |
● 船連藥
「船連(史)」も、かなりの数の人物を輩出している地である。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保であり、「多治比眞人」一族の西側の山稜に囲まれた場所と推定した。
名前からその出自の場所を求めてみよう。藥=艸+絲+白+木=山稜に挟まれた谷間に丸く小高いところが連なっている様と解釈した。人名に、それなりの頻度で用いられている文字である。
通常の地形図では確認し辛いが、現在の航空写真を見ると、”船の尾”が点々と延びている様子が分る。この延びたところを藥と表現したと思われる。
書紀の欽明天皇紀に「船史」の謂れが記載されているが、わざわざ記録したのは、胡散臭いのである。図からも判るように「船」の地形は紛れもないところであり、この一族の出自の場所を曖昧にする目的だったのであろう。書紀の口車に乗せられた解釈しては、古代は曖昧模糊となるのである。
少し後に狹山下池を造ったと記載される。「丹比」の細長く延びた山稜を狹山と表現していると思われる。図に示した場所に、現在も池らしきところが見出せる。尚、その上に、多分狹山上池と名付けられていたであろう池が確認される。併せて図に示した。
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恒例の正月叙爵も、何とか無事に終えたようである。それなりの新人の登場であったが、全員すんなりと収まってくれて、一安心、ってところである。まだまだ、古事記の舞台から大きくはみ出ることはなさそうである。
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二月庚辰朔。日有蝕之。
三月乙夘。制。自今已後。習算出身。不解周髀者。只許留省焉。」廢諏方國并信濃國。
夏四月乙巳。正五位下平羣朝臣豊麻呂爲讃岐守。
五月辛酉。外從五位下巨勢朝臣又兄爲信濃守。從五位上布勢朝臣國足爲武藏守。從五位下大伴宿祢兄麻呂爲尾張守。外從五位下紀朝臣多麻呂爲上総守。
二月一日に日蝕があったと記している。
三月七日に、「今より以後は、算術を習得して官人に登用させながら、『周髀』(天文算法の書)を理解していない者は、式部省に留め置くことを許す。」と制定している。この日に諏方國を廃して信濃國に併合している。養老五(721)年六月に「割信濃國始置諏方國」と記載されていた(こちら参照)。十年後に、また元に戻したようである。
四月二十七日に平群朝臣豐麻呂(父親子首に併記)を讃岐守に任じている。
六月庚寅。以從五位下石川朝臣麻呂爲左少弁。從五位下阿倍朝臣粳虫爲圖書頭。外從五位下土師宿祢千村爲諸陵頭。外從五位下許曾倍朝臣足人爲大藏少輔。外從五位下引田朝臣虫麻呂爲主殿頭。外從五位下佐味朝臣足人爲中衛少將。外從五位下佐伯宿祢人足爲右衛士督。正五位下巨勢朝臣眞人爲大宰少貳。」紀伊國阿氐郡海水變如血。色經五日乃復。
六月十三日に、石川朝臣麻呂(君子に併記)を左少弁、阿倍朝臣粳虫を圖書頭、土師宿祢千村(父親百村に併記)を諸陵頭、許曾倍朝臣足人(陽麻呂に併記)を大藏少輔、引田朝臣虫麻呂等を主殿頭、佐味朝臣足人(虫麻呂に併記)を中衛少將、佐伯宿祢人足を右衛士督、巨勢朝臣眞人を大宰少貳に任じている。この日、「紀伊國阿氐郡」の海水が血のように変わったが、五日後に回復している。
「阿氐郡」は、書紀の持統天皇紀に記載された阿提郡(山稜が匙のように延びた台地からなる郡)と思われる。「氐」=「氏+一」と分解され、「氏」=「匙」を象った文字と知られている。勿論、この郡の東部は、当時は海に接する地形であったと推測され、”血のような海”は赤潮が発生したのかもしれない。
七月辛未。大納言從二位大伴宿祢旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫。大納言贈從二位安麻呂之第一子也。乙亥。定雅樂寮雜樂生員。大唐樂卅九人。百濟樂廿六人。高麗樂八人。新羅樂四人。度羅樂六十二人。諸縣舞八人。筑紫舞廿人。其大唐樂生不言夏蕃。取堪教習者。百濟高麗新羅等樂生並取當蕃堪學者。但度羅樂。諸縣。筑紫舞生並取樂戸。
七月二十五日に大納言の「大伴宿祢旅人」が亡くなっている。難波朝(孝徳天皇)の右大臣の「長徳」の孫、大納言の「安麻呂」の第一子であった(こちら参照)。二十九日に雅楽寮に各種の楽生の定員を定めている。大唐楽は三十九人、百濟楽は二十六人、高麗楽は八人、新羅楽は四人、度羅(耽羅)楽は六十二人、諸縣(日向國諸縣)舞は八人、筑紫舞は二十人である。大唐楽の楽生は日本人と外国人とを問わず教習能力のある者を採用し、百濟・高麗・新羅などの楽生は、それぞれその国の人で学ぶ能力のある者を採用する。但し、度羅楽・諸縣・筑紫舞の楽生・舞生は、それぞれ楽戸から採用する。
八月辛巳。引入諸司主典已上於内裏。一品舍人親王宣勅云。執事卿等或薨逝。或老病不堪理務。宜各舉所知可堪濟務者。癸未。主典已上三百九十六人詣闕上表。舉名以聞。詔曰。比年隨逐行基法師。優婆塞優婆夷等。如法修行者。男年六十一已上。女年五十五以上。咸聽入道。自餘持鉢行路者。仰所由司嚴加捉搦。其有遇父母夫喪。期年以内修行。勿論。丁亥。詔。依諸司舉。擢式部卿從三位藤原朝臣宇合。民部卿從三位多治比眞人縣守。兵部卿從三位藤原朝臣麻呂。大藏卿正四位上鈴鹿王。左大辨正四位下葛城王。右大弁正四位下大伴宿祢道足等六人。並爲參議。辛丑。詔曰。如聞。天地所貺。豊年最好。今歳登穀。朕甚嘉之。思与天下共受斯慶。宜免京及諸國今年田租之半。但淡路。阿波。譛岐。隱伎等國租并天平元年以往公私未納稻者。咸免除之。
八月五日に諸司の主典以上を内裏に引き入れて、舍人親王が勅を伝えている。「政務を担当している公卿等が死亡したり、老齢や病気になって、事務を管理することができなくなっている。各人が政務処理能力のある者を推薦せよ。」
七日に諸司の主典以上の三百九十六人が天皇のもとに詣って表を奉り、上記の勅に従って名を挙げて申し上げている。天皇が以下のように詔されている。「此の頃行基につき従っている優婆塞(仏教に帰依しているが、在俗のまま戒を受けた男子)や優婆夷(同左の女子)等で、法の定めるところに従って修行している者の内、男は六十一歳以上、女は五十五歳以上の者は、全て入道することを許可せよ。それ以外の、路上で托鉢を行う者は、所管の官司に連絡して、厳しく絡め捕らえよ。但し、父母・夫の喪にあって一年以内の者は論外とせよ。
十一日に以下のように詔されている。「諸司の推薦によって、式部卿の藤原朝臣宇合、民部卿の多治比眞人縣守、兵部卿の藤原朝臣麻呂(萬里)、大藏卿の鈴鹿王、左大弁の大伴宿祢道足等六人を抜擢して、それぞれ参議とする。」
二十五日に以下のように詔されている。「聞くところによると、天地の貺(賜物)としては、豊年が最も好いという。今年は穀物が稔り、朕は大変嬉しく思う。天下の民と共にこの喜びを享受したいと思う。そこで京及び諸國の今年の田租の半分を免除せよ。但し、淡路・阿波・讃岐・隠伎などの國の祖と、天平元年以前の公私の出挙で未納となったままの稲は、悉く免除する。
九月戊申。左右京職言。三位已上宅門。建於大路先已聽許。未審身薨。宅門若爲處分。勅。亡者宅門不在建例。癸酉。外從五位下高丘連河内爲右京亮。大納言正三位藤原朝臣武智麻呂爲兼大宰帥。