2017年6月4日日曜日

戒厳令の首都:バイオハザードと戦う神々〔045〕

戒厳令の首都:バイオハザードと戦う神


崇神天皇については、東方十二道に関連して大毘古命の活躍、その息子と、違ったルートでの相津(現在の北九州市門司区今津)での遭遇など、華やかな展開を読み下した。「天下太平」真に結構な時代に入った。「太」=「泰」なんでしょうが、穏やか、安らか、という意味より大きく広がった行った感じが強い、事実はそうだったんでしょう。

この前段に疫病の説話がある。時代背景が少し読めてきたところで、これを紐解いてみよう。読み飛ばしていた時とは違った感じになるかもしれない。天皇が師木水垣宮に坐しての出来事。古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

此天皇之御世、伇病多起、人民死爲盡。爾天皇愁歎而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰「是者我之御心。故以意富多多泥古而、令祭我御前者、神氣不起、國安平。」是以、驛使班于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河內之美努村、見得其人貢進。[この天皇の御世に、流行病が盛んに起って、人民がほとんど盡きようとしました。ここに天皇は、御憂慮遊ばされて、神を祭ってお寢みになった晩に、オホモノヌシの大神が御夢に顯れて仰せになるには、「かように病氣がはやるのはわたしの心である。これはオホタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起らずに國も平和になるだろう」と仰せられました。そこで急使を四方に出してオホタタネコという人を求めた時に、河内の國のミノの村でその人を探し出して奉りました]

大物主大神、前にも現れた、算盤片手のなかなかの曲者、きっと神武一家に貸しがある人物なんでしょう。神代紀を読んでから考えてみよう。言うこと聞けばご利益があるので悪い神ではない様子

意富多多泥古、やはり「大」系なんでしょう。名前が「タタネコ」、太田なんていう姓ではないみたいである。「河內之美努村」老いぼれも、一緒に探しました。それは現在の福岡県京都郡みやこ町勝山箕田、同勝山浦河内、宮原に隣接するところである。見つかって、やれやれってところ。

爾天皇問賜之「汝者誰子也。」答曰「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女・活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古。」白。於是天皇大歡以詔之「天下平、人民榮。」卽以意富多多泥古命、爲神主而、於御諸山、拜祭意富美和之大神前。又仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶此三字以音也定奉天神地祇之社。又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛、又於大坂神、祭黑色楯矛、又於坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘以奉幣帛也。因此而氣悉息、國家安平也。[そこで天皇は「お前は誰の子であるか」とお尋ねになりましたから、答えて言いますには「オホモノヌシの神がスヱツミミの命の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお歡びになって仰せられるには、「天下が平ぎ人民が榮えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主としてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を澤山作り、天地の神々の社をお定め申しました。また宇陀の墨坂の神に赤い色の楯矛を獻り、大坂の神に墨の色の楯矛を獻り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く殘るところなく幣帛を獻りました。これによって疫病が止んで國家が平安になりました]


多多泥古

「多多」は複数の解釈があるが、古事記では後に登場する丹波比古多多須美知能宇斯王の「多多須美知」=「真直ぐな州の道」と解釈に類似すると思われる。「多多泥古」は…、


多多(真直ぐに)|泥(水田)|古(固:定める)

…「真直ぐに水田を定める」命と紐解ける。長峡川、初代川に挟まれたところで治水を行っていたのであろう。突然のお呼び出しであった。勿論、出雲出身なのだが、より詳細な履歴が語られる。(2018.03.23)


早速、面接。当時は三代ぐらいの家系を述べれば、合格? 就活も楽であった。いや、絶望的なこともあるか…。さて、地名が続出する、一つ一つ紐解いてみよう

「御諸山」は雄略天皇紀で出現した。現在の竜ヶ鼻とそれに続く山の総称であった。地名は北九州市小倉南区呼野である。<追記>「宇陀墨坂」の宇陀神武天皇紀で兄宇迦斯と弟宇迦斯と戦ったところ。現在の北九州市小倉南区市丸、小森、呼野辺り、以前は東谷と呼ばれたところである。

「墨坂」金辺峠から呼野に向かうところであろう。「墨」=「煤」と解釈される。岩屋からでる「雲」=「煤」である。近隣の山の木を伐採して銅の精錬用火力にしていたところ、御諸山山系の西麓である。そこに鎮座される神様を「宇陀墨坂神」と思われる。

「大坂神」は大坂山山麓を取り仕切る神であろう。現在の福岡県田川郡香春町柿下、田川郡赤村、京都郡みやこ町犀川大坂であろう。既に幾度も出現した遠飛鳥と難波津を結ぶ主要ルートをカバーする地域である。

「坂之御尾神」=「山裾の坂を上がった尾根(峠)の神」現在も香春町から京都郡みやこ町に抜ける峠が幾つかある。それらを纏めた呼び方であろう。現在の味見峠、仲哀峠など。「峠」は和語である。

「河瀬神」は師木周辺の河に宿る神と思われる。彦山川、金辺川、御祓川等々。この神のテリトリーも広いが特定し辛いものであろう。川は清浄なものだからそこには疫病神はいないと考えたのかもしれない。これを図(修正済)に纏めたら…

宮のある師木を中心として、西方、東南方を川の神、山の神でガッチリ固めた。最も怪しい北方の金辺峠越えを狙う疫病神に対して、その手前の宇陀で塞ぎ、東方の出入口では峠で止める。

見事なまでのバイオハザード対策である。全部署に楯矛、幣帛を揃えた戒厳令の効果は絶大であった。いや、大物主のご機嫌か…。


北九州には天疫神社の名前が多くみられる。多言語地域の成立ちと深く関係するのであろうが、今は知る由もない。

それにしてもこのような説話が述べられていることは古事記の事実性を示唆するものと推察される。記載内容の理解不能を理由に伝説の世界に閉じ込めること、今一度見直すべきであろう。

説話は更に続く。「意富多多泥古命」が「神君之祖」となる由来である。美人の活玉依毘賣に毎夜通う名前も知らぬ「有麗美壯夫」を怪しんだ父母が麻糸をその男に付けさせて居場所を突き止めた。今ならスマホのようなGPS機器で…しかし、なかなかのアイデア、であった。
<修正・加筆あり、こちらを参照願う>

是以其父母、欲知其人、誨其女曰「以赤土散床前、以閇蘇此二字以音紡麻貫針、刺其衣襴。」故如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子。故因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖[そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その女に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物の裾に刺せ」と教えました。依って教えた通りにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫け通って、殘った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行って神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪殘ったのによって其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神みわの君・鴨の君の祖先です]

鉤穴スリムでイケメンの「タタネコ」君のお話です。述べてることは、どうやら大切なことみたいであるが・・・。「美人」=「ビジン」でいいのかなぁ…。


『ミワ』の由来*


この説話は古事記における重要なキーワード「ミワ」に係る。ここに出現するのが「美和」「三勾」「神」通説の「三輪」である。「三勾」の勾の読みには「ワ」はなく「kou」、「美和」の和(ワ)は中国語では「hou」。せいぜいその程度の類似であろう。ネットで検索しても勾(ワ)とする由来は古事記の当該部である。

「勾」に拘る表現は三つの輪が重なった状態ではないことを意味すると考えられる。勾玉の様に湾曲したものが三つ連なってる、という状態である。実際に引き摺られていく糸の残った部分は、奇麗に重なった輪の状態と異なる。これが少しずれている方が自然であろう。三つの勾玉である。

「美和」の文字が意味するところは何と紐解けるであろうか。「美和」=「美しく調和した」そのものを示すと思われる。「美和山」=「美しく調和した三つの山」これが結論である。現在の、美しくなくなってるが、香春一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳である。

「国譲り」に際して最大の難題であったろう。奈良大和の「三輪山」に、その地形象形の表現を求めることは、到底無理である。そして今、古事記が描く世界は、九州の北東部にあった、と結論づけられる。

この香春岳は「畝火山」と表現される。神武の宮「畝火之白檮原宮」である。畝のように並んでいて、燃える火の象形を示す三つの山なのである。「畝火山」と表現されたら三山纏めて「香春岳=美和山」である。<追記>

崇神天皇紀に入り、本格的に説話を記述始めた安萬侶くん、冒頭に「倭」の中心はここだと説明している。言い訳っぽくなるが、これを理解するには、やはり回り道、當岐麻道、が必要であった。


…と、まぁ、これからも當岐麻道を行こう・・・。


…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。


<追記>

2017.09.02
後日詳細修正、結論のみ…①「美和山」=「足立山(竹和山)」 ②「紐の先の神社」=「妙見宮上宮」(妙見山) ③「畝火」=「美和」の重複回避 ④「御諸山」=「谷山」(三つの頂を持つ山)

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『ミワ』の由来*



是以其父母、欲知其人、誨其女曰「以赤土散床前、以閇蘇此二字以音紡麻貫針、刺其衣襴。」故如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子。故因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖[そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その女に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物の裾に刺せ」と教えました。依って教えた通りにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫け通って、殘った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行って神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪殘ったのによって其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神の君・鴨の君の祖先です]


<三勾の糸>
この説話は大物主大神が陶津耳命之女・活玉依毘賣を娶ったという多多泥古の自己紹介の更なる詳細である。これから大物主大神の正体が少しばかり紐解けることになった。

麻糸を付けた処が陶津耳命の住んでいた居た処とすると、そここから美和山の神社までを追い求めたことになる。図に示したように毘賣の居場所から谷筋を登れば御諸山(現在の谷山)に行き着く。

更に稜線を辿れば美和山(現在の足立山)、妙見宮上宮がある妙見山山頂に到達するのである。そんな長い糸(約5km、標高差約560m)なんて…とは言いっこなし、現実的ではないが、あり得ない話ではない。

ところで「唯遺麻者三勾耳」の解釈について武田氏は「殘った麻はただ三輪だけでした」とされる(通説は概ねこれに従う)。「耳」は何処に消えたのか?…図<三勾の糸>に示したように…、

三勾耳=三つに勾がった糸の耳(端)

…と紐解ける。三輪残ったのではなく、三つに勾がった糸の端が残ったと述べているのである。図の赤い線は現在の登山道をなぞったものであるが、三つの勾がった軌跡と見做せる。これを…、

三勾=美(三つ)|和(柔らかく曲がる)

…と呼んだと伝えているのである。「美(美しく)|和(調和した)」なだらかな稜線上に山頂を持つ奇麗な山の表現と解釈するも良し、であろう。いつものごとく複数の意味に取れる表現である。

蛇足になるが、「勾」は「ワ」とは読むことはできない。あくまでも「勹」の形を象形したものである。その字形を表現したのが「和(しなやか、柔らかく曲がる)」である。この誤った解釈から逆に「勾(輪=ワ)」になってしまうのである。出雲の神が奈良大和の中心の地に鎮座するという意味不明の事態を引き起こし、更に様々な解釈が拡散することになる。挙句の果ては崇神天皇紀になっても神話・伝説の類と結論付けてしまうのが現状なのである。「耳」の文字を勝手に省略してはならない!…これが結論かも・・・。

図から判るようにこの尾根は黄泉国境の尾根でもある。大物主大神は黄泉国の周辺を行き来する大神…それは天皇家が葬った人々が集う国から現れた神…という設定でもある。そして決してそれらの人々を蔑ろにしたのではないことを告げているのである。いや、寧ろ彼らを祭祀し手厚く遇したことを記述している。大物主大神の出現をそのように捉えることが重要であろう。(2018.05.14)
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