2018年5月14日月曜日

意富多多泥古の出自 〔209〕

意富多多泥古の出自


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
既に幾度となく登場の人物である。あらためて彼の人となりを纏めてみようかと思う。古事記の舞台を明らかに示そうと安萬侶くんが努めているところなのである。初国を知らしめたかと思えば早々に国家がひっくり返るような疫病が発生、頭を抱え込んだ天皇の夢枕に例の「大物主大神」が現れた、という設定である。

大国主命以来、国家に関する悩み事には常に出現する大神、まるで悩みの元凶のような記述である。だが、今回も無難なところに落着したのであるが、その経緯をあからさまには語らないが真に肝要な内容を含んでいるのである。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

爾天皇問賜之「汝者誰子也。」答曰「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女・活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古。」白。於是天皇大歡以詔之「天下平、人民榮。」卽以意富多多泥古命、爲神主而、於御諸山、拜祭意富美和之大神前。又仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶此三字以音也定奉天神地祇之社。又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛、又於大坂神、祭黑色楯矛、又於坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘以奉幣帛也。因此而氣悉息、國家安平也。[そこで天皇は「お前は誰の子であるか」とお尋ねになりましたから、答えて言いますには「オホモノヌシの神がスヱツミミの命の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお歡びになって仰せられるには、「天下が平ぎ人民が榮えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主としてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を澤山作り、天地の神々の社をお定め申しました。また宇陀の墨坂の神に赤い色の楯矛を獻り、大坂の神に墨の色の楯矛を獻り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く殘るところなく幣帛を獻りました。これによって疫病が止んで國家が平安になりました]

大物主大神が告げるには「意富多多泥古」に自分を祭祀させろ、という極めて簡明なことであったが、家臣たちは大わらわ、一体何処に住んでるかも知れず、何とか見つけ出して天皇の前に連れて来たというわけである。大年神一族の怨念を未だ色濃く残している時代であったのだろう。

出雲の北部は意富夜麻登玖邇阿禮比賣命及びその御子達を登場させて詳細が述べられたが、大国主命との確執で消えかかった大年神一族の、一部であるが、その後が語られることになる。それが「意富多多泥古」の出自である。家臣たちが苦労して見つけ出した河內之美努村の一住人となっていた彼が語るところは僅かだが、意味するところは深大である。


❶大物主大神の末裔

前記の大物主大神の正体を突き止める際に概略の解読結果を述べたが、その詳細を纏めて示す。

意富多多泥古

<河内之美努村>
「多多」は複数の解釈があるが、古事記では開化天皇紀の日子坐王の御子である丹波比古多多須美知能宇斯王の「多多須美知」=「真直ぐな州の道」と解釈に類似すると思われる。

「多多泥古」は…、


多多(真直ぐ)|泥(水田)|古(定める)

…「真直ぐに水田を定める」命と紐解ける。彼の居場所は「河内之美努村」と告げられる。

既に述べた通り長峡川、初代川に挟まれたところで水田を作って稲の成長を楽しみしていたのであろう。現在の京都郡みやこ町勝山箕田の行政区分を示した。実に面白いことに先端が「箕」になっている山稜と「箕」の前に広がる水田地帯となっている。真に「箕の田」である。「美努村」はその「箕*」の先端にあったと推定される。


<京都郡みやこ町勝山箕田>
多多泥古の口から出た言葉は、「大物主大神」が神武天皇の后の母親であった「三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣」とは異なる比賣を娶った話が告げられる。

この「三嶋」が「箕」の形をしていると思われる。現在の地形からでは若干明確さに欠けてはいるが、山稜の末端が複数に分かれている地形であることは見て取れる。

上図に示した通り「美努村」と「三嶋」は背中合わせの位置にあったと推定される。

少々余談ぽくなるが・・・「泥」の意味は、とある文献から興味ある記述を見出せた。「日本農書全集(26)農業図絵」に記載されている「泥土」の作業を描いたもので、川に溜まった土が流れを悪くし、また腐敗もすることがあるのを採取して「土肥」としていた様子である。

蛇行する川の整備と施肥として活用する手法として江戸時代の藩が督励した方法とのことである。古事記の時代の風景を連想する上に大きな矛盾はなかろう、と思われる。

「泥古」の意味するところはこの地の田で用いられた方法を示している。まただからこそ「多多」がついて田が見事に区画されていたことを表していると思われる。古事記の人名に含まれる意味の深さ…地名に留まらない…の一つの例であろう。

既に「泥」=「水田」と解釈してきたが、大きくは外れてはいないようであるが、よりその地の状況を伝えている。

「農業図絵」は貴重な書物であろう。今回には直接関連しないが「焼畑」を表す絵もあり、また後日に関連する記述が現れた時に紹介してみようかと思う。

さて本題に戻って・・・突然のお呼び出しであった。勿論、出雲出身なのだが、より詳細な履歴が語られる。

早速、面接。当時は三代ぐらいの家系を述べれば、合格?…就活も楽であった。いや、絶望的なこともあるか…。

さて、人名即ち地名が続出する、一つ一つ紐解いてみよう。大物主大神が通った比賣の父親の名前である。既に「耳」が付く名前を纏めて紐解いた時に述べた名前である。概略を示す。


陶津耳命

陶津耳命に含まれる…「陶津」は何と解釈できるであろうか?…、


陶津=陶(末)|津

…と読むと肥河(現在の大川)とは反対の場所、伯伎国との境界にあるところと推定される。既に登場の「筑紫之末多」であろう。現在の北九州市門司区藤松辺りを流れる村中川の河口付近と比定した。その「耳」とある。縁(ヘリ)なのかと思いきや「耳」の地形が見つかるのである。

下図を参照願う。比婆之山の東北の角、その麓に当たる。同区光町・青葉台という地名となっているが、かつては「藤松」と言われたところではなかろうか。当地の地名由来は定かでないが「藤(足立山)|松(末)」=「足立山の麓」と解釈される。

この地は大年神の御子「聖神」が居たところと推定した。出雲の末端の地、大国主命との戦禍を辛うじて免れたところなのであろう。だから伝承が残っていた、と推測される。


活玉依毘賣

陶津耳命の比賣の名前が「活玉依毘賣」と記される。安萬侶コード「活」=「氵+舌」とすると…、


活(舌のような)|玉(球の形)|依(傍ら)

…「山稜から舌のように突き出た球の形をしたところの傍ら」の毘賣(田を並べて生み出す女)と解釈される。図<意富多多泥古の系譜>の破線の円で示した。「毘賣」は比賣であるが、豊かな水田を所有していたことを示していると思われる。御子に「櫛御方命」がいて、続く後裔が語られる。

櫛御方命

活玉依毘賣の近隣かと思われるが、以下のように紐解くと…、
 
櫛(連なった山稜)|御(統べる)|方(分れる)|命


…「連なった山稜の端が分かれるところを統べる(束ねる)」命と読み解ける。「方」は「鋤」の形を象形したもので、突出た刃が複数付いている農具である。この文字の形を模したと思われる。図に示したように「比婆之山」が現在の富野台(山腹が削られてやや不確かではあるが…)辺りで三方向に分かれるところがある。そこが居場所であったと推定される。



飯肩巢見命
 
<意富多多泥古の系譜>
飯肩巢見命の紐解きには少し事前の作業が必要である。

幾度か出現した「飯」=「食+反(山麓)」更に「食」=「山+良」と例によって分解していくと…、


飯=なだらかな山麓

…を示していると導ける。「肩巢」=「干潟の州」とすると…「飯肩巢見命」は…


飯(なだらかな山麓)|肩巢(干潟の州)|見(見張る)|命

…上図に示した現地名門司区西新町辺りと思われる。干潟が見張れる緩やかな傾斜の地形である。

「見」=「見張る」の紐解きは多数出現するが、全てこの意味を示していると判る。

建甕槌命

建甕槌命の「甕槌」は「甕」と「槌」の組合せであろう。既に登場した伊波禮の「甕栗」と同じ表記と思われる。それを念頭に探すと・・・上図に示したように見事な配置が見出せる。比婆之山の東北麓に子孫を繋げた一家であったと述べたのである。

この命が縁があって河内之美努村の比賣を娶って誕生したのが意富多多泥古である。「大物主大神」の仰る言葉に嘘偽りはない、と告げる古事記である。

上記で三代の家系で合格なんて申し上げたが、真に失礼なことを…大物主大神から始まる血筋、即ち神武天皇の后、伊須氣余理比賣命の父親に当たる大神の末裔であると、見事な地形象形で述べたのである。出雲の南部に居た大年神一族の末裔と推測される。当然崇神天皇にもこの大神に繋がる血統なのである。まだまだ大年神一族との確執は続く。

❷美和の由来

美人の活玉依毘賣に毎夜通う名前も知らぬ「有麗美壯夫」を怪しんだ父母が麻糸をその男に付けさせて居場所を突き止めた。既報(大物主大神、見えたり)の中で述べた通りであるが、再掲すると・・・、

是以其父母、欲知其人、誨其女曰「以赤土散床前、以閇蘇此二字以音紡麻貫針、刺其衣襴。」故如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子。故因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖[そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その女に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物の裾に刺せ」と教えました。依って教えた通りにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫け通って、殘った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行って神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪殘ったのによって其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神の君・鴨の君の祖先です]

<三勾の糸>
この説話は大物主大神が陶津耳命之女・活玉依毘賣を娶ったという多多泥古の自己紹介の更なる詳細である。これから大物主大神の正体が少しばかり紐解けることになった。

麻糸を付けた処が陶津耳命の住んでいた居た処とすると、そここから美和山の神社までを追い求めたことになる。図に示したように毘賣の居場所から谷筋を登れば御諸山(現在の谷山)に行き着く。

更に稜線を辿れば美和山(現在の足立山)、妙見宮上宮がある妙見山山頂に到達するのである。そんな長い糸(約5km、標高差約560m)なんて…とは言いっこなし、現実的ではないが、あり得ない話ではない。

ところで「唯遺麻者三勾耳」の解釈について武田氏は「殘った麻はただ三輪だけでした」とされる(通説は概ねこれに従う)。「耳」は何処に消えたのか?…図<三勾の糸>に示したように…、


三勾耳=三つに勾がった糸の耳(端)


…と紐解ける。三輪残ったのではなく、三つに勾がった糸の端が残ったと述べているのである。図の赤い線は現在の登山道をなぞったものであるが、三つの勾がった軌跡と見做せる。これを…、


三勾=美(三つ)|和(柔らかく曲がる)

…と呼んだと伝えているのである。「美(美しく)|和(調和した)」なだらかな稜線上に山頂を持つ奇麗な山の表現と解釈するも良し、であろう。いつものごとく複数の意味に取れる表現である。

既に「美」=「羊+大」と分解し、羊の甲骨文字から「谷間の大地」と紐解いた(下記参照)。上記の説話は美和の「美」=「三つ」を表すのだと伝えているのである。真に丁寧な説明である。だが、それで間違えることなく「美和」の由来を知ることができる。


蛇足になるが、「勾」は「ワ」とは読むことはできない。あくまでも「勹」の形を象形したものである。その字形を表現したのが「和(しなやか、柔らかく曲がる)」である。この誤った解釈から逆に「勾(輪=ワ)」になってしまうのである。出雲の神が奈良大和の中心の地に鎮座するという意味不明の事態を引き起こし、更に様々な解釈が拡散することになる。挙句の果ては崇神天皇紀になっても神話・伝説の類と結論付けてしまうのが現状なのである。「耳」の文字を勝手に省略してはならない!…これが結論かも・・・。

図から判るようにこの尾根は黄泉国境の尾根でもある。大物主大神は黄泉国の周辺を行き来する大神…それは天皇家が葬った人々が集う国から現れた神…という設定でもある。そして決してそれらの人々を蔑ろにしたのではないことを告げているのである。いや、寧ろ彼らを祭祀し手厚く遇したことを記述している。大物主大神の出現をそのように捉えることが重要であろう。

多多泥古命は神に仕える地位を得たと伝える。今に繋がる鴨の文字が見える。大年神一族との融和も一つ一つ、である。まだまだ暫くは彼らとの間に生まれた溝は埋まらないようである。


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*
上記は「美努(ミノ)」=「箕」に置き換えた解釈であるが、古事記は「箕」を表す時は「其」を含む字で置き換える手法を採用する場合が多い。「美努」はそのまま紐解くと…、
<羊>

美(谷間の大地)|努(野)

…「谷間の先にある大きな野」となる。「美」=「羊+大」であり、羊の甲骨文字からの地形象形である。現在と当時の地形の差があるとしても、「箕」とするには少々不鮮明な地形である。「其」を使わなかったのは、そんな事情があるのかもしれない。「箕」と見えなくもない「谷間の先の野」、と告げているようである。(2018.06.25)
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