2017年7月30日日曜日

天照大神と須佐之男命の誓約:天津日子根命 〔072〕

天照大神と須佐之男命の誓約:天津日子根命


引き続きもう一人の命、天津日子根命について祖となった場所を紐解いてみよう。

天津日子根命


前記でわかったことの一つに後に登場する国名とは異なるものが多々あること、また、消滅してしまったと思える地域名があるようで、その変遷も興味深いものがある。

古事記原文[武田祐吉訳]

天津日子根命者。凡川內國造・額田部湯坐連・茨木國造・倭田中直・山代國造・馬來田國造・道尻岐閇國造・周芳國造・倭淹知造・高市縣主・蒲生稻寸・三枝部造等之祖也。[アマツヒコネの命は、凡川内の國の造・額田部の湯坐の連・木の國の造・倭の田中の直・山代の國の造・ウマクタの國の造・道ノシリキベの國の造・スハの國の造・倭のアムチの造・高市の縣主・蒲生の稻寸・三枝部の造たちの祖先です]

1.凡川內國造=オオシコウチのコクゾウ

「川()内国」は近淡海国の西、豊国の北に当たるところ。現在の長峡川と小波瀬川に挟まれた場所で、現地名は京都郡みやこ町となる。「凡」が付くのは河内としてはかなり大きな面積を有していたからではなかろうか。いずれ頻度高く登場するに連れて「河()内」と簡略化され、むしろ「日下」の河内のようにより具体的な地名表示となったと推測される。通説は大阪難波の河内、譲れません。

2.額田部湯坐連=ヌカタベユエのムラジ

「額田」もいくつか登場した。地形象形として「山の斜面が額のように突き出たところの麓」を表すと解釈した。急斜面で「ヒタイ」があるところはいくつか候補となるが、「湯坐」は何を示しているのであろうか?…その突き出た額から急勾配で流れる川があるところ、と紐解ける。

香春岳の近隣に「湯山」「湯無田」という地名が残っている。後に「山辺」と言われるところ、現在の田川郡香春町高野である。気付けば大坂山からの稜線に複数の山(コブ)があり、正に「額」の様相である。「国譲り」されずに残っていた地名であろう。

3.茨木國造=ウバラキのコクゾウ

「木」を使った地形象形であろう。「茨木」=「茨(積み重ねる)(山の稜線)」いくつもに延びた山の稜線が重なり合った高台と解釈する。また「木=紀」も掛け合わさっているであろう。倭建命が訪れた東方十二道の端の国である「邇比婆理」「都久波」の地と紐解ける。現在の北九州市門司区吉志辺りである。

この地形象形は見事である。前記では「茨木」の記述はなく「邇比婆理(新治)」「都久波(筑波)」であった。「木」を使った象形記述、伊豫の四つの木、師木等、にまた一つ加えることにする。ともあれ、現在の茨城、決して「イバラ」の意味ではないことをお伝えしたい。

4.倭田中直=ワのタナカのアタエ

これほど手掛かりの無い言葉は無い。困り果てて倭国をウロウロしていると、神は存在した。香春一ノ岳の南西麓に「中組」という地名が残っていた。検証の手立てがないので、当面これで良しとしよう。現地名は田川郡香春町香春である。

5.山代國造=ヤマシロのコクゾウ

多数出現の「山代国」である。「山代之大国」と「大国」との関係、未だ闇の中である。関係ないのかもしれない…現地名は京都郡みやこ町犀川大村・木山等の辺りである。

6.馬來田國造=ウマクタのコクゾウ

「馬」とくれば「馬ヶ岳」そんなに単純にはいかないように…では、どうして「馬ヶ岳」?…「馬」の姿をしているからである。しかも足が付いていかにも歩きそうな…。冗談ぽくなってるが、関連する記述がある。「宇沙」の「足一騰宮」は馬ヶ岳の稜線を馬の足に見立てた表現であった。足の先が少し小高くなってところ、である。

「馬來田國」は現在の行橋市大谷辺りと特定できる。その範囲を知る術がなく、天生田、西谷辺りまで含むかもしれない。豊国の東辺を指していると思われる。「宇沙」の地も早くから統治の範囲に入れていたのである。勿論古事記には二度と登場しない国名である。

7.道尻岐閇國造=ミチのシリのキベのコクゾウ

初見での解釈は応神天皇紀の仁徳天皇の歌にある「美知能斯理」=「道の尻」=「道の後方」=「日向国」に見事に引き摺られてしまった。ここでは道が「岐閇」することはない。その後に神八井耳命が祖となった「道奧石城國」が出現し、東方十二道の行き着く果てであると紐解けた。「茨木国」近隣の地である。現地名は北九州市門司区畑辺りと思われる。

8.周芳國造=スハorスホウorスワのコクゾウ

これだけ簡単な記述だと様々な解釈が発生する。上記の建比良鳥命が祖となった地域、また茨木国が既に登場したことなどを併せると「科野国」に関連すると思われる。「周芳」=「スワ()」であろう。その意味は何と読み解すことができるのであろうか?

少し先の古事記記述「葦原中國の平定」の段に「科野國之州羽海」と記載される。「州羽海」=「中州が羽のような形をした海」現在地名は北九州市小倉南区葛原辺りである。曽根平野を竹馬川が流れる地形であるが当時はその大部分が海面下であり、大きな干潟を形成していたものと推測される。

現存する地形から推測するのみであるが、河川が運んできた土砂が堆積して出来上がった州ではなく、河水と海水によって浸食された凹凸のある州の形状を表現したものであろう。「州羽」の出現もこれのみであり、類推するのが難しい言葉である。通説の諏訪湖は全く無関係とされた方がよろしいかと…。

9.倭淹知造=ワのアムチのミヤツコ

「淹知」=「広く治水のできたところ」と思われる。これもこの情報からでは特定し辛いものであるが、倭の中心地と解釈すれば「倭淹知」=「師木」であろう。現在の田川郡香春町中津原・大任町今任原辺りである。天津日子根命の系譜は知る術がなく、祖となった経緯は不明である。

10.高市縣主=タケチのアガタヌシ

古事記中「高市」の出現はこれのみ。関連しそうな記述がある。雄略天皇紀の長谷にある大きな槻の下で酒宴を開いた時、三重の采女の歌に対する后の返歌に纏向日代宮の場所を「多氣知」と表現している。この地はその後も種々名前を変えたように思われるが、この日代宮があった場所の古名とも言うべきものではなかろうか。現地名は田川郡香春町鏡山である。

11.蒲生稻寸=カモウのイナキ

これは由緒ある蒲生八幡神社がある場所であろう。後の「伊勢国」になる。現在地は北九州市小倉南区蒲生である。

12.三枝部造=サキクサベのミヤツコ

垂仁天皇紀の「大中津日子命」が獅子奮迅の働きで「三枝之別」の祖となったと記載される。三枝の地が発展したのであろうか…。現地名は京都郡みやこ町犀川喜多良である。犀川を遡って倭の都、又は師木などに向かうバイパスルート上にあり、その中間点として重要な位置にあったと思われる。

また英彦山信仰が盛んになるに従ってこの地を経由する人々の往来も盛んであったろう。現在はのどかな農村風情を醸し出しているように感じられるが、時のベールに包まれた地としてみるべきであろう。「三枝」=「三つの枝」=「三叉路」を示すと推察される。師木方面と英彦山方面の追分である。

「天津日子根命」と「大中津日子命」の類似性も気に掛かるところである。「根」がつくのは「根本」を意味するのであろうか…また、調べてみたいテーマである。

前記の建比良鳥命が祖となった場所を併せて示すと…、


こうして眺めてみると、後の神倭伊波礼比古以降の天皇達が「言向和」する地の有様を示しているものと思われる。彼らが支配、統治する国々の「古代」である。まだまだその体制は脆弱であり、欠けているところを埋めながら雄略天皇の雄叫びに達するまで多くの時間を要したという、その経緯を述べるのが古事記である。

筑紫嶋の出雲国を出発点として、その周辺への拡大、そして「畝火山=香春岳」の麓が、それは高天原の「天香山=神岳」に擬したところとして、後に倭国の中心となる。それを暗示する記述である。この四つの山の名前に「香」が共通する。偶然であろうか…。

地名と思しき言葉を紐解いてきた本ブログは、天空を思わせる「天」及び地下の世界を匂わせる「黄泉国」を地上に引下げ及び引上げた。神話・伝説の奇想天外な記述を現実的な時空として浮かび上がらせることができたと思われる。止まれ、まだ少々残りの部分がある。感想はその後にしよう・・・。

…と、まぁ、古事記の古代はやたらややこしい命名、後付けかな?・・・。