2017年7月26日水曜日

伊邪那岐命:禊祓と三貴神 〔069〕

伊邪那岐命:禊祓と三貴神*


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
伊邪那岐・伊邪那美が神技を使ったかと思うと俗世間の人々のように、いや、もっと明け透けに立ち振る舞う、これが最古の記録された日本の神話である。神への親近感をこれほどまでに高める書物を知らない。また、生物としての「生と死」について、その概念を抽象的でなく描いた記述も驚きに値する。

黄泉国の、伝承地もさることながら、真にその地があからさまになったとしたら、きっとより多く古事記が伝えたかったことに気付かされるのではなかろうか。そんな気がしてならない・・・。

伊邪那岐は黄泉国から逃げ帰り「禊祓」を行う。古事記が記述する出来事が必ず伴うテーマである。全ての出来事は「禊祓」をもって完結するのである。重要な儀式であり、そして人々が繰り返す生き様を受け入れるための最も有効な手段である。善悪を超越した歴史の重みを感じる。

古事記原文[武田祐吉訳]

是以、伊邪那伎大神詔「吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理。故、吾者爲御身之禊」而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而、禊祓也。[イザナギの命は黄泉の國からお還りになって「わたしは隨分厭な穢ない國に行ったことだった。わたしは禊をしようと思う」と仰せられて、筑紫の日向の橘の小門のアハギ原においでになって禊をなさいました]

伊邪那美に会いたくて行ったのは良かったが、余計なことをしでかして追い払われる羽目になる。這う這うの体で逃げての「禊祓」の場面となる。その場所が「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」と記載される。黄泉国と同じく不詳である。勿論現存する地名から伝承の地として知られているのみである。

暇が取り柄の老いぼれにすれば、当然の結果であろうと…前記で紐解くまで世間では「橘」の意味が解けていないからである。勿論「竺紫日向」も解けているわけでもなく雑多の候補地をウロウロするのが落ちである。だが、解けたのである、「橘」の地形象形が・・・。

竺紫日向之橘小門之阿波岐原


「竺紫日向」は邇邇芸命が天孫降臨した「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」中の「竺紫日向」である。現在の福岡県遠賀郡岡垣町と同県宗像市との境にある孔大寺山系に関連する場所である。では「橘」の地形は?…山の斜面に多くの支流を持ち、それらが集まって一本の川となる、そんな谷筋を持つ山の麓である。

孔大寺山及び金山の斜面に源流を持ち、高倉神社の脇を通り、「吉木」に至り、そして松原海岸に抜けて響灘に達する。川の名前は「汐入川」正に「橘」の絵柄を示している。これほどまでに多くの支流を持つ川は稀有であろう。その「橘」の「小門」とは?

その川が海と混じるところ…松原海岸ではない。「吉木」を過ぎれば海であった。現在の標高からも松原海岸の川の開口部から海水が逆流して混じり合う「汽水湖」と言われる状態であったと推測される。「汐入川」の名称が示す通りである。東西の高台に挟まれて「吉木」の丘を流れるところ、それが「小門」と言われたのであろう。

「阿波岐原」は見事な表現である。逆流する海水の流れによって川の流れが分断される様子を表わす。「阿()・波(川の流れ)・岐(分かれる)・原」河口付近で観察されるよく知られた様相である。伊邪那岐の禊の場所、一に特定できる。岡垣町吉木以外の選択の余地は皆無ではなかろうか。

余談になるが、「汐入川」という名称は全国に数か所ある。「汐」と共にやって来る魚類の豊かな、遠浅の優れた漁場を形成していたところである。多くは地形の変化、というか生活及び工業排水の影響でその環境は激変した。東にある洞海湾と同じく様々な変遷をして今の姿になったのであろう。

古事記に登場する主要な場所は類稀な地形を有しているところである。だから記述したのである。古代の地形、それを克服して生きて来た人々、その視点に絞って紐解いても極めて有意な、次世代に伝えておくべき内容を示している・・・と、脇道に逸れ過ぎるので…。

黄泉国近隣(北九州市門司区藤松)からこの「阿波岐原」(遠賀郡岡垣町吉木)までは、淡海→洞海湾→古遠賀湾を経て上陸し、到達することができる。海士族達にとっては決して困難な経路ではなかったと思われる。時空をワープした神話ではない、と解釈される。



「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」を探し疲れたのであろうか、これは「場所」を示す言葉ではないという説もある。いや、それが多数であろう。では何の為に場所を暗示する言葉を五つも並べたのであろうか…この五つの文字が示す場所以外の意味の解釈が求められるであろう。

説話は更に多くの神を生んだという。その後にも登場する海の神、航海に関する神が三神セットで登場する。古事記の記述パターンの上・中・下である。その中に「底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神」が現れる。神功皇后が新羅を訪れた時に随行?した神様達である。

「墨江之三前大神」の中の「墨江」は現在の同県行橋市上・中・下津熊とした。「熊」=「隈」=「隅」=「墨」と置換えられる。長峡川の蛇行が産んだ「熊」、上・中・下のセットも合わせてとは些か驚きである。神が生まれるほど「志賀=之江」の蛇行は激しかったのであろう。蛇行は河川の氾濫で生じる、夥しい洪水を乗越えるのにも神様の助けが必要だった、というわけかもしれない。「墨江之三前大神」の修正はこちら

三貴神の誕生


そうして、主役の三貴神が誕生する。「於是、洗左御目時、所成神名、天照大御神。次洗右御目時、所成神名、月讀命。次洗御鼻時、所成神名、建速須佐之男命。」

古事記では「月讀命」の登場はここのみ。新月の状態であろうか…この命が主役となった物語があるのかもしれない。本編はお構いなしに今後暫しの間主役となる「須佐之男命」が駄々を捏ねて伊邪那岐を怒らせてしまい「妣國根之堅洲國」へ追い払われてしまう。

「根之堅洲國」=「黄泉国」であろう。「妣國(ヒコク)」=「亡母の国」となるが、「妣」=「肥」を掛けているようでもある。古事記の中では伊邪那美が母とは記述していない。「須佐之男命」が出雲に行く理由付けがなかったからかもしれない。月読命の件と言い、数少ない歯切れの悪さの安萬侶くんである。

一気に伊邪那岐大神の引退説話に入る。坐したところが「淡海之多賀」とある。通説は島根から宮崎の日向に行ったり、近江の多賀大社に行ったりで大忙しなのだが・・・。

「多賀」=「多くの入江」として、山塊から延びる複数の稜線が淡海に接するところと思われる。この入江を望む場所、同県門司区羽山にある羽山神社辺りが伊邪那岐大神のシニアライフの場所ではなかろうか。


国生みから始まった古事記の記述は筑紫嶋を中心とした舞台を示す。だが、現在の地形から推察するのみであるが、当時は今よりも更に急傾斜の山麓の地であり、平地は極僅か、出雲国のみが辛うじて平坦な地形を有していたと思われる。そこに古事記の物語は集中するのである。

伊邪那岐達の第一陣部隊はこの地に降下した。多くの人の生と死を乗越え、生きるために不可欠な様々なものを整える為には、また、多くの犠牲を払ったのである。ともあれ三貴神、約一名には気掛かりなところもあるのだが、に後を託して勇退した、と言うことであろう…。

…と、まぁ、神話の紐解きも漸くにして本格始動である・・・。

三貴神*

詳細はこちらを参照願う。