2017年5月24日水曜日

神倭伊波禮毘古命の東行:その四〔040〕

神倭伊波禮毘古命東行:その四


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
熊野の山中、天照と高木の二柱の手厚い援護もあって、危く命拾い。吉野の河原で一息ついて、生尾人達を言向和した。目指す処の方角は判るが、何せ道がない。広大な羊郡原の中に道を造りながらの行進である。最も高度の低いところを目指して全体がすり鉢状になった台地を抜ける。降りたところが「宇陀」である。

宇陀


古事記原文[武田祐吉訳]

自其地蹈穿越幸宇陀、故曰宇陀之穿也。故爾、於宇陀有兄宇迦斯自宇以下三字以音、下效此也弟宇迦斯二人。故先遣八咫烏問二人曰「今天神御子幸行。汝等仕奉乎。」於是兄宇迦斯、以鳴鏑待射返其使、故其鳴鏑所落之地、謂訶夫羅前也。將待擊云而聚軍、然不得聚軍者、欺陽仕奉而、作大殿、於其殿作押機、待時。弟宇迦斯先參向、拜曰「僕兄・兄宇迦斯、射返天神御子之使、將爲待攻而聚軍、不得聚者、作殿其張押機、將待取。故、參向顯白。」[それから山坂を蹈み穿って越えてウダにおいでになりました。依って宇陀のウガチと言います。この時に宇陀にエウカシ・オトウカシという二人があります。依ってまず八咫烏を遣って、「今天の神の御子がおいでになりました。お前方はお仕え申し上げるか」と問わしめました。しかるにエウカシは鏑矢かぶらやを以ってその使を射返しました。その鏑矢の落ちた處をカブラ埼と言います。「待って撃とう」と言って軍を集めましたが、集め得ませんでしたから、「お仕え申しましよう」と僞って、大殿を作ってその殿の内に仕掛を作って待ちました時に、オトウカシがまず出て來て、拜して、「わたくしの兄のエウカシは、天の神の御子のお使を射返し、待ち攻めようとして兵士を集めましたが集め得ませんので、御殿を作りその内に仕掛を作って待ち取ろうとしております。それで出て參りましてこのことを申し上げます」と申しました]

「蹈穿越幸」野を彷徨いながら進むさまを表現している。「宇陀之穿」は現在の吹上峠ではなかろうか。そこを抜けると雄大な光景が目に入る。穴を通した、という表現になろう。が、その先は絶壁である。

「宇陀」=「宇(広大な)陀(崖)」と解釈される。龍ヶ鼻及びそれに続く山塊の西麓に当たる場所である。絶壁の斜面の麓にあるところ、それが「宇陀」である。現在の北九州市小倉南区市丸、小森、呼野辺り、以前は「東谷」と称されていた場所である。山は削られているが、当時の様子を思い浮かべることができる。

この谷の西側、頂吉山地に挟まれ、見事に深い谷を形成している。そしてその先は「金辺峠」に繋がる。古事記の地形象形による命名は見事である。今思い出すだけでも「針間」「児島」「碁呂」などの言葉は端的な表現である。それにこの「宇陀」が加わる。「国譲り」でグチャグチャにした罪は重いと知るべし、である。


「宇陀」比定は動かし難いものと思われる。そして決戦を前に更に味方を得た、という記述である。喋る烏…カラスは喋るか…道案内だけではなく先鋒を努めることができるカラスである。鳥ではない。山の中では飛ぶこともできた。いや、飛ぶように…であろう。高木神の曾孫、賀茂建角身命という説があるとのこと、そうかも、である。

爾大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命、二人、召兄宇迦斯罵詈云「伊賀此二字以音所作仕奉於大殿內者、意禮此二字以音先入、明白其將爲仕奉之狀。」而、卽握横刀之手上、矛由氣此二字以音矢刺而、追入之時、乃己所作押見打而死。爾卽控出斬散、故其地謂宇陀之血原也。然而其弟宇迦斯之獻大饗者、悉賜其御軍、此時歌曰、[そこで大伴の連等の祖先のミチノオミの命、久米の直等の祖先のオホクメの命二人がエウカシを呼んで罵って言うには、「貴樣が作ってお仕え申し上げる御殿の内には、自分が先に入ってお仕え申そうとする樣をあきらかにせよ」と言って、刀の柄を掴み矛をさしあて矢をつがえて追い入れる時に、自分の張って置いた仕掛に打たれて死にました。そこで引き出して、斬り散らしました。その土地を宇陀の血原と言います。そうしてそのオトウカシが獻上した御馳走を悉く軍隊に賜わりました。その時に歌をお詠みになりました。それは]

宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。此五字以音。阿阿音引志夜胡志夜 此者嘲咲者也。[宇陀の高臺でシギの網を張る。わたしが待っているシギは懸からないで 思いも寄らないタカが懸かつた。 古妻が食物を乞うたらソバノキの實のように少しばかりを削ってやれ。 新しい妻が食物を乞うたらイチサカキの實のように澤山に削ってやれ。ええやっつけるぞ。ああよい氣味だ]

故、其弟宇迦斯、此者宇陀水取等之祖也。[そのオトウカシは宇陀の水取等の祖先です]

二人の兄弟の謀略である。命懸けで考え抜いたことであろうが、兄は敗れた。登場するのが、あの高名な大伴連と久米直、それぞれの祖。大将軍二人にかかってはひとたまりもなかった。仕掛けなどを作ってはダメ、そっと忍ばせる例の方法…。思わぬ獲物が仕留められて、ご満悦であったとか。

「宇陀之血原」血だらけの原っぱ、見つけるのは困難であろう。「宇陀水取」の祖に弟がなる。この地は湧水が多量に発生するところである。現在も呼野駅付近に多くの池がある。古代より清水が豊かな土地であることがわかる。

忍坂大室


自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲訓云具毛八十建、在其室待伊那流。此三字以音。故爾、天神御子之命以、饗賜八十建、於是宛八十建、設八十膳夫、毎人佩刀、誨其膳夫等曰「聞歌之者、一時共斬。」故、明將打其土雲之歌曰、[次に、忍坂の大室においでになった時に、尾のある穴居の人八十人の武士がそのにあって威張っております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩かして、その料理人どもに「歌を聞いたならば一緒に立って武士を斬れ」とお教えなさいました。その穴居の人を撃とうとすることを示した歌は]

意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯[忍坂の大きな土室に大勢の人が入り込んだ。 よしや大勢の人がはいっていても威勢のよい久米の人々が 瘤大刀こぶたちの石大刀でもってやっつけてしまうぞ。 威勢のよい久米の人々が瘤大刀の石大刀でもって そら今撃つがよいぞ]

如此歌而、拔刀一時打殺也。[かように歌って、刀を拔いて一時に打ち殺してしまいました]

いよいよ「宇陀」を発ち「金辺峠」を越えて行く。この峠越えの登りは急である。かつての鉄道列車は呼野駅でスウィッチバックして登っていたとか。なんとも地形的には厳しい環境である。現在は列車の性能等の向上をみた後であり、当時を偲ぶすべもないようである。近世では弓月街道などと呼ばれ、主要な幹線道路であった。小倉から九州北部の内陸への最短コースである。

「忍坂大室」はこの峠を越えたところと思われる。峠を越えてからは、「忍坂」=「一見坂には見えない坂」特に現在の「採銅所一」辺りまで標高差はあるが距離が長く一見坂には見えないという意味であろう。「忍坂大室」=「なだらかな坂にある山腹の岩屋」と解釈できる。

「生尾土雲八十建」またもや「生尾」の「土雲」の出現である。武田氏は「土雲」に悩まれたのであろう。他の史書では「土蜘蛛」などと表現される。だが、この「雲」こそ神武天皇が遠征してきた最終地点の前に立ちはだかる人々を意味する。

「岩屋の雲」とは何を意味するのであろうか? 「銅の精錬時に発生する煙」である。古事記、日本書紀の現代文訳のサイトを提供されている上田恣さん、いつもお世話になっております、貴方の「個人的カラム」に記述された「製鉄」の際に出る雲、敬意を表して記載させて頂きました

「忍坂の岩屋の雲」で神武東征のルートは氷解したのである。そして古事記が描く古代の日本の姿をあからさまにした、と言える。「雲」解釈に賛同者が一人でもおられたことに感謝申し上げる。安萬侶くんの表現の正確さにも、あらためて感謝する。

いよいよクライマックス、土雲八十建をいつもの姑息な手法で仕留めて、いや大量刺殺して、舞台が変わる。

神武東征の終焉


然後、將擊登美毘古之時、歌曰、[その後、ナガスネ彦をお撃ちになろうとした時に、お歌いになった歌は]

美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟[威勢のよい久米の人々のアワの畑には臭いニラが一本生えている。 その根のもとに、その芽をくっつけてやっつけてしまうぞ]

又歌曰、[また]

美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟[威勢のよい久米の人々の垣本に植えたサンシヨウ、 口がひりひりして恨みを忘れかねる。やっつけてしまうぞ]

又歌曰、[また]

加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟[神風の吹く伊勢の海の大きな石に這いつている 細螺のように這いってやっつけてしまうぞ]
又擊兄師木・弟師木之時、御軍暫疲、爾歌曰、[また、エシキ、オトシキをお撃ちになりました時に、御軍の兵士たちが、少し疲れました。そこでお歌い遊ばされたお歌]

多多那米弖 伊那佐能夜麻 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥[楯を竝べて射る、そのイナサの山の樹の間から行き見守つて戰爭をすると腹が減った。 島にいる鵜を養う人々よすぐ助けに來てください]

故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。[最後にトミのナガスネ彦をお撃ちになりました。時にニギハヤビの命が天の神の御子のもとに參って申し上げるには、「天の神の御子が天からお降りになったと聞きましたから、後を追って降って參りました」と申し上げて、天から持って來た寶物を捧げてお仕え申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマヂの命で、これが物部の連・穗積の臣・采女の臣等の祖先です]

故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。[そこでかようにして亂暴な神たちを平定し、服從しない人どもを追い撥って、畝傍の橿原の宮において天下をお治めになりました]

真に威勢の良い歌を詠って、「登美毘古」を仕留めてしまう。兄の仇、なんていう仇討ち感覚は当時なかったようである。何首かあるがどれも品の良いものではない。凝った内容でもない。正に「武人」であったのかもしれない。

最後の歌に、万葉歌に現れて些か悩まされた言葉がある。「伊那佐」である。こんなところで解を得ることができた。「多多那米弖 伊那佐能夜麻」=「多多那米弖(楯を並べて射るような)伊那佐能夜麻(奇麗に並んだ山々)」、枕詞「多多那米弖」を受けた、その状態を表す言葉であった。

戦った場所は「師木」=「志幾」である。当時は沖積が進まず小さな山が並んでいたであろう。奈良に伊那佐山がある。磯城とは遠く離れ、並ぶ山もない。本日のルートを下記に示すと…


「邇藝速日命」が登場する。なんともみすぼらしい役割である。「天津瑞」と簡単に片付けられるが、これこそ天から授かった神宝であろう。

いつの日か彼については記述しなければならないように感じるが、今は留めておこう。古事記は邇邇芸命一派の歴史を示すのみである。「日」が葦原中国を治め切れなかった責を問われている。

神武の戦闘は白肩津での登美比古との闘い以外、策略型であり、しかも宇陀に入ってからである。相手の人数、古事記は語らないが、それも宇陀以降で多数と言える状態になる。

葦原中国が騒がしいとは、それは宇陀~忍坂~師木のラインである。この地の「銅」の生産が盛んになることに関連すると判断できる。邇藝速日命の目の付け所は確かであったが、後が悪かった、ということであろう。

この地は日本の中では極めて稀な資源豊かなところであり、また人が暮らすに必要な環境も整っている地であった。だからこそ人が集まり、国が形成されていった…とても騒がしく…のであろう

邇藝速日命に始まり神武でその礎が確立し、雄略で完成した国、それが「虚空見日本国」から「大倭豊秋津嶋」への進展、であった。ついでに付け加えておこう…「虚空見日本史」は進展するであろうか、と…。

近代になっての石炭、一時期の砂金等、資源があるが故に起る出来事に巻き込まれてきた地、現在は石灰石で止まっているようであるが、また歴史が繰り返されるかもしれない。それが何を対象としているかは予測もできないが・・・。

「畝火之白檮原宮」場所の比定は困難であるが、香春一ノ岳(畝火山)の麓、田川郡香春町上高野の辺りではなかろうか。神武が到達し初代天皇とされた場所であり、そこから現在の天皇家に繋がると思われる。

…と、終わってみれば、いつものようにあっけない、少々疲れたが・・・。