2021年10月22日金曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(15) 〔552〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(15)


天平四年(西暦732年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

八月甲戌。始大風雨。辛巳。遣新羅使從五位下角朝臣家主等還歸。丁亥。以從四位上多治比眞人廣成爲遣唐大使。從五位下中臣朝臣名代爲副使。判官四人。録事四人。正三位藤原朝臣房前爲東海東山二道節度使。從三位多治比眞人縣守爲山陰道節度使。從三位藤原朝臣宇合爲西海道節度使。道別判官四人。主典四人。醫師一人。陰陽師一人。壬辰。勅。東海東山二道及山陰道等國兵器牛馬並不得賣与他處。一切禁斷勿令出界。其常進公牧繋飼牛馬者。不在禁限。但西海道依恒法。又節度使所管諸國軍團幕釜有欠者。割取今年應入京官物。充價速令填備。又四道兵士者。依令差點滿四分之一。其兵器者脩理舊物。仍造勝載百石已上船。又量便宜造籾燒塩。又筑紫兵士課役並免。其白丁者免調輸庸。年限遠近聽勅處分。又使已下儀人已上並令佩劔。其國人習得入三色。博士者以生徒多少爲三等。上等給田一町五段。中等一町。下等五段。兵士者毎月一試。得上等人賜庸綿二屯。中等一屯。丁酉。大風雨。壞百姓廬舍及處處佛寺堂塔。」是夏。少雨。秋稼不稔。」山陰道節度使判官巨曾倍朝臣津嶋。西海道判官佐伯宿祢東人並授外從五位下。

八月四日に初めて大風が吹き、雨が降ったと記している。遣新羅使の角朝臣家主(角兄麻呂に併記)等が帰還している。十七日に多治比眞人廣成を遣唐大使、中臣朝臣名代(人足に併記)を副使に任じ、判官四人・録事四人としている。藤原朝臣房前を東海・東山二道の節度使、多治比眞人縣守を山陰道の節度使、藤原朝臣宇合を西海道の節度使、各道の判官四人・主典四人・醫師一人・陰陽師一人としている。

二十二日に以下のように勅されている。「東海・東山及び山陰道の諸國の兵器・牛馬は、いずれも他所に売り与えてはならない。一切禁断して國境から出してはならない。しかし牧に繋いで飼っている牛馬で例年のように国家に進上するものは、禁止の範囲に入れない。但し、西海道の場合はいつもの法に依れ。また、節度使が管轄する諸國の軍団の天幕や釜が不足している場合は、その國の今年中に京に進上すべき官物の留保し、それを代金に充てて速やかに補充させよ。また四道(東海・東山・山陰・西海)の兵士は、令の規定によって徴発し、國内の正丁数の四分の一を満たすようにせよ。その兵器は旧物を修理して用いよ。そうして百石以上積載することができる船を造らせよ。また、便宜を図って籾米を作り、塩を作れ。また、筑紫の兵士は、課役をいずれも免除する。また白丁は調を免じて庸を納めさせる。勤務年限の多寡は勅に拠る処分にまかせる。また、節度使以下儀人(従者)以上には、いずれも帯剣させる。その國々の人は学問・武芸を習得して、次の三種類のどれかに入ることができる。博士は、生徒の多少を基準として三等にわけ、上等には田一丁五段、中等には一町、下等には五段を支給する。兵士は、毎月一回武芸試験を行い、上等には庸綿二屯、中等には一屯を賜う。」

二十七日、大風が吹き、大雨が降って人々の家やあちこちの仏寺の堂塔が壊されている。この夏は雨が少なく秋の取り入れ時に稔らなかったと記載している。また、山陰道節度使判官の巨曾倍朝臣津嶋(陽麻呂に併記)・西海道判官の佐伯宿祢東人(麻呂の子、豐人に併記)に外從五位下を授けている。

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前記で来朝した新羅使が朝貢の間隔について天皇の裁可を仰ぎ、三年に一度で良いと返答したと記載されていた。さり気なくの感じであるが、裏には新羅の態度の変化を告げているようである。新羅の状況は、少し遡るが、唐・新羅連合によって668年に高麗を滅亡させ、その後新羅が唐の支配下にあった領域を奪って朝鮮半島中南部を統一したのが676年と知られている。それから半世紀以上が過ぎ、半島内の支配も十分に達成した時期と思われる。

朝貢しないのではなく、その頻度を尋ねて来るとは、新羅の腹の内を探るべき時期と判断したのであろう。そのための節度使の設置と推測される。節度使は、中国の辺境支配のための地方軍司令官に用いられた呼称らしく(710年に初めて設置されている)、それを捩った表記だったと思われる。新羅の半島内から倭國への勢力拡大を防衛することが急務と判断されたのであろう。

節度使として最初に記載されたのが、「房前」に任された東海道・東山道である。奈良大和中心の國別配置とすれば、西方新羅の脅威に対応する場所ではない。本著は、肅愼國を新羅の倭國における”橋頭保”の位置付けと解釈した。即ち現在の企救半島北部とすると、新羅本國からも然る事乍ら(山陰・西海道)、この地から攻め込まれるのが、最も大きな脅威であり、とりわけ東山道での早期の防御は欠かせない状況であったと推測される(七道参照)。

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九月辛丑朔。賑給和泉監佰姓。甲辰。遣使于近江。丹波。播磨。備中等國。爲遣唐使造舶四艘。乙巳。以正五位上中臣朝臣廣見爲神祇伯。正五位下高橋朝臣安麻呂爲右中弁。從五位上縣犬養宿祢石次爲少弁。外從五位下箭集宿祢虫麻呂爲大判事。正五位上佐伯宿祢豊人爲左京亮。正五位下石川朝臣枚夫爲造難波宮長官。從四位上榎井朝臣廣國爲大倭守。外從五位下佐伯宿祢伊益爲三河守。外從五位下田口朝臣年足爲越中守。從五位上石上朝臣乙麻呂爲丹波守。外從五位下土師宿祢千村爲備前守。從五位上石川朝臣夫子爲備後守。兼知安藝守事。丁夘。依諸道節度使請。充驛鈴各二口。

九月一日に和泉監の民に物を恵み与えている。四日に使者を近江・丹波・播磨・備中等の國に派遣して、遣唐使の船四艘を建造させている。

五日に以下の人事を行っている。中臣朝臣廣見(兄の東人に併記)を神祇伯、高橋朝臣安麻呂(若麻呂、父親笠間に併記)を右中弁、縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)を少弁、箭集宿祢虫麻呂(蟲萬呂)を大判事、佐伯宿祢豊人を左京亮、石川朝臣枚夫を造難波宮長官、榎井朝臣廣國を大倭守、佐伯宿祢伊益を三河守、田口朝臣年足(家主に併記)を越中守、石上朝臣乙麻呂を丹波守、土師宿祢千村(父親百村に併記)を備前守、石川朝臣夫子を備後守兼知安藝守事に任じている。二十七日に諸道の節度使の要請で駅鈴を各二個与えている。

冬十月癸酉。始置造客館司。辛巳。給節節度使白銅印。道別一面。丁亥。以外從五位下箭集宿祢虫麻呂爲大學頭。外從五位下大神朝臣乙麻呂爲散位頭。從五位上久米朝臣麻呂爲主税頭。正五位上中臣朝臣東人爲兵部大輔。外從五位下當麻眞人廣人爲大藏少輔。從五位上多治比眞人占部爲宮内少輔。外從五位下物部韓國連廣足爲典藥頭。從五位上紀朝臣清人爲右京亮。正四位下長田王爲攝津大夫。正五位上粟田朝臣人上爲造藥師寺大夫。從四位下高安王爲衛門督。外從五位下後部王起爲右衛士佐。外從五位下大伴宿祢御助爲右兵衛率。外從五位下大伴直南淵麻呂爲左兵庫頭。從五位上伊吉連古麻呂爲下野守。

十月三日に初めて造客館司を置いている。十一日に節度使に白銅印を給している。道毎に一面であった。十七日に以下の人事を行っている。箭集宿祢虫麻呂(蟲萬呂)を大學頭、大神朝臣乙麻呂(通守に併記)を散位頭、久米朝臣麻呂を主税頭、中臣朝臣東人を兵部大輔、當麻眞人廣人(東人に併記)を大藏少輔、多治比眞人占部を宮内少輔、物部韓國連廣足(榎井倭麻呂に併記)を典藥頭、紀朝臣清人を右京亮、長田王(六人部王に併記)を攝津大夫、粟田朝臣人上(必登に併記)を造藥師寺大夫、高安王を衛門督、後部王起(高麗系渡来人)を右衛士佐、大伴宿祢御助(兄麻呂に併記)を右兵衛率、大伴直南淵麻呂を左兵庫頭、伊吉連古麻呂を下野守に任じている。

十一月丙寅。冬至。天皇御南苑宴群臣。賜親王已下絁及高年者綿有差。」又曲赦京及畿内二監。天平四年十一月廿七日昧爽已前徒罪已下。其八虐劫賊。官人枉法受財。監臨主守自盜。盜所監臨。強盜竊盜。故殺人。私鑄錢。常赦所不免者不在此例。其京及倭國百姓年七十以上。鰥寡惸獨不能自存者。給綿有差。
十二月丙戌。築河内國丹比郡狹山下池。辛夘。地震。

十一月二十七日、冬至であった。天皇は南苑に出御し、群臣を招いて宴を行っている。親王以下に絁、また高齢者に真綿を、それぞれ賜っている。また、京及び畿内二監について、天平四年十一月二十七日の明け方以前に犯した徒罪以下の者に限って赦を行っている。しかし、八虐や劫賊、官人でありながら法を曲げて収賄した者、監督・支配して物資を保管すべき地位にある者で盗みを働いた者、監督下にある物資を盗んだ者、強盗・窃盗、故意の殺人、贋金造り、普通の赦では免ぜられない者は、今回の対象にはいれない、と記している。京及び大倭國の民で七十歳以上の者、鰥・寡・惸・獨で自活できない者に、事情に応じて真綿を支給している。

十二月十七日に河内國丹比郡に狹山下池(船連藥に併記)を築造している。二十二日に地震があったと記している。少々余談ぽくなるが、「狹山池」に関しては、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に「印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池」と記載されて登場している。

印色入日子命は、大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の兄である。「日下之高津池」の「日下」を頼りにして、これらの三つの池が、現在の金辺峠を跨ぐ谷間沿いにあったと推定した(こちら参照)。ここでは「下池」とは言わない。「丹比」の長い山稜及びその傍らの谷間があることを示す「下」であろう。

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五年春正月庚子朔。天皇御中宮宴侍臣。自餘五位已上者。賜饗於朝堂。越前國獻白鳥。丙午。雷風。戊申。熒惑入軒轅。庚戌。内命婦正三位縣犬養橘宿祢三千代薨。遣從四位下高安王等監護喪事。賜葬儀准散一位。命婦皇后之母也。丙寅。芳野監。讃岐。淡路等國。去年不登。百姓飢饉。勅賑貸之。

天平五年(西暦733年)正月一日に天皇は中宮に出御して侍臣と宴を行っている。その他の五位以上の者に朝堂で酒食を賜っている。また越前國が「白鳥」を献上している。七日に雷が鳴り、風が吹いている。九日に熒惑(火星)が軒轅(北斗七星の北部)に入っている。参照している続日本紀2(直木考次郎他著)では「白鳥」を「白烏」と訳されている。「白鳥」をそのまま読めば、”珍しい鳥”の献上物語にならないからであろう。

十一日に内命婦の縣犬養橘宿祢三千代が亡くなっている。高安王等を遣わして葬儀を監督・護衛させている。葬儀は散一位に準じている。命婦は皇后(光明子)の母であった。二十七日に芳野監・讃岐・淡路等の國は去年不作であり、百姓は飢饉となった。そこで勅により稲を無利息で貸し付けることにした、と記載している。

<越前國:白鳥>
越前國:白鳥

多くの山稜が延びている越前國なのだが、意外にも「鳥」の形を見出せない有様であることに気付かされた。更に白=くっ付いている様となると、絶望的な状況である。

困った時には国土地理院の年代別写真(19661~9年)を参照すると、現在は採石場となっている場所に、それらしき地形を見出すことができた。図に示したように、裾広がりで三角形の山稜が二つ並んでたことが示されている。

古事記で登場の際にも述べたが、北九州市門司区の柄杓田は谷間の奥近くまで、当時は海面下であったと推測される。その奥にあった、幾つにも細かく岐れた谷間の一つの場所と推定される。

上記したように、現実にはあり得ないものを「瑞」と記述する正史、また逆に在り来たりのものを「瑞」とする。それに何の疑念も抱かずに解釈する、あるいは誤記として来た古代史学は、学問として存在し得ないことを自ら露わにしているのである。言い換えれば、古代の編者達に対して、極めて不遜な態度であろう。

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今年もノーベル賞の季節となって、米国に帰化されたプリンストン大上席研究員の真鍋淑郎氏が受賞された。地球上の気象をコンピューターを用いたシミュレーションによってモデル化し、CO2による温暖化を予測する手法の基礎を築いた業績を評価されたと解説されている。

物理学は三つの粒子間の相互作用を厳密に求めることは不可であり、パータベーション(二つの粒子と無視できるくらいに小さな一つの粒子とする)と言う手法を用いて近似解を得る。弁証法における「正・反・合」の論理構造と繋がることを主張されたのが武谷三男氏である。仏教における「色即是空 空即是色」、また「三空」と言われる概念の理解へと導かれることになる。

ましてや限られた閉じた系でさえ、その厳密な解を得たり、理解することが困難な有様なのであることから多粒子間の相互作用を含む開かれた系を扱う気象学は数値シミュレーション法を用いざるを得ないことは当然の帰結であろう。現象を数値化し、それに合致するモデルを作り上げることになる。

ノーベル賞が将来に亘って不変であることが保証されない現象論を、その授与対象にして来なかったのは頷けるところである。ある意味、その主旨を捻じ曲げても地球温暖化のテーマは、重要であることを示しているとも感じられる。学問上揺るぎない地位を確保した最高峰の賞として、本財団が採択した結果でもあろう。

受賞インタビューで記者が米国に帰化した理由を問うているが、おそらく予想の通りであったろうが、日本の社会なるものが、如何に閉鎖的であるかを言わしめている。昨今あらゆる階層で顕在化しているハラスメントも根源は同じであろう。”鶏口”となることは重要であるが、”鶏”であることを忘れて”牛”になった気分に陥る輩が蔓延っているのである。

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二月乙亥。紀伊國旱損。賑給之。」太政官奏。遷替國司等。赴任之日官給傳驛。入京之時何乘來歸。望請。給四位守馬六疋。五位五疋。六位已下守四疋。介掾各三疋。目史生各二疋。放去。若歴國之人者。依多給不給兩所。縁犯解却。不入給例者。勅許之。甲申。大倭。河内五穀不登。百姓飢饉。並加賑給。三月辛亥。授无位鹽燒王。正五位上中臣朝臣東人並從四位下。正五位下小野朝臣老正五位上。從五位下中臣朝臣名代。坂本朝臣宇頭麻佐。紀朝臣飯麻呂。巨勢朝臣少麻呂。外從五位下大神朝臣乙麻呂並從五位上。外從五位下息長眞人名代。當麻眞人廣人並從五位下。正六位上大伴宿祢小室。小治田朝臣廣千。高向朝臣諸足。河内藏人首麻呂並外從五位下。癸丑。遠江。淡路飢。賑恤之。戊午。遣唐大使從四位上多治比眞人廣成等拜朝。

二月七日に紀伊國で旱魃によって損害が生じている。物を恵み与えている。太政官が次のように奏上している。「転任する國司等に対しては、赴任する時に政府が伝馬・駅馬の使用を認めている。しかし京に帰る場合には何に乗って帰れば良いかは決められていない。そこで爵位に応じて使える馬の数を上記のように決めたい。他國への転任の場合は、支給馬数の多くなる方を認め、前任と新任國の合算とはしない。また犯罪などによって解任された場合は使用を認めないこととする。」と述べ、勅が発せられて許可されている。

十六日に大倭・河内では五穀が実らず人々は飢饉となっている。それぞれに恵みをもって物を与えて救っている。

十四日に「鹽燒王」・中臣朝臣東人に從四位下、小野朝臣老(馬養に併記)に正五位上、中臣朝臣名代(人足に併記)坂本朝臣宇頭麻佐(宇豆麻佐。鹿田に併記)紀朝臣飯麻呂巨勢朝臣少麻呂大神朝臣乙麻呂(通守に併記)に從五位上、息長眞人名代(臣足に併記)當麻眞人廣人(東人に併記)に從五位下、「大伴宿祢小室」・小治田朝臣廣千(❼)・「高向朝臣諸足」・河内藏人首麻呂(河内手人刀子作廣麻呂に併記)に外從五位下を授けている。

十六日に遠江・淡路が飢饉となって、物を与えている。二十一日に遣唐大使の多治比眞人廣成等が朝廷を拝している。

<鹽焼王・道祖王・陽胡女王>
● 鹽燒王

無位からの初登場で従四位下とは、調べると新田部親王の子であった。天武天皇の孫、藤原鎌足大臣の曾孫となる系譜の持ち主である。

参議・中納言まで昇進するが、配流されたり、臣籍降下して「氷上眞人」姓を名乗ったり、最後は武装反乱に巻き込まれ討伐軍に殺害されるという、波乱万丈の生き様だったようである。

「鹽」=「監+齒」と分解され、「監」は鑑の原字である。鏡のような塩田に塩の粒が突き出ている様そのものを表している。地形象形的には簡略に表現して、鹽=四角く区切られて平らに窪んだ様と解釈する。

「焼」=「火+堯」と分解され、「堯」=「高台が盛り上がっている様」とすると、焼=盛り上がっている高台が炎のような形をしている様と解釈される。これらの二文字は古事記に登場し、全く同様の解釈とした。鹽燒王の出自は、が隣り合っている場所と求められる。図に示した通り、現在の新田原駅前と推定される。

後に弟の道祖王、姉の陽胡女王が同じく従四位下を叙爵されて登場する。弟は、頻出の文字である道=辶+首=首の付け根のように窪んだ様、及び祖=示+且=積み重なった高台の様と解釈すると、兄の東側にある小高くなった場所と推定される。妹ついては、前出の陽=太陽のように丸く小高い様胡=古+月=丸く小高い地の傍らにある三角の山稜の端がある様と解釈したが、その地形が覗山の西麓に見出せる。父親の北側に位置するところである。

<大伴宿祢小室・伯麻呂・祜信備>
● 大伴宿祢小室

出自不詳の「大伴宿禰」一族ではなく、『壬申の乱』の功臣馬來田の孫、「男人」の子と知られている。「大伴」の谷間から飛び出た馬來田・吹負兄弟の子孫は着実に登用されていたようである。

頻出の文字列である小室=三角の形をした囲まれた谷間が行き着くところと読み解ける。右図に示した通り、祖父の「馬來田」の北側の場所が小室の出自と推定される。

「馬來田・吹負」兄弟の子孫は、白川の東・西岸を住み分けていたのであろう。大きな蘇賀の谷間に突き出た、特徴ある地であるが、やはり、それなりの経緯があってのことだと解る。

後(孝謙天皇紀)に「道足」の子、大伴宿祢伯麻呂が登場する。活躍の時代がずっと後になるが、従三位・参議まで昇進されたと伝えられている。頻出の伯=人+白=谷間がくっ付く様であり、図に示した場所が出自と思われる。

一方の吹負系列では、後(聖武天皇紀)に「祖父麻呂」の子、大伴宿祢祜信備が登場する。些か凝った名前であるが、出自の場所を求めてみよう。「祜」=「示+古」と分解すると祜=高台に丸く小高い地がある様と読み解ける。通常の意味は”幸福”なんだそうだが、地形象形的には、お構いなしである。

信=人+言=谷間に耕地がある様備=人+𤰇=箙の形をしている様と解釈する。これら三つの地形要素が合わさった場所、図に示した「吹負」の谷間の奥に当たるところと推定される。別表記に「古慈備・祜志備」があったとのことであるが、これらも同様に上記の場所を表していることが解る。

<高向朝臣諸足>
高向朝臣諸足

「高向朝臣」も系譜の記録が残っている一族に入るようであり、「諸足」は「大足」の子とする系図が残っているとのことである。

左図では省略しているが、「宇摩」から「國押」、「麻呂」、「大足」そして「諸足」へと五世代の繋がりが、この崖下の狭隘な地に見出せる(こちら参照)。

古事記に記載されている建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰が祖となった高向臣が発祥とすれば、実に由緒正しき系統であると思われる。高向=皺が寄ったような山稜が北向きに並んでいるところと解釈した。

頻出の「諸」=「言+者」=「耕地が交差するような様」であり、諸足=長く延びた山稜の前に交差するような耕地が並んでいるところと読み解ける。図に示した父親「大足」の東北に当たる場所が出自と推定される。

小治田朝臣廣千について、若干補足すると、頻出の「千」=「人+一」=「谷間を束ねる様」と解釈した。纏めると、廣千=広がった地で谷間を束ねたようなところと読み解ける。引用の図の❼で示した場所が出自と推定される。

閏三月己巳。勅。和泉監。紀伊。淡路。阿波等國。遭旱殊甚。五穀不登。宜今年之間借貸大税。令續百姓産業。戊子。諸生飢乏者二百十三人召入於殿前。各賜米鹽。詔責其懶惰令治生業。壬辰。勅。以調布一万端。商布三万一千九百廿九段。充西海道造雜器仗之料。癸巳。遣唐大使多治比眞人廣成辞見。授節刀。

閏三月二日に以下のように詔されている。「和泉監・紀伊・淡路・阿波などの國は、旱魃が特にひどく、五穀が実らなかった。そこで今年中は大税を無利息(通常五割)で貸して人々の生業を続けさせよ。」二十一日に諸生のうち生活に困窮している者二百十三人を殿前に召し入れて、それぞれに米・塩を賜っている。詔されて、その怠けごころを責め、生業にきちんと就かせている。

二十五日に調布一万端、商布三万千九百二十九段を西海道が種々の兵器を造る費用に充てさせている。二十六日に遣唐大使の多治比眞人廣成が別れの挨拶をし、節刀が与えられている。不穏な動静の新羅の背後との接触である。いざという時の情報収集と支援協力の依頼、ってところだったのであろう。