天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(16)
天平五年(西暦733年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
夏四月己亥。遣唐四船自難波津進發。辛丑。制。諸國司等相代向京。或替人未到以前上道。或雖交替訖不付解由。因茲。去天平三年。告知朝集使等已訖。然國司寛縱不肯遵行。仍遷任之人不得居官。無職之徒不許直寮。空延日月豈合道理。國宜知状。遷替之人必付解由。申送於官。今日以後。永爲恒例。
四月三日に遣唐使を乗せた船が難波津を進発(出発、出陣)している。五日に次のように制定している。「諸國司等が交替して京に向かう場合は、替わる人がまだ任國に到着する以前に上京してしまったり、任務交替が終わったにも拘らず解由(交代の事務引継完了を証する文書)を与えないことがある。このことは去る天平三年に朝集使等に告知したのであるが、國司等は、そのような点には大雑把で、知っていながら従い行うことをしない。そこで解由がないために官職を遷る人に新たな職に就くことができず、空しく月日が経過してしまう。遷り替わる人には必ず解由を与え、その旨を太政官に申し送れ。今後永く恒例とせよ。」
五月辛夘。勅。皇后枕席不安。已經年月。百方療治未見其可。思斯煩苦忘寢与飡。可大赦天下救濟此病。自天平五年五月廿六日昧爽以前大辟已下。常赦所不免皆悉原放。其反逆并縁坐流之類者。便隨輕重降。但強竊二盜不在免例。
五月二十六日に以下のように勅されている。「皇后は既に長い間病床にある。様々に治療したが、未だ効果を見ることができない。この煩いの苦しみを思うと、寝ることも食べることも忘れてしまう。天下に大赦して、この病気から救い出したい。天平五年五月二十六日の明け方以前の死罪以下、普通の赦では免ぜられないものも、皆悉く許して釈放せよ。反逆並びに縁坐による流罪の類は軽重に応じて軽くせよ。但し、強盗・窃盗は免除の範囲に入らない。」
丁酉。多褹嶋熊毛郡大領外從七位下安志託等十一人。賜多褹後國造姓。益救郡大領外從六位下加理伽等一百卅六人多褹直。能滿郡少領外從八位上粟麻呂等九百六十九人。因居賜直姓。」武藏國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人。依請爲金姓。甲辰。太白入東井。
六月二日に多褹嶋「熊毛郡」の大領の「安志託」等十一人に「多褹後國造」姓を、また、「益救郡」の大領の「加理伽」等百三十六人に「多褹直」姓を、「能滿郡」の少領の「粟麻呂」等九百六十九人には、居住地に依って「直」姓を賜っている。また、この日に武藏國「埼玉郡」の新羅人の徳師等男女五十三人に、申請に依って「金」姓としている。九日に太白(金星)が東井(ふたご座の東方)に入っている。
多褹嶋:熊毛郡・益救郡・能滿郡
この嶋に三つの郡があったと述べている。熊毛郡は既に周防國熊毛郡に含まれていた。全く同様に解釈することが肝要であろう。熊毛=隅にある鱗のような形をしたところと読み解いた。一目で、その場所を特定することができる。
益救郡に含まれる頻出の益=八+八+一+皿=谷間に挟まれた台地が一様に平らな様と解釈した。次の「救」は、珍しい文字であろう。多分、初出のように思われる。取り敢えず分解してみると、「救」=「求+攵」であり、「求」=「引き寄せる」と解釈し、既出の「攵」=「卜+又(手)」=「山稜が交差している様」とすると、救=山稜が交差するように寄り集まっている様と読み解ける。「熊毛郡」の西側にある多くの谷間が集まっている場所と推定される。
能滿郡に含まれる頻出の能=隅、滿=氵+廿+㒳=水辺で動物の皮のように左右対称に広げたような様と解釈した。熊毛郡と対角にある場所を示していることが解る。二つの酷似した山稜が並んで延びていることが特徴的な地形である。「多褹」直角三角形の島であった。編者等の地形認識の正確さをあらためて知らされる記述と思われる。
● 熊毛郡:安志託(多褹後國造) 「安志託」に含まれる「安」、「志」は記紀・續紀を通じて頻繁に用いられている人名用の文字である。ただ文字列としての印象は、既出の渡来系の人々の名前のようでもある。即ち、地形を表す文字の羅列と受け取れる。
安=宀+女=山稜に囲まれた谷間が嫋やかに曲がっている様、志=川が蛇行している様と解釈して来た。「託」も頻度は高くないが、既出の文字であり、託=言+乇=耕地のある山稜が長く延びている様と解釈した。これら三つの地形要素を満たす場所を求めると、図に示した谷間が見出せる。
賜った姓、多褹後國造の「後」は通常「うしろ」の意味を示すが、「後」=「彳+幺(糸)+夊」と分解され、「夊」=「足を引き摺っている様」を表す文字要素と知られている。正にそのものずばりの山稜が並んでいることを捉えた表記と思われる。「安」の山稜が長く延びているのである。「後」=「京から見て遠い方」の解釈とすると、奈良大和からでは、意味不明となろう。
● 益救郡:加理伽(多褹直) 加理伽に含まれる頻出の文字列の「加理」=「押し拡げられて区分けされた様」と読める。「伽」=「人+加」=「谷間が出合う様」と解釈される。纏めると加理伽=押し広げられて区分けされた地で谷間が出合うところと読み解ける。図に示した地形をそのまま文字列にしたのである。
「益救」は山稜が寄り集まっている表現であり、この人物の名前は、谷間を表していることになる。多褹直の「直」は谷間の形状をそのまま表記したものと思われる。
● 能滿郡:粟麻呂 粟麻呂の粟は「滿」の二つの山稜の形を「粟」と見做した命名であろう。突如、”倭風”の名称となっている。本文に記載されているように、姓を与えた人数は、上記ニ郡がそれぞれ十一人、百三十六人、そしてこの郡が九百六十九人と圧倒的に多い。素っ気なく、各々に個別の姓を与えたと記されているが、「粟麻呂」の名前が示すように、既に「感化」が進捗していた郡だったのかもしれない。
武藏國埼玉郡
武藏國には、既に秩父郡、高麗郡が登場していた。そして今回は埼玉郡である。現在の東京都及び埼玉県の本貫の地を記載していると思われる。
埼玉は既出の文字列であり、埼玉=玉のような山稜の前が尖っているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。
図に示した青い部分は現在の標高10m以下の領域であり、当時は海面下にあったと推測される。現在からすると陸地はかなり狭い範囲であったと思われる。。埼玉郡は、海に突き出た半島のような区域だったと推定される。
武藏國と上総國との間の空白部分が、これで埋まったことになる。配置はさて置いても、真に忠実に国譲りしているのである。いずれにせよ現地名は幾多の変遷を経た結果であり、また自在に変更されて来たようで、史書との繋がりを論じるのは、極めて困難であることは確かであろう。
秋七月乙丑朔。日有蝕之。庚午。始令大膳職備盂蘭盆供養。
八月辛亥。天皇臨朝始聽庶政。
九月丁亥。遠江國蓁原郡人君子部眞鹽女。一産三男。賜大税二百束。乳母一人。冬十月丙申。外從五位下大伴宿祢小室爲攝津亮。正五位下多治比眞人廣足爲上総守。
七月一日に日蝕があったと記している。六日に大膳職に命じて「盂蘭盆」の供養を準備させている。「盂蘭盆」は書紀の斉明天皇紀に記載されている。所謂「お盆」であって、旧歷七月十五日に父母や祖霊を供養したりする行事となっている。
八月十五日に天皇は初めて庶政(諸々の政治)を聴いている。
九月二十三日に遠江國蓁原郡の人、「君子部眞鹽女」が三つ子の男子を産んでいる。大税二百束と乳母一人を賜っている。
● 君子部眞鹽女
「遠江國」の各郡の配置は、既に求められており、「蓁原郡」は、山名郡と長上・下郡とに挟まれた地域とした(こちら参照)。具体的な登場人物によって、この郡の詳細が垣間見えることになるであろう。
君子の文字列は既出であって、「君」=「|+又(手)+囗」に分解されることから「君」=「区切られた山稜が高台となっている様」と解釈した。君子=区切られた山稜が高台となって生え出たところと読み解ける。部=近隣から、その高台の麓辺りを表す表現と思われる(立花・和氣を参照)。
遠江國の長く延びた主稜線から生え出た枝稜線上に幾つかの小高くなった場所が見出せる。続く名前が出自の場所へと導いてくれるであろう。やはり既出の文字列である眞鹽=周りを取り囲まれた窪んだ地に平らな台地が詰まっているところと読み解ける。
図中の”高尾山”の北麓の谷間が拓けた場所を示していると思われる。現在は採石されて(多分?)、原形留めずだが、国土地理院写真(1945~50年)を参照すると明確に地形を確認することができる。同(1961~9年)では既に採石が進行しているようである。図の上部の地形図には”高尾山”と、曖昧に記載されているが、かつては均整の取れた山であったことが判る。
後(称徳天皇紀)になるが、吉弥侯根麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。「君子部」は後の孝謙天皇紀に「吉美侯部」に改めれれているが、「君子」を「吉弥侯」で改めた名称であろう。「部」が付いていないのは、近隣ではなく、「君子」そのものの地であることを示している。
根麻呂の根=木+艮=山稜の端が細かく岐れている様を表すとして、図に示した場所が出自と推定される。些か地形の変形があって見辛くなってはいるが(今昔マップ1936~8年のこちら参照)。登場時には無姓であるが、その後に下毛野公の氏姓を賜ったと記載されている。「君」を「毛」と見做した表記であり、上流域に同様な地形があることから名付けた名称と思われる。「下毛野公」としてご登場の時に詳細を述べることにする。
十二月己未。出羽柵遷置於秋田村高清水岡。又於雄勝村建郡居民焉。庚申。以從五位上縣犬養宿祢石次爲少納言。從五位上吉田連宜爲圖書頭。從五位下路眞人虫麻呂爲内藏頭。從五位下阿倍朝臣糠虫爲縫殿頭。從四位下栗栖王爲雅樂頭。從五位下角朝臣家主爲諸陵頭。辛酉。遣一品舍人親王。大納言正三位藤原朝臣武智麻呂。式部卿從三位藤原朝臣宇合。大藏卿從三位鈴鹿王。右大辨正四位下大伴宿祢道足。就縣犬養橘宿祢第。宣詔贈從一位。別勅莫收食封資人。是年。左右京及諸國飢疫者衆。並加賑貸。
十二月二十六日に「出羽柵」を「秋田村高清水岡」に遷し置いている。また、「雄勝村」に郡を建てて民を住まわせている。二十七日に以下の人事を行っている。縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)を少納言、吉田連宜(吉宜、智首に併記)を圖書頭、路眞人虫麻呂(麻呂に併記)を内藏頭、阿倍朝臣糠虫(粳虫)を縫殿頭、栗栖王を雅樂頭、角朝臣家主(角兄麻呂に併記)を諸陵頭に任じている。
二十八日に舍人親王、大納言の藤原朝臣武智麻呂、式部卿の藤原朝臣宇合、大藏卿の鈴鹿王、右大辨の大伴宿祢道足を縣犬養橘宿祢の邸に遣わして、詔を宣べさせ從一位を贈っている。別勅として食封・資人を収公することを止めさせている。
この年、左右京及び諸國で飢饉となり疫病に罹った者が多く、無利息での貸付けを行った、と記している。
出羽柵:秋田村高清水岡
「出羽柵」は、和銅二(709)年七月の記事に出現している。その前年の九月に「越後國」が出羽郡を建てたい、と申し出て認められたと記載されている。
また和銅五(712)年九月に太政官が北方の夷狄を教化することを目的に出羽國を建てることを奏言し、結果「陸奥國」の二郡を中心として設置したと記載されている。
時系列からすると「出羽柵」は、後に設けられた「出羽國」ではなく、間違いなく越後國の「出羽郡」にあったと読み取れる。ただ記述は簡略であり、また「出羽」では、「柵」の場所を特定するには広大であった。
今回の記述で漸くその場所を突き止めることが叶うようである。蛇足になるが、通説は「出羽」が示す場所に、二つはなく、出羽柵、出羽郡、出羽國は、その領域の広さは別として全て同一の場所と解釈されている。越後國、陸奥國共に広大な領域となるが、空間意識皆無の”神話風”解釈のままで現在に至っているのである。
秋田村の秋=禾+火=[炎]のような山稜が延びている様と解釈した。「出羽」の「羽」に重なる表記であろう。ただ、[炎]に見える山稜が多く存在し、出羽郡全体を示しているように思われる。がしかし、ちゃんと補足の情報が与えられているのである。
人々を住まわせた場所を雄勝村と記載している。ところが出羽郡の領域は、現在採石場となっていて、全く欠落している場所がある。例によって国土地理院写真(1961~9年)を参照すると、その地形が確認された。既出の雄=厷+隹=羽を広げた鳥の様、勝=朕+力=押し上げられたように持ち上がった様と解釈した。正にその地形が削り取られていたことが解る。
即ち、「出羽」の「羽」の南部は「雄」に属していることが明らかになった。すると「秋」の場所は、その北部の多くの山稜が突き出ているところと推定される。では高清水岡は、その突き出た山稜のどれかを示していると思われるが、この文字列を読み解いてみよう。
頻出の「高」=「皺が寄ったような凹凸が並んでいる様」、及び「清(淸)」=「氵+生+井」=「水辺で四角く取り囲まれた様」と解釈した。文字列高清水岡=皺が寄ったように谷間が並ぶ地にある四角く取り囲まれた地に川が流れる傍らの岡になったところと読み解ける。図に示した谷間が四角く見える傍の山稜の上に柵が造られていたと伝えているのである。
續紀編者は、後世の國別配置を十二分に承知していた筈であり、國も郡も省略して、いきなり「秋田村」と記述している。即ち、”越後國出羽郡秋田村”とは、書き辛かったのであろう。ましてや”出羽國秋田村”と書き残しては、間違いとなる。彼等の”苦悩”も顧みず、呑気に解釈しているのが、現在の歴史学である。