2021年10月30日土曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(17) 〔554〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(17)


天平六年(西暦734年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

六年春正月癸亥朔。天皇御中宮宴侍臣。饗五位已上於朝堂。但馬。安藝。長門等三國各献木連理。丁丑。聽諸國司毎年貸官稻。大國十四萬以下。上國十二萬以下。中國十萬以下。下國八万已下。如過茲數。依法科罪。己夘。授正三位藤原朝臣武智麻呂從二位。從三位多治比眞人縣守。藤原朝臣宇合並正三位。无位小田王。野中王並從五位下。正五位上小野朝臣老從四位下。從五位下紀朝臣麻路從五位上。正六位上石川朝臣乙麻呂。正六位下藤原朝臣仲麻呂並從五位下。從六位下三國眞人廣庭。正六位下當麻眞人鏡麻呂。正六位上大伴宿祢麻呂。大伴宿祢老人。小野朝臣鎌麻呂。波多朝臣安麻呂。從六位下田中朝臣淨足並外從五位下。内命婦无位大市女王。神社女王並從四位下。正五位下播磨女王正五位上。從五位上新家女王正五位下。從七位上秦忌寸大宅外從五位下。以從二位藤原朝臣武智麻呂爲右大臣。庚辰。勅令諸國雜色官稻。除驛起稻以外。悉混合正税。

正月一日に天皇は中宮に出御されて侍臣と宴を行い、五位以上の者を朝堂で饗応している。また但馬・安藝・長門等の三國が各々「木連理」を献上している。十五日に諸國司が毎年官稲を貸すことを許している。大國は十四万束以下、上國は十二万束以下、中國は十万束以下、下國は八万束以下としている。この数を超過した場合は、法に基づいて罪を科す、としている。

十七日に以下の叙位を行っている。藤原朝臣武智麻呂に從二位、多治比眞人縣守藤原朝臣宇合に正三位、「小田王」・「野中王」に從五位下、小野朝臣老(馬養に併記)に從四位下、紀朝臣麻路(古麻呂に併記)に從五位上、石川朝臣乙麻呂(枚夫に併記)・「藤原朝臣仲麻呂」に從五位下、「三國眞人廣庭」・「當麻眞人鏡麻呂」・大伴宿祢麻呂・大伴宿祢老人(兄麻呂に併記)・「小野朝臣鎌麻呂」・波多朝臣安麻呂(波多眞人余射に併記)田中朝臣淨足(稻敷に併記)に外從五位下、内命婦の「大市女王」・「神社女王」に從四位下、「播磨女王」に正五位上、「新家女王」に正五位下、秦忌寸大宅(朝元に併記)に外從五位下を授けている。また藤原朝臣武智麻呂を右大臣に任じている。

十八日に以下のように勅されている。「諸國に命じて、様々な種類の官稲のうち、駅起稲(駅の維持管理用の財源となる稲)以外は悉く正税に加えて出挙させよ。」

但馬國・安藝國・長門國:木連理

「木連理」は、既に幾度か登場した献上物である。例えば慶雲元(704)年六月の阿波國和銅五(712)年三月の美濃國和銅六(713)年十一月の近江國(十二株)、天平三(731)年正月の美作國が記載されていた。ここに来て、一気に三國揃い踏みであるが、”瑞祥”と解釈しては違和感があろう。だが、現実は、お構いなしの有様である。

<但馬國・安藝國・長門國:木連理>

前出の四國と同様に木連理=連なっている[木]のような山稜が区分けされているところと読み解いて、求めた結果を図に示した。実際に開拓された場所は、この表記だけからでは、少々曖昧ではあるが、それぞれに存在する谷間を示していると思われる。山稜の端の入組んだ地を、決して広くはないのだが、切り拓いて公地として献上したのである。

最後の長門國は、地形の変化が大きく、国土地理院年度別航空写真を参照しながら、それらしき場所として図に示した。『国土開発』、記紀・續紀を通じて繰り返し記述されている”大瑞”を見逃した解釈では、真に勿体ないのではなかろうか。

● 小田王・野中王・大市女王・神社女王・播磨女王・新家女王

二王と四女王が新たに叙爵されている。いつものことながら彼等、彼女等の素性は全く伝えれていないようなのだが、恐れずに各々の出自の場所を求めてみよう。名前が示す地形が唯一の頼りである。

<二王と四女王+二女王>
勿論、探索の地は飛鳥周辺であろう。小田王小田=三角に区切られた平らなところと解釈される。すると古事記の袁本杼命(継体天皇)が坐した「伊波禮之玉穗宮」の近隣の地形を表していると思われる。

野中王野中=野原を山稜が突き通しているようなところと解釈される。同様に伊邪本和氣命(履中天皇)が坐した「伊波禮之若櫻宮」の近隣の地形を示していると思われる。

ならば、播磨女王は、廣國押建金日命(安閑天皇)が坐した「勾之金箸宮」の周辺ではなかろうか。播磨=山稜が延びて広がり擦り潰されたようなところと矛盾はないであろう。伊波禮の宮については、こちら参照。

神社女王については、書紀の孝徳天皇紀に「奉順天皇」の一人としてお褒めに預かった神社福草が登場していた。神社=盛り上がって長く延びる高台と読み解いた。香春一ノ岳の南麓を示していると思われる。おそらくこの人物の近隣が出自の場所だったのであろう。

大市女王大市=平らな頂から延びる山稜が寄り集まっているところと解釈される。既に幾度が登場した文字列である。平らな頂が見られるのは香春二ノ岳であり、一ノ岳の北稜と二ノ岳の稜線が作る地形を表していると思われる。耳梨山の由来に関わる場所である。

新家女王については、氷高皇女(元正天皇)の別名に「新家皇女」があった。新家=切り分けられた山稜の端が豚の口ようになっているところと読み解いた。上図のように縮小されても、しっかりと確認されるほどに明確な地形を示している場所である。多分、独身のまま天皇になって、空き家同然の居処が出自となったのではなかろうか。天皇と近親関係にあった女王と推察されるが、不詳のようである。

少し後に多伎女王住吉女王が登場する。共に系譜は、全く知られていないようである。ならば、多伎女王は伊波禮の宮で残った甕栗宮が出自の場所ではなかろうか。多伎=山稜の端が谷間で岐れているところと読むと、その地形が見出せる。現在のJR香春駅前の場所である。そして住吉女王は、住吉=谷間に真っ直ぐに延びた山稜の前が蓋をされたようになっているところとすると、岡本宮の場所を示していると思われる。図を拡大すると、ちゃんと”蓋”があるのが確認される。

いやはや、見事に収まった。当初の不安もすっかり消失して、返って確信に近付いたように感じられる有様である。多くの宮が造営され、その跡を誕生した皇族に住まわさせる。至極当然の成り行きだったと思われる。草壁皇子は、間違いなく、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)の長谷朝倉宮の活用だったのである。

<藤原朝臣豐成-仲麻呂-乙麻呂-巨勢麻呂>
● 藤原朝臣仲麻呂

仲麻呂は、「不比等」の嫡子、南家の右大臣「武智麻呂」の次男と知られている。長男が前出の「豐成」、三男が「乙麻呂」、四男が「巨勢麻呂」と、「不比等」に劣らずの跡継ぎを誕生させていたようである。

と言うことで、ここで四兄弟を纏めて、その出自の場所を定めてみよう・・・意気込んでも狭い谷間で、且つ山麓の変形が大きい場所故に、国土地理院写真を援用する。

藤原朝臣豐成は、前出時に通常の地形図のみから、豐成=段差のある高台が平らに盛り上げられたところとして、図に示した場所と推定した。1945~50年写真を参照すると、その地形がしっかりと確認されることが解った。

仲麻呂仲=人+中=谷間で山稜が突き通すように延びている様と解釈したが、その通りに山稜の端が細く延びてところが見出せる。その中州の先端は小高くなっていることが伺える。藤原朝臣乙麻呂乙麻呂も、頻度高く用いられる名前であり、全て乙=乙の形に曲がっている様と解釈して来た。図に示したように、些かうねりが少ないが、その地形を示す場所を確認できる。

藤原朝臣巨勢麻呂巨勢=谷間で延びる山稜の端に丸く小高い地があるところと解釈した。巨大な谷間を表現したのが巨勢朝臣の由来である。とてもこの地には存在し得ない地形かと、一瞬思われるが、見事に再現した場所が「豐成」と「乙麻呂」の間に見出せる。正にずらりと四兄弟の揃い踏みの様相であることが解った。平原川の対岸は式家の「宇合」の子がひしめき合っていたと思われるが、また、ご登場の時に・・・。

<三國眞人廣庭>
● 三國眞人廣庭

「三國眞人」は、御諸山(現在の谷山)の周辺の地から、「友足・人足・大浦」が登場し、次第にその東側の谷間に広がって行ったことが伺えた(こちら参照)。現地名は北九州市門司区吉志であり、上・下野國に繋がる地である。

「三國」の名称が表すように多くの國に接する境にある故に、この國の所在は重要になって来る。再配列された國別配置を主張するならば、これほど厄介な國はない、と言えるであろう。依って、未だ、全く釈然としない解釈で放置されているのである。

古事記の意富富杼王が祖となった三國君から、幾人かの後裔達の登場によって、この地の場所が徐々に確定されつつある、と思われる。

地図を90度回転させて表示したが、この狭い谷間に廣庭=山稜が麓で延び広がっているところがあるのか?…明確な地形が見出せる。実に特徴的な山稜を捉えて命名したのであろう。勿論、出自の場所は、その麓の川辺だったと思われる。

<當麻眞人鏡麻呂>
● 當麻眞人鏡麻呂

「當麻眞人」も多くの人材が輩出して来ているが、最近は系譜が定かではない者の登場が多い。この人物も不詳のようであり、「當麻」の地で、名前からのみで出自の場所を求めることになろう。

「鏡」=「金+竟」と分解される。「竟」=「区切り」表す文字であり、「→|←」のように示されている。これを「坂合(サカアイ⇒サカイ)」とも表記される所以である。竟=坂合=延びた山稜が出合うところと解釈した。

鏡=金+竟=延びた山稜が出合う地で三角形の山稜の端が延びているところと解釈した。前出の額田姫王の父親、鏡王で読み解いた。即ち、「鏡」の文字は、極めて特徴的な地形を表しているのである。それを「當麻」の地で探すと、図に示した谷間を見出すことができる。

書紀の天武天皇紀に登場した廣嶋・廣麻呂の東側の谷間であり、多分、彼等の一族だったかと推測されるが、上記したように他の情報は欠落しているようである。同じ一族であっても、一系列に集中するのは短期間であって、別の系列を登用する。諸臣を突出させずに管理する巧みな手法だったように思われる。「藤原朝臣」が、そう仕向けたのかもしれないが・・・。

<小野朝臣鎌麻呂>
● 小野朝臣鎌麻呂

多数登場の「小野朝臣」一族の新人である。既にこの地への人物の配置は埋め尽くされたかのようであるが、まだまだ片隅が残っているかもしれない。

鎌=山稜が鎌のように延びている様と解釈される。中臣鎌足(中臣鎌子連)に用いられた文字である。それと類似の地形を表していると思われる。

すると前出の「馬養」の北側に、その地形を見出すことができる。多くの「小野朝臣」は、續紀中に複数回登場されるが、この人物名は二度と記載されることがないようである。

「馬養」の南側は「粟田朝臣」の地域となる。共に古事記の天押帶日子命が祖となった小野臣・粟田臣から蔓延った一族であろう。

二月癸巳朔。天皇御朱雀門覽歌垣。男女二百卌餘人。五品已上有風流者皆交雜其中。正四位下長田王。從四位下栗栖王。門部王。從五位下野中王等爲頭。以本末唱和。爲難波曲。倭部曲。淺茅原曲。廣瀬曲。八裳刺曲之音。令都中士女縱觀。極歡而罷。賜奉歌垣男女等祿有差。庚子。二品泉内親王薨。天智天皇之皇女也。

二月一日に天皇は朱雀門に出御して歌垣を見ている。男女二百四十余人で行われ、五品(位)以上の風流心のある者は、皆入り混じっていた。長田王(六人部王に併記)・栗栖王門部王・野中王(出自不詳)を頭として、本末(首部と末尾)を唱和させている。難波曲・倭部曲・浅茅原曲・広瀬曲・八裳刺曲の音楽を演奏し、都中の人々に観覧させている。歓を極めて終わっている。歌垣に参加した男女等にそれぞれ禄を賜っている。八日に泉内親王が亡くなっている。天智天皇の皇女であった。

三月辛未。行幸難波宮。壬申。散位從四位下百濟王遠寳卒。丙子。施入四天王寺食封二百戸。限以三年。并施僧等絁布。攝津職奏吉師部樂。丁丑。陪從百官衛士已上。并造難波宮司。國郡司。樂人等。賜祿有差。免供奉難波宮東西二郡今年田租調。自餘十郡調。戊寅。車駕發自難波。宿竹原井頓宮。庚辰。車駕還宮。

三月十日に難波宮(難波長柄豐碕宮跡地)に行幸されている。十一日に散位の百濟王遠寳()が亡くなっている。十五日に四天王寺に三年間の期限で食封二百戸を施入している。それと共に僧等に絁・布を布施として与えている。また攝津職が「吉師部楽」を奏している。

「吉師」は、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)紀に難波吉師部之祖・伊佐比宿禰、品陀和氣命(応神天皇)紀には渡来系の和邇吉師・阿知吉師記載されている。後の攝津國に含まれる地域に住まっていた人物達と思われる。息長帶毘賣命(神功皇后)が朝鮮半島との外交樹立して(三韓征伐では、決してない!)、一気に新しい技術・文化が流入して来た時であった。

十六日に陪従した諸官司の衛士以上、並びに造難波宮司・國郡司・楽人等にそれぞれ禄を賜っている。「難波宮」に奉仕した東西二郡は今年の田租・調を、その他の十郡は今年の調を免除している。十七日に車駕は難波を発ち、竹原井頓宮に宿泊している。十九日に平城宮に帰還している。