天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(18)
天平六年(西暦734年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
夏四月甲午。免河内國安宿。大縣。志紀三郡今年田租。以供竹原井頓宮也。戊戌。地大震。壤天下百姓廬舍。壓死者多。山崩川壅。地往往圻裂不可勝數。癸夘。遣使畿内七道諸國。検看被地震神社。戊申。詔曰。今月七日地震殊常。恐動山陵。宜遣諸王眞人。副土師宿祢一人。検看諱所八處及有功王之墓。」又詔曰。地震之災恐由政事有闕。凡厥庶寮勉理職事。自今以後。若不改勵。隨其状迹。必將貶黜焉。壬子。遣使於京及畿内。問百姓所疾苦。詔曰。比日天地之災有異於常。思朕撫育之化。於汝百姓有所闕失歟。今故發遣使者問其疾苦。宜知朕意焉。」諸道節度使事既訖。於是令國司主典已上掌知其事。甲寅。許東海。東山。山陰道諸國賣買牛馬出堺。又免諸道健兒儲士選士。田租并雜徭之半。丁巳。禁斷以年七十已上人新擬郡司。
四月三日に河内國の安宿・大縣・志紀三郡の今年の田租を竹原井頓宮での奉仕に供したことで免除している。七日に大きな地震があった。天下の人々の廬舎が壊れ、圧死した者が多かった。山は崩れ川は塞がり、地割れが往々にして起こり、その数は数えきれないほどであった。十二日に使者を畿内七道諸國に派遣して、地震で被害を受けた神社を調査させている。
十七日に以下のように詔されている。「今月七日の地震は普通ではなかった。おそらくは山稜に被害を与えているかもしれない。諸王や眞人の姓を持つ者に、土師宿禰一族の一人を副えて派遣し、諱所(天皇陵)八ヶ所と、功の有った王の墓を検査させよ。」また「地震の災難は、おそらく政治に欠けた所があったことに依るのであろう。そこで諸官司はその職務の遂行に勉めよ。今後、もし心を入れ替えて励まなければ、その状況に応じて、必ず官位を落とすであろう。」
二十一日に使者を京及び畿内に派遣して、人々の悩み苦しむところを問わせている。以下のように詔されている。「此の頃の天地の災難は、異常である。思うに朕が慈しみ育てて徳化することが、汝等については欠けるところがあったようである。そのために今使者を遣わして悩み苦しむところを問わせるのである。朕の心をよく理解せよ。」諸道節度使の任務は既に終わり、そこで國司の主典以上にその任務を掌握し管轄させている。
二十三日に東海・東山・山陰道の諸國において、牛馬を売買し、堺を越えて他國に出すことを許している。また諸道の健児・儲士・選士(いずれも徴発した兵士だが、詳細は不詳のようである)の田租と雜徭の半分を免じている。二十六日に七十歳以上の人を新しく郡司に採用することを禁断している。
五月戊子。太政官奏稱。左右京百姓。夏輸徭錢甚不堪弁。宜其正丁次丁自九月始令輸之。少丁勿輸。」又天平四年亢旱以來。百姓貧乏。宜限一年借貸左右京。芳野。和泉。四畿内百姓大税。」又大倭國十四郡公私擧稻。毎郡有之。愚民競貸至于責徴。不能盡備。資財既罄。遂償田宅。而毎年廻擧。取利過本。及父負物徴不知情妻子。子負物徴不知情父母者。自今以後。皆悉禁斷之。奏可之。
六月癸夘。大倭國葛下郡人。白丁花口宮麻呂。散己私稻。救養貧乏。仍賜少初位上。
五月二十八日に太政官が次のように奏上している。「左右京の人々が夏季に徭銭(徭役の代わりの)を納めるのだが、それを用意することが甚だ困難である。そこで正丁と次丁は九月から開始とし、少丁は納めなくてよいことにしたい。また天平四年の旱魃以来、人々は貧乏している。そこで一年限りで、左右京・芳野・和泉・四畿内の人々に大税を無利息で貸付たいと思う。また大倭國十四郡の公私の出挙稲は、郡ごとに存在し愚かな者が競争で貸し付けて居る。徴収の時に借りた元利の稲を全て整えることができなくなっている。そのため資財をそれに充ててしまい、既になくなり、遂には田や家で弁償するに至っている。しかも利息を新たに元に組み込んで徴収するので、利息の額が元を越えている。更に父の負債を事情を知らない妻子から徴収したり、子の負債を事情を知らない父母から徴収している。今後は、悉く禁断したいと思う。」これらのことが許されている。
六月十四日に大倭國葛下郡の人で白丁(無位の公民)の「花口宮麻呂」が自分の私稲を投げうって貧乏な人々を救い養っている。これによって少初位上の位を賜っている。
● 花口宮麻呂
前記で読み解いたが、再掲する。「花」=「端にある様」であるが、「花」=「艸+化」と分解すると、「花」=「端にある花が開いたような様」であり、「化」=「/+\」の地形を表す文字と解釈される。
宮=宀+呂=谷間の奥まで積み重なっている様と読めば、図に示した場所が出自と推定される。
彦山川が大きく蛇行して流れる川辺の地であるが、豊かな水源に囲まれて、治水が進展と共に稲の収穫が大きく向上させたのであろう。とは言え、私財を供与する行為は、特筆に値する出来事だったと推測される。
秋七月丙寅。天皇觀相撲戯。是夕徙御南苑。命文人賦七夕之詩。賜祿有差。辛未。詔曰。朕撫育黎元。稍歴年歳。風化尚擁。囹圄未空。通旦忘寐。憂勞在茲。頃者天頻見異。地數震動。良由朕訓導不明。民多入罪。責在一人。非關兆庶。宜令存寛宥而登仁壽。蕩瑕穢而許自新。可大赦天下。其犯八虐。故殺人。謀殺殺訖。別勅長禁。劫賊傷人。官人史生枉法受財。盜所監臨。造僞至死。掠良人爲奴婢。強盜竊盜及常赦所不免。並不在赦例。
七月七日に天皇が相撲を観ている。この夕べに南苑に移って、文人に命じて七夕の詩を作らせ、それぞれに禄を賜っている。十二日に以下のように詔されている。「朕が民を慈しみ育てるようになって何年かが過ぎた。人を善導することがなお十分ではなく、牢獄は空となっていない。一晩中寝ることを忘れて、このことについて憂い悩んでいる。此の頃は、天変が頻りに起こり、地はしばしば震動する。真に朕の導きが明らかでないために罪を犯す民が多い。その責任は朕一人にあり、多くの民に関わるものではない。寛大に罪を赦して恵み深い心で長寿をまっとうさせ、傷や汚れを洗い流させて心を入れ替えることを許すべきである。そこで天下に大赦を行う。但し、八虐を犯した者、故意の殺人、謀殺で実際に人を殺した者、特別の勅によって長期間拘禁されている者、賊に入って人を傷つけた者、官人・史生でありながら法を曲げて収賄したり、管轄しているものを盗んだ者、偽って死んだことにした者、良民を捕まえて奴婢とした者、強盗・窃盗、通常の赦では赦されない者は、この赦の対象に入れない。」
九月戊辰。唐人陳懷玉賜千代連姓。辛未。班給難波京宅地。三位以上一町以下。五位以上半町以下。六位以下四分一町之一以下。甲戌。制。安藝。周防二國。以大竹河爲國堺也。壬午。地大震。
冬十月辛夘。曲赦京中死罪。
九月十日に唐人の「陳懷玉」に「千代連」姓を賜っている。十三日に難波京(難波長柄豐碕宮を中心とした京)に宅地を分け与えている。三位以上の者は一町以下、五位以上の者は半町以下、六位以下の者には四分の一町以下としている。十六日に安藝・周防の二國は、「大竹河」をもって國堺とする、と定めている。二十四日に大きな地震があったと記している。
十月四日に京中の死罪の者に限って恩赦を行っている。
大竹河
安藝國・周防國は、その名称が示す地形の通りに隣り合った地域に並ぶ國として、現在の宗像市の東南部にあった、と推定した。共に山稜が類似の地形に延びて並んでいることから、確かに「國堺」が曖昧な感じではある。
敢えてここで区切りの河の名前が記述されることに違和感はないが、特に谷奥の区切りは、河で区切りるのが明解だったように思われる。
図に示した通り、現在の名残川を大竹河と呼称していたのであろう。赤木峠に向かう谷間から流れ出て、釣川に合流する川であり、東西に横たわる山稜が大きく岐れているところである。その川の安藝國側の畔にある頂が平らな山稜(大)を竹と見做した川名と思われる。川の西側は、達理山があった周防國吉敷郡である。
後世の國別配置では、「大竹河」は小瀬川であり、その川を挟んで広島県大竹市と山口県玖珂郡となる。前出の周防國熊毛郡から分割された玖珂郡と同一名称である。何故か「吉敷郡」が、すっぽりと抜け落ちている・・・その当時には銅を産出する「達理山」に相当する山が見出せなかったから、かもしれない。
● 陳懐玉(千代連)
この人物に関する情報は、〇〇王並みに全く欠落しているようである。詮索するのは控えようかと思ったが、「懐」の文字に、些か惹きつけられて右図のような結果となった。
先ずは賜った千代=谷間を杙のような山稜が束ねているところと解釈する。縣犬養三千代などで登場した文字列である。幾つかの谷間が並んでいる地に杙の形の山稜が突き出ている地形となる。
「懐」の旧字体は「懷」=「心+褱」と分解される。「褱」=「衣で取り囲む様」を表す文字と知られる。地形象形的には「懷」=「山稜の端の三角形の地が取り囲んでいる中心にある様」と解釈される。纏めると懐玉=山稜の端の三角形の地が取り囲んでいる中心にある玉のようなところと読み解ける。
何も情報がない時には飛鳥周辺として、上記の地形要件を満たす場所を求めると、図に示した、少々入組んだところを見出せた。百濟の地の東端の当たる地域であり、現在の行政区分では田川市夏吉と田川郡香春町中津原の境となっている。
後(称徳天皇紀)に『仲麻呂の乱』の功臣として、千代連玉足が外従五位下を叙爵されて登場する。「懐玉」の玉から足のように山稜が延び出ているところ(玉足)が見出せる。その場所が出自と思われる。
十一月丁丑。入唐大使從四位上多治比眞人廣成等來著多祢嶋。戊寅。太政官奏。佛教流傳必在僧尼。度人才行實簡所司。比來出家不審學業。多由囑請。甚乖法意。自今以後。不論道俗。所擧度人。唯取闇誦法華經一部。或最勝王經一部。兼解礼佛。淨行三年以上者。令得度者。學問弥長。囑請自休。其取僧尼兒詐作男女。令得出家者。准法科罪。所司知而不正者与同罪。得度者還俗。奏可之。
十一月二十日に入唐大使の多治比眞人廣成等が「多祢(禰)嶋」に來著(到着:著は着の本字)している。鹿児島県種子島に帰着した?…世間で言われる”南路”で帰って来たのか、それとも漂着したのか、と勘繰ってしまう記述である。下記で詳述する。
二十一日に太政官が次のように奏上している。「仏教の流伝は僧尼に依る。得度する人の才能と行いは、真に所司によって選ばれる。ところが此の頃の出家は学業を審査しないで多くは依頼に依っている。これは甚だ法意に背くものである。今後は僧尼と俗人を区別することなく推挙される得度者の中からただ法華経一部あるいは最勝王経一部を暗唱し、兼ねてまた礼法を理解し、浄行三年以上の者だけを選んで、得度させたく思う。そうすれば学問にいよいよ長じ、依頼は自然に少なくなるであろう。僧尼の子供を貰い受け、偽って息子・娘として出家させれば法に照らして罪を科すことにする。担当官司が事情を知りながら正さなければ同罪とする。それで得度した者は還俗させることにする。」
多禰嶋
「多禰嶋」の文字列が記載されるのは、書紀の天武天皇紀である。そして人々が住まう「多禰國」として、”筑紫南海”にあった嶋であることを告げている。
現在の博多湾岸にある長く延びた山稜の端の地と推定した。現地名は福岡市中央区・南区である(こちら参照)。
ところが續紀は、書紀を受け継ぐのではなく、「多褹嶋」の表記に変えている。即ち、續紀においては、「多”褹”嶋」であって、「多”禰”嶋」ではないことを示していると思われる。”禰”は、「高台が広がっている様」を表し、同様に広がってはいるが、”褹”は「丸く盛り上がっている様」の形であり、山稜の端の地形が異なっていることを示している。
では、續紀が表記する多禰嶋とは?・・・上図に示した現在の宗像市の大島(古事記の伊邪那岐・伊邪那美が生んだ六嶋に含まれる”大嶋”)と推定される。多禰=山稜の端の高台が大きく広がっているところであり、島の山稜の形状を端的に表現していると思われる。
古事記に”大嶋”の謂れは「大多麻流別」(平らな頂の山稜の端が細かく岐れて広がっている地)と記載されている。「多禰」の表記と全く矛盾しないことが解る。本著が知る限り、国生み以後、「大島」が史書に登場するのは、これが最初と思われる。そして續紀にも二度と登場することはないようである。
唐からの帰途、現在の対馬海峡で東西に並んで浮かぶ竹島(済州島の北方)・一支國(壱岐島)・大島が当時の航路上にあったことが伺える(隋書俀國伝のこちら参照)。”來著”は、目的地に到着することを表す文字であり、”漂着”ではない。
まかり間違っても、「南路」の存在の根拠に續紀の記述は該当しない、と言えそうだが・・・そんな訳で、遣唐使の航路については、興味深いところであるが、後日としよう。
十二月戊子朔。日有蝕之。癸巳。大宰府奏。新羅貢調使級伐飡金相貞等來泊。丙申。外從五位下烏安麿賜下村主姓。
十二月一日に日蝕があったと記している。六日に大宰府が、新羅の貢調使が来て停泊している、と奏上している。九日に「烏安麿」に「下村主」の氏姓を賜っている。神龜元(724)年二月、外従五位下に叙爵された烏安麻呂と思われる。
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『續日本紀』巻十一巻尾