2021年11月9日火曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(19) 〔556〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(19)


天平七年(西暦735年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

七年春正月戊午朔。天皇御中宮宴侍臣。又饗五位已上於朝堂。
二月癸夘。新羅使金相貞等入京。癸丑。遣中納言正三位多治比眞人縣守於兵部曹司。問新羅使入朝之旨。而新羅國輙改本號曰王城國。因茲返却其使。
三月丙寅。入唐大使從四位上多治比眞人廣成等。自唐國至進節刀。辛巳。朝拜。

正月一日に天皇は中宮に出御して、侍臣と宴を行い、また朝堂に於いて五位以上の者と饗応している。

二月十七日に新羅使が入京している。二十七日に中納言の多治比眞人縣守を兵部省の庁舎に遣わして、新羅使が入朝することになった趣旨を尋問させている。しかし新羅國は、軽々しく本来の國号を改めて「王城國」と名乗っている。これによって、その使者を追い返した、と記載している。

高麗という共通の敵に対して手を組んだ唐と新羅は、それが無くなると仲違い、そしてまた渤海という共通の敵が出現して仲違いを解消し、不安定な情勢ではなくなったところでの改名のようである。「統一新羅」が充実して来た時、前述したように”怪しげな”行動を見せつけられた、のであろう。

三月十日に遣唐大使の多治比眞人廣成等が帰朝し、節刀を返上し、その後二十五日に拝謁している。

夏四月戊申。授无位長田王。池田王並從四位下。正四位下百濟王南典。從四位上多治比眞人廣成並正四位上。正五位上粟田朝臣人上從四位下。從五位下阿倍朝臣粳虫從五位上。正六位上石河朝臣年足。多治比眞人伯。百濟王慈敬。阿倍朝臣繼麻呂並從五位下。外從五位下秦忌寸朝元外從五位上。外正六位上上毛野朝臣今具麻呂。正六位上土師宿祢五百村。城上連眞立。陽侯史眞身並外從五位下。辛亥。入唐留學生從八位下下道朝臣眞備獻唐禮一百卅卷。太衍暦經一卷太衍暦立成十二卷。測影鐵尺一枚。銅律管一部。鐵如方響寫律管聲十二條。樂書要録十卷。絃纒漆角弓一張。馬上飮水漆角弓一張。露面漆四節角弓一張。射甲箭廿隻。平射箭十隻。

四月二十三日に以下の叙位を行っている。長田王(長皇子の子)・池田王(御原王に併記)に從四位下、百濟王南典(①-)・多治比眞人廣成に正四位上、粟田朝臣人上(必登に併記)に從四位下、阿倍朝臣粳虫に從五位上、石河朝臣年足(石川朝臣石足に併記)・多治比眞人伯(多夫勢に併記)・百濟王慈敬(①-:遠寶の子)・阿倍朝臣繼麻呂(粳虫に併記)に從五位下、秦忌寸朝元に外從五位上、上毛野朝臣今具麻呂(荒馬に併記)・土師宿祢五百村(父親百村に併記)・城上連眞立(胛巨茂に併記)・陽侯史眞身(陽胡史)に外從五位下を授けている。

二十六日に入唐学生で従八位下の「下道朝臣眞備」が『唐礼』百三十巻・『太衍暦立成』十二巻、太陽の影を測る鉄尺一枚、銅製の調律用の管一揃い、方響(鉄板を並べて吊るし、槌で旋律的に打つ打楽器)のように作った鉄板で調律用の管の音を写したもの十二条、『楽書要録』十巻(則天武后の音楽書)、絃を纏き漆を塗った角の弓一張、馬上飲水の漆塗りの角の弓一張、表面を露出し四ヶ所の節を漆塗りにした角の弓一張、甲を射抜く箭二十隻・平射箭十隻を献上している。

<下道朝臣眞備>
● 下道朝臣眞備

「下道朝臣」は、古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の子孫である。少々長いが原文を引用すると…、

「大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口、以言向和吉備國也。故、此大吉備津日子命者、吉備上道臣之祖也。次若日子建吉備津日子命者、吉備下道臣、笠臣祖。」

…「上道臣」は、歴史の表舞台からは遠のいてしまうが、「下道臣」は書紀の天武天皇紀に『八色之姓』で「下道朝臣」姓を授けられたと記載されている。「針間爲道口」であって、決して”針間國”ではない。”播磨”の表記に置換えて、何とか曖昧な記述で、國別配置の齟齬を凌いだのであろう。この点に関しては、續紀も書紀と同類である。

「下道朝臣」として、續紀で初めて具体的な人名が記載されたことになる。眞備の頻出の眞=鼎+匕=閉じ込められたような窪んだ様備=人+𤰇=谷間で山稜が箙の形に延びている様と解釈される。その地形を「針間」の東側の谷間に見出すことができる。この山稜が延びる尾根の反対側、即ち北麓は「吉備」の名称の由来となる地であり、南北に相似な山容となっていることが判る(こちら参照)。

併せて知られている系譜上の人物の出自の場所を求めてみることにした。父親が圀勝=大地が盛り上げられたようなところであり、図に示した山稜の端が台地のように延びている場所と思われる。兄の乙吉備=[備]に[乙]の形に曲がる蓋が被さっているところと読める。息子の泉(和泉)は、多分、現在の杉山堤(当時は存在しなかった?)周辺と推定される。

後(称徳天皇紀)に吉備朝臣枚雄が従五位下を叙爵されて登場する。「眞備」の次男と知られている。枚雄=山稜が岐れて羽を広げた鳥のように見えるところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。一家勢揃いの様相である。

また、由利(子)という女子がいたが、由利(子)突き出た山稜が切り分けられ(生え出)たところと読むと、「圀勝」の南側の山稜の端が出自と思われる。「眞備」の子ではなく、父親の子、即ち兄妹の関係だったと思われる。異説を支持する結果となったようである。

ともあれ、上記に記載されているように有能な人材であり、波乱万丈ではあるが、右大臣にまで昇り、八十歳余りの長寿であったと知られる。本著も、暫く彼とのお付き合いになりそうである。

五月己未。夜天衆星交錯乱行无常所。庚申。天皇御北松林覽騎射。入唐廻使及唐人。奏唐國新羅樂弄槍。五位已上賜祿有差。壬戌。入唐使獻請益秦大麻呂問荅六卷。乙亥。畿内及七道諸國。外散位及勳位始作定額。國別有差。自餘聽准格納資續勞。丙子。制。畿内七道諸國。宜除國擬外。別簡難波朝廷以還。譜第重大四五人副之。如有雖无譜第。而身才絶倫。并勞勤聞衆者。別状亦副。並附朝集使申送。其身限十二月一日。集式部省。戊寅。勅。朕以寡徳臨馭万姓。自暗治機未克寧濟。廼者災異頻興。咎徴仍見。戰戰兢兢。責在予矣。思緩死愍窮以存寛恤。可大赦天下。自天平七年五月廿三日昧爽已前大辟罪已下。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺殺訖。監臨主守自盜。盜所監臨。強盜竊盜及常赦所不免。並不在赦限。但私鑄錢人。罪入死者降一等。其京及畿内二監高年鰥寡惸獨篤疾等。不能自存者。量加賑恤。百歳已上穀一石。八十已上穀六斗。自餘穀四斗。諸國所貢力婦。自今以後。准仕丁例免其房徭。并給田二町以充養物。己夘。於宮中及大安。藥師。元興。興福四寺。轉讀大般若經。爲消除災害。安寧國家也。

五月四日の夜、天の多くの星が交じり乱れて運行し、常の位置に一定しなかった。五日に天皇は平城京の北の松林苑に出御され、騎射を観覧されている。帰国した遣唐使と唐人が唐楽や新羅楽を演奏し、槍を持って舞っている。五位以上の者には、それぞれ禄を賜っている。七日に遣唐使が請益生(短期留学生)の秦大麻呂の撰した『問答』六巻を献上している。

二十日に畿内と七道の諸國の外散位と勲位に初めて定数を設け、國別に差等を設けている。その定数外の者は、格に準じて財貨を納めて勤務を継続したことにしている。二十一日に太政官が以下のように制している。「畿内と七道の諸國司は、郡司の選考に関して國で詮衡する以外は、別に難波朝廷以来系譜が有力な四、五人を選び、その名簿を副えて式部省に申告せよ。もし郡司として代々仕えてなくとも、身に付いた能力が極めて優れ、同時にその仕事ぶりが広く聞こえている人物がおれば、その旨を記した別の報告書を副えて、ともども朝集使に託して式部省に申し送るようにせよ。それらの人物は、十二月一日までに式部省に集めよ。」

二十三日に以下のように勅されている。「朕は德の少ない身でありながら人民の上に君臨しているが、自身は治政上の要諦がわからず、まだ人民に安らかに生活させることができない。此の頃、災害や異変がしきりに発生し、不徳を咎める兆候が度々現れている。戦々兢々とした気持ちであり、その責任は全て予にある。そこで死刑囚の刑を軽減し困窮の民を憐れみ、刑を緩やかにし惠みものを施そうと思う。よって、天下に大赦を行う。天平七年五月二十三日の夜明けより以前の大辟の罪(死罪)以下、皆悉く赦免せよ。しかし、その犯罪が八虐に当たる者、故意の殺人、殺人を謀議して既に実行した者、監督管理する立場にありながら自ら盗みを犯した者、管理下にある官物を盗んだ者、強盗と窃盗、さらに常の恩赦では赦されない犯罪は、いずれも恩赦の範囲から除外する。但し、銭を密造した人で罪が死罪に相当する者は、罪を一段階緩めよ。更に京と畿内・二監の高齢者、鰥・寡・惸・獨、重病人などで自活できない者には、それぞれ物を恵み与えよ。百歳以上には籾米一石、八十歳以上には六斗、その外は四斗とせよ。また、諸國より推挙されて来た力持ちの女性は、今後、仕丁の例に倣い、その出身の房戸の雜徭を免除し、それぞれ田二町を給付して、京での生活に必要な物を用意させることとする。」

二十四日に宮中と大安薬師元興・興福の四ヶ寺に於いて、大般若経を転読させている。災害を消し除き、国家を安寧にするためである。

六月己丑。勅曰。先令并寺者。自今以後。更不須并。宜令寺寺務加修造。若有懈怠不肯造成者。准前并之。其既并造訖。不煩分拆。
秋七月己夘。大隅。薩摩二國隼人二百九十六人。入朝貢調物。庚辰。依忌部宿祢虫名。烏麻呂等訴。申検時時記。聽差忌部等爲幣帛使。

六月五日に以下のように勅されている。「先に命令を下して寺院は併合させたが、今後、これ以上併合してはならない。それぞれの寺にできる限り修繕を加えさせるべきである。もし怠って修造しようとしなければ、これまでのように合併せよ。既に併合して修造し終わっているならば、分離するには及ばない。」

七月二十六日に大隅・薩摩二國の隼人二百九十六人が入朝して調物を貢上している。二十七日に「忌部宿祢虫名・烏麻呂」等の訴えにより、時々の記録を検べ、忌部等を指名して伊勢神宮の幣帛使に任じることを許可している。

● 忌部宿祢虫名・烏麻呂

<忌部宿禰蟲名・烏麻呂(登理萬里)>

「虫名」、「烏麻呂」の兄弟は、狛麻呂の子と知られている。子人(首)の孫の当たる。『壬申の乱』の功臣であるが、藤原朝臣興隆の陰で、本来の伊勢神宮祭祀の職から遠ざけられていたようである。「申検時時記」の記述が過去の経緯も含んでいる様子を仄めかしているのであろう。

出自は確かなのだが、如何せん、この地の変形は凄まじく、早々に国土地理院年代別写真を援用すると、何とかそれらしき場所が見出せたようである。「子人」の東側、「狛麻呂」の南側の山稜は、広大な団地となっているが、かつては山稜が二つに岐れて延びていた地形(”狛”の由来)であったことが判る。烏麻呂は、その山稜の形を烏(鳥)と見做したのであろう。

別名に登理萬里があったと知られる。既出の文字列、登=癶+豆+廾=高台から山稜が二つに岐れている様理=王+里=区分けされた様萬=蠍の様里=田+土=平たく区画された様と解釈すると、出自の場所を詳細に示していることが解る。兄の蟲名=山稜の端の三角州が三つに岐れているところの地形は、残念ながら確認することは叶わないようで、辛うじて父親の西側が出自と推測される。

いずれにしても「忌部首」の窪んだ地から、それを取り巻く山稜へと領域を拡げた元気一杯の孫ども、伊勢神宮を牛耳る「中臣朝臣」に一矢を報いた、と告げているのであろう。「子人」が卒したのが養老三(719)年、その後十五年余り「忌部宿祢」の登場がなかった。正に冷や飯を食わされた一族だったのである。

八月乙酉。太白与辰星相犯。辛夘。天皇御大極殿。大隅。薩麻二國隼人等奏方樂。壬辰。賜二國隼人三百八十二人爵并祿。各有差。乙未。勅曰。如聞。比日大宰府疫死者多。思欲救療疫氣以濟民命。是以。奉幣彼部神祇。爲民祷祈焉。又府大寺及別國諸寺。讀金剛般若經。仍遣使賑給疫民。并加湯藥。又其長門以還諸國守若介。專齋戒道饗祭祀。丙午。大宰府言。管内諸國疫瘡大發。百姓悉臥。今年之間欲停貢調。許之。

八月二日に太白(金星)と辰星(水星)が互いに異常接近している。八日に天皇が大極殿に出御して、大隅・薩摩二國の隼人等がその地方の音楽を演奏し、九日に、それぞれ位階と禄を授けている。

十二日に次のように勅されている。「聞くところに依れば、此の頃大宰府の管内で疫病により死亡する者が多いという。朕は疫病を治療し、民の生命を救おうと思う。そこで幣帛をその管内の神祇に捧げて、民のために祈祷させる。また、大宰府にある大寺(観世音寺)と別の國の寺々においては、金剛般若経を読誦させよ。更に使者を派遣して、疫病に苦しむ民に恵みを与えると共に煎じ薬も給付せよ。また、長門國よりこちらの諸國の守もしくは介は、ひたすら斎戒して道饗の祭祀を行え。」

二十三日に大宰府が「管内の諸國で瘡のできる疫病が大流行し、民は悉く病に臥せている。今年一年間の貢納を停止して頂きたい。」と言上し、許されている。

九月庚辰。先是。美作守從五位下阿部朝臣帶麻呂等故殺四人。其族人詣官申訴。而右大弁正四位下大伴宿祢道足。中弁正五位下高橋朝臣安麻呂。少辨從五位上縣犬養宿祢石次。大史正六位下葛井連諸會。從六位下板茂連安麻呂。少史正七位下志貴連廣田等六人坐不理訴人事。於是下所司科斷。承伏既訖。有詔並宥之。壬午。一品新田部親王薨。遣從四位下高安王等監護葬事。又詔。遣一品舍人親王就第弔之。親王天渟中原瀛眞人天皇之第七皇子也。
冬十月丁亥。詔。親王薨者毎七日供齋。以僧一百人爲限。七七齋訖者停之。自今以後爲例行之。

二十八日、これより以前に美作守の阿部朝臣帶麻呂(船守の子)等が故意に四人を殺害し、その一族の者が太政官に訴え出て来た。ところが右大弁の大伴宿祢道足、中弁の高橋朝臣安麻呂(父親笠間に併記)、少弁の縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)、大史の葛井連諸會(大成に併記)、板持連安麻呂(内麻呂に併記)、少史の「志貴連廣田」等の六人は、訴人の事を審理しないで放置したことにより、連座して罪された。ここに至って、所管の官司(刑部省)に委ねて六人の処罰を決定し、彼等は、既にこれを承服していた。しかし、天皇の詔があって、いずれも罪を宥されている。

三十日に一品の新田部親王(天武天皇の第七皇子)が亡くなっている。高安王を遣わして葬儀を監督・護衛させている。また、舎人親王を邸宅に遣わして弔意を伝えさせている。

<志貴連廣田>
● 志貴連廣田

「志貴連」は、記紀には登場せず、また續紀で最初で最後である。勿論、「師木」に重ねられ、その周辺の地を表す表記かと推測される。

「志貴」の文字列は、施基皇子の別名として知られている(こちら参照)。「貴」=「臾+貝」=「両手のような山稜に挟まれた谷間」と解釈した。志貴=蛇行する川が流れる両手のような山稜に挟まれた谷間と読み解ける。廣田は、その谷間にある広がった平らな地を示していると思われる。

「師木」、「磯城」そして「志貴」と多様に表記して、”シキ”の地域を示しながら、その詳細な場所を示す。実に巧みな表記手法であることが解る。この豊かな表現を理解されて来なかったという、悲しい現実であろう。”万葉”の意味も全く同様である。

十月五日に以下のように詔されている。「親王が薨じたならば、七日ごとに僧に食事を供して仏事を行い、その際の僧侶は百人を限度とせよ。七々(四十九日)の食事を供する仏事が終わったならば以後は行わないようにせよ。今後はこれを定例とせよ。」

十一月己未。正四位上賀茂朝臣比賣卒。勅以散一位葬儀送之。天皇之外祖母也。乙丑。知太政官事一品舍人親王薨。遣從三位鈴鹿王等監護葬事。其儀准太政大臣。命王親男女。悉會葬處。遣中納言正三位多治比眞人縣守等就第宣詔。贈太政大臣。親王天渟中原瀛眞人天皇之第三皇子也。

十一月八日に賀茂朝臣比賣が亡くなっている。勅されて官職をもたない一位の官人の葬儀に則って送葬させている。天皇の母方の祖母である。

十四日に知太政官事の舎人親王(天武天皇の第三皇子)が亡くなっている。鈴鹿王を遣わして葬儀を監督・護衛させている。その儀礼は太政大臣に准じている。皇族の男女には、全て葬儀の場に参列させている。中納言の多治比眞人縣守等を遣わして、邸宅で詔を宣べさせ、太政大臣の官職を贈っている。

閏十一月壬午朔。日有蝕之。己丑。宮内卿從四位下高田王卒。戊戌。詔。以災變數見。疫癘不已。大赦天下。自天平七年閏十一月十七日昧爽以前大辟罪以下。罪無輕重。已發覺未發覺。已結正未結正。及犯八虐。常赦所不免。咸赦除之。其私鑄錢。并強盜竊盜。並不在赦限。但鑄盜之徒應入死罪各降一等。高年百歳以上賜穀三石。九十以上穀二石。八十以上穀一石。孝子順孫。義夫節婦表其門閭。終身勿事。鰥寡惸獨篤疾之徒不能自存者。所在官司量加賑恤。庚子。更置鑄錢司。壬寅。天皇臨朝。召諸國朝集使等。中納言多治比眞人縣守宣勅曰。朕選卿等任爲國司。奉遵條章僅有一兩人。而或人以虚事求聲譽。或人背公家向私業。因此。比年國内弊損。百姓困乏。理不合然。自今以後。勤恪奉法者褒賞之。懈怠無状者貶黜之。宜知斯意各自努力。是歳。年頗不稔。自夏至冬。天下患豌豆瘡〈俗曰裳瘡。〉夭死者多。

閏十一月一日に日蝕があったと記している。八日に宮内卿の高田王(施基皇子の子と推定。壹志王に併記)が亡くなっている。十七日に以下のように詔されている。「災害や異変がしばしば発生し、流行病も治まることがないので、天下に大赦を行う。天平七年閏十一月十七日の夜明けより以前の大辟の罪(死罪)以下、罪の軽重に関わりなく、既に発覚した罪、未だ発覚していない罪、既に罪名の定まった者、未だ罪名の定まらない者、さらに八虐を犯した者など、通常の恩赦で赦さない者も、悉く赦免する。贋金造りと強盗・窃盗は赦の範囲に入れない。但し、贋金造りと強盗・窃盗の徒で死罪に相当する者は、それぞれ罪一等を減じる。高齢者で百歳以上の者には籾米三石、九十歳以上は二石、八十歳以上は一石とする。孝子・順孫・義夫・節婦は、その家と村里の門にその旨を表彰し、終身租税を免除する。鰥・寡・惸・獨や重病人で自活できない者に対しては、その地の官司が程度を量って物を恵み与えよ。」

十九日に、あらたに鑄錢司を置いている。二十一日に天皇は朝廷に臨御し、諸國の朝集使等を召している。中納言の多治比眞人縣守が、以下のように勅を告げている。「朕は卿等を選んで國司に任命したが、法律を順守している者は僅かに一、二人しかいない。しかも、ある者は虚偽の事績をもって名声を求めようとし、ある者は公務を顧みず私利を追及している。そのために此の頃、國内は疲弊し、民は困窮している。道理としてそのようなことがあってはならない。この後は公務に精励して法を順奉する者は褒賞し、勤めを怠って実績のあげられない者は降格したり、解任する。この意図をよく理解して各自努力せよ。」

この年、穀物の稔りが非常に悪かった。夏から冬に至るまで全国的に豌豆瘡(天然痘)を患って若死する者が多かった、と記載している。