天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(20)
天平八年(西暦736年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
八年春正月丁酉。天皇宴羣臣於南殿。賜祿有差。戊申。授正六位上坂上忌寸犬養外從五位下。辛丑。天皇臨朝。授從四位上紀朝臣男人正四位下。從五位上石川朝臣夫子。正五位下石上朝臣勝雄並正五位上。從五位下巨勢朝臣奈氐麻呂。從五位上石上朝臣乙麻呂並正五位下。從五位下賀茂朝臣助從五位上。外從五位下三國眞人廣庭。當麻眞人鏡麻呂。下毛野朝臣帶足。正六位上石川朝臣東人。多治比眞人國人。百濟王孝忠並從五位下。正六位上波多朝臣古麻呂。田口朝臣三田次。紀朝臣必登。田中朝臣三上。巨勢朝臣首名。阿倍朝臣車借。佐伯宿祢淨麻呂。土師宿祢祖麻呂。丹比宿祢人足。正六位下下道朝臣眞備。正六位上大藏忌寸廣足並外從五位下。
正月十七日に天皇は群臣と南殿で宴を行い、それぞれに禄を賜っている。二十八日に坂上忌寸犬養(大國の子、坂上伊美伎犬養)に外従五位下を授けている。二十一日(日付逆転か?)に天皇は朝賀に臨み、以下のように叙位している。紀朝臣男人に正四位下、石川朝臣夫子・石上朝臣勝雄(勝男、堅魚)に正五位上、巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)・石上朝臣乙麻呂に正五位下、賀茂朝臣助(鴨朝臣助)に從五位上、三國眞人廣庭・當麻眞人鏡麻呂・下毛野朝臣帶足(信に併記)・石川朝臣東人(枚夫に併記)・多治比眞人國人(縣守の子。家主に併記)・百濟王孝忠(①-❼)に從五位下、波多朝臣古麻呂(波多眞人余射に併記)・「田口朝臣三田次」・紀朝臣必登・田中朝臣三上(稻敷に併記)・巨勢朝臣首名(少麻呂に併記)・「阿倍朝臣車借」・佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)・「土師宿祢祖麻呂」・丹比宿祢人足(足嶋に併記)・下道朝臣眞備・大藏忌寸廣足(老・伎國足に併記)に外從五位下を授けている。
● 田口朝臣三田次
「田口朝臣」は、直近では「家主」が登場していた。「益人」の子と知られているが、おそらく「筑紫」の孫という系譜の持ち主と思われる。近江國益須郡、現在の京都郡苅田町下片島が一族が蔓延った地と推定した(こちら参照)。
三田次の系譜は不詳のようであるが、名前が示す地形の場所を求めることにする。幾度か出現している「三田」=「三段になった平らに区分けされたところ」と解釈される。「次」=「冫+欠」=「二つに岐れて口を開けたような谷間」と読んで来た。
纏めると三田次=三段になった平らに区分けされた地が二つに岐れて口を開けたような谷間があるところと読み解ける。図に示したように「家主」の北部に当たる場所と推定される。十年後に従五位下に叙爵されたと記載されるが、それ以外での登場は見られないようである。
● 阿倍朝臣車借
当該の人物も全く系譜は知られていないようで、また續紀に登場も一回のみである。名前が頼りの出自場所となる。先ずは「車」の地形を探すのだが、とても丸く盛り上がった場所を見出すことは叶わなかった。
「連」=「辶+車」と分解される。その「車」を表していると解釈される。即ち地形象形的には、「車」=「連なっている様」となる。
「借」=「人+昔」と分解される。更に「昔」=「𠈌+日」から成る文字で、「𠈌」=「いくつも上に重なる様」を表していると解説されている。
纏めると車借=連なっている山稜が谷間で積み重なったところと読み解ける。引田朝臣爾閇の谷間を出た先の地形を表していることが解る。「阿倍朝臣」と名乗っているが、大納言「少(宿奈)麻呂」と同じく「引田朝臣」の系列であろう。
● 土師宿祢祖麻呂
幾度か用いられている祖=示+且=積み重なられた高台のような様であり、山麓で段差になった場所の地形を表していると思われる。
父親の富杼は、山稜に挟まれた谷間の奥辺りと思われる。現在では樹木に覆われ、人々が住まっている様子を伺うことは叶わないが、当時は、それなりに奥が広がった谷間だったのではなかろうか。祖麻呂はその谷間の入口辺りと推定される。
残念ながら續紀での登場は、ここのみであって、活躍の記録は残されていなかったようである。後(孝謙天皇紀)に息子の土師宿祢犬養が外従五位下を叙爵されて登場する。犬養=平らな頂の山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところと読むと、何とも小ぶりではあるが、父親の西側の場所を表していることが解る。
更に後(称徳天皇紀)に弟の土師宿祢和麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。和=稲穂のような山稜がしなやかに曲がって延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。併せて記載した。
二月丁巳。入唐學問僧玄昉法師。施封一百戸。田一十町。扶翼童子八人。律師道慈法師。扶翼童子六人。戊寅。以從五位下阿倍朝臣繼麻呂。爲遣新羅大使。
三月辛巳朔。行幸甕原離宮。乙酉。車駕還宮。庚子。太政官奏。諸國公田。國司隨郷土沽價賃租。以其價送太政官。以供公廨。奏可之。
夏四月丙寅。遣新羅使阿倍朝臣繼麻呂等拜朝。戊寅。賜陸奧出羽二國有功郡司及俘囚廿七人爵各有差。
三月一日に甕原離宮に行幸され、五日に戻られている。二十日に太政官が以下のように奏上している・・・諸國の公田は、國司がその地方の売値(小作料)に従って、一年限りの小作に出し、その代価を太政官に送付し、役所の用度に充てたいと思う・・・。これを許されている。
五月庚辰朔。日有蝕之。辛夘。諸國調布。長二丈八尺。闊一尺九寸。庸布長一丈四尺。闊一尺九寸。爲端貢之。常陸曝布。上総望陀細貲。安房細布及出絁郷庸布。依舊貢之。丙申。先是有勅。諸國司等除公廨田事力借貸之外。不得運送者。大宰管内諸國已蒙處分訖。但府官人者。任在邊要祿同京官。因此別給仕丁公廨稻。亦漕送之物。色數立限。又一任之内不得交關所部。但買衣食者聽之。
五月一日に日蝕があった、と記している。十二日に、以下のように定めている・・・諸國の調の麻布は、長さ二丈八尺・幅一尺九寸、庸の麻布は、一丈四尺・幅一尺九寸を、それぞれ一端として貢納させる。但し常陸國の曝した麻布、「上総國望陀郡」の細貲(細い糸で織った麻布)、安房國の細布、及び絁を出す郷の麻布は今まで通りで貢納させる・・・。
十七日より先に勅されているが、諸國司等は、公廨田から収穫された稲、事力及び借貸の稲以外は、運送してはならないことになったので、大宰府管内の諸國も既に処分を受け終わっている。しかし、大宰府の官人は、辺境の要地の任務についていながら、俸禄は中央官庁の役人と同じである。そこで、別途に仕丁と公廨稲を給付する。また、海上輸送できる物資は、その品目と数量の範囲を定める。また一度國司に任じられたら、その任期中は、国内で交易することは許さない。しかし、衣服・食料を買う場合はこれを許す、とされている。
上総國望陀郡
上総國は、南側に下総國、東側に安房國、西側に武藏國が配置された國として求めた。現地名では北九州市門司区沼新町が中心となった地域と思われる。
その國では、初めての郡名が記載された例となろう。早速に名前が示す地形を読み解いてみよう。希少な「望」=「亡+月+王」と分解される。全て地形象形に用いられて来た文字要素から成る文字であることが解る。
さて、地形象形的には如何に解釈されるか?…「月」=「山稜の端」、「王」=「延びて広がった台地」とすると、「山稜の端が延びて広がった台地となっている様」を表すと解釈される。「亡」=「途切れて消える様」である。「荒」、「網」に含まれる文字要素であって、全て同様の解釈とした。
纏めると望=山稜の端にある延びて広がった台地が途切れて消えてしまったような様と読み解ける。頻出の陀=崖のようになっている様とすると、図に示した、現在の小倉池の東岸の地形を示していることが解る。おそらく当時にも池が存在していたと推測されるが、現在よりかなり小さなものであったのであろう。
六月乙亥。行幸芳野離宮。
秋七月丁亥。詔賜芳野監及側近百姓物。庚寅。車駕還宮。辛夘。詔曰。比來。太上天皇寢膳不安。朕甚惻隱。思欲平復。宜奉爲度一百人。都下四大寺七日行道。又京畿内及七道諸國百姓并僧尼有病者。給湯藥食粮。高年百歳以上穀人四石。九十以上三石。八十以上二石。七十以上一石。鰥寡惸獨癈疾篤疾不能自存者。所司量加賑恤。
八月庚午。入唐副使從五位上中臣朝臣名代等。率唐人三人波斯人一人拜朝。
六月二十七日に芳野離宮に行幸されている。
七月十日に詔して芳野監とその近辺の民に物を与えている。十三日に帰還されている。十四日に次のように詔されている・・・此の頃太上天皇は寝食も普通でなく、朕は非常に嘆かわしく思い、平復されるように願っている。そこで太上天皇のために百人を得度させ、京内の四大寺(大安寺・藥師寺・元興寺・興福寺)で七日間の行道(読経しながら仏像・仏殿の回りを巡る法会)をさせようと思う。また、京・畿内及び七道の諸國の民と僧尼で病気の者には、煎じ薬と食料を給付せよ。高齢で百歳以上の者には籾米を一人当たり四石、九十歳以上には三石、八十歳以上には二石、七十歳以上には一石を与えよ。鰥・寡・惸・獨、廃疾・篤疾で自活できない者には、所管の官司がその程度を量って物を恵み与えよ・・・。
八月二十三日に遣唐副使の中臣朝臣名代(人足に併記)等が、唐人三人とペルシア人一人を率いて、拝謁している。
冬十月戊申。施唐僧道璿。波羅門僧菩提等時服。戊辰。詔曰。如聞。比年大宰所管諸國。公事稍繁。勞役不少。加以。去冬疫瘡。男女惣困。農事有廢。五穀不饒。宜免今年田租令續民命。癸酉。夜。太白入月。星有光。
十月二日に唐僧の道璿、波羅門僧の菩提等に時節に合った衣服を施している。二十二日に以下のように詔されている・・・聞くところによると、近年大宰府管内の諸國では、公の仕事が繁多で労役の負担も少なくなかった。しかも去年の冬には瘡のできる疫病が流行し、男女全てが苦しみ、農作業もできなかった場合があって、五穀の稔が豊かでない。そこで今年の田租を免除し、民の生命を繋がせるようにせよ・・・。
二十七日の夜に太白(金星)が月に入り、他の星が光を増している。
十一月戊寅。天皇臨朝。詔授入唐副使從五位上中臣朝臣名代從四位下。故判官正六位上田口朝臣養年富。紀朝臣馬主並贈從五位下。准判官從七位下大伴宿祢首名。唐人皇甫東朝。波斯人李密翳等授位有差。丙戌。從三位葛城王。從四位上佐爲王等上表曰。臣葛城等言。去天平五年。故知太政官事一品舍人親王。大將軍一品新田部親王宣勅曰。聞道。諸王等願賜臣連姓。供奉朝廷。是故召王等令問其状者。臣葛城等本懷此情。無由上達。幸遇恩勅。昧死以聞。昔者。輕堺原大宮御宇天皇曾孫建内宿祢。盡事君之忠。致人臣之節。創爲八氏之祖。永遺万代之基。自此以來。賜姓命氏。或眞人。或朝臣。源始王家。流終臣氏。飛鳥淨御原大宮御大八州天皇。徳覆四海。威震八荒。欽明文思。經天緯地。太上天皇内脩四徳。外撫万民。化及翼鱗。澤被草木。後太上天皇。無改先軌。守而不違。率土清淨。民以寧一。于時也。葛城親母贈從一位縣犬養橘宿祢。上歴淨御原朝廷。下逮藤原大宮。事君致命。移孝爲忠。夙夜忘勞。累代竭力。和銅元年十一月廿一日。供奉擧國大甞。廿五日御宴。天皇譽忠誠之至。賜浮杯之橘。勅曰。橘者果子之長上。人之所好。柯凌霜雪而繁茂。葉經寒暑而不彫。与珠玉共競光。交金銀以逾美。是以汝姓者賜橘宿祢也。而今无繼嗣者。恐失明詔。伏惟皇帝陛下。光宅天下。充塞八埏。化被海路之所通。徳盖陸道之所極。方船之貢。府无空時。河圖之靈。史不絶記。四民安業。万姓謳衢。臣葛城。幸蒙遭時之恩。濫接九卿之末。進以可否。志在盡忠。身隆絳闕。妻子康家。夫王賜姓定氏由來遠矣。是以。臣葛城等。願賜橘宿祢之姓。戴先帝之厚命。流橘氏之殊名。万歳無窮。千葉相傳。壬辰。詔曰。省從三位葛城王等表。具知意趣。王等情深謙譲。志在顯親。辞皇族之高名。請外家之橘姓。尋思所執。誠得時宜。一依來乞賜橘宿祢。千秋万歳相繼無窮。甲午。詔免京四畿内及二監國今年田租。以秋稼頗損也。
十一月三日に朝堂に臨まれて以下のように詔されている。入唐副使の中臣朝臣名代(人足に併記)に從四位下を授け、亡くなった判官の「田口朝臣養年富」・「紀朝臣馬主」に從五位下を贈っている。また准判官の大伴宿祢首名(兄麻呂に併記)・唐人の皇甫東朝・波斯人の李密翳等に各々授位している。
十一日に葛城王・佐爲王等が上表文を奉って以下のように言上している・・・臣下である葛城等が申し上げる。去る天平五(733)年に、故知太政官事の舎人親王と大将軍の新田部親王が勅を宣べて、[聞くところによると、諸王等は臣や連の姓を賜って朝廷にお仕えしようと願っているという。そのために葛城王等を呼んで、その事情を尋ねさせるのである]と言われた。我々も、もとよりこのような気持ちを懐いていたが、この度幸いにも恵み深い勅に遭遇したので、死をも覚悟で申し上げる。昔、輕堺原大宮に天下を統治された天皇(孝元天皇)の曾孫である建内宿禰は、君主にお仕えする真心を尽くし、臣下としての節義を表し、八つの氏の始祖となり、万代まで続く基を永久に遺した。これより以降、姓を賜り氏名を付けることが行われ、或いは眞人といい、或いは朝臣といい、起源は王家に始まり、末流は臣下の家筋に及んだ。更に飛鳥淨御原大宮で大八洲を統治された天皇(天武天皇)は、德が全世界を覆う程広大で、威厳は天下に轟き、人柄は慎み深く道理に明るく、文才に秀で思慮深くあられ、天地を秩序立てて統治された。その後太上天皇は内に婦人としての四つの德(帰德・婦言・婦容・婦功)を修め、外に向かっては万民を撫で慈しみ、その導きは鳥や魚にまで及び、草木までその恩沢に潤った・・・。
・・・また、後の太上天皇(元明)は、これまでの政治の方針を変えたりせず、少しも違わないように守られた。国土は清浄で、人民は安んじている。時に、葛城等の母親である縣犬養橘宿禰(三千代)は、遡っては淨御原朝廷から、下っては藤原大宮に及ぶまで、身命を捨てて天皇にお仕えし、親に孝を尽くすのと同じ気持ちで天皇に忠を尽くして来た。朝早くから夜遅くまで労苦を忘れ、代々の天皇に力を尽くして仕えた。和銅元(708)年十一月二十一日は、国を挙げて大嘗祭にご奉仕申し上げ、二十五日の御宴(豊明節会)において、天皇より忠誠の深さをお褒め頂き、酒杯に浮かべた橘を賜ったが、その時次のような勅をなされた。[橘は果物のうちで最上のものであって、人々の好むものである。枝は霜や雪にも負けず繁茂し、葉は寒さ暑さをくぐって凋むことはない。その光沢は珠玉と競う程であり、金や銀に交じり合ってもいよいよ美しさは映える。そこで汝の姓には橘宿禰を与えよう。]ところが今、継承する者が無ければ恐らく明らかな詔を失うことになる・・・。
・・・伏して考えますと、皇帝陛下は德を天下に及ぼされ、地の果てまで充ち満ちている。その導きは海路の通じる所まで行き渡り、その德は陸道の極まる所まで覆っている。各地からの船のもたらす貢物によって倉庫は空になる時がなく、河図の不可思議は、史官が記さない時がないほどである。士・農・工・商の人民は生業に安んじ、万民は巷で天皇の德化を謳歌している。臣下である葛城は、幸いにもこのような時に巡り合うという恵みを蒙り、濫りに公卿の末席に列している。政策の可否を進言しているのは、忠義を尽くそうと志しているからである。私自身は朝廷で高い地位にのぼり、妻子は家庭で安泰な生活を送っている。そもそも天皇が王親に姓を賜い氏名を定められるのは、よって来るところ遠いものがある。そこで、臣下である葛城等は、橘宿禰姓を賜り、先帝の大いなる命令を奉じて、橘氏という格別の名を後世に伝え、万歳まで窮まることなく千代に伝えたいと願う・・・。
十七日に以下のように詔されている・・・葛城王等の上表文をよく読んで、具にその考えが判った。王等の主君を思う情は深く、謙譲であり、親を顕彰することを志している。皇族という高い名声を辞退して、母方の橘姓を申請するのは、その思い詰めているところを尋ね考えると、誠に時宜を得ている。偏に請願に従って、橘宿禰を授けるので、いついつまでも継承して窮まることのないようにせよ・・・。
十九日に以下のように詔して、京・畿内四ヶ國及び二監の國々の今年の田租を免除している。秋の収穫が甚だしく損害を受けたからである。
● 田口朝臣養年富
遣唐使随行者は、多くの命を犠牲にしたと推測される。ただ、故人への追悼を込めて爵位の追贈が記載される例は少ない。何らかの特別な事情があったように思われる。
多分、疫病に罹って帰国した後に亡くなったのではなかろうか。大変に不幸な出来事だったと思われる。「田口朝臣」は、上記で「三田次」が登場しているが、勿論、その近辺の地が出自と思われる。
養=羊+良=谷間がなだらかに延びている様、年=禾+人=谷間に山稜がしなやかに曲がっている様、富=宀+畐=山稜に挟まれた酒樽のような様と解釈した。その地形要素が表す地形を図に示したところに見出せる。
山腹で盛り上がった山稜の麓が出自と思われる。図から判るように、どう考えても「筑紫」の子孫だったと思われるが、記録された資料が残されていなかったのであろう。
<紀朝臣馬主・犬養> |
● 紀朝臣馬主
凄まじいばかりの人材輩出であるが、加えて実に名前が多様なのである。地形が山岳・丘陵地帯から山稜の端が海辺に届くまでに広がった地域に蔓延っていた一族だったと推測される。
馬=馬の古文字の地形は、やはり、山岳・丘陵地帯に存在するのであろう。系譜不詳の故に、その地形を求めると、図に示したところに見出せる。なかなかに綺麗な”馬”である。
その”馬”の尾が真っ直ぐに延びている様を主と表記したと思われる。調べると、子に紀朝臣犬養がいたと知られているようである。頻出の犬養=平らな頂に挟まれた谷間がなだらかに延びているところであり、父親の東側に当たる場所が出自と推定される。
「紀」(古事記では「木」)が示す山稜の東側を出自に持つ人物は、初登場であろう。現在から推測すれば、大きく開いた谷間であり、人々が住まっていたと思われるが、何故かそれらしき人物にお目にかかることがなかった。新たな展開が、待ち受けているのかもしれない。