天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(21)
天平九年(西暦737年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
九年春正月辛酉正八位下車持君長谷賜朝臣姓。丙申。先是。陸奧按察使大野朝臣東人等言。從陸奧國達出羽柵道經男勝。行程迂遠。請征男勝村以通直路。於是詔持節大使兵部卿從三位藤原朝臣麻呂。副使正五位上佐伯宿祢豊人。常陸守從五位上勳六等坂本朝臣宇頭麻佐等。發遣陸奧國。判官四人。主典四人。辛丑。遣新羅使大判官從六位上壬生使主宇太麻呂。少判官正七位上大藏忌寸麻呂等入京。大使從五位下阿倍朝臣繼麻呂泊津嶋卒。副使從六位下大伴宿祢三中染病不得入京。
正月辛酉(乙亥の間違いか?)、車持君長谷(車持朝臣益に併記)に「朝臣」姓を賜っている。二十三日、これより先に陸奥の按擦使の大野朝臣東人等が次のように言上している・・・陸奥國より出羽柵に至る道路は、途中[男勝村]を経由していて迂遠である。そこで[男勝村]を征服して直通路を貫通させたく思う・・・。
ここにおいて天皇は持節大使で兵部卿の藤原朝臣麻呂(萬里)と、副使の佐伯宿祢豊人、常陸守の坂本朝臣宇頭麻佐(宇豆麻佐。鹿田に併記)等に詔して、陸奥國に進発させている。併せて任命された判官四人・主典四人も同行している。尚、「男勝村」については後に述べることにする。
二十七日に遣新羅使の大判官の壬生使主宇太麻呂(壬生直國依に併記)、少判官の「大藏忌寸麻呂」等が新羅から帰って入京している。大使の阿倍朝臣繼麻呂(粳虫に併記)は、津嶋停泊中に亡くなり、副使の「大伴宿祢三中」は病気に感染して入京することができなかった。
● 大藏忌寸麻呂
「大藏忌寸」は、田川郡香春町の五徳川西岸の一部に蔓延った一族と推定した(こちら参照)。通説では、東漢一族で、国庫である大蔵の管理・出納を務めたとされるが、全くの誤りであろう。
前記で「廣足」が外従五位下を叙爵されて登場していたが、「麻呂」は正七位上であり、系譜不詳で定かではないが、弟だったのではなかろうか。
後(孝謙天皇紀)に外従五位下を叙爵されている。麻呂の麻=萬として読むと、図に示した場所が出自と推定される。少々図が込み入って来たのであらためて示すことにした。この後、幾度か登場され、最終正五位下まで昇進されたようである。
その少し後に大藏忌寸家主が外従五位下を叙爵されるが、書紀での登場は一度のみで、消息は定かではないようである。幾度か同名の人物がいたが、家主=谷間で真っ直ぐに延びた山稜の端が豚口のようになっているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。
● 大伴宿祢三中
大納言(贈右大臣)「御行」の子と知られている。前出の「兄麻呂」の弟である。三中=三段に並んだ真ん中を突き通るようなところと読み解ける。父親の麓辺りの谷間に位置する場所と推定される。
図に示したように「佐伯宿禰」の一族が谷間を下って蔓延り、何ともせめぎ合いの様相を呈している有様が伺える。共に多くの人材を輩出した一族、互いに好敵手の関係となっていたのであろう。
天然痘に感染したのだが、回復してその後も活躍されたようであるが、最終官位は従五位下・刑部大判事と伝えられている。因みに「兄麻呂」の最終官位は従三位・参議のようである。
後に大伴宿祢犬養が外従五位下を叙爵されて登場する。「三中」の子とする系図が残されているようで、その近隣を探すと、むしろ別名の犬甘が表す地形が見出せる。幾度か登場の甘=口から舌を延ばしたような様と解釈した。よく見ると、その舌が谷間からなだらかに延び出ていることが解り、犬養も地形象形表記している。この配置からすると、「三中」の子であったことは、間違いないように思われる。
後に大伴宿祢駿河が従五位下を叙爵されて登場する。駿河=急峻な流れの川があるところと解釈したが、図に示した「大伴宿祢兄麻呂」の麓辺りと思われる。一説に「兄麻呂」の子と言われているようだが、多分その系譜だったのではなかろうか。
またもう少し後に大伴宿祢古麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「御行」の子とも言われるが、確定的ではないようである。古萬呂の別名が知られ、それが表す地形が御行の東側に見出せる。息子であることは、確からしいように思われる。
更に大伴宿祢御依が従五位下を叙爵されて登場する。これで「御行」一家の勢揃いとなる。少々入組んだ図になるが、纏めて示した。御依=谷間にある山稜の端を束ねるところと読み解くと、父親の西側に当たる場所が出自と推定される。
二月戊午。天皇臨朝。授從四位下栗林王從四位上。无位三使王。八釣王並從五位下。從四位上橘宿祢佐爲正四位下。從五位上藤原朝臣豊成正五位上。正六位上多治比眞人家主。外從五位下佐伯宿祢淨麻呂。阿倍朝臣豊繼。下道朝臣眞備並從五位下。正六位上三使連人麻呂外從五位下。四品水主内親王。長谷部内親王。多紀内親王並授三品。夫人无位藤原朝臣二人〈闕名〉並正三位。正五位下縣犬養宿祢廣刀自。无位橘宿祢古那可智並從三位。從四位上多伎女王正四位下。從四位下桧前女王從四位上。无位矢代女王正五位上。從五位下住吉女王從五位上。无位忍海女王從五位下。從四位下大神朝臣豊嶋從四位上。從五位上河上忌寸妙觀。大宅朝臣諸姉並正五位下。從五位下曾祢連五十日虫。大春日朝臣家主並從五位上。无位藤原朝臣吉日從五位下。正六位上大田部君若子。從六位上黄文連許志。從七位上丈部直刀自。正七位上朝倉君時。從七位下尾張宿祢小倉。正八位下小槻山君廣虫。无位廬郡君並外從五位下。己未。遣新羅使奏新羅國失常礼不受使旨。於是召五位已上并六位已下官人惣卌五人于内裏。令陳意見。丙寅。諸司奏竟見表。或言。遣使問其由。或言發兵加征伐。
二月十四日に天皇は朝堂に臨御されて以下の叙位を行っている。栗林王(長親王の子、栗栖王)に從四位上、「三使王」・「八釣王」に從五位下、「橘宿祢佐爲」(佐為王)に正四位下、藤原朝臣豊成に正五位上、多治比眞人家主・佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)・「阿倍朝臣豊繼」・下道朝臣眞備に從五位下、「三使連人麻呂」に外從五位下、水主内親王(天智天皇の水主皇女)・長谷部内親王(天武天皇の泊瀬部皇女)・多紀内親王(天武天皇の託基皇女)に三品、夫人の「藤原朝臣二人(闕名)」に正三位、縣犬養宿祢廣刀自・「橘宿祢古那可智」に從三位、多伎女王(播磨女王等に併記)に正四位下、「桧前女王」に従四位上、「矢代女王」に正五位上、住吉女王(播磨女王等に併記)に従五位上、「忍海女王」に從五位下、大神朝臣豊嶋(狛麻呂に併記)に從四位上、河上忌寸妙觀・大宅朝臣諸姉(金弓に併記)に正五位下、「曾祢連五十日虫」・大春日朝臣家主(赤兄に併記)に從五位上、「藤原朝臣吉日」に從五位下、「大田部君若子」・「黄文連許志」・「丈部直刀自」・「朝倉君時」・「尾張宿祢小倉」・「小槻山君廣虫」・廬郡君(廬原君)に外從五位下を授けている。
十五日に遣新羅使が、新羅國がこれまで行って来た礼儀を無視し、使節の命令を受けつけなかったことを奏上している。そこで天皇は五位以上と六位以下の官人、合わせて四十五人を内裏に招集し、各々意見を陳述させている。二十二日に諸官司が意見を記した上表文を奏上している。或る官司は、再度使者を派遣してその理由を問うべきであると言い、或る官司は兵を発して征伐を実施するべきであると言上している。
● 三使王 「三使王」について調べると、後に舎人親王孫らしき同一名の王が登場する。実に紛らわしいのであるが、初位が従五位下であり、皇孫ではないことが明らかであろう。「三使」の名称から出自の場所を求めることになるが、上記の叙爵の中に「三使連」二名が記載されている。調べると左京が本貫の一族だったようであり、それに従い、各々の名前から彼等の出自の場所を求めることができた。
下図<三使連人麻呂・淨足>を参照すると、藤原宮(その幾つかの離宮の一つ)がこの王の出自であったのではなかろうか。次の「八釣王」が近飛鳥宮跡の活用と同じ境遇だったのであろう。續紀での登場は、以後見られることはないようである。
● 藤原朝臣二人(闕名) 無位から正三位に叙爵された人物なのだが、”闕名”とは、些か勘繰られる事情があったような感じであろう。後の天平二十(748)年六月に藤原夫人の死亡記事があるが、相変わらず”闕名”で処理されている。
● 八釣王
出自は不詳の王のようである。「八釣」の文字列は、書紀の顕宗天皇の「近飛鳥八釣宮」で出現している。古事記は、簡単に近飛鳥宮と記載している宮であろう。
と言うことで、前例のように旧宮に住まわせていた王であり、出自の場所については一件落着と思われるが、あらためて文字列が示し地形を述べてみよう。
既出の「八」=「大きく開いた谷間」、「釣」=「釣り針のような様」と解釈され、合わせると、八釣=大きく開いた谷間で山稜が釣り針のような延びているところと読み解ける。
また釣=金+勺=先が三角に尖った柄杓のような様とも読める。共に図に示した現在の飯嶽大神が鎮座する山稜の形を表していることが解る。尚、「八釣」を含む文字列には書紀の持統天皇紀に越蝦夷八釣魚が記載されている。全く同様の解釈である。
● 阿倍朝臣豊繼
調べると安麻呂の子であることが判った。上記の「大伴宿禰」一族と同じく、狭い谷間に多くの人材を輩出している地である。
名前が示す地形を見出すことができるか、逆に見出せれば、親の出自の場所も含めて、より確実なものとなろう。
頻出の「豐」=「段差のある高台」を用いると、豐繼=段差のある高台が繋がっているところと読み解ける。安麻呂の谷間の出口が小高く盛り上がっている地形を示していることが解る。
後に登場することになるが、弟に阿倍朝臣虫麻呂がいたことが知られている。頻出の虫(蟲)=山稜の端が三つに岐れている様であり、西側の谷間に延びる山稜の形を捉えた命名と思われる。兄は、ここで従五位下の叙爵を受けた後に登場される機会はないが、弟は従四位下まで昇位したようである。
また阿倍朝臣吾人が従五位下に叙爵されて登場する。”外”が付加されず、それなりに素性が明確だったのであろうが、系譜などは知られていない。上記の「安麻呂」一家の東側の谷間が吾人=谷間が交差するようなところの地形を示し、この場所が出自と思われる。上図に併記した。
更に後に安倍朝臣黒麻呂が登場する。逆賊藤原朝臣廣嗣を捕らえた人物と記載されている。出自は不詳であり、黑=谷間に炎のような山稜が延び出ている様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。鎮圧軍の将軍であった近隣の「蟲麻呂」に引き立てられて功績を残したのではなかろうか。
皇太子(阿倍内親王)の即位に伴って、乳母であった阿倍朝臣石井が従五位下に叙爵される。系譜不詳であるが、おそらく安麻呂の近隣と推測すると、図に示した場所に石井=山麓の四角く囲まれたところが見出せる。
● 三使連人麻呂
「三使」は、上記の三使王にも含まれ、些か紛らわしい有様なのであるが、調べると左京に本貫があった一族と知られているようである。
平城宮の東方の地域で、三使=三段に並んでいる谷間の真ん中を突き通すように山稜が延びているところが示す場所を探すと…何と!…藤原宮・藥師寺の東側の山稜、即ち持統天皇が詠った万葉歌に登場する香來山の地形を表していることが解った。
この山稜が”三段”に並んでいるのである。”白龜”と見做された山稜でもあった(こちら参照)。実に多彩な表記で地形を示している。異なる視点から地形を表現する、万葉の世界にどっぷりと浸かった記述なのであろう。
かなり後になるが、三使連淨足が登場する。駿河國で金を採取したことで無位から従六位下に叙爵され、褒賞を与えられている。既出の文字列である淨足=水辺で山稜が手を開いたように長く延びているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。
後(淳仁天皇紀)に賭け事をして諍いになり、敢え無く斬り殺されていしまうという役どころとなった御使連麻呂が登場する。何とも悲運な人物だったのであるが、出自は図に示した辺りと思われる。
更に後(称徳天皇紀)に「淨(清)足」及び御使連田公が朝臣姓を賜ったと記載れる。田公=田が広がった地に丸く小高い地があるところと解釈して、図に示した「淨足」に南隣の場所が出自と思われる。連姓から朝臣姓への”昇格”の一環だったのであろう。
● 橘宿祢古那可智
臣籍降下した佐爲王(橘宿禰佐爲)の娘と知られる。父親と共に降下し橘宿禰姓を賜ったようである。と言うことは、出自の場所は「佐爲王」の近隣であろう。
全く古事記風の名前であるが、この時代になっても、どう読んでも、倭語として意味ある文字列ではなかろう。万葉仮名で記紀・續紀を読み解くことは不可なのである。
既出の文字列であり、一文字一文字を読み解いてみよう。古=丸く小高い様、那=しなやかに曲がって延びている様、可=谷間の出入口、智=矢+口+日=鏃の形と炎の形の山稜が寄り集まっている様である。
佐爲の佐=人+左=谷間に左手のように延びている山稜端の東麓の地形を余すことなく列記した表記と解る。実に豪快な名前であろう。余りに広過ぎて、出自の場所は、その中央付近とさせて頂いた。後に聖武天皇の「橘夫人」と呼ばれ、大変活躍されたとのことである。
妹の橘宿禰眞都我は、眞都我=窪んだ地にギザギザとした山稜が寄せ集められたようなところと読み解ける。図に示した谷間の奥を示していると思われる。姉と同様に藤原朝臣乙麻呂(武智麻呂の子)に嫁いだり、それなりに活躍されたと伝えられている。
後に初見で正四位上を叙爵されて橘宿祢通何能が登場する。「古那可智・眞都我・通何能」の名前から、ほぼ間違いなく「佐爲」の娘であったと思われる。そして、通何能=谷間にある脇の谷間の出口を突き通すような地が隅にあるところと読み解ける。「佐爲」の北隣の谷間を表していることが解る。
初見でいきなり正四位上の女人には、藤原朝臣殿刀自が後に登場する。それ以後の登場がないことも「通何能」も同様である。奥宮の最奥に侍っていた女人達だったのかもしれない。
● 桧前女王・矢代女王・忍海女王
調べると、「桧前女王」及び「矢代女王」の出自は、全く知られていないようであるが、「忍海女王」は長屋王の娘であったことが判った。取り敢えずは、飛鳥の地で三女王の出自の場所を求めてみよう。
この地で桧(檜)=木+亼+曾=山稜が寄り集まって積み重なった様と解釈される。前出の檜隈は、彦山川と中元寺川が合流する三角州の地形を表していた。
飛鳥の地ならば、金辺川と呉川が合流する大きく広い三角州が相似な地形を示していると思われる。その三角州の先端に当たる場所を”檜が前”と表現したのであろう。隈ではないのである。檜前女王の出自は図に示した場所と推定される。一説に高市皇子の娘と言われているが・・・。
すると、矢代=矢のような谷間にある山稜が杙の形をしているところの地形が見出せる。その麓が矢代女王(別名八代女王)の出自の場所と思われる。位置関係からすると、「檜前女王」も、弓削皇子の後裔かもしれない。聖武天皇の妻妾として寵愛を受けながらそれに背く行為があったとか、以後の消息は全く不詳とのこと。
長屋王の娘である忍海女王の出自の場所は、既に求めた多くの子供等の場所の近隣であろう(こちら参照)。ところが、この地は”忍海”の地ではない。記紀・續紀を通じて、この表現は、”海と川とが交じり合う場所”を示すと解釈して来た。即ち、「忍海」=「海を忍ばせるところ」の意味に基づく解釈である。
勿論、長屋王の近辺に海が迫っていることはなく、別の解釈が求められていると思われる。すると、「海」=「氵+每」=「水辺で母が両腕で抱えるように山稜に囲まれた様」が思い起こされる。古事記の「海」の解釈において、極めて重要な解釈である。「忍」=「刃+心」と分解される。地形象形的には「忍」=「中心に刃の形がある様」と解釈される。
纏めると忍海=中心に刃の形をした地がある水辺で山稜に囲まれたところと読み解ける。個々の文字が表す地形を組合わせた結果である。「忍」の解釈として、初めての例である。さて、その地形を図に示した場所に、見事に見出すことができる。その確からしさを高めるために、未だ登場されていない、長屋王の娘達を併記した。
「忍海女王」の東隣が智努女王、西隣が圓方女王となる。頻出の智努=嫋やかに曲がる山稜に鏃と炎の形の地が寄せ集められているところ、圓方=四角い地に丸い地が積み重なっているところと読み解ける。現在の鏡山大神社の地を「円方」と表現しているのである。紀女王は、「忍海女王」、「圓方女王」が寄り添う曲がりくねった山稜(紀)の背面が出自の場所と思われる。既出の王等も含めて、正にすっぽりと収まって様子であろう。
● 曾祢連五十日虫
「五」=「交差する様」、「十」=「谷間を束ねる様」、「日」=「山稜が[炎]のように延びている様」、「蟲」=「山稜の端が三つに岐れている様」であり、いずれも頻度高く用いられている文字である。
纏めると五十日蟲=交差するような谷間を束ねて麓で山稜が三つに岐れているところと解釈される。その地形を図に示したところに見出せる。「足人」の東側の谷間の出口辺りと推定される。『壬申の乱』で勝利した天武天皇一行が凱旋帰京する時に宿した阿閉の谷間の北側い当たる場所である。ここでの従五位上から最終従三位(命婦)に昇進されたと知られている。
別名に伊賀牟志があったと知られている。伊賀牟志=谷間で区切られた山稜が押し開いた谷間に牛の頭の形に蛇行する川があるところと読み解ける。二つ併せて、より確実な出自の場所となったように思われる。
● 藤原朝臣吉日
結論を先に述べれば、麻呂(京家)の西側に、その名前が示す地形を見出すことができる。頻出の文字列、吉日=太陽のような山稜が蓋をするように延びているところと読み解ける。
中臣の狭い谷間から飛び出た人物が麻呂一人ではなかったことが解り、そして絶大な権力を手に入れた不比等の子孫が広がって行ったことも容易に推測されることであろう・・・と言うことで、「吉日」の母親は、依然不詳のようである。
また、「橘宿禰諸兄」(葛木王)の正室が藤原朝臣多比能と知られているが、「吉日」の別名とされている。図に併記したように多比能=山稜の端が並んだ隅のところと読むと、別名として受け入れられる。續紀には登場しない名称なのだが、地形象形表記としては曖昧さが残る表記だから?…「吉日」は、目出度過ぎるから普段は用いなかった?…かもしれない。
● 大田部君若子
関連する情報は皆無の様子である。「大田」の文字列は、古事記で大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の子、大碓命の幾つかの祖に大田君が記載されている。現地名の行橋市上稗田が該当する場所と推定した。
「大田部」は、その近隣の地域を表していると思われる。若=叒+囗=多くの山稜が寄り集まって延びている様、子=生え出ている様と解釈したが、図に示した場所がその地形を表していることが解る。
現在の長峡川で山稜の端が分断されているように伺える。多分当時は、川はもっと東側を流れ、延び出た山稜がもう少し長かったのではなかろうか。正六位上から外従五位下への叙位であり、宮中の女官だったのかもしれない。續紀での登場は、この一度だけで、その後の情報もないようである。
● 黄文連許志
「黃文連」は、既に多くの人材を輩出している。書紀の天智天皇紀に黃書造として登場し、後に「黃文連」姓を賜っている。渡来系の技術者一族のような特徴を持っていたようである。
現地名は京都郡みやこ町犀川大村及び犀川大坂を住処にしていたと推定した。途切れることなく叙位されて登場している一族である。
頻出の「許」=「麓」と解釈して来たが、概ねその解釈で間違いのないようであるが、もう少し地形象形的に読み解いてみよう。「許」=「言+午」と分解される。「言」=「耕地にされた様」、「午」=「杵の略体」=「杵で臼を繰り返し突く様」を表す文字である。
纏めると、許志=耕地が蛇行する川に突き当たるところと読み解ける。麓と読んでも、確かに大きな間違いではないことも解る。「許」は多くの用例があり、また、いずれ読み直してみよう。
後に黄文連伊加麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の文字列である伊加=谷間で区切られた山稜が押し拡げるようなところと読み解ける。それらしき場所を探すと、「許志」の北側の谷間がその地形を示していることが解る。
また後(孝謙天皇紀)に黄文連水分が外従五位下を叙爵されて登場する。水分=水が分けたところと素直に読めば、図に示した場所がその地形をしていることが解る。黄文連一族も着実に人材輩出が続くようである。
武藏國足立郡
「造」姓、あるいは無姓の一族であり、相摸國足上郡を住処とする一族だったと思われる。現地名では北九州市小倉南区沼緑町を中心とする地域である。
後(淳仁天皇紀)に丈部直不破麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。更に後(称徳天皇紀)に武藏國足立郡の住人であると記載されている。先ずは、その郡の所在から求めることにする。
武藏國の郡に関しては、秩父郡・高麗郡が既に登場している。足立郡の足立=足のような山稜が並んで延びているところと解釈される。すると「秩父郡」の西隣の地域を表していることが解る。がしかし、その麓は大きく地形が変形していて、国土地理院航空写真1961~9年を下部に示した。
● 丈部直刀自 図から分かるように山稜は「秩父郡」の麓まで長く延びていたことが確認される。これを丈部直の丈部と表記したものと思われる。その端辺りに刀自=刀の形をした地が端にあるところの地形も見出せることが解った。ずっと後になるが、「武藏宿祢家刀自」の卒去の時、掌侍兼典掃從四位下であったと記載されている。尚、別表記である家刀自の「家」の地形は曖昧である。
不破麻呂の不破=[不]の形に山稜が広がった麓に大きな段差があるところと解釈した。その地形を「刀自」の北隣に見出すことができる。暫くして續紀に武藏宿祢の氏姓を賜り、武藏國國造に任じられたと記載されている。『仲麻呂の乱』での功績に基づくものである。
● 朝倉君時
「朝倉」は、幾度か登場する文字列ではるが、「君」が付けば、書紀の孝徳天皇紀に記載された人物の後裔かと思われる。現地名は豊前市青畑辺りである。
公地公民制の浸透が地方にまで行き渡るには時間を要したわけで、紀麻利耆拕臣の勝手な行動を罰し、一方被害者の朝倉君は恭順の意を示したとして褒められていた(こちら参照)。
通例に従って朝倉=朝が暗いところであるが、「時」の名前の解釈をあらためて行ってみよう。「時」は古事記で伊邪那岐命が禊祓をして誕生させた神、時量師神に用いられた文字である。時=日+寺(之+寸)=炎の地の傍らで川が蛇行している様と解釈した。
図に示したように、その地形要素を満たす場所であることが解る。以前にも述べたように續紀は古事記の文字使いを、ほぼ忠実に継承していると思われる。言い換えれば、古事記における用法が当時の”定石”だったのであろう。「時」を「蛇行する川」の表現とする、当初は、かなり衝撃を受けたことを思い起こさせる記述である。
ずっと後になるが、桓武天皇紀に陸奥國への兵糧供与で外従五位下を叙爵された朝倉公家長が登場する。家長=長く延びた山稜の麓が豚の口ようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。現在も水田が大きく広がっているが、古の姿を残しているのであろう。
● 尾張宿祢小倉
「尾張宿禰」は大隅親子が『壬申の乱』における功績で昇位と褒賞を賜った記事があった。大海人皇子(天武天皇)が桑名から尾張國を経て美濃國不破に向かう途中に位置する地で、彼等の支援がなければ”クーデター”を成し遂げることは叶わなかったであろう。
小倉=谷間が「小」字形になっているところと読み解ける。図に示した地形を表現したものと思われる。古事記の尾張連之祖意富阿麻比賣の場所である。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が娶り、「大入杵命、次八坂之入日子命、次沼名木之入日賣命、次十市之入日賣命」が誕生したと記載されている。
書紀は、大入杵命(能登臣の祖)に該当する人物を登場させない。「出雲」と「杵」との深い関係を闇に封じてしまったわけである。どう捏ね繰り回しても如何ともし難く、無視するという暴挙に至ったのである。日本書紀は、『日本紀』ではなく、後世に手が加えられた読み物である。
横道に逸れ過ぎるので・・・「小倉」は、最終従四位下・内命婦となるが、尾張國造を命じられている。女性が國造となった初めての例だと、言われている。出自の場所からも実に由緒正しき女性であったのである。
● 小槻山君廣虫
上記の崇神天皇そして垂仁天皇の時代に遡る地に出自を持つ人物を叙爵していることになる。逆に言えば、天皇家の統治範囲が、九州島の東北部近辺から拡がったのではなく、その範囲の中で埋もれた人材の登用なのである。
「小月(槻)」は、更に遡れば、崇神天皇紀に登場する意富多多泥古の系譜に現れる、大物主大神の後裔である飯肩巢見命の出自の場所でもある。”筑紫”と”出雲”の境、現地名からすると出雲(門司区)に属していたことになるようだが・・・。
さて、今回改めて地形を眺めると、正に「小」の文字形の山であることが解った。全体的には丸く小高い形(槻)であるが、頂は”三方”に広がった様子が伺える。極めて精緻に地形象形した表記であることが再確認されたと思われる。ご当人の廣蟲=広がった山稜の端が三つに岐れているところが出自であり、図に示した場所と推定される。