日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(18)
養老六年(西暦722年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
夏四月丙戌。征討陸奥蝦夷。大隅薩摩隼人等將軍已下及有功蝦夷。并譯語人。授勳位各有差。」始制。大宰管内大隅。薩摩。多褹。壹伎。對馬等司有闕。選府官人權補之。庚寅。詔曰。周防國前守從五位上山田史御方。監臨犯盜。理合除免。先經恩降。赦罪已訖。然依法備贓。家無尺布。朕念。御方負笈遠方。遊學蕃國。歸朝之後。傳授生徒。而文舘學士。頗解属文。誠以不矜若人。盖墮斯道歟。宜特加恩寵。勿使徴贓焉。辛夘。詔曰。朕遐想千載。旁覽九流。詳思布政之方。莫先仁恕之典。故賑恤之惠。無隔遐方。撫育之仁。普覃宇内。今者。有司奏言。諸國罪人惣卌一人。准法並當流已上者。毎聞此奏。朕甚愍之。萬方有辜。在余一人。宜所奏罪人。並從坐者。咸皆放免。勿案検焉。」唐人王元仲始造飛舟進之。天皇嘉歎。授從五位下。主税寮加史生二人。通前六員。
四月十六日に陸奥蝦夷や大隅薩摩隼人等を征討した将軍以下及び功績のあった蝦夷、併せて訳語人(通訳)にそれぞれ勲位を授けている。この日、大宰府が管轄する地域の中で大隅や薩摩、及び多褹・壱岐・對馬の「司」に欠員が生じた時に大宰府の官人を任命することを初めて定めている。
二十日に以下のように詔されている。概略は、前周防國守の山田史御方は監督する立場にありながら官物を盗む罪を犯した。本来官人の名籍から除外されるべきであるが恩赦により免罪となっている。財貨を弁償させるも御方には一尺の布もない有様と言う。思うに御方は新羅に遊学し、帰国後は文館の学士に伝授して皆文章を作ることができるようにしている。よって特別の恩寵を与えて財貨の弁償を免じることにする、と述べている
二十一日に以下のように詔されている。概略は、はるか千年の歴史を思い、広く九流(儒家、道家、陰陽家など)の学問を見て、政治の方法を考えたが、憐れみと思いやりに基づく方法より優れたものはない。それ故遠方の地域も差別することなく憐れみと施しの恵みを与えて来た。今、役人が「諸國にいる罪人は四十一人、法の規定に従えば全て流罪以上に相当する者です」と奏言している。朕は、罪人を憐れみ、何処であれ罪を犯す者がいるなら、その責任は私一人にある。全員を放免し、以後取り調べることなきようにせよ、と述べている。
この日、唐人の「王元仲」は、「飛舟」(船足の速い船?)を初めて造り、進上している。たいそう褒められて従五位下を賜っている。同じ日に、主税寮に史生二人を加え、合計六人としている。
● 飛舟
蛇足だが、「飛舟」の具体的なイメージがないせいか、飛車、飛丹の誤りとか言われているようであるが、おそらく、”杼”(織機の横糸を通す道具)であろう。
それ以前が如何なる構造をしていたかは不明だが、”杼”の改良の余地は十分にあったであろうし、また画期的なものも出現した可能性が高いと推測される。
特許制度があれば、莫大な財産が・・・いや、従五位下には叶わないであろう。残念ながら、「王元仲」の出自は不詳だが、前出の王仲文のご近所さんだったかも?・・・。
閏四月乙丑。太政官奏曰。廼者。邊郡人民。暴被寇賊。遂適東西。流離分散。若不加矜恤。恐貽後患。是以聖王立制。亦務實邊者。蓋以安中國也。望請。陸奥按察使管内。百姓庸調浸免。勸課農桑。教習射騎。更税助邊之資。使擬賜夷之祿。其税者。毎卒一人。輸布長一丈三尺。濶一尺八寸。三丁成端。其國授刀兵衛衛士及位子帳内資人。并防閤仕丁。采女仕女。如此之類。皆悉放還。各從本色。若有得考者。以六年爲叙。一叙以後。自依外考。即他境之人。經年居住。准例徴税。以見來占附後一年。而後依例。又食之爲本。是民所天。隨時設策。治國要政。望請。勸農積穀。以備水旱。仍委所司。差發人夫。開墾膏腴之地良田一百万町。其限役十日。便給粮食。所須調度。官物借之。秋收而後。即令造備。若有國郡司詐作逗留。不肯開墾。並即解却。雖經恩赦。不在免限。如部内百姓。荒野閑地。能加功力。收獲雜穀三千石已上。賜勳六等。一千石以上終身勿事。見帶八位已上加勳一轉。即酬賞之後。稽遲不營。追奪位記。各還本色。又公私出擧。取利十分之三。又言。用兵之要。衣食爲本。鎭無儲粮。何堪固守。募民出穀。運輸鎭所。可程道遠近爲差。委輸以遠二千斛。次三千斛。近四千斛。授外從五位下。奏可之。其六位已下。至八位已上。隨程遠近運穀多少。亦各有差。語具格中。
閏四月二十五日に太政官が以下のように奏している。概略は、辺境の郡に住まう民は外敵の侵略に遭い、西や東に逃げまどって流浪し分散している。今、彼らにあわれみと恵みを与えなければ後に悪影響を及ぼすことになる。聖王が辺境を充実させるのは、中国(日本國)を安んじるためである。そこで、陸奥安擦使が管轄する地域の民の庸・調を免除し、農耕と養蚕を割り当て勧め行わせ、弓を射る術と乗馬を教習し、更に辺境を援助する財源を確保して蝦夷に賜う禄に充てたく思う。兵卒一人につき長さ一丈二尺、幅一尺八寸の麻布を税として出させ、二人分の布で一端とする。次に陸奥國出身の授刀寮の兵衛・衛士及び位子・帳内・資人並びに防閤・仕丁、采女・仕女など、この類の人々は全員帰国させる。その中に考(勤務評定を受ける資格)を得ている者がおれば、六年間の評定によって位を授け、それ以後は外考とする。陸奥國に移住した一年間は税を免除する。また、食物は民にとって最も大切なもので、それ故に農業を奨励し、穀を蓄積して水害や旱魃に備えるが、人夫を徴発して肥沃な良田百万町を開墾する。人夫の労役は十日を限度とし、食料・道具類は官物を貸し与える。國郡司でこの仕事に協力しない者は即座に解任し、更に恩赦の対象から外す。百姓の中で雑穀を三千石以上収穫した者に勲六等、一千石以上は終身租税負担免除とする。既に八位以上の位階を持っていれば、勲位一段階を加えることにする。また、公私の出挙の利息は三割とする。また、兵士を用いる際に肝心なのは衣と食が基本であり、鎮所での備蓄のために民を募って穀を搬入させるのだが、鎮所からの遠近によって二千から四千斛を拠出した者に外従五位下を授けることにする。これが許されて、格(キャク;臨時に出された勅令や官符)につぶさに記載されている。
五月己夘。以式部大録正七位下津史主治麻呂。爲遣新羅使。己丑。賜右大臣長屋王。稻十萬束。籾四百斛。戊戌。遣新羅使津史主治麻呂等拜朝。
六月壬寅。始置木工寮史生四員。
五月十日に式部大録の津史主治麻呂(船史同族、船連大魚に併記)を遣新羅使に任じている。多分、冠位からしても太上天皇の崩御を知らせるためだけの使者だったのであろう。二十日、右大臣の長屋王に稲十万束、籾四百斛を授けている。二十九日に遣新羅使の津史主治麻呂等が拝朝している。
六月三日に初めて木工寮を設置し、史生四人を定員としている。
秋七月壬申。有客星。見閣道邊凡五日。丙子。詔曰。陰陽錯謬。災旱頻臻。由是奉幣名山。奠祭神祇。甘雨未降。黎元失業。朕之薄徳。致于此歟。百姓何罪。焦萎甚矣。宜大赦天下。令國郡司審録寃獄。掩骼埋胔。禁酒斷屠。高年之徒。勤加存撫。自養老六年七月七日昧爽已前。流罪以下。繋囚見徒。咸從原免。其八虐。刧賊。官人枉法受財。監臨主守自盜。盜所監臨。強盜。竊盜。故殺人。私鑄錢。常赦所不免者。不在此例。如以贓入死。並降一等。竊盜一度計贓。三端以下者入赦限。己夘。太政官奏言。内典外教。道趣雖異。量才揆職。理致同歸。比來僧綱等。既罕都座。縦恣横行。既難平理。彼此往還。空延時日。尺牘案文。未經决斷。一曹細務。極多擁滯。其僧綱者。智徳具足。眞俗棟梁。理義該通。戒業精勤。緇侶以之推讓。素衆由是歸仰。然以居處非一。法務不備。雜事荐臻。終違令條。宜以藥師寺常爲住居。又奏言。垂化設教。資章程以方通。導俗訓人。違彝典而即妨。近在京僧尼。以淺識輕智。巧説罪福之因果。不練戒律。詐誘都裏之衆庶。内黷聖教。外虧皇猷。遂令人之妻子剃髮刻膚。動稱佛法。輙離室家。無懲綱紀。不顧親夫。或負經捧鉢。乞食於街衢之間。或僞誦邪説。寄落於村邑之中。聚宿爲常。妖訛成羣。初似脩道終挾姦乱。永言其弊。特須禁斷。奏可之。」太白晝見。戊子。詔曰。朕以庸虚。紹承鴻業。尅己自勉。未達天心。是以今夏無雨。苗稼不登。宜令天下國司勸課百姓。種樹晩禾蕎麥及大小麥。藏置儲積。以備年荒。丁酉。太白犯歳星。自五月不雨。至是月。
七月三日に客星(突如現れる星)が閣道(カシオペア座の西側に一線に並ぶ六星)辺りに凡そ五日ほど見えている。
七日に以下のように詔されている。概略は、近頃は陰陽が乱れ災害や旱魃が頻繁に生じている。幣帛を名山に奉って天神地祇を祀ったが恵みの雨は未だ降らず民は生業を失ってしまった。朕の德が薄いのか、民に罪があるのか定かではないが、天下に恩赦を行うことにした。併せて國郡司に無実の罪で服している者をつぶさに記録させ、路上の骨や腐った肉を土中に埋めさせ、飲酒を禁じて屠殺をやめさせよ。養老六年七月七日の未明より以前の流罪以下の者を放免せよ。但し尋常の恩赦に含まれないものは免除しない。窃盗で死罪の者は罪一等を減じ、合算して布三端以下であれば恩赦の範囲に入れよ、と述べている。
十日に太政官が次のように奏言している。概略は、内典(仏教)と外教(儒教)とでは、その教えの趣は異なっているが、才能を推し量って職務を考えることでは、帰するところ同じと思われる。最近、僧綱等は都座(職務を行う場所)にいることは稀で、各所をほしいままに巡り歩いている。所在が掴めず、決済を求めてあちこち往復して無駄な時間を費やし、こまごまとした事務が滞っている。僧綱は、智と徳が十分に備わった者であり、僧侶と俗人の両方を支える棟梁たるべき者である。また仏教の教義を広く通じ、持戒や修行に勤めるものである。それ故に僧侶は自ら謙って僧綱をたて、俗人は慕い仰ぐのである。よって藥師寺を僧綱が常に住居するところとしたい。
また德化を垂れ教えを広めることは法規に則って初めて上手く行き、風俗を善導し教えを諭すことは守るべき常の道に違えば成功しない。最近、在京の僧尼等は浅い知識と軽薄な知恵をもって罪と福の因果関係を巧みに説き、戒律を充分に守ることなく、京内の民衆を迷わせている。妻子等は法規を恐れることもなく両親や夫を顧みなくなっている。ある者は経を背に負い鉢を捧げて巷に食を乞い、またある者は邪説を唱えて村々に寄宿し、あやしいことを言いふらす者どもが群をなしている。最初は仏道の修行に似ていても、その弊害は大きく、禁断すべきである。この二つの奏が許されている。この日、太白(金星)が昼間に見えている。
十九日に以下のように詔されている。概略は、朕は平凡で愚かなまま皇位を受け継ぎ、自分に厳しく、自ら勤めて来たが、未だに天の心に届いていない。そのため、今夏は雨が降らず稲の苗は実らなかった。よって天下の國司に命じて、民に勧め割り当てて晩稲・蕎麦・大麦・小麦を植えさせ、その収穫を納め置いて貯え積み、穀物の実らぬ年に備えさせよ、述べている。
二十八日、太白(金星)が歳星(木星)を犯している。五月よりこの月に至るまで雨が降っていない。
八月壬子。詔曰。如聞。今年少雨。禾稻不熟。其京師及天下諸國當年田租。並宜免之。丁夘。令諸國司簡點柵戸一千人。配陸奧鎭所焉。」伊勢。志摩。尾張。參河。遠江。美濃。飛騨。若狹。越前。丹後。但馬。因幡。播磨。美作。備前。備中。淡路。阿波。讃岐等國司。先是。奉使入京。不聽乘驛。至是始聽之。但伊賀。近江。丹波。紀伊四國。不在茲限。
九月庚寅。令伊賀。伊勢。尾張。近江。越前。丹波。播磨。紀伊等國。始輸錢調。
十四日に以下のように詔されている。概略は、聞けば今年は雨が少なく稲は実っていないと言う。左右京及び天下の諸國の今年の田租を免除せよ、と命じられている。二十九日、諸國司に柵戸とすべき者を千人選ばせ、陸奥國の鎮所に配置させている。この日、伊勢・志摩・尾張・參河・遠江・美濃・飛騨・若狹・越前・丹後・但馬・因幡・播磨・美作・備前・備中・淡路・阿波・讃岐等の國司については、上京する時の駅馬の使用を初めて許されている。但し、伊賀・近江・丹波・紀伊の四國については、この限りではない、と記載されている。
九月二十二日に伊賀・伊勢・尾張・近江・越前・丹波・播磨・紀伊等の國に初めて銭で調を納めさせている。
冬十一月甲戌。始置女醫博士。丙戌。詔曰。朕精誠弗感穆卜罔從。降禍彼蒼。閔凶遄及。太上天皇奄弃普天。誠冀。北辰合度。永庇生靈。南山協期。遠常承定省。何圖。一旦厭宰萬方。白雲在馭。玄猷遂遠。瞻奉寳鏡。痛酷之情纒懷。敬事衣冠終身之憂永結。然光陰不駐。倏忽及期。汎愛之恩。欲報無由。不仰眞風。何助冥路。故奉爲太上天皇。敬寫華嚴經八十卷。大集經六十卷。涅槃經卌卷。大菩薩藏經廿卷。觀世音經二百卷。造潅頂幡八首。道塲幡一千首。着牙漆几卅六。銅鋺器一百六十八。柳箱八十二。即從十二月七日。於京并畿内諸寺。便屈請僧尼二千六百卅八人。設齋供也。
十二月庚戌。勅奉爲淨御原宮御宇天皇造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇釋迦像。其本願縁記。寫以金泥。安置佛殿焉。庚申。遣新羅使津史主治麻呂等還歸。
十一月七日に初めて女医博士(女医に産科などを教授)を置いている。十九日に以下のように詔されている。概略は、朕の真心は天に通じず、占ってみても良い結果が出ない。禍がこの大空に降され、母に死別する不幸が遄(速)かに訪れてしまった。いつまでも変わらず朝夕に親孝行ができることを希っていたが、太上天皇の奥深い謀りごとが遂に遠いものとなってしまった。遺品となった宝鏡や衣・冠を見て、生涯消えない憂いが心に纏い付く。時は止まることを知らず、その時(一周忌)が近付いている。大きな愛の恩に報いる手立てが見つからない。それ故に各経書、仏具を揃え十二月七日より京・畿内の諸寺に僧尼千六百三十八人を招いて設齋する、と述べている。
十二月十三日に以下のように勅されている。淨御原宮御宇天皇(天武天皇)の為に弥勒像を、藤原宮御宇太上天皇(持統天皇)の為に釋迦像を造り、その本願の縁記を金泥(漆と金粉を混ぜたもの)で書き写し、佛殿に安置している。二十三日に遣新羅使の津史主治麻呂等が帰国してる。