日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(19)
養老七年(西暦723年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
七年春正月丙子。天皇御中宮。授從三位多治比眞人池守正三位。正四位下阿倍朝臣廣庭。正四位下息長王並正四位上。從四位上六人部王正四位下。從四位下大石王從四位上。无位栗栖王。三嶋王。春日王並從四位下。正五位下葛木王正五位上。无位志努太王從五位下。從四位上阿倍朝臣首名。石川朝臣石足。百濟王南典並四位下。正五位上大伴宿祢道足。紀朝臣男人並從四位下。正五位下阿倍朝臣船守。從五位上調連淡海並正五位上。從五位上鴨朝臣堅麻呂正五位下。從五位下引田朝臣眞人。路眞人麻呂。紀朝臣清人。大伴宿祢祖父麻呂。土師宿祢豊麻呂。津守連通並從五位上。正六位上引田朝臣秋庭。河邊朝臣智麻呂。紀朝臣猪養。波多眞人足嶋。阿曇宿祢坂持。布勢朝臣國足。息長眞人麻呂。角朝臣家主。高橋朝臣嶋主。平群朝臣豊麻呂。石川朝臣樽。中臣朝臣廣見。石川朝臣麻呂。余仁軍。正六位下船連大魚。河内忌寸人足。丸連男事。志我閇連阿弥太。越智直廣江。堅部使主石前。高金藏。高志連惠我麻呂並從五位下。又授夫人藤原朝臣宮子從二位。日下女王。廣背女王。粟田女王。六人部女王。星河女王。海上女王。智努女王。葛野女王並從四位下。他田舍人直刀自賣正五位上。太宅朝臣諸姉。薩妙觀並從五位上。大春日朝臣家主從五位下。壬午。饗四位已下主典已上於中宮。
正月十日、中宮にて以下の叙位を行っている。多治比眞人池守に正三位、阿倍朝臣廣庭(首名に併記)・息長王(息長足日廣額[舒明]天皇が養育された宮?)に正四位上、六人部王に正四位下、大石王に従四位上、「栗栖王」・三嶋王(御原王に併記)・春日王(施基皇子の子。壹志王に併記)に從四位下、葛木王に正五位上、「志努太王」に從五位下、阿倍朝臣首名・石川朝臣石足・百濟王南典(①-❹:播磨按察使)に正四位下、大伴宿祢道足・紀朝臣男人に從四位下、阿倍朝臣船守・調連淡海(調首淡海)に正五位上、鴨朝臣堅麻呂に正五位下、引田朝臣眞人・路眞人麻呂・紀朝臣清人・大伴宿祢祖父麻呂(牛養に併記)・土師宿祢豊麻呂(大麻呂に併記)・津守連通に從五位上、引田朝臣秋庭・河邊朝臣智麻呂(川邊朝臣母知に併記)・紀朝臣猪養(眞人の子、龍麻呂に併記)・「波多眞人足嶋」・阿曇宿祢坂持(津守連通に併記)・布勢朝臣國足(阿倍朝臣首名に併記)・息長眞人麻呂(臣足に併記)・角朝臣家主(角兄麻呂に併記)・高橋朝臣嶋主(廣嶋に併記)・平群朝臣豊麻呂(父親の子首に併記)・石川朝臣樽(君子に併記)・中臣朝臣廣見(兄東人に併記、父親は意美麻呂)・石川朝臣麻呂(君子に併記)・余仁軍(余眞眞人に併記)・船連大魚・河内忌寸人足(石麻呂に併記)・「丸連男事」・志我閇連阿弥太(陀)・越智直廣江・堅部使主石前・高金藏(背奈公行文・王仲文に併記)・「高志連惠我麻呂」に從五位下を授けている。また、夫人藤原朝臣宮子に從二位、日下女王(坂合部王に併記)・「廣背女王」・「粟田女王」・六人部女王(六人部王に同じ)・「星河女王」・「海上女王」・「智努女王」・「葛野女王」に從四位下、「他田舍人直刀自賣」に正五位上、太宅朝臣諸姉(金弓に併記)・「薩妙觀」に從五位上、大春日朝臣家主(赤兄に併記)に從五位下を授けている。
十六日に中宮に於いて四位以下主典以上の者と宴会している。
● 栗栖王・智努女王・廣背女王
ともあれ、長皇子の夥しい数の子供達が順次登場している。前記でその一部を纏めたが(こちら参照)、それでも不足であらためて右図に示した。
河内王が長男で、栗栖王が次男と知られている。既出の栗=栗の雄花のように並んで長く延びた様と解釈した。「采女」の地と極めて類似した地形を示している(例えばこちら)。
幾度か登場の栖=木+西=山稜が寄り集まって巣のようになっている様であり、栗の雄花が延び出るところを表している。図に示した現地名田川郡福智町伊方の中原辺りと推定される。大市王と長田王の間が埋まった様子である。
智努女王は、智努王のご近所と思われる。以前にも述べたが現在の先立岩池はもっと小ぶりであり、と言うか、小さな池が連なり、その間を川が蛇行しながら流れていた場所と思われる。その地形を廣背女王(背が広がっている様)の名前が表しているのであろう。「廣瀬女王」、「廣湍女王」の別名があったと知られる。これらもその地形を示す表記と思われる。
後(聖武天皇紀)に石川王が従四位下の叙爵を授けられたと記載される。智努王の背後の端で小高くなった山稜を石と見做した命名であろう。その東側の谷間を、多分、流れる川と合わせて出自の場所と推定される。九名の息子、娘を配置することができた。貴重な系譜であろう。
● 波多眞人足嶋
羽田公矢國以来、幾人かの人物の登場があったが、明確に「波多朝臣」系列とは区別されている。それにしても狭い土地なのであるが、今回の登場で「眞人」の範囲が見えて来るかもしれない。
頻出の足=山稜がなだらかに延びた様、嶋=山+鳥=山稜が鳥のような形をしている様と解釈した。すると現在の羽山神社が鎮座する山稜を示していると思われる。
古事記の羽山戸神が切り拓いた地であり、その後大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の御子、建内宿禰、その子の波多八代宿禰の一族が広がった出雲の端、淡海に面する場所の中心となるところがこの人物の出自と推定される。
後(聖武天皇紀)に波多眞人繼手が従五位上を叙爵されて登場する。系譜は知られていないようだが、名前が示す場所を求めてみると、「足嶋」の東側、羽山の谷間の入口付近が出自の場所と解った。繼手=手のような山稜を継なぎ合わせたところと読み解ける。
両者共に出自の詳細は全く不明、いや、分っていても記録することはあり得なかったであろう。出雲に関わる場所が北九州市門司区にあってはならないからである。書紀は「羽田」、古事記の「波多」を用いない。續紀は、きちんと元に戻して「波多」である。
● 丸連男事
「丸連」は、記紀を通じても全く初めての出現である。調べても丸邇(書紀では和珥)の別名表記と解釈されているようである。本著は、丸邇=[丸]の谷間の傍らの山稜が延び広がっているところと読み解いて来たが、その「丸」の解釈、即ち「丸」の場所については、決して明瞭ではなかった。
少し振り返ると、古事記で「丸邇」が登場するのは若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀に丸邇臣之祖日子國意祁都命が最初である。この命の出自の場所は、現在の香春町柿下の柿下大坂辺りと推定した。
故に「丸」は、この場所に近接するところであろう、と推測されるが、「丸」の文字が表す地形が読み解けていなかったのである。「丸連男事」の登場によって、漸く「丸」の場所を求めることができたようである。以下にその読み解きを再掲する。
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「丸邇」の「丸」について、上記のように「丸い地形」→「粒」に関連付けて解釈した。外してはいないが、さりとて、しっくりとしたものではないように感じられる。地形象形としては、「壹比韋」の地形とするには、「丸」を象っているとは考え難い。
後に續紀を読み進むと、「丸連」姓の人物が登場する。この「丸」の近隣を「丸邇」と表記したと考えるのが真っ当であろう。そんな背景で、改めて「丸」探しを行った結果である。
結論から述べれば、「丸」は現地名の田川郡香春町大字柿下の薬師谷と推定された。図を参考しながら眺めると、大坂山の山容を「丸」の左右反転(鏡)文字と見做しているのである(図では逆文字で記載)。
では、その鏡文字と知られる「仄」は何を示しているのか?…「仄」=「厂+人」と分解される。すると「丸」は、「丸」の鏡文字である「仄」の鏡文字と言うことになる。二回左右反転すると元に戻るのである。地形象形的に纏めると…、
[丸]の鏡文字形をした山の崖下にある谷間
…と解釈される。漸くして「丸」の正体を突き止めることができたように思われる。古事記の文字使いの奥深さは、計り知れないところであろう。
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「男事」は、男事=突き出た山稜が真っ直ぐに延びているところを上図に示した場所に見出すことができる。おそらく遠祖は邇藝速日命であり、その一族かと思われるが、下界から隔絶された地形の中で埋もれていたのであろう。續紀に登場するのはこれが最初で最後、この後は「中臣丸連」が登場するが、詳細はその時に。
「丸」の字源は、『説文解字』(後漢許愼の著書)に「仄の左右逆さまにした字」と記載されている。漢字の成立ちに深く関わり、またその知識を如何なく発揮した文字使いと思われる。漢字を”記号”化することの実用性から離れることが日本の古書を読む解く、最も肝心なことにように思われる。
● 高志連惠我麻呂
名前の「惠我」を読み解いてみよう。「惠」=「叀+心」=「山稜に取り囲まれた地に小高いところがある様」であり、「我」=「ギザギザとした戈のような様」と解釈した。共に幾度か用いられた文字である。
纏めると惠我=山稜に取り囲まれた地にある小高くギザギザとした戈のようなところと読み解ける。図に示した場所の地形を表し、おそらく当人の出自はその矛先辺りと推定される。
「高志」は何とも古めかしい、と言うか由緒ある地名なのであるが、書紀には登場することはなく(「越」に全て置き換え)、續紀で復活しているのである。高志之八俣遠呂智は、出雲東北部の中心の地形を表すと解釈した。都合が悪ければ改変もしくは省略、それが書紀である。續紀の記す『日本紀』ではない、と思われる。
<粟田女王・河内女王> |
● 粟田女王
出自は不明である。然るに初位が従四位下、最終は正三位であり、既に知られているように皇孫であることには違いない。
また後に河内女王が登場するが、図に示した谷間の入口辺りと思われる。多分、この女王も「弓削皇子」の子ではなかろうか。いずれ、長屋王の子孫が蔓延る地となろうが、果たして被るか?…ご登場の時に調べてみよう。
● 星河女王
星河女王で調べると、用明天皇の子、來目皇子の娘に同名の人物がいたことが知られているようである。と言うことは、異なる女王で同一場所が出自だったのではなかろうか。
少し北側に天武天皇の子、大來皇女の出自の場所があり、弟が出自が娜大津の大津皇子である。憶測になるが、大津皇子の娘を養女として育て、謀反人となった皇子の忘れ形見だったのかもしれない。
ともあれ、名前から地形を求めてみよう。幾度か登場の星=晶+生=小ぶりな炎が三つ生え出て寄り集まっている様、河=氵+可=谷間の出口の水辺と解釈したが、図に示した通りの地形が見出せる。古事記の久米王(書紀は來目)の場所と重なるのではなかろうか。
後(聖武天皇紀)に久米奈保麻呂が登場し、「久米連」姓を賜ったと記載されている。同じ「久米」でも「(朝)臣」(古事記では小ぶりな谷間を表す)のような窪んだ地形ではなく「連」(連なり延びたところ)を示していると解釈される。
既出の奈(柰)=木+示=山稜が高台となっている様、保=人+子+八=谷間で生え出た地を山稜が包むように延びている様と解釈する。山稜の端の[奈]と[保]の形が並んだ谷間が出自の場所と推定される。書紀の「來目」を用いることはあり得ない、のである。
後(聖武天皇紀)に久米女王が従五位下に叙爵されて登場する。古事記の久米王の出自の場所、あるいはその近隣が居処だったと思われる。
● 海上女王
後に最高齢で即位される白壁王(光仁天皇)の出自の場所も求めたが、この女王が内親王になったとは記載されず、それ以前に亡くなっているようである。
さて、古事記で登場した「海原」(こちら参照)と同じく「海上」に住まうことは叶わず、「海」の文字解釈をしっかりと行うことであろう。「海」=「氵+每」=「水辺で母が子を抱えるように山稜が延びている様」、「上」=「盛り上がった様」と解釈した。
纏めると海上=水辺で山稜に囲まれた地にある盛り上がったところと読み解ける。図に示した場所を表していることが解る。現在の標高10mで当時の海岸線と見做した図であるが、西暦723年ともなれば、もう少し後退していたかもせれない。
後(聖武天皇紀)に妹の坂合部女王・衣縫女王・難波女王が登場する。頻出の坂合部=麓で延びた山稜が出合う地に近いところ、衣縫=山稜の端の三角州が寄せ集められたところ、難波=直角に曲がる川辺のところと解釈した。それぞれの出自の場所を図に示したように求めることができる。
● 葛野女王
天智天皇の子、大友皇子と天武天皇の娘、十市皇女との間に誕生したのが葛野王であった(正真正銘の皇孫)。慶雲二年(文武即位九年;705年)十二月の逝去記事(冠位は正四位上式部卿、享年37)のみであった。前記したように十市皇女の出自は「葛野」に含まれた地である。この女王もそんな背景で誕生したのであろう。出自は、名前にその場所を残すのみとなったようである。
● 他田舍人直刀自賣
いきなりの登場で正五位上と記載されている。勿論出自がしっかりしていなければあり得ないであろう。
系譜の概略を述べると、「他田舎人」を賜った「目古」の曾孫が「老」、その娘が「直刀自賣」だったようである。勿論、他田宮で仕えた「舎人」と地形とが重ねられた名称である。
「他田」は、他=人+也=谷間で川が曲がりくねりながら流れている様でその傍らにある田と解釈した。その谷間に舎人=谷間で山稜の端が広がり延びている様の地形を見出すことができる。図に示した場所の現地名は同町勝山上矢山となっている。
「目古」は、目古=目のような谷間に小高い地があるところであり、曾孫の「老」はその西側の山稜の麓の地形を表していることが解る。すると娘の直刀自=山稜の端にある[刀]の形の麓が真っ直ぐになっているところと読み解ける。「直(アタイ)」と形式的な解釈をしていては、全く誤りである。
「舎人」と「直」が被っているが、おかまいなしの解釈である。ついでながら、かつてにも少し述べたが、それなりに頻出する「刀自」は全く読み解けていない文字列である。何故多用されるのか?…現状では答えられないであろう。
● 薩妙觀
持統天皇即位三年(689年)六月の記事にある「賜大唐續守言・薩弘恪等稻」の「薩弘恪」(音博士)の後裔ではないか、と言われているようである。元々は斉明天皇紀に百濟を経て流れて来た人々に含まれていたと思われる。
と言うわけで、このままでは何とも出自の場所を求め辛いのであるが、後に「河上忌寸」姓を賜ったと伝えられている。だが、これでも特定は難しそうに思われる。
天武天皇紀に「齋宮於倉梯河上」と記載されている。「河上」は倉梯河の河上を指しているのではなかろうか。多分齋宮の近隣に住まっていたと思われる。図に示したように前出の支半于刀、素性仁斯など渡来系の人物が右京に多く住まっていたと述べている。高度な知識・技能を有する者達を近傍に侍らせていたのであろう。
● 志努太王
最後の一人だが、残念ながらこの王(多分、天智・天武天皇の曾孫)の出自を全く掴めなかった。ご登場は、ここでの一度切りでもあるが(別名で記されているかもしれないが…)、用いられている文字は地形象形で頻出する故に、いつの日かそれを頼りに探してみよう。