2021年8月17日火曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(20) 〔536〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(20)


養老七年(西暦723年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

二月丁酉。勅遣僧滿誓〈俗名從四位上笠朝臣麻呂。〉於筑紫。令造觀世音寺。戊申。常陸國那賀郡大領外正七位上宇治部直荒山。以私穀三千斛。獻陸奧國鎭所。授外從五位下。己酉。詔曰。乾坤持施。壽載之徳以深。皇王至公。亭毒之仁斯廣。然則居南面者。必代天而闢化。儀北辰者。亦順時以涵育。是以。朕巡京城。遥望郊野。芳春仲月。草木滋榮。東候始啓。丁壯就隴畝之勉。時雨漸注。蟄蠢有浴潅之悦。何不流寛仁以安黎元。布淳化而濟万物乎。宜給戸頭百姓。種子各二斛。布一常。鍬一口。令農蚕之家永無失業。宦學之徒專忘私。戊午。始築矢田池。癸亥。但馬國人寺人小君等五人。改賜道守臣姓。
三月己夘。散位從四位下佐伯宿祢麻呂卒。戊子。常陸國信太郡人物部國依。改賜信太連姓。

二月二日に僧滿誓(俗名笠朝臣麻呂)を筑紫に遣わして、「觀世音寺」を造らせている。<觀世音寺と言う名称の寺は、大寶元年(701年)八月に造られて五年が経過したと記載されていた。同じ寺ならば、既に約二十七年が過ぎているが、まだ未完成であったのか、詳しくは不明である。同じ時期に建てられた筑紫尼寺については言及されていない>

――――✯――――✯――――✯――――

少々余談になるが、「滿誓」の万葉歌について以下のような論説がなされているそうである。Wikipediaを一部引用すると…、

米国の歴史言語学者のロイ・アンドリュー・ミラーは「沙弥」という接尾語の語源を論じて薬師寺仏足跡歌碑と対照しながら、満誓の歌に仏教観は薄いと主張し、さらに中西進の論説を引用して『万葉集』の歌に見える「無常観」は日本発祥の木花之佐久夜毘売神話に基づいており、仏教思想としての無常は当時未だ大陸から伝わっていなかったと指摘している。

…中西進氏の「無常観」は「日本発祥の木花之佐久夜毘売神話」に基づくとのことであるが、この方は「無常」の意味を全く理解しておらず、勿論古事記も読めていないことを暴露している。前記したように”色即是空 空即是色”であって、前半部だけの「色即是空」=「無常」の解釈は間違いである。「空即是色」を勝手に読み飛ばし、「色」と「空」が互いに転化する構造を理解できないで論じている。ミラー氏が「仏教思想としての無常観は、まだ伝わっていなかった」と述べるが、これも全くの誤りであろう(こちら参照)。中西進氏の論説に傍証を求めて古代を語ることは避けるべきで、結局自説の根拠を危うくしていることになる。こちらの河合隼雄氏の『中空構造日本の深層』に関する本著の記述を参照。

――――✯――――✯――――✯――――

十三日に「常陸國那賀郡」の大領の「宇治部直荒山」が個人の穀三千斛を陸奧國鎭所に献上し、外從五位下を授けている。

十四日に以下のように詔されている。概略は、天と地が互いに寄り合って力を合せる時に、天が普く覆い地が万物を載せる徳はより深くなり、天子が極めて公平な時には養い恵む仁徳は広く行き渡る。このような時には南面して天子の座にある者は必ず天に代わって徳化をすすめ、北極星に則っては時の巡りに順って民を潤し育むものである。そこで朕は京城を巡り、遥かに城外の野原を望んでみたが、芳しい春の二月、草木は茂り花が咲き、春の気候が到来し、働き盛りの男は畑の仕事に就き、時に叶った雨が大地を潤し、冬籠りから醒めて動き出した虫は雨を浴びて悦びを表している。心広い恵みを与えて人々を安んじ、教化して心を素直にさせ、万物を救っている。戸主には種もみや農具を支給し、農業と養蚕を行う家には永く家業を失わないようにさせ、仕官の心得を学ぶ者には私事を忘れて公に尽くさせるようにせよ、と述べている。

二十三日、「矢田池」を初めて築いている。些か情報が少ないのだが、応神天皇の矢田皇女(古事記では八田若郎女)の場所ではなかろうか。前出の螺江臣夜氣女がその畔に住まっていたと思われる。二十八日に但馬國の人、「寺人小君」等五人に「道守臣」姓を与えている。

三月十四日に散位の佐伯宿祢麻呂が亡くなっている。二十三日、常陸國信太郡の人、「物部國依」に「信太連」姓を授けている。

<常陸國那賀郡・宇治部直荒山>
常陸國那賀郡

「那賀郡」の名称は、讃岐國那賀郡で用いられていた。那賀=押し広げられた谷間がしなやかに曲がりながら延びているところと解釈したが、常陸國に類似する谷間を見出すことができる。

● 宇治部直荒山

この谷間を切り拓いて豊かな収穫を得られるようになっていたのであろう。勿論、名前は彼の出自の場所を示していると思われる。

「宇治」の地名由来は様々に解釈されているが、何の参考にもならないようである。全て誤りとして間違いないであろう。頻出の文字列である「宇」=「宀+于」=「山稜に囲まれた谷間に山稜が延びている様」、「治」=「氵+台」=「水辺に耜のような山稜が延びている様」と解釈した。

纏めると宇治=山稜に囲まれた谷間で水辺に耜のような山稜が延びているところと読み解ける。部=近辺と解釈する。荒山=[山]の字形の山稜が水辺で途切れているところと読み解ける。図に示した場所がこの人物の出自の場所と推定される。

因みに、古事記の宇遲=山稜に囲まれた谷間に犀の角のような山稜がのびているところと解釈した。山稜の端が少々水辺から遠ざかっている地形を強調した表現である。”音”が類似するとしてしまっては、きめ細やかな記述を見逃すことになろう。

<寺人小君(道守臣)・道守臣多祁留>
● 寺人小君(道守臣)

但馬國は、古事記では多遲麻(摩)國と記載された國である。現地名では築上郡築上町の西端であり、京都郡みやこ町に接する地域と推定した。

蛇足だが、「麻」と「摩」を使い分けているのは、當麻(摩)と同様であって、擦り潰されたような地形と山稜が細かく岐れている地形を表し、これらの地には二つの地形が寄り集まっている様を表現している。

頻出の「守」=「宀+寸」=「肘を曲げた腕のような山稜で囲まれている様」と解釈したが、概ね山稜の端の地形を表すのに用いられている。すると同じ但馬國だが、古事記の「多遲摩」を指示していると思われる。

古事記を通じて「寺」=「蛇行する川」と解釈すると、寺人=蛇行する川が流れる谷間と読み解ける。小君=三角形の平らな高台とすると、図に示した場所が見出せる。古事記の多遲摩之俣尾と表記された地である。図中の溜池は当時には今の形状では存在せず、蛇行する川が流れていたと推測される。

「道守」は、道守=首の付け根のような地がある肘を曲げた腕のような山稜で囲まれているところと読み解ける。記載された地形要素を余すことなく再現している場所であることが解る。思い起こせば新羅の王子、天之日矛の後裔が蔓延った地であり、それは息長帶比賣命(神功皇后)に繋がっている。歴史の表舞台には登場しないが古から渡来人が住まっていた地であった。

ずっと後(淳仁天皇紀)になるが、道守臣多祁留が外従五位下を叙爵されて登場する。多=山稜の端の三角(州)になった様祁=示+邑=高台が集まっている様留=卯+田=押し広げて突き抜ける様と解釈した。その地形を「小君」の東側に見出すことができる。地形の凹凸が鮮明であれば、それだけ明瞭に特定されるようである。

ところで「道守臣」は、古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の御子、建豐波豆羅和氣が祖となった道守臣、その地は天智天皇紀に遣新羅使となった道守臣麻呂の出自の場所と推定した。標高差が少なく、やや地形象形の明確さに欠けるきらいがあったが、今回はすっきりと収まったようである。

<常陸國信太郡:物部國依[信太連]>
常陸國信太郡

上記の常陸國那賀郡に続いて「信太郡」の登場である。文武天皇紀に陸奥國信太郡が登場したが、全く同じ郡名である。一見、陸奥國の間違いか?…と錯覚しそうであるが、常陸國に「信太」の地形があったのであろう。

信太=谷間にある耕地が大きく広がっているところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。既出の多珂郡の南隣である。上野國との境が些か不明瞭ではあるが、おそらく山稜の段差が境界だったのではなかろうか。

● 物部國依(信太連) 史書に様々なところで「物部」が登場することから、その一族の蔓延り具合が推論されている。土左國の物部毛虫咩、讃岐國寒川郡の物部亂など、邇藝速日命の後裔として本家「物部」と繋げることは可能であろう。おそらく、衢で噂されるように邇藝速日命の降臨が本命であり、その思惑が外れたための予備軍が邇邇藝命の降臨だった、と思われる。

さて、物部の地形はあるのか?…山岳地形にしかあり得ない、と予断しては求めることは叶わないであろう。かなり小ぶりではあるが、図に示した場所に見出すことができる。石城國(後に陸奥國に併合される)の最南端の山稜を表していると思われる。國依=山稜の端の三角州の前が取り囲まれているところである。図に示した場所が出自と推定される。賜った信太連の氏姓は郡名に基づくものであろう。

夏四月壬寅。大宰府言。日向。大隅。薩摩三國士卒。征討隼賊。頻遭軍役。兼年穀不登。交迫飢寒。謹案故案故事。兵役以後。時有飢疫。望降天恩。給復三年。許之。辛亥。太政官奏。頃者。百姓漸多。田池窄狹。望請。勸課天下。開闢田疇。其有新造溝池。營開墾者。不限多少。給傳三世。若逐舊溝池。給其一身。奏可之。

四月八日に大宰府が以下のように言上している。概略は、日向・大隅・薩摩三國の士卒は隼人の賊を征討するために頻繁に軍役に引き出され、その上に穀物が実らず、事情が重なって飢えと寒さの苦しみが迫っている。故事を調べると兵役の後には、時に飢饉と疫病がおこっている。天子のご恩を降されて租税負担を三年間免除して頂きたく思う、と述べ、許されている。

十七日に太政官が以下のように奏上している。概略は、民の人口が増加して、田や池が不足している。天下の田地の開墾を勧め割り当てたく思う。その時、新たに溝や池を造って開墾した者があれば、その多少に関わらず三代目まで所有を許し、旧い溝や池を利用した時には本人の代のみ所有を許すことにしたい、と述べ、許されている。

五月癸酉。行幸芳野宮。丁丑。車駕還宮。己夘。制。神戸當造籍帳。戸无増減。依本爲定。若有増益即減之。死損即加之。辛巳。大隅薩摩二國隼人等六百廿四人朝貢。甲申。賜饗於隼人。各奏其風俗歌舞。酋師卅四人。叙位賜祿。各有差。
六月庚子。隼人歸郷。
秋七月庚午。民部卿從四位下太朝臣安麻呂卒。

五月九日に芳野宮(吉野宮、古事記の吉野國巣の場所)に行幸され、十三日に戻られている。十五日に、神戸(神社に属し、その祭祀や経済を支えた民)には戸籍・計帳を作るべきで、戸数は増減することなく、元の数を定めとすること。増加分は減じ、死亡によって減少した時にはすぐに補充せよ、と定めている。

十七日に大隅・薩摩二國の隼人等六百二十四人が朝貢している。二十日、隼人に饗宴を賜い、それぞれの地の歌舞を奏している。また三十四人の酋長には各々叙位及び禄を授けている。尚、日向・大隅・薩摩三國については、こちら参照。

六月七日に隼人が帰郷している。

七月七日に民部卿の太朝臣安麻呂(従四位下)が亡くなっている。靈龜二年(716年)九月に氏長にした、と記載されていた。続日本紀1(直木考次郎他著)に以下のような注記があり、転載する。

和銅五(712)年に『古事記』を撰録上奏した。その序文の著名には「正五位上勲五等太朝臣安萬侶」と記す。昭和五十四(1979)年一月、奈良市此瀬町の茶畑から左記の銘文をもつ銅板墓誌を副葬した安麻呂の火葬墓が発掘された。墓誌銘「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」。死没の日が七月六日となっており、本書と一日の差があるが、勲五等の勲位や安萬侶の用字は記序文の著名と一致する。学界に衝撃を与えた発見であった。

八月甲午。太政官處分。朝廷儀式。衣冠形制。彈正式部総知糺彈。若其存意督察。自然合禮。頃者。文武官人。雜任以上。衣冠違制。進退緩惰。或彩綾著裏。輕羅致表。或冠纓長垂。過越接領。或領曲細綾。露其胸節。或袴口所括。出其脛踝。如此之徒。其類稍多。臺省二司。明加告示。庚子。新羅使韓奈麻金貞宿。副使韓奈麻昔楊節等一十五人來貢。辛丑。宴金貞宿等於朝堂。賜射并奏諸方樂。辛亥。加置因幡國驛四處。丁巳。新羅使歸蕃。

八月二日に太政官が以下のように処分した。概略は、朝廷の儀式や衣冠の形は弾正台と式部省が取り締まり、誤りを糾弾せよ。最近、文武の官人や雜任(舎人・兵衛・資人など)以上の衣冠は誤っていて、緩慢でだらしがない。ある者は彩の有る綾を裏地に付け、軽やかな薄絹の羅を衣の表としたり、ある者は冠の纓(ひも)を長く垂らしている。また、ある者は円くたわむ目の細かい綾を襟に使って胸の骨を露わし、ある者は袴口を括って脛や踝を出している。現状を告示して監督せよ、と述べている。

八日に新羅使十五人が来朝して貢進し、九日に彼等と朝堂で宴を行って、射会及び諸方の樂を奏でている。十九日に因幡國(書紀の因播國)に駅を四ヶ所加えている。二十五日に新羅使が帰国している。

九月辛未。熒惑入太微左執法中。己夘。出羽國司正六位上多治比眞人家主言。蝦夷等惣五十二人。功効已顯。酬賞未霑。仰頭引領。久望天恩。伏惟。芳餌之末。必繋深淵之魚。重祿之下。必致忠節之臣。今夷狄愚闇。始趨奔命。久不撫慰。恐二解散。仍具状請裁。有勅。隨彼勳績。並加賞爵。

九月九日に熒惑(火星)が太微(太微垣、天球上を三区画に分けた三垣の上垣)の左執法(おとめ座)の中に入った、と記している。

十七日に出羽國司の「多治比眞人家主」が以下のように言上している。概略は、蝦夷五十二人は征討の際の功績が顕著にも拘らず、未だ褒賞の恩恵に与っておらず、首を長くして天恩を切望している。よい餌を付けて釣れば深い淵にいる魚も捕らえることができ、俸禄を重くすれば忠節を尽くす家来が現れると伝え聞く。今、愚かな夷狄も漸く君命のままに奔走するようになったが、久しき労り慰めなければ再び散り散りになるように思われる。この書状に功績をつぶさに記して裁定を得たいと思う、と述べている。勅されてそれぞれに褒美と位を与えている。

<多治比眞人家主-屋主-犢養-國人-土作>
● 多治比眞人家主

調べると多治比眞人池守(大納言従二位)の子と分かった。「家主」は、その近隣が出自の場所であろう。上記の木花之佐久夜比賣ではないが、山稜の端は移ろいやすい場所となる。

「多治比」の末端となる場所であり、標高差が少なく、地形そのものを見定めることも難しいのであるが、現在の航空写真を参考にしながら求めてみよう。

すると「池守」の西側の山稜の端が少々広がった形していて、家=宀+豕=谷間に延びた山稜の端が豚の口のような様と見做すことができる。またその背後が主=真っ直ぐに延びた様の山稜を示していることが解る。

後(聖武天皇紀)に登場となる兄の多治比眞人屋主及び弟の多治比眞人犢養は、「屋主」の屋=尸+至=山稜が延び至ったところであり、「家主」の東側と推定される。また、「犢養」の犢=子牛の地形養=羊+良=山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びている様から図に示した場所、「池守」の東側が出自の場所と推定される。兄弟で父親を挟んだ配置である。

また「池守」の弟である「縣守」にも男子が一人、多治比眞人國人が誕生していて、後に従五位下で叙爵されて登場する。國人=大地が谷間にあるところと読むと、父親の東側の谷間と推定される。

更に後(聖武天皇紀)に弟の「水守」の子、多治比眞人土作が従五位下を叙爵されて登場する。土作=大地がギザギザとしているところと解釈して、図に示した父親の南に接する場所と指定される。「多治比眞人」一族は、着実に世代交代を果たしていたようである。