2021年8月22日日曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(21) 〔537〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(21)


養老七年(西暦723年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

冬十月庚子。勅。按察使所治之國補博士醫師。自餘國博士並停之。癸夘。左京人无位紀朝臣家獻白龜。長一寸半。廣一寸。兩眼並赤。己酉。造危村橋。乙夘。詔曰。今年九月七日。得左京人紀朝臣家所獻白龜。仍下所司。勘検圖諜。奏稱。孝經援神契曰。天子孝。則天龍降。地龜出。熊氏瑞應圖曰。王者不偏不黨。尊用耆老。不失故舊。徳澤流洽。則靈龜出。是知。天地靈貺。國家大瑞。寔謂。以朕不徳。致此顯貺。宜共親王諸王公卿大夫百寮在位。同慶斯瑞。仍曲赦。出龜郡免今年租調。親王及京官主典已上。左右大舍人。授刀舍人。左右兵衛。東宮舍人。賜祿有差。紀朝臣家授從六位上。賜絁廿疋。綿卌屯。布八十端。稻二千束。大倭國造大倭忌寸五百足。絁十疋。綿一百屯。布廿端。

十月八日に按察使が管轄する國には博士・医師を補強し、他の國は博士を停止せよ、と勅されている。十一日に左京の人、「紀朝臣家」が「白龜」を献上している。長さが一寸半、幅が一寸、両目が赤かった、とのことである。十七日、「危村橋」を造っている。

二十三日に以下のように詔されている。今年九月七日、左京の人、紀朝臣家が献上した白龜を得た。所司が図蝶(絵図と書物)を検討して、「『孝経援神契』(未来を予言する書)によると、天子が孝である時は、即ち天の竜が降り地の龜が出る、とある。『熊氏瑞応図』には王者が偏らず党派に与せず、老人を尊び用いて昔なじみの人を捨てることなく徳の潤いが行き渡っている時には霊龜が出る、と言う。この白龜は天地の不思議な賜りものであり、国家の大瑞である」と奏言している。朕の不徳にも拘らず、このあきらかな賜りものが現れたことで、親王・諸王・公卿・大夫それに百官人の位のある者と共にこの瑞を慶びたい。よって曲赦(部分的な恩赦)を行い、龜を出した郡の今年の租と調を免除し、親王及び在京官司の主典以上、左右の大舎人・授刀寮の舎人、左右の兵衛、東宮舎人に各々禄を与える。紀朝臣家には従六位上を授け、絁・真綿・麻布・稲を与える。また大倭國造の大倭忌寸五百足に絁などを与えると、述べている。

<白龜・紀朝臣家>
白龜

赤龜(こちら参照)、靈龜は登場していたが「白龜」は初めて、また白雉など「白」が付く”瑞兆”は盛んに出現していたが、「龜」が「白」(並ぶ)は未だ記載されていなかった、と思われる。

● 紀朝臣家

この人物が献上者であって、左京の人と記されている。これだけ情報が豊かであれば難なく・・・事実、”図蝶”、いや地図を一目すれば、この龜の居場所を見出すことができる。

結論は、藤原宮の東側の山稜が示す形を「龜」と見做しているのである。だが、用いられた文字の意味は何と解釈されるのであろうか?…逐一読み解いてみよう。

先ずは「白」=「くっ付いて並んでいる様」と解釈した。頻出の文字であるが、「龜」は並んでいない!…藤原宮については、何故か、持統天皇紀の最後に、天皇自らの万葉歌の解釈を行っていた(こちら参照)。この「龜」の場所は、歌中で「白妙能」と呼ばれたところと読んでいた。即ち白龜=白妙能龜を表していると気付かされるのである。藤原宮及びその周辺の地形を余すことなく盛り込んだ歌と解ったが、ここに繋がるとは、望外の出来事である。

「左京人无位紀朝臣家」の表記に何かしら違和感を覚えるであろう。「紀朝臣」としてしまえば頻出の「紀臣」一族になる。そうでないから「左京人」が付加され、「无位」も添えられている。ではどう読むのか?…「紀朝・臣」と区切ってみると、紀朝=曲がりくねって延びる山稜の端で囲まれた丸く小高い地があるところと読み解ける。

図に示した場所の地形を表していることが解る。家=山稜に囲まれた谷間に延びる山稜の端が豚の口のようになっている様であり、「紀朝」の端にその地形が見出せる。献上者は、その近隣の住人と言うルールは、きちんと守られているようである。

「龜」の詳細が「長一寸半。廣一寸。兩眼並赤」と記載されている。前出の靈龜の場合に類似する表記である。その時は「右眼赤 左眼白」であったが、今回は両目が赤、「龜」頭の左右が赤=大+火=平らな頂から山稜が交差するように延びている様の谷間になっている、と述べている。

そして、藤原宮の谷間の入口の長さを「一寸」とすると、「龜」の長さが「一寸半」、幅が「一寸」となっていると、「紀朝臣家」が言上し、”図蝶”で確認されたと記している。「靈龜」と同じ論法、お見事!…となったのであろう。尚、採用されたのは「白龜」ではなく、神(神)龜=山稜が稲妻のように曲がって延びた先にある龜、のようである。

<三崎・危村橋>
危村橋

「危村橋」については、元明天皇紀に登場した「三崎」に併記し、平城京の西南に当たる場所に架けられた橋と推定した(左図を再掲、詳しくはこちら)。新羅の使者が入京する際に騎兵を並べて迎えた場所と記載されていた。

そして、次期天皇である聖武天皇の和風諡号、「天璽國押開豐櫻彦天皇」に深く関わる地であることを示していると思われる。諡号の読み解きの詳細は、後に述べることにする。

余談だが、『精選版 日本国語大辞典』に以下のように記載されている・・・江戸時代、信濃国(長野県)上松宿(あげまつのしゅく)と福島宿との間にあった懸橋。その起源は古く、奈良時代の「続日本紀」に「危村橋」とみえ、慶安元年(一六四八)尾張藩主徳川義直がこの橋を堅固にして、旅人の通行の便をはかったという。木曾桟道。波計(はばかり)の橋・・・きっと「キソ(ン)ハシ」と呼ばれていたのであろう。

また、現在の奈良市山町(平城宮の東南約7km)にあったとも言われている。「ヤマムラハシ」と読むそうである。古代史は、自由奔放である。

十一月癸亥。令天下諸國奴婢口分田。授十二年已上者。丁丑。下総國香取郡。常陸國鹿嶋郡。紀伊國名草郡等少領已上。聽連任三等已上親。戊子。夜月犯房星。
十二月丁酉。放官婢花。從良賜高市姓。辛亥。散位從四位下山前王卒。

十一月二日に天下の諸國の奴婢で十二歳以上の者に口分田を与えている。十六日、「下総國香取郡」・「常陸國鹿嶋郡」・紀伊國名草郡(紀伊國六郡)等の少領以上の郡司には、三等親以上の親族を同時に任命することを許している。二十七日の夜に月が房星(添星)を犯している。

十二月六日に官婢の「花」を解放して良民とし、「高市」姓を授けている。二十日に散位の山前王が亡くなっている。「山前王」は文武天皇紀の慶雲二年(705年)十二月の記事で従四位下に叙位された以外には登場される機会もなかった。天武天皇の忍壁皇子が地元の娘を娶って誕生したようであり、もう少し関連する記述があれば、忍坂の様子が伺えたかもしれない。

<下総國:年代別写真>
下総國香取郡

下総國は、現在の北九州市小倉南区沼・吉田に跨る地域と推定した。広大な住宅地となっていて、当時の地形を殆ど留めていない状況である。續紀は各國を郡別、あるいは統合の再配置が盛んに行われたことを頻度高く記述している。

重要な情報であり、何とか突き止めてあからさまにしようと試みてはいるが、地形情報の欠落は致命的である。そんな背景で、国土地理院の年代別写真を地形推定に用いてみた。

図の上部は2013年の写真であり、ほぼ現在に近い様子と思われる(Google Mapの写真を参照)。下部は1961~9年と記載された写真である。

詳細は省略するが、山稜の形、特にその縁に当たる場所が、所々ではあるが、残されていることが読み取れる。また、川の流れもかなり変化している様子が伺え、治水の変遷が見られることが分る。

古事記の「飛鳥」に関して、現在の香春岳の同様の写真を調べたが、残念ながら山頂付近は既に採石された後で、山容を確認することは叶わなかった(こちら参照、1961~9年)。

上図を参照すると、平らな台地が二つ並んだように見える地形は、延びた山稜が曲がりながら広がり、それが大きくは二つの塊に連なって形成されていたように思われる。

<下総國香取郡(牛黃-白烏)・香取連五百嶋>
古事記の倭建命が東國遠征を命じられ、走水海で遭難して妻を亡くした後に辿り着いた場所を邇比婆理と記載されていた。正に的確な表記と思われる。

かつてあった新治郡(現在の石岡・土浦・かすみがうら市のほぼ全域)に関連するとされているようだが、悲運の英雄倭建命の迷走そのものを示しているようである。

その延びた山稜を香=黍+曰=窪んだ地から山稜がしなやかに曲がりながら延びている様が示していると思われる。取=耳+又=耳の形と手の形の山稜がくっ付いている様と解釈した。幸運にも「耳」は今も健在であることが解る。沼八幡神社が鎮座する山稜の端である。

「耳」の東側に「又(手)」の山稜…残念ながら既に崩れかかっているが…を見出すことができる。香取郡はこの山稜を中心とした地域だったと推定される。

慶雲元年(文武即位八年、704年)七月に下総國が白烏を献上したと記載されていた。その時には詳細を省略したが、上図年代別の写真を参考にすると、「取」の地形を「白烏」と表現したのではなかろうか。更に遡ると、文武即位二年(698年)に牛黃を献上していた。「牛黃」は土左國も献上していて(こちら参照)、その類似の地形を求めると図に示した辺りと推定される。”瑞兆”の献上は、開拓地を公地とした記述と読んだが、その地の発展を知る上においても重要な記述と確信する。

更に後の聖武天皇紀の神龜元年新春の叙位に香取連五百嶋が登場する。「牛黃」の山稜が「五百」を表し、「白烏」が「嶋」と重なる表記と思われる。保存された過去の地形から出自の場所を求めることができた初めての例となったように思われる。貴重な航空写真である。

<常陸國:年代別写真>
常陸國鹿嶋郡

この地も上記と同様に大きく地形が変化している場所である。若干異なるのは、最も肝心な場所が、ものの見事に変形してしまっているのである。

現在の九州自動車道の吉志パーキングエリアがそっくりそのまま、当時の山稜を削り取って造られた施設であることが判る。

更に言えば、削って広げた様子が伺える。これでは全く過去の地形を推測することも叶わず、お手上げであろう。

1974~8年と記載された写真では、山稜の端が小高く盛り上がっていることが分る。この地形を鹿嶋=山麓で山稜が鳥のような形をしているところ読み解ける。

「鹿嶋」の東側が石城國と推定した場所である。この地も大きく地形が変化しているのであるが、図の写真から分かるように既に、多分、採石場となっていて、原形を留めていないように見受けられる(詳細は、こちらこちらを参照)。

<常陸國:各郡配置>
既に登場した常陸國の各郡の配置を纏めて図に示した(「久慈郡」はこちら参照)。「鹿嶋郡」の配置は、「鹿」が示すように、
その「常」の山麓であろう。

前記で元々は常陸國に属していた「菊多郡」を、また「多珂郡」の一部も隣接する石城國に転属させた、と記載されていた。

そんな背景で、「鹿嶋」の東及び南側には全く余裕がなく、唯一、那賀郡から流れ出る川下辺り(現在名長谷川)を分け合ったような場所と推定される。

尚、未だ登場していない筑波郡新治郡については、図にような配置と求められるが、詳細は後日とする。明治維新で王政復古した時、この續紀の記述に基づいて廃藩置県が行われたと推測される。いずれにせよ、地名は自在なのである。

上記本文中の「下総國香取郡・常陸國鹿嶋郡・紀伊國名草郡」の三つの郡は、現在の「千葉県香取市・茨城県鹿島市・和歌山県和歌山市」とされ、「香取神宮・鹿島神宮・日前神社/國縣神社」の所在地であり、後に定められた八神郡に含まれる地であり、神宮司が郡領を兼ねていた。”神懸かり”的な支配を活用したようである。また、その方が都合が良かったのであろう、中世には神宮支配力は形骸化したと伝えられている。

● 高市花

官婢については、こちら参照。おそらく續紀がわざわざ記載するのだから、何か特別の事情があったと推測されるが、全く不詳である。「高市」姓を賜った、と言う。高市皇子(高市縣)の在所に住まわせた、のかもしれない。

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神龜元年春正月壬戌朔。廢朝。雨也。癸亥。天皇御大極殿。受朝。戊辰。御中宮宴五位已上。賜祿有差。戊子。出雲國造外從七位下出雲臣廣嶋奏神賀辞。己丑。廣嶋及祝神部等。授位賜祿各有差。
二月甲午。天皇禪位於皇太子。

神龜元年(西暦724年)正月一日、雨のため朝賀を廃止し、二日に大極殿で受けている。七日に中宮で五位以上の者と宴会し、それぞれに禄を与えている。二十七日に出雲國造の出雲臣廣嶋(父親果安に併記)が神賀辞(出雲の神々の祝辞)を奏している。二十八日、「廣嶋」及び出雲の祝(神職)・神部(神事に関わる部署の人)等に各々位を授け、禄を与えている。

二月四日に皇太子に禅譲している。

神龜は上記の大瑞「白龜」に基づくと、後に宣命体で語られる。禅譲するには、欠かせないものだったようである。

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日本根子高端淨足姫天皇(元正天皇)紀は、これにて終了。