2020年10月3日土曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(20) 〔457〕

 天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(20) 


引き続き即位十年(西暦681年)七月からの記事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

秋七月戊辰朔、朱雀見之。辛未、小錦下采女臣竹羅爲大使・當摩公楯爲小使、遣新羅國。是日、小錦下佐伯連廣足爲大使・小墾田臣麻呂爲小使、遣高麗國。丁丑、祭廣瀬龍田神。丁酉、令天下悉大解除。當此時、國造等各出祓柱奴婢一口而解除焉。閏七月戊戌朔壬子、皇后、誓願之大齋、以說經於京內諸寺。

七月初めに朱雀が現れたと述べている。四日に「采女臣竹羅・當摩公楯」大・小使として新羅に、同日「佐伯連廣足・小墾田臣麻呂」を同様に高麗に向かわせている。新羅の王の長患いを見舞うことも目的の一つであったのかもしれない。

十日には、恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。三十日に天下に号令して「大解除」(穢れを祓う儀式)を行ったが、各國造は「祓柱」として「奴婢一口」を差し出したと記している。供え物、馬程度ではなく、本気の禊祓を行ったと告げているのかもしれない。

閏七月半ば、皇后が大齋を行って経を京内諸寺で説かせている。政事に関わる布石かもしれない。年若の皇子を立てたら生じることであろうが、やはり捻じれが透けて見える発端のように思われる。

<采女臣竹羅・伊賀郡身野>
● 采女臣竹羅

「采女臣」は幾度も登場していて、現地名の北九州市小倉南区長尾・長行・徳吉辺りと推定した。天武天皇が吉野脱出後に向かった「伊賀」とも表記される。

この地は山稜の端が長く延びた地形であり、「竹」の形で表現されることは容易に解るが、その地の中の場所は定かではない。

後に采女臣筑羅とも記述されていることから、「筑」が示す場所を求めることにする。この文字は、勿論、筑紫國に含まれているように頻出であるが、地形象形表記としての認識に乏しい文字である。

人名に用いられた数少ない例に田口臣筑紫が登場していた。即ち、筑=平らな頂の麓に小高い地がある様を表していると読み解いた。この地形を満足する場所は、図に示したところと思われる。長く延びる山稜の付け根に当たる場所である。「筑紫」が地形象形表記であることを、あらためて確信できた、と思われる。

後の持統天皇紀に地名として伊賀國伊賀郡身野が登場する。「筑羅」が延びた先が「伊賀」となり、その脇の山稜が身=弓なりになった(膨らんだ腹のような)様を示す場所と推定される。現在は広い住宅地になっているが、当時は野原であったと推測される。

<當摩公楯・當麻眞人國見-智德-櫻井>
● 當摩公楯

當摩公は既に幾人かが登場し、纏めて図に示したが、「當摩」に広がった様子なので新規に図を作成した。

「楯」は古事記の大国主命が娶った神屋楯比賣命などに含まれた文字である。楯=木+⺁+十+目=山稜が谷間を塞ぐように延びている様と読み解いた。

前出の「當摩公豐濱」の豐濱=段差の高台が水辺にあるところと読み解いたが、その南にある大浦池、更に南側で山稜が途切れている場所が見出せる。

後に天武天皇の弔辞を行う當麻眞人國見が登場する。調べると「豐濱」の子のようである。「國見」は、山稜の端の高台から彦山川の大河を眺めることができる地を示していると思われる。図に示した場所、この谷間の出口辺りが出自だったと推定される。

更に持統天皇紀に當麻眞人智德が登場する。既出の文字である智=矢+口+日=鏃と炎の地形が寄り合う様德=四角く区切られた様とすると「楯」の西隣の場所と推定される。

また當麻眞人櫻井も登場する。「櫻」=「木+貝+貝+女」と分解される。多用される文字である。櫻=二つの谷間が寄り集まる様を表し、井=四角く囲まれた様を示す文字と読み解いた。「豐濱」の子とされる「國見」の北側に当たる。場所的には「櫻井」と兄弟のように思われるが、定かではない。

「當摩」の地も他と同様に徐々に川下に移って行く様子が伺える。川上から川下に、これが茨田(棚田)を開発した「天神族」の稀有な特徴ではなかろうか。

<小墾田臣麻呂>
● 小墾田臣麻呂

「小墾田」も幾度も登場した”有名な”地名である。「臣」が付いているので窪んだ谷間であることを示している。その地に「麻呂」が見出せるか?…であろう。

前出の小墾田猪手を図に示した山稜の端の地形を表す表現と解釈したが、その麓に一段小高くなった場所が見出せる。

ここを「麻呂」と表記したと思われる。隆盛を極めた蘇我一族のど真ん中の地であり、その流れを汲む人物であろうが、調べてもあまり詳細は分かっていないようである。栄枯盛衰、実に厳しいようだが現実なのかもしれない。

八月丁卯朔丁丑、大錦下上毛野君三千卒。丙子、詔三韓諸人曰「先日復十年調税既訖。且加以、歸化初年倶來之子孫、並課役悉免焉。」壬午、伊勢國貢白茅鴟。丙戌、遣多禰嶋使人等貢多禰國圖、其國去京五千餘里、居筑紫南海中、切髮草裳、粳稻常豐、一殖兩收、土毛支子・莞子及種々海物等多。是日、若弼歸國。

八月十一日、上毛野君三千が逝っている。書紀編纂に手を付けたばかりだったのだが、残念なことであったろう。三韓の帰化人に対して、来日して十年は免税、課役も同じく免除する。その時同行した子孫も同様(日本で誕生した者は除外?)と述べている。荒地を開拓させるのであるから、期限は別として適切な処遇のように思われる。

十六日に伊勢國が「白茅鴟」(白いフクロウ?)を献上している。さて、やはり開拓地か?・・・。二十日に多禰嶋(詳細はこちら)への使者がその國の「図」を献上したと伝えている。京から五千里余り、筑紫南海中にあって、髪を切って草の服を着ていて、稲(うるち米)は豊かで、一回植えると二回収穫があると述べている(意味不明?)。また特産物は「支子」(クチナシ)、「莞子」(イグサ)や、種々の海産物があるとも記している。同日、昨年新羅からの進調の使者であった「若弼」が帰国している。

<伊勢國・白茅鴟>
伊勢國・白茅鴟

余りに頻度高く献上があるので、恩赦連発では罪人がいなくなってしまう・・・そんなことはないのであろうが、確かに多くの土地が開拓されていったのであろう。

調べるとこの「鳥」も、ちゃんと地形を表していたようである。頻出の白=くっ付いて並ぶ様茅=艸+矛=山稜が矛の様と読み解く。

「鴟」=「氐+鳥」と分解する。「氐」=「平らな様」を表すと解説されている。即ちこの「鳥」は山肌に立っているのではなく、鴟=丘陵のような地が「鳥」の形をしているところと読み解ける。

すると図の「矛」のように延びた山稜()と山稜の端で「鳥」のような丘陵()がくっ付いて並んでいる()場所が見出せる。

現地名は北九州市小倉北区熊谷である。天智天皇紀に新しく宮を造ろうとして候補に挙がった蒲生郡匱迮野の南側に位置する長い谷間の地と思われる。鷲峯山辺りで小倉北区と南区の区境となっている。それにしても当時の「伊勢國」は、南北に一際長い大国であったことが伺える。

九月丁酉朔己亥、遣高麗新羅使人等共至之拜朝。辛丑、周芳國貢赤龜、乃放嶋宮池。甲辰、詔曰、凡諸氏有氏上未定者、各定氏上而申送于理官。庚戌、饗多禰嶋人等于飛鳥寺西河邊、奏種々樂。壬子、篲星見。癸丑、熒惑入月。

九月三日に高麗と新羅に派遣した使者達が拝謁している。唐と新羅との確執は依然として続いていたであろう。その余波がいつ日本に及ぶか見定めることが必須の時であったと思われる。使者達の報告は、おそらくそのあたりの半島内の状況を伝えたものと推測される。

五日、「周芳國」が「龜」を献上している。池に放ったと言うからには、実物であろう・・・とすっかり術中に嵌ってしまったが・・・。

<周芳國・赤龜>
八日に、諸氏の「氏上」を定めて報告しろ、と命じられている。十四日に多禰人を飛鳥寺の西側の川辺で饗応している。十六日に彗星が現れ、また翌日には「熒惑」(火星)が月に入ったと述べている。

周芳國・赤龜

「周芳國」は「記紀」にそれぞれ一度きりの登場である。古事記の天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった周芳國造の地と思われる。

いずれにしても登場頻度は少なく、「周」、「芳」の二文字が表す地形で読み解いた場所である。

結果的には、科野國の近隣、現地名は北九州市小倉南区葛原本町辺りと推定した。その地に「赤龜」の地形は見出せるのであろうか?…「芳」が示す「鋤」の様に幾つかの山稜が並んで延びる一つに龜の頭と見做せる地形に気付く。

その上の甲羅のようになった麓に、幾度も登場の文字、赤=大+火=平らな頂から交差するように山稜が延びていることが解る。これを用いて「赤龜」と名付けたと思われる。

<磯城嶋宮>
さて、それを「放嶋宮池」と記載している。「放」=「放す」であるが、「真似る」の意味もあり、「模倣」の「倣」に含まれている。「池」=「氵+也」と分解され、「水辺がくねくねと曲がった様」を表す文字である。

図に磯城嶋宮があったと推定した台地の水辺の地形を示した。この地形が「龜」の頭部の形に似ていると述べているのである。書紀編者の誰が思いついたのか、何とも言い得て妙の感がある。

漢字を使いこなす能力は、間違いなく”退化”しているようである。地形象形表記もさることながら、漢字の多様性を存分に使っての記述、現在まで読み解けなかったのも頷けるようである。「龜」の「放」、些か強引なようにも思えるが・・・。

やはり、開拓地の献上の話しであった。(忍)海辺であったり、山間の奥深い地であったり、実質的な国土が広がって行く様子を記載している。解読に時間が掛かるが、読み飛ばすことができない有様である。「記紀」にそれぞれたった一度の登場機会だった「周芳國」、その場所が確かめられたようである。

冬十月丙寅朔、日蝕之。癸未、地震。乙酉、新羅遣沙㖨一吉飡金忠平・大奈末金壹世貢調、金銀銅鐵・錦絹鹿皮・細布之類各有數、別獻天皇・皇后・太子、金銀霞錦・幡皮之類、各有數。庚寅、詔曰、大山位以下小建以上人等各述意見。是月、天皇、將蒐於廣瀬野而行宮構訖、裝束既備、然車駕遂不幸矣。唯親王以下及群、皆居于輕市而檢校裝束鞍馬、小錦以上大夫皆列坐於樹下、大山位以下者皆親乘之、共隨大路自南行北。新羅使者至而告曰、國王薨。

十月初めに日蝕があり、十八日に地震があったと記している。二十日に新羅が使者を遣わして金銀銅鉄などたいそうな品物を進調し、別に天皇、皇后、太子にも金銀などを献上したと伝えている。二十五日に大山位から小建位の者に意見を述べさせている。

この月に天皇は「廣瀬野」(大忌神於廣瀬河曲の南側)に出向こうとして行宮まで造らせ、装束も整えたのだが、結局行幸はされなかったと述べている。その際親王、郡卿達は輕市(藥師寺・藤原宮の図に併記)に集まって装束鞍馬を揃え、小錦以上の大夫は列をなし、大山以下の者は馬に乗って、大路に従って「南から北に向かった」(香春岳西麓の谷間)と記載している。新羅の使者が来て、国王(文武王)が亡くなったと告げている。

十一月丙申朔丁酉、地震。十二月乙丑朔甲戌、小錦下河邊臣子首遣筑紫、饗新羅客忠平。癸巳、田中臣鍛師・柿本臣猨・田部連國忍・高向臣麻呂・粟田臣眞人・物部連麻呂・中臣連大嶋・曾禰連韓犬・書直智德、幷壹拾人授小錦下位。是日、舍人造糠蟲・書直智德、賜姓曰連。

十一月二日に、またもや地震、正に頻発である。十二月十日に、新羅からの客(十月二十日に来日)を饗応するために河邊臣子首(百枝等の図に併記)を筑紫に派遣している。たいそうな朝貢があったのだが、筑紫に留め置かれていたのであろうか。西海への慎重な対応と推測される。民部卿「河邊臣百枝」との血縁は定かではないが、近接する地を出自に持つ一族であったと思われる。後に朝臣姓を賜っている。

二十九日に田中臣鍛師・「柿本臣猨・田部連國忍」・高向臣麻呂(國押に併記)・粟田臣眞人物部連麻呂中臣連大嶋曾禰連韓犬書直智德の計十人(名前が挙がっているのは九人?)に小錦下位を授けている。同日、「舍人造糠蟲」・書直智德に連姓を与えたと記している。

<柿本臣猨>
● 柿本臣猨

実に久々の登場である。かつては多くの人材を輩出した地であり、皇統にも絡んでいた。時の流れを感じさせる名称であろう。現地名は田川郡香春町柿下である。

そんなわけで当時の図を示せば良いのであるが、敢えて掲載してみた。勿論、地図に変わりはないようである。

「猨」は「猿」の異字体とされるが、手長猿に当てられると知られる。即ち、山稜が寄り集まる()地形を逆に見て、猨=尾根に掴まってぶら下っている様を模した命名かと思われる。

「柿本」の地全体を表す表現であろう。そんな古豪の家柄を持つ人物を引き摺り出したような感じである。実際のところは不詳なのだが・・・。

<田部連國忍>
● 田部連國忍

調べると物部一族であると分かった。と言いても、所謂「物部」の地ではなく、同祖の一族だったのであろう。邇藝速日命の子孫には違いないと思われる。

古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に木梨之輕王が禁断の恋に陥り、追い詰められて助けを求めた人物、大前小前宿禰の子孫が「田部連」(後に宿祢)を名乗ったと知られている。

「大前小前」の表記からこの人物の居処を現地名の田川郡香春町のJR採銅所駅近隣と推定した。國忍の文字列を解釈すると、國=囲まれた様忍=刃+心=中心に[刃]の形の地がある様となる。

その地形を図に示した場所に見出すことができる。川が作る三角州を刃、ギザギザしている様も含めて、と見做した表記と思われる。尚、田部は谷間に広がった平らな地を示す表現であろう。

<舎人造糠蟲>
● 舍人造糠蟲

「舎人」は長谷朝倉宮を挟んで二つの場所がある。どちらが該当するのかは「糠蟲」の解釈に委ねることになろう。「糠」は脱穀した後の生じるものなのであるが、それと「蟲」とは繋がらない。

要するに「蟲」が脱皮する様を表していると気付かされる。すると長谷部舎人と推定した場所が山稜に挟まれた間に「蟲」の形の見出せる。

何とも戯れたような命名なのであるが、実に上手く当て嵌まっているように見える。「造」が付加されているのは、この人物の居場所を示すためであろう。「牛」の形を求めたところを図に示した。残念なことだが、連姓を賜った翌月に亡くなり、舎人としてずっと側で仕えたのであろうか、勿論吉野脱出の際も、大錦上を贈られている。

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漸くにして即位十年(西暦681年)が暮れた。新しい年にはさらなる波乱が待ち受けているのであろうか・・・。