2017年6月23日金曜日

景行天皇:八十名の御子達〔054〕

景行天皇:八十名の御子達


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
「道の尻」の「日向」の場所がわかり、いよいよ尻を据えて…いえいえ、コツコツと地名ピースの紐解きに苦闘する暇が取り柄の老いぼれ、というわけで、なんと八十名の別()を探す? 安萬侶くんも不明な御子も多いようで・・・。古事記原文…、

大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纒向之日代宮、治天下也。此天皇、娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女・名針間之伊那毘能大郎女、生御子、櫛角別王<追記❶>、次大碓命、次小碓命・亦名倭男具那命具那、次倭根子命、次神櫛王<追記❶>。五柱。又娶八尺入日子命之女・八坂之入日賣命、生御子、若帶日子命、次五百木之入日子命、次押別命、次五百木之入日賣命。又妾之子、豐戸別王、次沼代郎女。又妾之子、沼名木郎女、次香余理比賣命、次若木之入日子王、次吉備之兄日子王、次高木比賣命、次弟比賣命。又娶日向之美波迦斯毘賣、生御子、豐國別王。又娶伊那毘能大郎女之弟・伊那毘能若郎女、生御子、眞若王、次日子人之大兄王。又娶倭建命之曾孫・名須賣伊呂大中日子王之女・訶具漏比賣、生御子、大枝王。

「大帶日子淤斯呂和氣天皇」「命」が「天皇」に変わりました。意味があるかどうか…少し脇において、宮の場所を含めて概ね比定が済んでるようであるが、詳細を見てみよう。娶りの相手の国は吉備、八坂は筑紫、妾、妾と続いて、前記した筑紫の日向の三ヶ国。実に地域限定の調達となっている。

先代の垂仁天皇が旦波、山代に集中、南方に焦点を合わせれば、今度は中部、北方というわけのようである。吉備臣等之祖若建吉備津日子は孝霊天皇の御子で吉備下の臣になった。吉備との関係は一層深くにする要があったのであろう。その比賣の名前については下記に記述する。

それにしても妾とは…娶った場合とは待遇が全く違うのだろうが、まぁ、その線は趣味ではないので止めときましょう。それで、八十人、了解です。「小碓命」は倭建命で、これも既に記述したが、追記があれば最後に。

針間之伊那毘


久々に対面の「針間」、吉備ときて針間だから、これは「針間口」のことと解釈する。必要なら「国」を付ける筈である。「伊那毘」の解釈は? 「ヒメ、ヒコ」で使われる「毘」で見慣れているのだが、調べて見ると面白い意味があった。「毘」=「へそ、ほぞ」「伊」は接頭語として「那毘」=「奇麗なへそ」

迷路に入るかと思えば、なんと、南方から針間口を眺めた時、右側から山の稜線が降りてきて針間口で凹となり、左側に小山が続いて最後海に落ちる。そんな稜線を目の当たりにする場所、それを「伊那毘」表記しているとわかる。凹は「へそ」である。現地名は山口県下関市大字吉見下であるが、「船越」の地名も残っている。小字であろう。

船で針間口を通った、牛、馬で曳かせれば思う以上に短時間の作業だったのかもしれない。現在も多数残る地名である。また、余裕が出来れば検索かけてみよう。二俣舟の時もそうであったが、本当に古代のツールに関する報告が少ないようであるが・・・。

山間の地で決して豊かなところとは思えないが、「氷河」が流れ、その治水が果たせたのであろう。上空からの写真からでは不鮮明ではあるが、堰、池等の灌漑施設を確認することができる。見えるのは後代のもの、しかし「猿喰新田」の時と同じく遠い昔からの痕跡、その技術をその地に残している、と推測される。

交通集中するところで人の往来が多い処でもあったと思われる。吉備を開拓し「鉄」の供給を確かなものにするという大目的があってのことであろう。神武一家の明確な戦略を感じ取れる。


凡此大帶日子天皇之御子等、所錄廿一王、不入記五十九王、幷八十王之中、若帶日子命與倭建命・亦五百木之入日子命、此三王、負太子之名。自其餘七十七王者、悉別賜國國之國造・亦和氣・及稻置・縣主也。若帶日子命者、治天下也。故、小碓命者、平東西之荒神及不伏人等也。次櫛角別王者、茨田下連等之祖。次大碓命者、守君、大田君、嶋田君之祖。次神櫛王者、木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖。次豐國別王者、日向國造之祖。

やりました、八十王、惜しくも、百獣の王ではない。六十有余年前、百十の王、と思ってたことを想い出させてくれた。三名皇太子、残りは知らぬ、ではなく全て然るべきところに納めたと。妾の子も含めてである。垂仁天皇までに拡げた統治の領域に送り込んだ人が七十七人、景行天皇の戦略、人材派遣であった。

既に記述したように「倭建命」によって虫食い状態の有様をキッチリと埋める作業が行われる。景行天皇とその御子である倭建命によって拡大した領地の統治を隅から隅まで行渡らせた「平東西之荒神及不伏人等也」と古事記は述べている。この理解は通説を真っ向から否定することになる。

倭建命を拡大膨張の作業とみなし、その行動の範囲の広さに複数の人間の作業と決めつける。その途中に含まれる国々についての言及をせず、正に飛ぶが如くの行為と持て囃す。天皇家が取った戦略の理解など闇の彼方に消え去ってしまうのである。景行天皇が行ったことは極めて地味だが、今及び将来に向けて、欠かせない事業の一つであることを思い知るべきであろう。


大碓命

小碓命、即ち倭建命によって抹殺されてしまう「大碓命」の関連地名を紐解いてみよう。天皇が娶ろうとした比賣をこっそり横取り、挙句に代わりの比賣を宛がうなど、少々ひねくれものなのだが、それなりに後裔も残しているとのこと。

1. 守君、大田君、嶋田君之祖

ご本人がなる祖の記述である。いつものことながら簡単明瞭…いや明瞭でなく簡単なだけ。こんな時は安萬侶くん達にとって説明不要の場所と思うべし。で、気付かされました。「守」=「杜」「嶋田」=「中州の田」少々以前となるが「稗(田)」=「日枝(田)」を見つけたところに「宮の杜」があった。

そこは「之江」=「志賀」の真中、「大田」も含めて、現在の福岡県行橋市上・下稗田~前田辺りと推定される。近淡海国の「鎮守の森」である。「大碓命」については古事記の扱い、小碓命の影に隠れてしまうが地元ではそれなりに評価されたのではなかろうか。

「稗田」は「日枝神社」の発祥の地と本ブログは曝した。この地より「国譲り」で現在比叡山を本山として全国に散らばる神社となっている。侮れない重要な地である。愛知県豊田市(国譲り前は「三川之衣」)にある猿投神社が「大碓命」を祭祀する。近世以降に祭祀されたとしても何らかの「国譲り」の捻りがあるのかもしれない…。

2. 大碓命の御子達

大碓命、娶兄比賣、生子、押黑之兄日子王。此者三野之宇泥須和氣之祖。亦娶弟比賣、生子、押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖。

三野國造之祖大根王の比賣達、景行天皇から横取りした二人に産ませた御子である。「押黒」=「尾倉」と思われる。現地名、福岡県京都郡苅田町尾倉である。また「三野之宇泥須」は北九州市小倉南区朽網東に「宇土」という地名が残っている。<追記❷>「三野国」とした領域に含まれている。「牟宜都」=「魚を貪るところ(津)」とすれば苅田港近くの京都郡苅田町松原・松山辺りではなかろうか。


大碓命の後裔は三野国に流れて祖となったようである。身内の争いは相変わらずであるがその子孫が繋がることで良しとするのであろうか。

さて、景行天皇紀もそろそろ閉じることになるが、倭建命の陵について考えてみたい。有名な「白鳥御陵」である。場所は「河內國之志幾」とある。

本ブログの河内国は近淡海国の内陸部の「志幾」=「師木」であろう。倭の師木と同様の地形、小さな凸凹の丘陵地帯である。現在の京都郡みやこ町勝山黒田、橘塚古墳や綾塚古墳の辺り…いや、その何方かかも知れない…と推定される。


…と、まぁ、飛ぶが如くにはいかない地名の謎解き・・・。








<追記>

❶2017.09.18
「櫛角別王」「神櫛王」について補足。「櫛角別」は下関市吉見下、船越を北に「針間」を通り抜けた直ぐのところ。緩やかな谷間の傾斜地。「神櫛」は同市吉見古宿にある「串山(串本岬)」の麓辺りと推定。「櫛」による地形象形である。また、それぞれが祖となる地との関連がある。

谷間の傾斜地:茨田、串山:山道の造成技術が「祖」の要因と思わせる記述である。天皇家草創期の土地の開発に注力した状況を伺わせる内容と思われ、少々特異なものになっている。

❷2017.10.09
「押黒」は現在の京都郡苅田町苅田(神田)に修正…、

「押黒」は以前には現在の京都郡苅田町尾倉辺りにしていたが、「押」=「手を加えて田にする」に気付く前であった。これを基に再考する為に地図を見直すと、苅田町には苅田(神田の西側)という地名があることがわかった。

「苅田」=「草木を刈って作った田」と解釈するとこの地が「押黒」に該当すると思われる。現在の京都郡苅田町苅田である。神田という地名になってところも含まれるであろう。また「三野之宇泥須」の「須=州」の地であること確認した。「宇土州」である。