2017年3月10日金曜日

近淡海と遠飛鳥〔008〕

近淡海と遠飛鳥

1.古事記序文


「近」と「遠」のテーマを探し求めて古事記、なんて眺めていると最初のところで引っ掛かってしまった。序文です。

是以、番仁岐命、初降于高千嶺<追記>、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。

この短い文の中に邇邇芸命の天孫降臨始まる各天皇の事績を述べ、その政治のありようも含めて執筆当時に繋がってることを語っている。ただ今一度読み返してみるとこの三つの文言句に、重要な意味が含まれているように感じられる。

  「經歷于秋津嶋」 ②「制于近淡海」 ③「勒于遠飛鳥」

少し長くなるが、通説の訳文(武田祐吉氏、該当場所に番号挿入)を挙げる。

これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、「神武天皇」がヤマトの國におでましになりましたこの天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで「崇神天皇」は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、「仁徳天皇」は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。「成務天皇」は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、③「允恭天皇」は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりましたそれぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。

この通訳は①神武天皇が辿り着いた場所を示し、②及び③各天皇がその宮に坐して国政を行ったと述べ、その治政に注力したことが強調されている。しかし、原文からはそう解することは全く不可である。

これら三つの文言に共通する「于」は辞書によると、前置詞であり、「~に於いて」の場所、時間を表し、「~に」「~を」のように動作の対象を示す、また「~より」のような比較の対象を示すとある。②及び③の通訳からすると「於」の意味を採用しているものと思われる。

しかし、この短い文言の中でも「於」という意味を表わすのには「於」の文字を使っている。例えば「天劒獲於高倉」、「大烏導於吉野」、「於今傳聖帝」である。そして最も理解不能なのは①の訳である。

「經歷于秋津嶋」=「秋津嶋を()体験する経過する,たどる,経る(經歷)」であろう。これは、「大和」中心の立場で訳する上に於いてはあり得ないことなのである。「秋津嶋」=「大和(日本)」を通過して、何処に行く?、である。大船団でハワイに行った、そんなこともあったようであるが・・・。

  「經歷于秋津嶋」=「秋津嶋を経歴(経過する)

于」を「~に」とする場合は「初降于高千嶺」である。通訳も「~に」としている。

さて、②及び③である。

  「制于近淡海」=「近淡海を制する(支配する)
  「勒于遠飛鳥」=「遠飛鳥を勒する(統御する)

古事記の序文は日本書紀編纂の立場からすると、端からトンデモないことを賜っていることになる。間違いなく焚書ものである。「支配する」、「統御する」とは「土地(住む人々)」である。邇邇芸命一派はこれら二つの「土地」=「国」を獲得したと述べている。日本を制したと述べる人達からすると、たった二国の成果報告か、みたいなものであろう。

古事記が現存する以上、これが記載した時期まで、日本書紀も含めて日本の歴史はこの二国の成立及びこれに係わる国々の物語である。

では、「近淡海」「遠飛鳥」は何処にあったのか、神武天皇の征伐物語とどう関わり合うのであろうか、幸いにも賢明なる先達が神武東征の道筋を報告されている。奈良大和へではなく九州北東部から内陸へ侵攻し、豊前及び筑豊地方の地を征服したと記述されている。

当然のことながら「秋津嶋」は「大和(日本)」ではなく九州北部の地域を指すものである。前記〔三〕で記した「遠飛鳥」の地、香春岳山麓を中心とした地域は「(統御する)」という最も重要な場所であろう。神武天皇が坐した場所である。

一方「近淡海」については、「近江」の表現と関係し複雑である。「淡()海」という言葉に該当する場所は特徴のある場所ではあるが北九州沿岸部の何処か、という比定の作業に入ると曖昧である。やや腰が引ける感じではあるが、ここまで関わった以上、それらしき場所ぐらいまで突き止めてみようかと思う。


2. 淡海と近淡海(❶~❸修正済)


前記〔五〕で古事記原文の「淡海」出現回数(18)を求めた。その内訳は「近淡海(10)」、「淡海(7)」であり「遠淡海」等の他の修飾語がついたものは出現しなかった(歌:「阿布美能宇美邇」を除く)。これらを一瞥すると明らかに「近淡海」と「淡海」とは区別されて使われており、「近淡海」は固有の地名として認識されているようである。

先ずは「淡海(8)」について例示してみるが、探す手立ては「淡海」に掛かる前後の地名である。

● 仲哀天皇、神功皇后紀
故、建宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也。亦其入鹿魚之鼻血臰、故號其浦謂血浦、今謂都奴賀也。

宿禰命が幼子を抱えて「越」まで巡行したという遠大な物語である、と通説される。時空的に不可能であるが、そのまま…ネット検索すると納得できる物語に再生されていた。コペルニクスさん、お見事です。「高志」=「香椎」、「角鹿」=「都奴賀」=「博多」・・・。

敦賀、越()まで行かなくて済むとのこと。「淡海」は勿論、博多湾が面する「淡海」である。あの「氣比大神」=「香椎宮」とは、歴史がひっくり返ることに…地動説かな?

● 別天神五柱~神世七代
故、其伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也

これも博多湾岸に地名を求めると、「多賀」=「福岡市南区多賀町」(那珂川沿い)かも、である。

● 履中天皇、反正天皇
自茲以後、淡海之佐佐紀山君之祖、名韓帒白「淡海之久多此二字以音綿之蚊屋野、多在猪鹿。其立足者、如荻原、指擧角者、如枯樹。」此時、相率市邊之忍齒王、幸行淡海、到其野者、各異作假宮而宿。

同様に「佐佐紀山」=「福岡県糟屋郡篠栗町の山(飯盛山?)」かも、である。「淡海」のオンパレードだが、よくわからず。当然通説では「淡海」=「近江」として比定されている。

通してみると「淡海」という表現は「国」のような区切られた領域を示すものではなく、ある程度漠然とした領域で大まかな地域を読み手にわからせようとするものであろうと思われる。博多湾岸を流れる「淡海」は、区切れることなく、玄界灘、響灘となり関門海峡まで、続いていることである。「近淡海(国)」はこの九州北部の地には存在しないことを示している。

そう解釈することにより、下記する「近淡海」はこの「淡海」に対して、より「近くにある淡海」を示していることが導かれる。古事記を記述している者の理解は明快である。「淡海」と「近淡海」を明確に区別していることがわかる。

通説は「近淡海」=「淡海」=「近江」である。「淡海」=「近江」なら「近淡海」=「近近江」である。本来の記述が含む意味(差異)を覆い隠してしまったのである。漸くにしてそれが曝されたのである。

では「近淡海(10)」はどうであろうか? 当然のことながら、天皇が坐した「遠飛鳥」を中心にして、である。例示してみると…、

● 大國主神
又娶天知迦流美豆比賣(訓天如天、亦自知下六字以音) 生子、奧津日子神、次奧津比賣命、亦名、大戸比賣神、此者諸人以拜竈神者也、次大山咋神、亦名、山末之大主神、此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也、次庭津日神、次阿須波神 (此神名以音、) 次波比岐神 (此神名以音、) 次香山戸臣神、次羽山戸神、次庭高津日神、次大土神、亦名、土之御祖神。九神。

大国主神がたくさんの子供を作り、各地に散らばらしたことを述べている。現在のそれらの神様を祭祀する習わしである。残念ながらネット情報は冷たい。致し方無く考察してみる。「淡海」と異なり「国」が付き特定の場所を示しているかのようである。が、解けない。

「日枝山」より妄想を逞しくすることにした。全国に散らばる「日枝神社」九州でも筑後に多く、筑後川下流に集中する。また、すごいのが琵琶湖東岸に集中している。それらの由来が上記の文言にあるのなら、これから行う作業は、トンデモないことを意味するのであろう。

「日枝」の読みをあれこれ考えあぐねた末に、行き着いたのは…


日枝=稗田


古事記の暗唱者、その出自があるところに関連すると思いついた。豊前平野(京都平野)の真ん中あたりにある「稗田」。現在、上稗田と下稗田に分かれているが、下稗田にある大分八幡宮(応神天皇、神功皇后、大山咋神を祭祀)が鎮座する小高い山を「日枝山」と称したのであろう。

神社の由来を調べると「往古の長峡県日吉神領字サヤの地を宮山と定め、小祠を祭ったのは奈良時代以前にさかのぼる」とある。「日吉宮山」=「日吉(ヒエ)山」=「日枝山」となる。現在、宮の杜団地として大規模に開発されている。

「稗(田)」=「日吉[ヒエ](田)」である。通説の「日枝山」は「比叡山」。その地主神を祭るのが「日吉(ヒヨシ)大社」(全国の日吉、日枝、山王神社の総本宮、戦前までは「ヒエ」と読む)とのこと。見事な国譲りとすれば上記の比定は肯定されるが、どうであろうか…。

● 景行天皇、倭建命、成務天皇
若帶日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穗宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖建忍山垂根之女・名弟財郎女、生御子、和訶奴氣王。一柱。故、建內宿禰爲大臣、定賜大國小國之國造、亦定賜國國之堺・及大縣小縣之縣主也。天皇御年、玖拾伍歲。乙卯年三月十五日崩也。御陵在沙紀之多他那美*也。

「近淡海」=「近江」に加え「志賀」=「滋賀」である。止めを刺されたか? 確かに反撃もこれまでといった感があるが、少しは試みてみよう。

「志賀(滋賀)」の由来? 「石(の多い)処」or「(波の)皺(の多い)処」=「イ(シ or ワ)カ」=「シガ」だとか。納得いくわけがない。由来を聞いてなるほどと思うケースは稀である。怪しいのである。ここ二、三か月の悩みの種。古事記の記述者が「淡海」と「近淡海」を区別している以上「淡海」にある「志賀島」は対象にならない。

「近江」、「遠江」のテーマには「江」がキーワードと進めてきた。やはり「江」に関わる謎解きが正攻法と考え直し、以下のような解釈に到達した。「遠江」=「遠賀」=「オンガ」は重要なヒントであろう。

「シ」は何か? 「シ」と読める漢字は無数にあるが、当該の入江にあった意味を有するもの、思いついたのが「嘴」であった。当時の入江は想像以上に粗削りで「砂嘴」と呼ばれる形をしていたのではなかろうか?これを組み合わせると「志賀」=「嘴江」となる。

ネットでの事例を検索したが、関東の青梅の山から眺めた茨城県の「銚子江」=「長嘴江」と表現している山頂の石碑(トレッキングされた方のブログ)が唯一であった。形状からして、さもありなん、というわけだが、かなり特殊な表現であろうかと思われる。

そうこうしているうちに中国の浙江省の「浙江」=「之江(シコウ)」川が折れ曲がって流れるさまを象形したものとわかった。河口付近の蛇行する川のありさまを巧みに表現している。また、中国のこの地にある河姆渡遺跡を含む大地は倭人の故郷と知られる。

志賀=之江(シガ)


渡来した倭人たちにとっては見慣れた、聞き慣れた言葉であったかもしれない。そして眼前に広がる複数の川が流れ込む入江が故郷を思い起こさせたのではなかろうか。これは「志賀高穴穗宮」が豊前平野に鎮座していたことを意味するが、詳細は不明である。

近淡海国=豊前(京都)平野


「淡海」が「玄界灘、響灘」を指し、「近淡海」は「周防灘」と区別されていることが読取れた。が、その比定は、道半ばである。だから講釈が長くなる。それも承知で今のところを纏めてみた。

古事記は、神々の伝承を枕詞に神武天皇に始まる「近淡海」「遠飛鳥」征服報告書である。そして「国譲り」「禊祓」の歴史である。今に繋がる貴重な伝承物語であり、素晴らしい遺産である。それを丁寧に読みほぐしていくことが大切であろう。

…さてさて、漸く古事記本文の読み返しに・・・。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。

<追記>


2017.06.23 「高千嶺」=「筑紫の高千穂の峰」



御陵在沙紀之多他那美*

御陵が「沙紀」にあると述べられる…「沙」=「川縁」、「紀」=「糸+己」=「撚り糸のように畝る地形(己)」として…、


沙紀=沙(川縁)|紀(畝る)

…「川縁が畝った地」と紐解ける。多他那美の「他」=「蛇の形」を象形したものとある。


多(田)|他(長く畝る)

…「田が長く畝って」那美(豊かで見事なところ)と紐解ける。この二つを併せ持つ地形は現在の行橋市入覚辺りの長い谷間から流れる川縁であったと推定される。「沙」=「辰砂」に拘った解釈をしていたことになる。「宇沙」が登場するように「沙」は複数の意味を示すと思われる。(2018.04.11)