景行天皇:櫛角別王・神櫛王
第十二代景行天皇の御子八十の王子が居て、古事記に記載されたのが五十九人の王子、二十一人の王子が不詳と素直に記述される。なんとも凄い数…これは領地拡大及び領地拡大及び富国の為の人材確保と読み解いた。七十七人は国造などにして国を与えたというのだから一気にこの天皇紀に国は大きく豊かになったと伝えている。
倭建命を残っている「言向和」不十分な地域に出向かせ悉く和して帰らせたのだからまだまだ御子に分け与える地は残っていたのであろう。いずれにしても倭国の充実ぶりが伺えるのである。娶り関連を紐解いてきたが生まれた御子の名前も多くの情報を示しているかと思われる。暫くは整理をしてみようかと思う。
古事記原文…
娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女・名針間之伊那毘能大郎女、生御子、櫛角別王、次大碓命、次小碓命・亦名倭男具那命具那二字以音、次倭根子命、次神櫛王。五柱。
第七代孝霊天皇の御子、若建吉備津日子が登場する。吉備下道臣、笠臣の祖となったとある。現在の山口県下関市吉見下辺りを拠点としていたのであろう。その比賣が「針間之伊那毘」に居た。現在の同市吉見下船越と紐解いた。「笠」=「龍」とすれば現在の吉見の南部を統治したのであろう。
御子の中に大碓命、小碓命(後の倭建命)も見えるが「櫛」が二度も登場する。地名絡みと推測して読み解いてみよう。吉備国の詳細地名と期待して…。
櫛角別王
さてさて、吉見下辺りに目を付けて探すも「櫛」に象形できるような地形を一見では見当たらない。「櫛」=「くしの歯のようにすきまなく並んださま」であろうが、そんな地形を示す山麓はないことがわかる。では何を櫛に象形したのか?…
山頂が櫛のように並んでいる様を象形した。とすると「船越」の西側にある山並みがそれを示していると思われる。「久士布流」の解釈に類似する。低山ではあるが、ハッキリとした凹凸が見られる地形である。更にこの「櫛」は北側で直角に曲がっているのがわかる。
櫛角=櫛(のように並んだ山並)・角(曲がりカド)
である(下図+の北)。現在の地図からではあるが、この場所をよく見ると池、川があり水田としての開発がなされている。「別」の地として存在していたことを伺い知ることができる。「櫛角」とは持って回った表現であるが、他に適切な命名の方法がなかったのであろう。谷間の緩やかな傾斜地の場所である。
「櫛角別王」は後に茨田下連の祖となる。現在の福岡県京都郡みやこ町勝山松田下田である。「松田」=「茨田」である。「棚田」の繋がりを伝えている。古事記が繰り返し述べる「棚田」、灌漑技術が出来上がる前の水田耕作の重要性を記述しているのである。
茨田:古代稲作のキーワード
これが読み解けなかった現状が古事記解釈の全てを物語っている、と言っても過言ではないであろう。
神櫛王
「神櫛」は何処を指し示すのであろうか?…「櫛角別」の西方に「串本岬」という地名(吉見古宿町)がある。その岬にある山(串山)がやはり「櫛」の形状を示している。「櫛」=「串」で残存する地名と思われる。加えてその山頂が「稲妻」のように折れ曲がった繋がり方をしているのが見える。
神櫛=神(雷)・櫛(櫛ように並んだ)
「神櫛王」は岬の山の麓に居た王子であった。この王子、「木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖」と記述される。「酒部」=「酒造り」で良いのであろうか?…「酒折」=「坂を下る」と解釈した「酒折宮」「酒折池」である。表現の一貫性を信じるならば「酒=坂」であろう。
「神櫛王」は急斜面の山を背景とする地に居た。彼の得意とするところはその急斜面の活用であろう。その為に必要な技術は「階段」作りではなかったろうか。「酒部」は急斜面の土地に
を造る部隊であったと推測される。彼及び彼の子孫が保有する技術を伝えたことを「祖」として記述したのである。
階段、スロープ等々の山道
を造る部隊であったと推測される。彼及び彼の子孫が保有する技術を伝えたことを「祖」として記述したのである。
「木國之酒部阿比古」とは何処を示すのであろうか?…「阿比・古」=「二つ並んだ台地(丘)・古(子)」としよう。福岡県築上郡上毛町の「大ノ瀬大池」にそれを挟んで二つの丘がある。「吉岡」という地名である。「吉備」の「吉」に繋がる。「葦井」と比定した「吉富」も「ヨシ」で繋がっているのかもしれない。
「宇陀」は既に特定したように現在の北九州市小倉南区呼野・小森・市丸辺りである。この地は高い崖に挟まれた谷である。かつては東谷村と言われたところである。そそり立つ崖の活用こそ最も重要な課題であったろう。二人の王子の生まれ育った場所の地形から読み取れる古事記の内容、あらためてその深さに驚かされた。
「吉備上」に関する記述は今のところ見当たらない。祖となる王子が行った筈だが、その後音沙汰もなし。「上」は禁句なのか、話題が無かったのか、そんな目で今後も古事記を読んでみよう…。
櫛角別王・神櫛王
この二王に共通する「櫛」があるように近隣に居たと思われる。纏めて紐解いてみよう。櫛角別王は「櫛角別王者、茨田下連等之祖」になるとされる。「茨田」と如何に繋がるのか?…勿論通説で考察された例を知らない。
母親の地、吉見下辺りに目を付けて探すも「櫛」に象形できるような地形を一見では見当たらない。
「櫛」=「くしの歯のようにすきまなく並んださま」であろうが、そんな地形を示す山麓はないことがわかる。では何を櫛に象形したのか?…
…「田畑を並べ定めた台地」と紐解ける。「阿比古(アビコ)」=「我孫子」のように古代の姓との解釈もあるが古事記の表記は地形象形と思われる。後の世にこれを由来にして用いられたものであろう。現在の築上郡上毛町にある広い台地にある丘陵地の斜面を活用したのであろう。
「宇陀」は既に求めた現在の北九州市小倉南区呼野・小森・市丸辺りである。この地は高い崖に挟まれた谷であり、かつては東谷村と言われたとのこと。そそり立つ崖もさることながら斜面だらけの地である。その活用こそ最も重要な課題であったろう。二人の王子の生まれ育った場所の地形から読み取れる古事記の内容、あらためてその深さに驚かされた。
上記でも「吉備上」に関する記述は今のところ見当たらない、と記した。祖となる王子が行った筈だが、その後音沙汰もなし。「上」は禁句(鉄の話題?)なのか、そんな目で今後も古事記を読んでるのも楽しいかもしれない…。
この二王に共通する「櫛」があるように近隣に居たと思われる。纏めて紐解いてみよう。櫛角別王は「櫛角別王者、茨田下連等之祖」になるとされる。「茨田」と如何に繋がるのか?…勿論通説で考察された例を知らない。
「櫛」=「くしの歯のようにすきまなく並んださま」であろうが、そんな地形を示す山麓はないことがわかる。では何を櫛に象形したのか?…
山頂が「串」のように並んでいる様を象形した。とすると「船越」の西側にある山並みがそれを示していると思われる。
「久士布流」の解釈に類似する。低山ではあるが、ハッキリとした凹凸が見られる地形である。更にこの「串」は北側で直角に曲がっているのがわかる。
「久士布流」の解釈に類似する。低山ではあるが、ハッキリとした凹凸が見られる地形である。更にこの「串」は北側で直角に曲がっているのがわかる。
櫛角=櫛(山頂が連なる)|角(曲がりカド)
…である(下図+の北)。現在の地図からではあるが、この場所をよく見ると池、川があり水田としての開発がなされている。
「別」の地として存在していたことを伺い知ることができる。「櫛角」とは持って回った表現であるが、他に適切な命名の方法がなかったのであろう。谷間の緩やかな傾斜地の場所である。
「別」の地として存在していたことを伺い知ることができる。「櫛角」とは持って回った表現であるが、他に適切な命名の方法がなかったのであろう。谷間の緩やかな傾斜地の場所である。
「櫛角別王」は後に茨田下連の祖となる。現在の福岡県京都郡みやこ町勝山松田下田である。「松田」=「茨田」である。「棚田」の繋がりを伝えている。古事記が繰り返し述べる「棚田」、灌漑技術が出来上がる前の水田耕作の重要性を記述しているのである。
茨田:古代稲作のキーワード
これが読み解けなかった現状が古事記解釈の全てを物語っている、と言っても過言ではないであろう。
神櫛王の「神櫛」は何処を指し示すのであろうか?…「櫛角別」の西方に「串本岬」という地名(吉見古宿町)がある。その岬にある山(串山)がやはり「櫛」の形状を示している。「櫛」=「串」(山頂が連なる様)で残存する地名と思われる。加えてその山頂が「稲妻」のように折れ曲がった繋がり方をしているのが見える。
神櫛王の「神櫛」は何処を指し示すのであろうか?…「櫛角別」の西方に「串本岬」という地名(吉見古宿町)がある。その岬にある山(串山)がやはり「櫛」の形状を示している。「櫛」=「串」(山頂が連なる様)で残存する地名と思われる。加えてその山頂が「稲妻」のように折れ曲がった繋がり方をしているのが見える。
神櫛=神(稲妻)|櫛(山頂が連なる)
…「稲妻の形のように山頂が連なる」と紐解ける。「神櫛王」は岬の山の麓に居た王子であった。この王子、「木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖」と記述される。「酒部」=「酒造り」で良いのであろうか?…「酒折」=「坂を均す」と解釈した崇神天皇紀の「酒折池」、倭建命の段に登場する甲斐の「酒折宮」である。表現の一貫性を信じるならば「酒=坂」であろう。
神櫛王は急斜面の山を背にする地に居た。彼の得意とするところはその斜面の活用であろう。その為に必要な技術は「階段・スロープ」作りではなかったろうか。「酒部」は斜面の土地に…、
…を造る部隊であったと推測される。坂を均して耕地にする技術は貴重である。彼及び彼の子孫が保有する技術を伝えたことを「祖」として記述したのである。
階段・スロープ等の山道
…を造る部隊であったと推測される。坂を均して耕地にする技術は貴重である。彼及び彼の子孫が保有する技術を伝えたことを「祖」として記述したのである。
「木國之酒部阿比古」とは何処を示すのであろうか?…、
阿(台地)|比(並べる)|古(定める)
…「田畑を並べ定めた台地」と紐解ける。「阿比古(アビコ)」=「我孫子」のように古代の姓との解釈もあるが古事記の表記は地形象形と思われる。後の世にこれを由来にして用いられたものであろう。現在の築上郡上毛町にある広い台地にある丘陵地の斜面を活用したのであろう。
「宇陀」は既に求めた現在の北九州市小倉南区呼野・小森・市丸辺りである。この地は高い崖に挟まれた谷であり、かつては東谷村と言われたとのこと。そそり立つ崖もさることながら斜面だらけの地である。その活用こそ最も重要な課題であったろう。二人の王子の生まれ育った場所の地形から読み取れる古事記の内容、あらためてその深さに驚かされた。
上記でも「吉備上」に関する記述は今のところ見当たらない、と記した。祖となる王子が行った筈だが、その後音沙汰もなし。「上」は禁句(鉄の話題?)なのか、そんな目で今後も古事記を読んでるのも楽しいかもしれない…。
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