2017年5月21日日曜日

神倭伊波禮毘古命の東行:その壱〔037〕

神倭伊波禮毘古命の東行:その壱

本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う
邇邇芸命一家が天降り、我らが「葦原中国」その記念すべき第一歩をしるした、所謂「神武東征」の経緯に、愈々突入である。この初代天皇以後の天皇達の活躍を紐解いてきた。福岡県田川郡香春町の香春岳麓に天皇家の拠点があり、近淡海国を支配し、遠飛鳥で統御しながら、東方十二道、高志道、西方の国々等々を「言向和平」したと、古事記が記述する国々の所在を示すことができた。

現在の九州東北部に収まるこれらの国々の「国譲り」が、今の日本列島各地の地名となっていることもわかった。それをこのブログで「拡大解釈」と表現した。それら全ての起点である「神武東征」を、今までと同様原文に忠実に解釈してみよう。古事記原文[武田祐吉訳]

神倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。
亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。自多下三字以音。亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。[カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)、兄君のイツセの命とお二方、筑紫の高千穗の宮においでになって御相談なさいますには、「何處の地におったならば天下を泰平にすることができるであろうか。やはりもっと東に行こうと思う」と仰せられて、日向の國からお出になって九州の北方においでになりました。そこで豐後のウサにおいでになりました時に、その國の人のウサツ彦・ウサツ姫という二人が足一つ騰りの宮を作って、御馳走を致しました。其處からお遷りになって、筑前の岡田の宮に一年おいでになり、また其處からお上りになって安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになって、備後の高島の宮に八年おいでになりました。
その國から上っておいでになる時に、龜の甲に乘って釣をしながら勢いよく身體を振って來る人に速吸の海峽で遇いました。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。また「お前は海の道を知っているか」とお尋ねになりますと「よく知っております」と申しました。また「供をして來るか」と問いましたところ、「お仕え致しましよう」と申しました。そこで棹をさし渡して御船に引き入れて、サヲネツ彦という名を下さいました]

伊波禮毘古命天下を統治するには、やはり東行しかない、と兄の五瀬命と相談したことから説話が始まる。彼らの相談場所は「高千穂宮」そして出発するところは「日向」原文はその場所を特定しない。それぞれの文字は一般的である。これが様々な場所が比定されるという混乱の原因。

日向・筑紫・豊國宇沙<追記>


古事記原文に「日向」は11回出現する。だが、場所に関連する記述は1回。応神天皇紀の「美知能斯理 古波陀袁登賣」=「道の尻 コハダ乙女」、髮長比賣の説話である。従来この説話は全く解読されずに来た。いや、したのであるが、思いに合わないから無視した、かもである

「道の尻」は道の後方、即ち彼らの出発点「日向」を示し、邇邇芸命が降臨した「竺紫の日向の高千穂」であるとした。現在の福岡市と糸島市の境にある高祖山近辺[追記(b)]である。彼らは西から東へと向かうのである。古事記を読む連中にとって、あたり前過ぎる事柄、安萬侶くんは簡略にしか記述しない。唐突な宮崎県、鹿児島県はその連中にとって不可解であろう。

の「日向」から東行して「筑紫」に行く、既に比定した「筑紫国」現在の足立山西麓である。が、ここは「淡海」に面する交通の要所ではあるが、「統治」するところではない。縄文海進で推測されるように山裾の、決して豊かな場所ではあり得ない。更に東行して「豐國宇沙」に至るが、土人達の集まりであった。歓待されるが、「天下」には程遠い。

伊波禮毘古命と五瀬命の苦闘が始まる。豐國宇沙までの東行は彼らが認識する世界の東西両端であったろう。これを冒頭に記述している。また邇藝速日命の情報の確認、即ち「虚空見日本国」を船の上から眺めたことになる。むしろそれが目的で行った東行と思われる。彼らの行動は全て命懸けである。事を起こすための準備に時を惜しむことはない。古事記が記す一言に命が含まれていることも、同じである。

吉備國・阿岐國*


二人は一旦筑紫に引き上げる。その場所が「筑紫之岡田宮」である。現在の足立山西麓の妙見宮辺り、後の「筑紫訶志比宮」であろう。共に小高い所にあるという地形象形である。その場所で戦闘準備に入るが、不可欠なのが「ヒト、モノ、(カネ)」、中でも重要なので先進の鉄器であろう。鉄の生産地、鬼ヶ城のある「吉備国」が記述される。既に仁徳天皇紀で述べた現在の下関市吉見である。

八年、二倍歴としても、四年、長いと思われるが十分な量の武器製造には必要な時間であったのであろう。ひょっとすると採鉱からの技術開発が求められたのかもしれない。吉見に住む人口の問題も大きな障害であったろう

「阿岐國之多祁理宮」とは? 通説は「安芸=広島県西部」とする。前記した日本書紀中に出現する「安芸」は現在の宗像市辺り(赤間)とした。その赤間にある八所宮(吉武地区吉留)由来記に神武東征に関連する記述があるという。確証はないが深く関連するものであろう、比定できる「宮」である

宗像氏、響灘西部から玄界灘全域に渉って支配した海洋豪族と知られる。前記の「国生み」の中心をなす重要な氏族である。伊波禮毘古命は何をするためにここに七年(三年半)も居たのか? 目的は渡航技術であり、海上戦闘技術、それに関る人材確保ではなかろうか。

ただ、伊波禮毘古命にとっては後に向かう吉備国での鉄製造要員、及び想定される地上戦要員の確保が重要であり、これらに時間を要したきらいがある。いずれにしても宗像氏族の伊波禮毘古命への協力がなくしては実現不可能な事態であったろう。

原文中の「亦」の表記、通説は大和に向かう逐次連続的な「上幸」とするが、並列的な行動を示すと解釈される。上記のごとく、「筑紫之岡田宮」を中心として、「阿岐国」「吉備国」に向かい戦闘準備に没頭したのである。当然、「葦原中国」の情報収集も合せ戦略計画を立てたであろう。初戦敗退という事態を生むが…

「上幸」=「上(アガ)り幸(ユ)く」と解釈される。問題は何処へ? 通説は「大和(奈良)」へ、である。何故この安易な解釈が許されてきたのであろうか? 「大和」には「宮」はない。それどころか場所も定かでない。これから始まる苦闘を経て初めて「畝火之白檮原宮」ができるのである。上記の個別の「宮」に、個別に「上幸」することである。言い換えると「宮」は常に「上がり行く」ところ、地形的にも意識的にも、であろう

「吉備之高嶋宮」の比定は難しい。昭和13~15年にかけて文部省が総力をあげて吉備、すなわち当時の岡山県児島郡に求めたという記録がある。とある神社が最も確からしいと認定された。本ブログの吉備は下関市吉見、その大字吉見下吉見尾袋町にある龍王神社[追記(a)]を認定する、ものである…まぁ、情報少なくて…。

そこから島伝いに彦島辺りに来る。「速吸門」で出会った「槁根津日子」を海の道案内人に引き立てた、という件である。その地の情報を得るには現地採用する、納得である。倭国造になるなんて運が良い、かも。

本日のところを地図に纏めると以下のよう…


こうして眺めてみると「筑紫国」は古代から近代に至るまで交通の要所として歴史的な役割を果たしてきたことが伺える。古代人達の地理的認識の確かさと命懸けの戦いとは表裏一体である。これを受け止めることが古事記の伝えんとするところを理解する礎であろう。同時に、現在とは異なる彼らの精神的豊かさを感じる。

また、古事記序文で安萬侶くんが記述するように、「近淡海国」と「遠飛鳥」を支配統御した報告書であることと矛盾しない。極めて明快な論旨に上に立つ書であることを確認できる。


…と、まぁ、今日はここまでで…次回は苦闘の連続・・・。


<追記>


(a)2017.06.05 吉備下道臣:笠臣(針間口の説話)とある。「笠(リュウ)」=「龍(リュウ)」と繋がる。本神社がある場所はその地の「王」が住まうところであったと思われる。



(b)2017.06.21「日向」の場所修正
天孫降臨の「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」を修正したことに拠る。その場所は湯川山~孔大寺山~城山(孔大寺山塊と呼ぶ)が連なる山塊の東麓。現地名は福岡県遠賀郡岡垣町・芦屋町辺り。
詳しくは「天孫降臨の地:日向」参照。



(c)2017.06.27「宇沙」場所修正
「豊国宇沙」の場所特定。詳細は〔055〕宇沙と宇佐の投稿参照。




阿岐國*
阿岐國之多祁理宮

最初に向かったのが阿岐国とある。これこそ前記した「秋津」がある国である。かつて秋郷とも呼ばれた現在の宗像市赤間辺りを示すところである。その中にあった「阿岐國之多祁理宮」とは?…八所宮(吉武地区吉留)由来記に神武東征に関連する記述があるという。確証はないが深く関連するものであろう、比定できる「宮」である

多祁理=多(田)|祁(大きく)|理(区分けされた)

…「田が大きく区分けされている」様を示しているようである。下図を参照願うが、この宮がある場所は三方を山(決して高くはない)に囲まれ複数の川が「津」を作る地形である。大河の上流部であり、当時は最も早期に開墾されて豊かなところであったと思われる。「斗」に近い地形なのである。この地で資金調達を行ったのであろう。

失敗に失敗を重ねた天神達の降臨、更にはかなりの陣容を立てて臨んだ筈の饒速日命達のその後を考え合わせると余程の準備が必要なことは百も承知、と言ったところであろう。

勿論現在の水田の様相とは全く異なり、自ら開墾を行ったのである。

同時に要員調達の目的もあったと思われる。「秋津」は彼らが求める要員が集まるところであったと思われる。

また雇い入れた要員を養うだけの財力がなければ事は起こせなかったというわけである。古事記記載の年数に拘るわけではないが、収穫を得るには年がかりである。それなりの年数が必要であったことには違いがないであろう。

この地は高千穂宮とは僅か数キロの距離の間隔である。元に戻った感じであるが、彼らは「阿多」との間を行き来するのである。上記の「阿多」の娶りで述べたごとく「遠賀川河口(古遠賀湾)⇔洞海湾⇔響灘⇔関門海峡(淡海)」は決して非日常の移動ではない。あくまで筑紫を戦略前線基地とし、阿岐で資金・人材準備のためと告げているのである。初見では…、


宗像氏、響灘西部から玄界灘全域に渉って支配した海洋豪族と知られる。前記の「国生み」の中心をなす重要な氏族である。伊波禮毘古命は何をするためにここに七年(三年半?)も居たのか?…目的は渡航技術であり、海上戦闘技術、それに関る人材確保ではなかろうか。


…のように述べた。

宗像は天照大御神と須佐之男命の宇気比で最初に生まれた胸形三女神の地である。またその後も何人かの比古、比賣が登場している。阿岐国を橋頭堡として前に進むことは当然の成り行きだと述べているようである。

通説は「秋」を「安芸=広島県西部」とする。流石に「胸形=秋津」までを持って行くのは憚れたのであろうか…。こんな捻れによって奇想天外な書物・日本書紀が出来上がったということであろう。さて、彼らは次の準備に取り掛かるのである。(2018.05.06)